第113話 夫婦と波離神
お詫び 一身上の都合により、ここしばらく精神の均衡を保つのが難しい状況でした。少しずつ進みますので、良ければお付き合いください。
「さぁ、一緒に来るかい?」
ロクロウの差しだす手から雫が垂れ、明丸の肩口で弾ける。モモの結界が開け放たれた今、雨を遮るものはない。
幼子の瞳は、空の色に染まらず綺麗なのものだ。ゆっくりと連れ去ろうとする者を見上げた。
まるで、何も分かっていないかのような純真な瞬きに、ロクロウは問いかける。
「本物のムミョウ丸殿は眠っていらっしゃるのかな?」
その細く柔らかで、淡い茶色の前髪に雨の粒がすべり落ちる。
ロクロウの手がその頬に触れようとした時、その手を静かに諫める声がした。
「あんまり冷たい手で触らないで欲しいものだな。病気になっちまう。」
「ユウジ殿」
ロクロウの口から、その名が零れた。
「大江殿、いや、お祖父様と呼ぶべきなのでしょうか?」
その問いかけの主は、黒い全身を包む鎧、銃を背にかけ泥まみれの少年。いったいどれほどのアダケモノを相手にしてきたのだろう。
「子どもを雨に濡らさないでやってくれますか?]
「こちらへ渡してくだされば、風邪など引かせませんよ。」
「ともかく今、濡らしたくないんだ。連れていくなら、オレ達を始末をつけてからにして欲しい。」
ロクロウの若者のみかけの笑みの隙間から覗くように、何か物事を見極めようとする老人の瞳の光り。それに対するユウジの光りはただただ若く、折れ曲がることを知らない。
少年の脳裏には、あの宝引の日のことが思い出される。親し気に話しかけてくれた青年。その日の夜にはこの胸に穴が開いて滝に落ちる羽目になった。あの日、気楽に宝引をするように促す青年に、ああこの人は悪い人ではないのであろうな・・・そんな気がしたんだがな。その勘違いへの後悔がため息として漏れた。
ユウジは鎧と銃をずっと押さえつけている。先ほどからガタガタと鳴るのだ。ここがク海でなくなっていて良かった。力を込める手が震えている。なんて力だ。魂座と璃多姫が鎧と銃の姿でなければ、口が利ける状態ならばこの場はどうなっていただろう。
共に、天巫女城を守り死んだハズの人間が、実は生きていて敵に通じている。
その事実は、二人の烈火のような性格上、ただでは済まない。現に璃多姫の銃口はロクロウを狙おうとせり上がってこようとするのだ。魂座も魂座だ。先ほどから前に前に進もうとする。だが、いかに正確に攻撃できようとそばに明丸がいるのだ。絶対にダメだ。ユウジは歯を喰いしばる。
「ほう、我が義弟、現八郎殿にその娘、璃多姫ではないですか。久しいですねぇ。」
ロクロウ、火に油を注ぎやがった。
「魂座、止まれ。」
鎧の関節という関節から怒りの蒸気が高い音を鳴らす。限界か?
「はてさて?しかしどういう格好なのですか?しばらく見ぬ内になんとまぁ!」
ロクロウ、導火線に火をつけるのはよしてくれ。
本当に、激しい感情の二人だ。このままでは抑えきれない。
「姫、魂座!オレが始末をつける。この男の孫のオレがだ。主に恥じをかかす気かっ?」
ガタガタと二人は暴れる。しかし、聞こえていたのだろう。
ああ・・止まった。やっとだ。
この二人が武士で良かった。感情よりも死よりも先にあるものがあるから。
しかし、どうする?これからだ。明丸はヤツの手の内。
「おや?どうかしましたか?おふたりとも?」
ロクロウの慇懃さが、かえって腹の底を舐められるような不快感を覚える。
老猾な眼光はまだユウジに刺さっている。どうも、ロクロウだけに見つめられている気がしない。でもやはり、祖父と孫ほどの生きた時間の開きはあるようだ。そして、ユウジはただ単に、この男を敵の手先と決めつけることを直感的に避けていた。
この男が、祖父らしいからか?
いや、違う。
自分を正しい者の内と信じるから、祖父もまた正しき者であろうという願いか?
違うのだ。
まるで関係なく、すでに死んだ祖父がこのような姿で生きていると知ったのはほんの数日前である。
ユウジが引っかかる素。それは・・・
あの婆様が、命をかけて愛した男でもあるということ。
ユウジ自身の浅い経験では判断できなくても、あの婆様にはそれ相応の理由があるのではないか?
そこが引っかかる。
このロクロウという人形の中の祖父の意図が掴めない。
身が滅んだ後も、守るべきものが無くなった後に婆様と殺し合いまでして何をしている?
若く、古びた眼差しはまだユウジを捉えている。煩わしそうにも、愛おしそうにも見える。
フツフツと雨が地面を叩く。
ーその時ー
「まぁーりっ!」
タヌキのマリーを呼ぶ明丸の声が元気に響いた。
ロクロウが振り向く。その先には三つ目を開いた明丸がマリーに乗って飛び掛かっていた。
明丸はロクロウの額に何かをくっつける。貼札だ。
同時に雷がロクロウの身を刺し貫いた。
ロクロウは金縛りに合っているように動かない。しかし手を広げて何かを制止しているようだ。
三つ目の明丸から、ユウジの知らない青年の声が発した。
「片城神鹿郎よ、何か言い残すことはあるか?」
「・・・ああ、抜かりました。・・これで、最後か。・・・浅葱の忍びどもよ。我が指揮を・・・解く。次の頭領は片城・・・有慈ろ・・う。・・・聞こ・・えたか?」
すると、周りから数十の金打が響いた。ロクロウはこれを制していたのだ。
明丸の三つの目の内、一番上の三つ目の瞳だけに哀愁が籠っていた。
「・・・分かった。もう良い。そなたはもう十分にその役目を果たした。古き筐体を脱ぎなさい。百神 銭亀・・・波・離・神! 」
ロクロウの額で紅い雷の力が小さな龍のように暴れはじめる。力づくでその内の何かを引きずり出し、貼札が集めて吸収しているようだ。
「おかしいな、まだこの身を支える者がいる。」
明丸は、はたと手を止めその瞳をパチクリとさせた。
明丸は元の両目を閉じて、三つ目の瞳だけでロクロウの体を探るように見回す。そして・・・
「ああ、居らぬと思えばここに居ったか。陽弧よ。まったくそなたら夫婦ときたら・・・」
ヒラともう一枚貼札を取り出し、それをロクロウの胸に貼り付けた。するとそこでも紅い雷は暴れ始めた。
「陽弧よ。神鹿郎と仲直りは済んだのかい?」
それは、優しい青年の声音だった。紅い雷は何かを訴えるように弾ける。人の言の葉のように。
「・・・そうか、それが望みか?ならば執着を捨て、私に任せよ。」
やがて、額の貼札と胸の貼札の雷の色が黄金に変わった。まるで抵抗の赤を捨て去ったかのように。
その金色は正方形の貼札の中に全て収まった。
もうそこに、ロクロウの体はない。全て雷に焼き尽くされ骨さえ一片も残っていない。
「・・・まったく世話の焼ける夫婦よ。夫が妻の魂を胸に抱いての修羅の道とはな・・・。」
マリーの上で三つ目の明丸がため息をつく。三つ目の瞳にだけ、涙が滲んでいた。
雨はいつの間にか止んでいる。