第112話 雨と言霊
涙のようにシトシトと衣を濡らしていく雨。
チエノスケは得物に手をかけたまま、忍びの者達の動きに気を配る。金色の羽音は黙っていた。
グンカイはモモを目の内に収め、相手の出方を見る。この子を奪われるわけにはいかない。得意の弓は、ユウジに貸している。露嶽丸の柄に手をかけているのは、一気に襲いかかられた場合、ムラサメをこの場に呼び出し、場を混乱させることも考えていたからだ。
椀に戻ったメルはシロウの手当てのために、サヤの手の内。
ローラ、マチルダとユーグの手も借りたい。しかし彼女らはただ人の姿を失い地面に散らばっている。
シロウが傷を負い、明丸が乗るモモを奪われないようにしたい状況で、この結構な人数を相手にするには・・・。
どうしたものか・・・。
その時、シロウが呻き声を上げた。
右肩を押さえ、右足を棒のように突っ張っている。これは尋常ではない。命に係わるような痛みの唸りだ。
何かがおかしい、何があった?
サヤが必死にシロウの鎧を緩め、着物をなんとかずらして傷口を確認する。
あああっ。
サヤの口から洩れ出たのは、驚きと恐怖が入り混じったようなするどい悲鳴だった。
どうした?何が起きている?グンカイとチエノスケは敵の手前、動くに動けない。
動けば、浅葱の忍びの者どもにきっかけを与えることになる。
斬り合えば必ずシロウとサヤに害が及ぶ。
ー躊躇と逡巡ー
グンカイは露嶽丸の柄を握りしめる。
ムラサメを召喚し、敵の上に落とすか。その混乱に乗じてなんとか活路は開けないか?得意の弓が無い今、不意に多人数に同時に攻撃できる手段はグンカイにはこれしか思いつかない。
やるか・・・。
するとその時、モモがゆっくりとロクロウの方へ進み始めた。
「ほぉう。」
こちらが慌てる中、ロクロウは興味深げに目を細くしてほほ笑む。顔は青年の顔だが、目の奥は違っている。
「モモ、おい、止まれ。頼む。頼む。」
グンカイはモモの首にしがみつくように回り込み甲羅を両の手で押しとどめる。
しかし止まらない。モモの瞳は緋色に燃えている。
泥の足元をゆっくりの一歩一歩。
人の力により神亀を制するなど、元より無理な話だ。
ただ、ぬかるみに足跡が山なりに深く線を引く。
シロウの苦悶の声とサヤの呼びかける声が雨音と共に混じり合って聞こえた。
ートトント トンー
太鼓の音。
ートトント トンー
その場の誰もが何事かとその音の出所を探る。
ートトント トンー
ああ、あの子か、明丸殿、目が覚めたのだな。
ートトント トンー
雨だというのに、外に出て来てしまっている。
ートトント トンー
頼むから、安全な甲羅の内にいてくれ。ここは戦場だぞ。
モモの歩みに浅葱の者達が足を踏み出したのが分かった。
ートトント トンー
太鼓の音に合わせ雷鳴が鳴った。
黄色い閃光が幾条にも浅葱の者達に襲いかかる。
この隙を上空に逃れ待っていたのだ。同時に、ロクロウに向かい一番大きな閃光が轟音とともに奔った。
グンカイは見た。ロクロウの扇が翻ったのを。ヤツの宝は特定の小さな現象を無かったことにする。
そう、ロクロウはその場所には居なかったことになった。
ほんの少し、攻撃の先からズレていればいい。相手の後ろに居たことにすればいい。
子どもの遊びの先にある宝だ。
ー今のなしねー
チエノスケが、泥に転がる音がする。
そしてまた、扇が煌めいた。次にヤツが居た場所とは?
腹に響く鈍い痛み。世界が暗転しかける。痛みと吐き気の世界でグンカイはかろうじて意識を引き寄せた。しかし、地に手をつかずにはいられない。
ロクロウは明丸とモモに手を差し伸べる。
待て・・・やめろ。
モモの目が赤く光った。よろしくない相手だと認識しているらしい。背中の明丸には触れることはできまい。しかし明丸に今、その手が伸びる。
防御壁、六芒星の盾狼が発動する。
その刹那、ロクロウの扇の表面が緋に燃え始めた。
「最初の妻よ。扉を開けて招いておくれ」
ー君がため惜しからざりし命さへー
鈴のような女性の言霊。
モモの動きがピタリと止まった。
モモの瞳の色の敵愾心が薄まっていく。盾は収められた。
ー私は敵ではない、信じておくれー
モモの中で、ロクロウは悪い人間ではなくなった。
そして
「 百神 銭亀 」
この男は解放の呪文を知っていた。