好きな人に惚れ薬入りクッキーを食べさせてみた結果
子爵令嬢であるリアナ・ウェッジウッドには婚約者がいる。
優しくてスマートで、何でも卒なく熟すパーフェクトな婚約者。
リアナより三歳年上の伯爵令息サミュエル・ワーグナーだ。
領地が隣同士だったことで結ばれた婚約に、当初リアナは舞い上がって喜んでいたが、時が経つにつれ自信を失っていった。
目の覚めるような青銀の髪と水晶のように澄んだ瞳をしたサミュエルは、見た目の良さと本人の優秀さから、婚約しているにも関わらず高位貴族の令嬢からひっきりなしに縁談の話が来るらしい。
それというのも婚約者であるリアナの容姿が平凡、学業も普通、特筆すべき能力もなし、おまけにウェッジウッド家もごく普通の子爵家であることが、サミュエルには相応しくないと軽く見られているからだ。
当のリアナもそれは良くわかっている。
良くわかっているから辛かった。
家同士で結ばれた婚約だが、リアナはサミュエルのことが大好きだった。
◇◇◇
「いい加減、婚約を解消してさしあげたらいかが?」
「ご自分がサミュエル様に相応しいと思っていらっしゃるの?」
「こんな方をサミュエル様が好きになるなんて有り得ないわ」
今日も今日とてお茶会で責められ、リアナは街を一人でトボトボと歩いていた。
侯爵家が開くお茶会の招待状が届いた時から嫌な予感はしていた。
とはいってもこちらは子爵家。侯爵家からの招待を断ることもできず参加してみれば、危惧した通りサミュエルに懸想した令嬢達からの、完全アウェーによる罵詈雑言のオンパレードだった。
まさしく針の筵状態で時間が過ぎるのを只管に願い、曖昧な返事で乗り切ったリアナだったが、帰りの馬車が見当たらない。
侯爵家の使用人へ訊ねてみれば、自分の命令で帰宅していったと言われ面食らった。
お茶会に参加した貴族令嬢が馬車を先に帰らせるわけがない。そんなことをすれば歩いて帰らなければならなくなるからだ。
馭者もきっと不審には思っただろうが、子爵家の馭者が侯爵家の使用人に帰ってよしと言われてしまえば逆らえるはずもない。
これも嫌がらせの範疇なのだろうが、悔やんでいても仕方がないので、リアナは歩いて帰ることに決めたのだった。
高位貴族開催のお茶会だったので、ドレスの下に着たパニエが地味に邪魔で重い。
普段着ているワンピースなら足捌きも良くて歩きやすいのに、と溜息を吐きながら街並みを進んでゆくと、踵がジンジンと痛んできた。
履き慣れない高めのヒールのため靴擦れが出来たのだろうと考え、広場に設置されたベンチに腰掛ける。
靴を脱いで確かめて血が出ていたら家まで歩く気力がなくなりそうで、リアナは足を休めるだけにした。
「私がサミュエル様に相応しくないなんて、言われなくてもわかってるわよ」
靴擦れとお茶会で気持ちが沈んでいたせいか、リアナは心情をポツリと吐き出す。
「サミュエル様が私を好きになるなんて有り得ない、か……。知ってるわよ、そんなこと」
涙が零れそうになるのを、ギュッとドレスを握りしめることで耐える。
紳士なサミュエルはリアナにだって優しい。
エスコートだって欠かしたことはないし、誕生日や記念日には必ず花束付きでプレゼントを贈ってくれる。
勉強が苦手なリアナへ懇切丁寧に教えてくれるし、頻繁に子爵家を訪れては婚約者として一緒の時間を過ごしてくれる。
けれど、サミュエルは絶対にリアナへ手をだしてこないのだ。
勉強のため隣同士で座っても、夜会のバルコニーでそれらしい雰囲気になっても、キスはおろか腰を抱くことさえしてくれない。
しょっちゅう「可愛い」とは言ってくれるが、それが妹のような存在に対する意味で言っていることに、リアナは傷ついていた。
「でも好きなんだもの。婚約解消なんてしたくない」
サミュエルの婚約者でいることに自信はないが、リアナは自身から手放すことが出来ない位、彼のことが好きだった。
だから今日のように、高位貴族の令嬢から圧力を受けても決して頷くことはしない。
それでも心がすり減っているのは事実で、踵の痛みもあって滅入る気持ちに打ちひしがれていた。
「はーい! 一口食べたら恋の味! 惚れ薬入りクッキー焼き上がりましたー!」
聞こえてきた言葉に、リアナは顔を上げる。
今、惚れ薬入りと聞こえた気がする。
「いやいやいやいや、そんなわけないから」
惚れ薬なんてものがこの世に存在するわけがないとリアナは首を振るが、彼女の目と耳は声の主を探すためフル稼働だ。
「愛しい彼も彼女も、これさえ食べさせれば元気にイチャイチャ間違いなし! 惚れ薬入りクッキー、売り切れご免、早い者順ですよー」
「一つください!」
靴擦れの痛みも忘れ疾風のように動いたリアナは、気付いた時にはクッキーを購入していた。
「まいど~。あ、お客様~、念のために言いますけど、そのクッキーは一歳未満の乳児には食べさせないでくださいね~」
店員の注意に「私、一歳未満の赤ちゃんに、惚れ薬を食べさせてまで好かれようと思われてた? そんな犯罪紛いのこと幾らなんでもしませんけど? 必死の形相が顔に出てたんですか? そんなに酷い顔ですか?」と青褪めるも、クッキーを購入する客みんなに言っているようなので、胸を撫でおろす。
きっと惚れ薬の成分が乳児にはよくない物なのだろう、と結論づけて、袋を片手にドキドキしながら家までの道を歩いていると、リアナの隣で不意に馬車が急停止した。
「ひぃぃ! 赤ちゃんに食べさせようとは微塵も思っておりましぇん! 出来心、そう、ちょっとした出来心で!」
やっぱり犯罪者認定されて警吏を呼ばれたのかと、リアナが悲鳴をあげたのと馬車の扉が開いたのは同時だった。
「リアナ!」
名前を呼びながら降りてきた人物に、リアナは目を丸くする。
「え? サミュエル様?」
「リアナ、こんなところにどうして一人で?」
いつになく険しい表情で駆けよるサミュエルに、リアナは咄嗟にクッキーの入った袋を背中へ隠して瞳を泳がせた。
「え~と、それは、色々とありまして……」
侯爵令嬢から嫌がらせをされて、徒歩で帰ることになったついでに惚れ薬入りクッキーを買ってました、などと言えるわけもない。
嫌がらせをされるような人物は自分の婚約者に相応しくない、などと言われ婚約破棄されたら、せっかく惚れ薬入りクッキーを用意しても一巻の終わりである。
しかし誤魔化し方が下手だったせいか、サミュエルは益々表情を曇らせるとリアナの手を引いた。
「とにかく貴族令嬢が一人で街歩きなんて危険だから馬車に乗って。今日はエヴァンス侯爵家でお茶会だと聞いていたから、そろそろ帰宅した頃だと思って訪問しようとしていたのに、こんな所に一人でいるなんて……」
リアナは「あれ? 今日お茶会ってことサミュエル様に話したっけ?」と考えつつも、踵の痛みを思い出し、素直に馬車へ乗り込む。
伯爵家の座り心地のいい馬車にほっと人心地つくと、隣に腰掛けたサミュエルがにっこりと微笑んだ。
「それで? さっきから隠しているその袋は何?」
先程までの剣呑な様子は消えたようだが、答えるまで逃さないというような笑顔の圧力に、リアナの肩がビクリと震える。
隠していたはずだったが、サミュエルには気づかれていたようだ。
しかし、惚れ薬入りクッキーとは言えない。
ましてや貴方に食べさせるために衝動的に買いました、とは絶対言えない。
偶然手に入ったものだとしても、買うのを決めたのはリアナである。
しかし目の前には、白状するまで梃でも逃がしてくれない様子の婚約者がいる。
サミュエルは基本優しいが、昔からリアナが隠し事をすることだけは異様に嫌った。いや、嫌ったというより許さないといった方が強く、嘘が下手でサミュエルに問い質されると弱いリアナは、いつも白状させられてきた。
沈黙が続く車内。
やはり今回もリアナが白旗をあげた。
「……クッキーです」
嘘は言っていない。
ただ、ちょっとだけ罪悪感に駆られながらリアナがおずおずとクッキーの袋を差し出すと、サミュエルの水晶の瞳が一瞬だけ見開かれた。
「それは……そのクッキーをリアナは誰にあげようと思ったの?」
「え?」
「誰かにあげるために買ったんでしょう? それを買うために一人で街へ出たの?」
何故か強張るような声音になったサミュエルに、リアナは首を傾げる。
「クッキーは偶々買っただけで、一人で街を歩いていたのは、そのまぁ色々とありまして……」
「色々?」
「色々……あ、サミュエル様、よければこのクッキー食べます?」
馬車へ乗り込む前と同じ言い訳(にもならない言い訳)に、サミュエルがツッコんできたことに、理由を言いたくないリアナは焦るあまり、とんでもないことを口にしていた。
食べさせたいとは思っていたが、こんな卑怯な物食べさせたら人間失格である。
ここは「冗談です~毒見もしていないのに失礼しました~」で乗り切ろうとしたリアナだったが、それより先にサミュエルが袋からクッキーを摘まんでしまっていた。
「ふーん、偶々買っただけ? でもリアナから貰うものなら何でも嬉しいよ、いただくね」
「え? は? 待っ……」
リアナの「待って」という言葉は、サミュエルがクッキーを咀嚼する音に掻き消される。
袋に入ったクッキーをあっという間に平らげたサミュエルが嬉しそうに破顔するのを、リアナは絶望の眼差しで見守ることしか出来なかった。
◇◇◇
「何も変わらない……」
サミュエルへ惚れ薬入りのクッキーを食べさせてから数日、リアナは気が気じゃない日を送っていたが、まるで変化のない彼に戸惑いも覚えていた。
あの日家まで送ってくれたサミュエルは、リアナの踵に靴擦れが出来ていることを知ると横抱きで部屋まで運んでくれた。
リアナは「惚れ薬の効果が?」と青褪めたが、ソファへ降ろした後は治療をメイドへ言いつけると、急用ができたと早々に子爵邸から去ってしまったので、薬が効いているとは考えにくい。
その後毎日のようにお見舞いの花束やお菓子が届いたが、リアナが怪我をしたり病気になったりするとこういった贈り物はデフォなので、惚れ薬のせいではない。
サミュエル本人は緊急の害虫駆除が出来たとのことで会えていないが、リアナに会えなくても平気ということは、やはり惚れ薬は眉唾ものだったのだろう。
「そうよね。惚れ薬なんてあるわけないわよね。しかもあんな広場で大々的に売るわけもないのに、すっかり信じちゃうなんて。こんなんだから私はサミュエル様に相応しくないとか言われるんだわ」
罪悪感で押しつぶされそうだった心が幾分か軽くなったが、同時に己の浅はかさも実感し乾いた笑いが浮かんでくる。
「本当に……どうかしてた。私って最低……やっぱり婚約解消した方がいいのかな……」
自室のソファに凭れながら呟いた自分の言葉に、リアナが溜息を吐く。
しかし、その背後から絶対零度の声音が響いた。
「婚約解消って何?」
「え?」
振り返ったリアナが見た人物は微笑みを作っているのに、瞳が全く笑っていないサミュエルだった。
「ねえ? 誰と誰が婚約解消するの?」
そう質問しながら、入室してきたばかりのサミュエルが後ろ手に扉を閉める。
閉まる扉の向こう側で、オロオロと青い顔をした新人メイドと、古株のメイドが憐れむような眼差しで頷いているのが見えたが、パタンっと閉まった音にリアナの防衛本能が緊急指令を発動する。
「まさか、私とリアナじゃないよね?」
頭では警報が鳴り響ているというのに咄嗟に動けないリアナを嘲笑うように、あっという間にソファへ到達したサミュエルが、覆いかぶさるように腰を屈める。
「ずっとリアナだけが好きだったのに、リアナだけを見てきたのに、今更婚約解消なんて許さない」
多少威圧的ではあるが、甘く紡がれる愛の言葉はリアナがずっと欲しかったものだ。
真上から覗き込んでくる水晶の瞳にも熱が籠り、青銀の髪がリアナの頬に触れるほど顔と顔が接近し、首筋に置かれた手は不埒に蠢く。
妹のようにしか思われていないと思っていたから、こんな風に告白され、触って求めてもらうことは出来ないと諦めていた。
それが今、サミュエルは確かにリアナへ情欲の籠った眼差しを向けている。
しかしリアナの心は張り裂けそうに悲鳴をあげた。
サミュエルが変わったのは、惚れ薬のせいだ。
ずっと効果がないと思っていたのに、こんなに日を置いてから効いてくるなんて厄介な薬である。
だがそんな悪態を吐いても後の祭りだ。効果や効能を確認しないまま怪しい薬を服用させたのは自分であり、そのせいで好きな人の心を捻じ曲げたのもリアナなのだから。
好きな人から好きだと言われたのに虚しいなんて悲しすぎるのに、薬のせいで言わされているサミュエルは、もっと傷ついているはずだ。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
突然、泣きながら謝罪を繰り返しだしたリアナに、強気だったサミュエルが少したじろぐ。
彼の力が弱まったことで押し倒された状態から抜け出したリアナは、泣き濡れた顔のままソファから立ち上がると、急いでキャビネットへ向かった。
「ごめんなさい。すぐに解除の薬を手に入れてきますから……それまで不本意でしょうけれど、辛抱してください。必ず……必ず、草の根分けても探し出してきますから」
キャビネットから財布を取り出し駆け出そうとするリアナの手を、サミュエルが慌てて掴む。
「リアナ! 待って! どこへ行くの? 怖がらせたならごめん。リアナが婚約解消なんて言うから焦ってしまって……」
「いいえ! 私が悪いのです! サミュエル様が私を好きだという気持ちはまやかしなんです! ごめんなさい、私のせいなんです!」
尚も掴まれた手を振りきって出て行こうとするリアナにサミュエルは困惑顔だ。
「ごめん、話が全然見えない。けれど、そんなに泣いてるリアナをどこかへ行かせられるわけないでしょう? ほら、落ち着いて?」
リアナを引き寄せトントンと背中を優しく叩くサミュエルは、やっぱり優しい。
けれど今はその優しさに甘えるわけにはいかないのである。
「優しくしないでください。私、私……サミュエル様に惚れ薬入りクッキーを食べさせた酷い女なんです」
両手でサミュエルを押しのけて、がばりと頭を下げたリアナの足元にポタポタと雫が落ちる。
自業自得とはいえこれで完全に嫌われたと思うと、とめどなく涙が溢れてくるが、それよりも今は惚れ薬を解除する薬を手に入れる方が先決だ。
「ごめんなさい」
呆れて物が言えないのか黙り込むサミュエルの脇を、謝罪しながら頭を下げ脱兎の如く駆け抜ける。
一刻も早く解除の薬を得るためには、クッキーを売っていた広場のお店へ行くしかない。
そう考えていたリアナだったが、次の瞬間ふわりと体が宙に浮いた。
「へ?」
何が起こったのか解らず呆けるリアナを、サミュエルが覗き込む。
横抱きにされたことに気付いて、瞳を瞬かせるリアナを面白そうに眺めていたサミュエルだったが、やがて堪え切れないように噴き出した。
「そっか、リアナはあのクッキーが惚れ薬入りだって知ってて私に食べさせたんだ?」
白い歯を見せて嬉しそうに笑うサミュエルに、リアナの頭上に「?」マークが大量に浮かぶ。
疑問符の花が量産されたリアナの頭へサミュエルが軽く口づけた。
「あのクッキーは少し前に大流行したもので、惚れ薬の成分は蜂蜜なんだよ」
「蜂蜜?」
「そう、蜂蜜は栄養価が高いし美容にもいいから惚れ薬なんてネーミングで売り出したらしいよ。何せ元気になって綺麗になるんだから惚れ薬ってのもあながち間違いじゃない、のかな? それにあれだけ大々的に惚れ薬入りなんて売ってるクッキー、あげる方も貰う方もお互いに気になってる人物同士だろうから、そりゃ食べたら両思いにもなるよね?」
「蜂蜜……」
再度呟いたリアナの脳裏に、クッキーを買った時に言われた店員の言葉が蘇る。
あの時一歳未満の乳児に食べさせないでと言われたのは……。
「ボツリヌス菌だわ……」
栄養価が高い蜂蜜だが、一歳未満の乳児が食べるとボツリヌス症に罹ることがあるのだ。
ボツリヌス菌は熱に強いので焼いても完全に死滅させることはできず、腸内環境が整っていない乳児には厳禁なのである。
こんなに解りやすい注意を受けていたのに、どうしてすぐに蜂蜜だと気づかなかったのか、と遠い目になるリアナにサミュエルが笑いかける。
「で? どうしてリアナは私に惚れ薬入りクッキーを食べさせたのかな?」
ブワッと顔に熱が集まり、居た堪れなさからリアナは視線を逸らした。
惚れ薬ではなかったことには安堵したが、それを食べさせようとしたことがサミュエルにバレバレだったことが恥ずかしい。
サミュエルの口調からして、クッキーを食べさせた馬車の中では既に知っていたのだろう。
今日までの自分の苦悩の日々は何だったのかと頭を抱えたくなるが、惚れ薬入りクッキーを食べさせようとしたことを責めるどころか、何故か嬉しそうなサミュエルにリアナの心音が高くなった。
(待って……確か私のことを好きだと言っていたような……?)
惚れ薬のせいでテンパっていたとはいえ、リアナは自分の記憶力の悪さを今こそ恨んだ。
はっきりしないが記憶によれば「好きだった」とか「ずっと見てきた」とか言われた気がする。
(だあぁぁぁ! 気がするじゃダメでしょう、私!)
とリアナは地団駄を踏みたくなる。
でも、そう考えると……。
(もしかして、もしかして……両思いなの?)
しかしどこか冷静なもう一人の自分が、そんな都合のいい展開なんて有り得ないと嘲笑う。
(現実を見て、自分。どこからどう見てもザ・平凡な子爵令嬢よ! それに比べてサミュエル様を見て! イケメン、イケボでスパダリ、ない。ないわ。両思いなんて勘違いしたら末代先まで笑いものよ!)
心の中で自分へ盛大にツッコみながら、リアナは平静を装う。
地団駄を踏みたい時のウガーッとした顔、両思いと考えた時のニヘラッとした顔、嘲笑った時のハヘッとした顔、実際は全部表情に出ていたが、リアナは自分の表情筋が働き者だということに気付いていない。
そんなリアナを楽しそうに見つめながら、サミュエルが彼女を抱えたままベッドへ腰かけた。
「言ってくれたら嬉しいのに……それに理由如何によっては、伯爵令息にあやしいクッキーを食べさせたって罪になりそうじゃない?」
何故にソファではなくベッド? と思う間もなく、サーッと顔を青褪めさせたリアナの頬をサミュエルが優しく撫でる。
「なんてね、冗談。でも婚約解消は冗談でも言ったらダメだよ?」
「ごめんなさい」
もう何度目かわからない謝罪の言葉を口にしてリアナは項垂れた。
婚約解消なんてリアナだって嫌である。
けれど、罪悪感からそうしなければならないと思い込んでいたし、何だったら今も少し思っている。
不安そうに瞳を揺らすリアナに、サミュエルは小さく溜息を零した。
「気持ちを伝えると抑えが効かなくなるから我慢していたんだけど、それでリアナを不安にさせていたら本末転倒だな」
囁くように零れた科白はあまりにも小さく、リアナの耳には届かない。
キョトンとするリアナの髪を指で弄びながら、サミュエルは熱っぽい眼差しを向けた。
「ねぇリアナ、リアナは惚れ薬に頼りたくなるほど、私に好きになってほしかった?」
婚約者の見たことがない色気に、顔を赤らめさせたリアナがコクンっと頷けばサミュエルが悩ましい息を吐く。
「バカだな、リアナは。そんな薬に頼らなくたって私は……今だって既に限界……」
何のことだと問いかける前にベッドへ押し倒されて、リアナは驚きで動きを止めた。
「リアナ、私は君が好きだよ。惚れ薬なんてなくても、好きで好きで、どうしようもないんだ。だからね……」
今度ははっきりと好きだと聞いたことでリアナが有頂天になったのも束の間、サミュエルの端正な顔が近づいてきて目を閉じる。
唇に少し冷たく柔らかいものが触れ、離れてゆく寂しさに瞼を開けると、サミュエルが水晶の瞳を細くして、扇情的に首筋を撫でた。
「クッキーより、リアナを食べたい」
耳元で囁かれた言葉に返事をする間もなく美味しく頂かれたリアナは、その後すぐにサミュエルとの結婚が決まった。
式場どころか新居まで既に用意され、リアナのドレスのサイズさえ把握しテキパキと決めてゆくサミュエルに、吃驚して思わず訊ねる。
「何でそんなことまで知ってるんです?」
「なんでだろうね?」
リアナの問いかけに、一瞬ギクリと身体を強張らせたサミュエルが意味深に微笑む。
水晶の瞳を仄暗くさせたサミュエルには気が付かず、リアナは「は~」と溜息を零した。
「サミュエル様はやっぱり頭がよくて凄いですね」
素直に感心するリアナに、サミュエルの瞳から不穏な色が無くなり柔らかく細められる。
「リアナは本当に純粋で可愛いよね。だから私はリアナが大好きなんだ」
屈託なく笑いながら婚約者を引き寄せたサミュエルに、リアナの頬が赤く染まる。
好きな人に惚れ薬入りクッキーを食べさせてみた結果、薬の力に頼らなくても溺愛されていることを色々と思い知ったリアナは、火照った顔を誤魔化すように、大好きな婚約者の胸に顔を埋めたのだった。
◇◇◇
リアナに暴言を吐いた高位貴族の令嬢達の家が軒並み没落していることを、彼女は知らない。
清廉潔白な貴族など滅多にいないが、隠している悪事や不正が全て露見するような愚は中々起きることはない。
しかし一時期高位貴族が大量に処罰された時代があり、特に侯爵家の令嬢が身一つで国外追放された時、社交界は震撼した。
どんな悪事を働いたのかは記録に残っていないが、令嬢はその取り巻きの令嬢と共にドレスにヒールのまま国外まで歩かされ、国境の森へ辿り着いた時には悲惨な有様だったという。
サミュエルはリアナが想像するよりも遥かに優秀だったらしく、ワーグナー伯爵家は二人の結婚後に国王たっての願いで公爵家にまで陞爵したらしいが、彼はどんな美姫に言い寄られてもすげなく躱し、生涯可愛い妻だけを深く深く愛したらしい。
ご高覧くださり、ありがとうございました。