思い出は匂いと共に
短時間で仕上げた短編作品です。
最後までお読み頂けると幸いです。
曇天の雲が青空を遮り、今にも雨が降りそうな空模様であった。
朝の天気予報では、「降水確率は20%、傘は必要無いかもしれません」なんて言ってたから、生憎傘なんて持ち合わせていなかった。
最近の天気予報は当てにならないのかもしれない。
……いや、私の日頃の行いのせいかも。
そんな後ろ向きな思考を巡らせながら、私は彼と待ち合わせをしているカフェへと向かった。
目的地であるカフェに入ると、彼の姿は見えなかった。
仕方なくホットコーヒーを注文し、適当な席に座って彼にメッセージを送る。
すると、直ぐに『俺も着く』と返って来た。
彼に会えるという期待や嬉しさと共に、このたった4文字の言葉に、何処か冷たさを感じた。
暫く待っているとカフェの入り口が開いた。
振り向くとそこには彼が立っており、私が小さく手を上げると、彼も小さく手を振りながらこちらに歩いて来た。
「ごめん、遅くなった」
「ううん、私も今来たばかりだから大丈夫だよ」
彼は向かい側の席に座った。
いつもと変わらない彼。
何処も変わっていないはずなのに、私の知ってる彼じゃないみたい。
「……」
「……」
彼が席に座ってからというもの、お互いに口を閉ざしたままであった。
彼に話したい事がいっぱいあるはずなのに、話してはいけない気がしたのだ。
ふと彼に視線を向けると目が合った。
「あっ……」
いつもなら「フフッ」とか言って笑い合うはずなのに、この時の私は目を逸らしてしまった。
彼の瞳、その奥に恐怖を覚えたのだ。
「あの、さ……」
私が目を逸らした瞬間、彼が話しかけてきた。
その声は少し裏返っており、震えていた。
「なに?」
私は俯きながら彼に返事をした。
自分でも驚く程小さく、そして掠れた声が出た。
「大切な話があるんだ」
「……」
私は何も言えなかった。
いや違う……応えたくなかった。
嫌な予感がし、彼に返事をするという事はそれを肯定してしまうのと同じだと思ってしまったのだ。
しかし、彼は待ってはくれなかった。
「俺たち……別れよう」
私の嫌な予感は当たった。
何せこの空気なんだから。
寧ろこの状況で外す事の方が難しい。
「理由を、訊いても良い?」
私は涙を我慢しながら、彼に質問をした。
相変わらず俯いている為、彼がどんな表情をしているのかは分からない。
多分、悲しい表情をしているんだろう。
「……他に好きな人が出来たんだ」
「そう、なんだ」
彼は包み隠さず、ちゃんと説明してくれた。
どうやら正直な所は変わってないらしい。
何故か分からないが少し安堵した。
だけど、私の言葉は辿々しくなってしまった。
「…ごめん」
彼の最後の言葉だった。
私は顔を上げて彼を見てみると、彼の顔は下を向いていた。
立場が逆転した様な感覚であった。
私はカップを持ち上げ、コーヒーを流し込む。
さっきよりも温くなったコーヒーは苦く、そして、より酸味を強く感じ取れた。
彼と別れた私は、彼をそのままにしてカフェを出た。
外ではポツポツと雨が降り始めている。
いつもの私なら『早く帰らなきゃ』とか思うのだろうが、今の私にそんな気力は湧かなかった。
当たり前だ、大きなモノを失ったのだ。
私は何の気なしに、思うがままに足を動かした。
徐々に雨足が強くなり、周りの人が次々と傘を差し始める中、私だけビショビショになっていく。
なんだか一人だけ取り残されたようであったが、不思議と哀しくはなかった。
雨の冷たさを感じないのも、きっと同じ理由だ。
また暫く歩いていると、急に眩しさに襲われた。
なんだ、と思い顔を上げてみると、そこはいつも利用しているスーパーだった。
不意に安心感が湧き上がるのと同時に、グゥーとお腹が鳴った。
どうやら、私の身体はとても単純で素直なようだ。
私は少し笑みをこぼしながら、吸い込まれる様にスーパーへと寄った。
スーパーへ入ると、いつも挨拶を交わすおばさんの店員が「どうしたの!?」と心配してくれた。
私は素直に今日の出来事を話した。
「そぉ……そんな事があったの。悲しかったわよね。そんな時はいっぱい食べて、寝て忘れるのが一番よ」
「そ、そうですよね」
「そうだわ!寝る前にレモンティーでも飲みなさい」
おばさんは傍らに置いてあった一個のレモンを、私の手の上に置いて両手で包み込んでくれた。
その手はとても温かく、私の凍っていた心が溶かされる様に感じた。
気が付くと、私は涙を流していた。
スーパーで買い物を済ませると、雨から逃げる様に走って家まで帰った。
走ってる途中、何故だか私は笑いを堪えていた。
いつもと違うこの状況をちょっと楽しんでいたのだ。
家に帰ると、私はいの一番に服を脱いだ。
軽くシャワーを浴び、ラフな格好へと着替える。
そして、スーパーで買ってきたお弁当をレンジで温め、ホカホカの状態で食らいついた。
彼との思い出を貪る様に。
5分も経たない内に食べ終えてしまった。
お腹は満足感でいっぱいである。
ふとレジ袋を見てみると、一個のレモンが目に入った。
おばさんから勧められた一個のレモン。
何気なく手に取り、匂いを嗅いでみた。
「!?」
その時、私の心臓が大きく鼓動を打った。
何故なら嗅ぎ慣れた匂いであるからだ。
「そうだ……」
彼の香水の匂いだ。
彼はいつもレモンの香水を好んでつけていた。
レモンの匂いを嗅いだ瞬間、心が落ち着いたのはそのせいであったのだ。
しかし、
「どうして……どうしてなの……」
やるせない気持ちがドッと襲い掛かり、私の涙腺はまたしても決壊してしまった。
次の日、私は気晴らしに一人でショッピングをする事にした。
お気に入りの服を着て、メイクにも力を入れてみた。
メイクを終えて、全身が分かる鏡の前に立ってみた。
不思議と今ならなんでも出来る気がしてきた。
私は自信たっぷりで玄関の扉を開いた。
デパートに着いた私は、一瞬行くのを躊躇ってしまった。
何故なら、クリスマスシーズンであるからだ。
そこらじゅうにカップルがおり、手を繋いで歩いていたのだ。
私は顔を顰めたが、顔を横にブンブンと振った。
そして、勇気を振り絞ってデパートへと足を踏み入れた。
デパートに入ると、私はすんなりショッピングを楽しむ事が出来た。
今までは彼に合わせてウインドウショッピングをしていたが、今は自分のペースで楽しむ事が出来た。
こんなにも楽しいものなのか、と実感する程に。
何件かお店に入った後、私はコスメのお店にも入った。
無くなりそうなファンデーションや、最近注目のマスカラを見定めている時、ふと気になる商品が目に入った。
香水である。
私は誘われるかの様に、香水が陳列する棚にまで歩いた。
私がいくつか香水を手に取りザッと見ていると、後ろから店員に声を掛けられた。
「何かお探しでしょうか?」
一瞬驚いた私であるが、直ぐに店員である事が分かった為、愛想笑いをした。
「い、いやー…探しているというか、なんというか」
話を切り上げて、この場から立ち去りたかった私。
しかし、店員が私の持ってる香水を見て話し始めた。
「あっ、お客さんが持ってるその香水、今男性にとても人気のある香水なんですよ」
「そ、そうなんですか」
「特にレモンの匂いが一番人気なんです」
「えっ」
私は素っ頓狂な声を出してしまった。
思わず店員の顔を見てみると、こっちを見ながら頭を少しだけ傾け、微笑んでいた。
私の顔が少し熱を持ったのが分かった。
「お客さん、レモンの花言葉って知ってますか?」
「花言葉?」
私はレモンの花言葉なんて知らなかった。
そもそも、レモンに花言葉がある事自体知らなかった。
「レモンの花言葉は『心から恋しく想う』ていう意味があるみたいですよ」
「!?」
昨日と同じく、私の心臓が大きく鼓動した。
レモンの花言葉にそんな意味が。
急に私の脳内に、彼との思い出が蘇った。
初めて彼とデートをした時の事。
三年経った頃の事。
そして、昨日の事。
思い返してみると、昔になればなる程、レモンの匂いが強かった気がした。
「……そうだったんだ」
私は思わず口に出していた。
「お客さん、大丈夫ですか?」
その様子を見ていた店員が心配そうにしていた。
私はフッと我に返った。
「あ、ご、ごめんなさい。ちょっと考え事をしてて」
私はアハハと笑った後、手に持っていたレモンの香水に目を向けた。
暫く睨めっこをしたのち、私はその香水を買う事にした。
ショッピングを終え、家に帰った私はラフな格好に着替えた。
買った物を整理し、もうやる事が無くなった私は、さっき買った香水を手に取った。
手首に一滴垂らし、擦り合わせて匂いを嗅いだ。
うん、やっぱり落ち着く匂いだ。
心が穏やかになる。
しかし、私は一つ決意した事がある。
それはこの匂いの思い出、彼との思い出を消す事である。
正直、勢いでこの香水を買ってしまった事にとても後悔している。
しかし、もう少し彼との思い出に浸るのも悪くない、とも思ったのだ。
多分この香水が無くなった時、私は彼との思い出を断ち切る事が出来る。
そう信じて私はレモンの香水を振りかけた。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。
※レモンの花言葉は、「花」と「果実」で違うみたいです。
花→心からの思慕、香気など
果実→情熱、熱意など