第117話 姉と弟
虎成城下
シロウの心と体は一緒にいることができなくなった。
心は、明丸の貼札が救い出し、右の龍姫が付き添い、
体は、一振りの石の刀となり、左の龍姫が寄り添う。
それでも、彼は生きている。それを望んでいた。
マリーの背で明丸にまどろみが近寄ってきたようだ。サヤはマリーごと抱きとめた。
ユウジは、まだ乾かないぬかるみに刺さる刀に歩み寄る。
これが、あの朗らかな若い主君の成れの果ての片割れ。
ただただ、虚ろな空しさがその足どりに鉛を繋ぐ。
許しを請うことすら思いもつかない。
その手は刀に触れることなく、指先は震えるばかり。
そして、膝をつき、頭を垂れるよりできることはなかった。
月が夕焼けを退け、空の主役になりかけていた。
さらりとすり抜ける一陣の風、雁渡。
「あっ!」サヤの声は何かに怯えたようだった。
ユウジはようやく顔をもちあげる。
シロウの刀。大地に刺さるその刀の前に風とともに現れた者。
「・・・姉さん。」
ユウジのかすれた声はその姉、ナツキに向けられていた。
「なぜ・・・なんでこんなところにいるんだ!」
夕雲は山影に沈み空気は凛と澄んでいた。
そのため片割月の輪郭は鋭利に際立つ。
しかしそれでも宵月は、ナツキの背では霞んで見える。
彼女の花唇は震えない。
「どうにか言ったらどうなんだ!なんで裏切ったんだよ!」
彼女の花瞼は瞬かない。
「姉さん、あなたは人の心を失くしたのか!」
ただ、その玉臂と呼ぶべき両の腕がそろりと刀を包んだ。
たちまちに、左眼の赤い龍が顕現する。
星の龍は、女の体を締め上げ即座に肩口に食らいついた。
凛凛と鈴の音が鳴る。
姉がいなくとも、自身の鱗を震わせ、敵を滅しようとしているのだ。
ナツキの白小袖に血が滲む。
しかし、左の龍姫はそれ以上噛むことをしなかった。
「この血の味。貴様!」
その時初めてナツキはほほ笑んだ。
鈴の音は止んでいた。
「そういうことか・・・」
そして一言。
「この刀だけは、私が貰い受けまする。」
「ダメだ、姉さん。それはダメだ!」
「その刀は主君の現身。くれてやる訳にはいかん!」
グンカイは、刀に手をかけている。
「片城。許せとは言わん。しかしキサマにとっては姉君だ。我等にまかせよ。」
チエノスケも槍を構えている。
しかし、星の龍。かつての勇那守の妹であるマリスが言い放った。
「主君以上の大事である。控えよ!」
思わぬ主筋からの言葉に三人は混乱した。
どういうことなのだ?
その時だった。
「遅いと思って来てみれば・・・神鹿郎はどうした?」
誰も気づかぬ闇より現れたのは・・・あの男だった。
そして、その腕に抱かれているのは・・・明丸。