顛の節・脈動 其之弐『惨痛の魂』
10,000字を超えていますが、今回は節目ごとの投稿を実施していますので御了承ください。
前回の波乱と今後の展開を繋ぐ回となっております。悪い言い方をすると「なかだるみ」です。
惨痛の魂
3日目 昼
Side Reiko & Himeno
妃乃が象頭の巨人となり、芳養を殺害してから、およそ二四時間が経過した。
事務所の空気は、いつにも増して重かった。
応接セットのソファにかけた零子の表情にも、疲れが見え始めていた。
向かいのソファにはうなだれる妃乃。その隣には維が寄り添って、肩を抱いていた。顕醒と凰鵡の姿はない。
あれ以降、妃乃が変身することはなかった。
医務室の惨状は処理班によってすべて収められた。遺体も血も、戦った痕跡も、最初からなかったかのように消し去られた。
維が穴を空けた際の爆音や戦闘音は、支部の敷地を包む結界が吸収したため、近隣には漏れていない。ここで何が起こったか、外の人間が知ることは決してないのだ。
「私を、殺してくれないんですか?」
心ここにあらずといった弱々しい声で、妃乃は訊ねた。
「あなた自身、それを試したはずです。けれど無理だった。そうですね?」
零子は今までどおり、柔らかな口調で問い返す。
妃乃が目を泳がせた。
「あなたは列車に身を投げた。けれど、気がつけば公園に移動していた」
「やっぱり、ご存知だったんですね」
「ええ。『飛び込んだはずの少女が消えたので調べて欲しい』と頼まれたのが、我々が本件に関わったきっかけでした。妃乃さんと出逢ったのは、その調査の過程でのことです」
「一昨日の晩、凰鵡くんが言ってました。維さん達は地下鉄を調べてたって。そのときに、なにもかもをお話しするべきだったんです。本当に、ごめんなさい」
抱かれている細い肩をさらに縮めて、妃乃はうつむく。
「私も、妃乃さんに隠していたことがあります」
「ちょ、零子さん?」
維が声を上げた。
零子が灰色の眼鏡を外したのだ。
そして、さえぎるもののない瞳で、まっすぐに妃乃を見た。
愁いを感じさせるが、一見なんの変哲もない眼差し。
だが、妃乃はその瞳に、身を震わせた。
心がざわつく。まるで、こちらの考えを覗かれているような気分だ。
「すみません。少し不快かと思います。サイコメトリーについての話は、芳養さんから聞かれてますね」
「はい」
と答えてから、妃乃はハッとなった。
「どうして、そのことを?」
「私も、サイコメトリストだからです」
Side Ormu
──芳養さん!
凰鵡は叫んだ。
暗闇から伸びる巨大な手が、彼女の胴を鷲掴みにしていた。
悲鳴が握りつぶされ、真っ赤な血が果汁のように飛び散る。
──あああああ‼
怒号を響かせ、凰鵡は跳んだ。
倶利伽羅竜王を握り、念を込める。
が、刃が出ない。
愕然として宝剣を見つめた瞬間、巨大な蛇が身体に巻き付いた。
ちがう、象の鼻だ。
その全容が、ゆっくりと暗闇から現れる。爬虫類のような眼が凰鵡を捉えた。
──起きろ。
「ぁぅ──ッ⁈」
絨毯敷きの床が見えた。
それから壁付けのマガジンラックと、観葉植物、柱時計…………
数秒経って、そこがどこか思い出す。
事務室のそばにあるラウンジだ。
ソファに座ったまま、眠ってしまったらしい。
(夢……あぁ……)
身体の震えが止まらない。両手で顔を撫でる。
やがて、じっとりと脂汗に濡れた額を、指で搔きむしる──いまの映像を頭から抜き出そうとするかのように。
昨夜は夢も見なかったというのに、なぜ今になって。
嫌悪、無力感、恐怖…………
ふと、目の前に紙コップが差し出された。
自販機のカップジュースを持って、顕醒が立っていた。
「ありがとうございます」
震えの収まらない手で、凰鵡は受け取る。
中身はコーラだった。兄が甘い飲み物をくれるのは珍しい。
カップに唇をつけ、気泡を立てるカラメル色の液体を飲む。冷たくて、甘くて、気持ちいい。
コクンと自分の喉の動きを強く感じて、凰鵡はようやく生きていることを実感した。
顕醒の方は立ったまま、ときおり自分のカップに口をつける。匂いから察するに、ただの飲料水だ。
眼は虚空を見つめている。また考えごとだろうか。
「すみません、兄さん。こんなときに、居眠りしちゃって」
顕醒は小さく「ああ」と応えた。
「本当に、妃乃さんがあの巨人なんでしょうか?」
「零子さんはそれを視たと言っていた」
零子さんが視た──それが事実と同義だと、凰鵡は知っている。
彼女はこの支部の長であると同時に、強力なサイコメトリストでもあり、また霊視能力者だ。
失われた記憶や無意識を探る力は芳養ほどではないらしいが、人でも物でも場所でも、視ただけで何を考えているか、何があったか、何がいるかを瞬時に悟ってしまう。
反面、その強すぎる発現力は彼女自身の制御を受けつけず、目を開けている限り、視ることを強要する。
そのため、普段は力を抑え込む特殊な眼鏡を掛けている。灰色のサングラスがそれだ。超能力を抑制する呪符を灰にして精製したレンズが、視る力だけを零子から取り除く。
その彼女をして『妃乃=巨人』というのなら、信じたくなくても認めざるを得ない。
「妃乃さんは、どうなるんです?」
「まだ判らない」
案の定、期待した答えは返ってこない。
「お前は、どうしたい?」
凰鵡は驚いて兄を見上げた。
そんなふうに問われたことなど、今まで一度もなかった。
しかし、兄の言葉はまるで凰鵡の懊悩を見切ったかのように的確だった──それこそサイコメトリストのように。
象頭の巨人だと発覚した妃乃を、衆はどうするのか。
それは詰まるところ、生かすか殺すかの二者選択だ
兄は黙って、凰鵡の眼を見つめ返している。その表情は真剣だが、すべてを受け入れてくれるような温かさも感じる。
「ボクは……」
うつむき、残ったコーラに視線を注いで、凰鵡は少しずつ言葉を紡いでいった。
「ボクには、妃乃さんがボク達を騙してるようには見えません。今度のことも、きっと何か理由があるんだと思います。本当は誰なのか分からないけど、苦しんでて、悩んでるのは嘘じゃない。だから、助けてあげたいです。彼女があの巨人になったり、妖種達と関わらなくてもいいように、してあげたいです」
憶測に憶測を重ね、仮定と楽観で塗り固めた、稚拙な展望だ。
しかも、今の言葉のすべてを自分で肯定出来るかと問われれば、凰鵡は首を横に振るか、嘘をつかざるをえない。
自分はまだ、どこかで妃乃を疑っている。そして恐れている。
「こっちへ」
唐突に、顕醒が窓際の、やや開けた場所へと移動した。
凰鵡はコーラを飲み干して(少しだけ、氷を口に含んで噛みくだいて)テーブルに置き、席を立った。
「カップも持ってこい」
「え? はい」
兄の意図は分からなかったが、言われるままに紙コップを持ってそばに行く。
「氷がまだ残っているな。私に向かって投げろ」
そう言うと顕醒は眼を瞑った。
凰鵡は「は?」と口に出すところだった。相変わらず兄の考えていることは判らない。だが、無意味なことや冗談をやる人ではない。
「わかりました。いきます」
「宣言しなくてもいい。狙う場所も好きに決めろ」
本当に大丈夫なのか…………
凰鵡はカップの底から氷の礫をひとつ取って、顕醒に投げた。
──からん。
(え──⁈)
瞠目した。
右肩を狙ったはずのそれは、静かに掲げられた兄の紙コップに収まっていた。
「連続でこい。今度は私を外しても構わない」
凰鵡は立て続けに氷をみっつ、バラバラの方向へ投げた。
──からん。
どこへ飛ばしても(ひとつは足下を狙ったというのに)、兄の持つカップがすべて綺麗に受け止める。
凰鵡はそれ以上、氷を投げられなかった。投げても意味がないと悟った。
互いの距離は三メートルほどしかない。避けるならまだしも、反射力だけでコップに収められるものだろうか。それも眼を瞑ったまま…………
(単純な反射力だけじゃない?)
前日の兄と維の組み手が、脳裏に甦る。動かず、攻めず、正確無比な逆撃で相手を倒す。もし、眼に頼らず、相手がどんな動きをするかを事前に知ることが出来れば、そんなことも可能なのではないか。
事実、凰鵡の動体視力は、氷を投げる前に兄が動いているのを、はっきりと捉えていた。
「あの……もしかして今の、兄さんの闘い方の秘密ですか?」
「そうだ」
顕醒は目を開いて答えた。
「未来予知、なんですか?」
「予知ではない。だから、お前にも出来る。今からそれを教える」
「え、今からですか?」
驚く弟に、顕醒はうなずく。
それでも凰鵡はとまどう。新たな技を教えてもらえるのは嬉しい──それも二日連続だ。
だが、なぜ今なのだろう。やはり、兄の意図がわからない。
「気は、どういうふうに練ればいいんです?」
「練気は関係ない。だが通じてはいる」
いきなり理解が追いつかない(だいたい毎度のことだが)。
「念だ。倶利伽羅竜王と繋がったとき、お前は空間や言葉を超えて、自分と剣の心を一体にした。今度はその念を空間だけでなく、自分を取り巻く因果に広げろ」
「因果……」
因果とは、原因と結果。それは分かる。
それと一体化するということと、未来を予知するということは、どう違うのだろう?
「自分と相手の一瞬も、すべてが因と果の繰り返しから成る河のようなものだ。その流れは空間にも常に影響を及ぼす。戦いの場においては彼我の一挙手一投足、ひと呼吸が因となって、攻撃や防御という果になる。その流れを感じ取れ」
ものすごく概念的な話をされている気がするが、そもそも念や気もまた概念の具現化のようなもの。兄がそれを操っている以上、自分にも出来るはずだ。
「今朝のように、念を繋げてみろ。今度は特定の目標にではなく、自分をとりまくすべてとだ」
「はい」
凰鵡は眼を瞑り、意識を広げた。倶利伽羅竜王にそうしたように、あたり一帯の空気に挨拶してゆくように、緩やかな念を漂わせる。
しかし、イメージとは裏腹に、確固たる目標がない状態では、感じ取れるあらゆるものが集中の妨げとなる。
ガラス窓を通した外の音、空調の風、少し離れた自販機の振動、兄裏に触れた床の感触。そのひとつひとつに意識が分散する。
「わ」
眉間が、とんっ、と突かれた。
目を開けてみると、兄の人差し指があった。
「何かを感じたか?」
「いえ……音や気配がすごくて、集中しきれなくて……」
「一点に集中しようとするな。いまの要領で、まわりのすべてを受け入れてみろ」
「受け入れる? 雑念を振り払うとかじゃなくて?」
「認識を広げ、深めれば、入ってくる情報が増えるのは当然だ。それらを煩わしいと感じるな。すべてが因と果だ。受け入れてこそ一体化できる」
「……分かりました。やってみます」
凰鵡はふたたび目を閉じる。
意識を、念を、あたりに広げ、さっきのようにあらゆる音と気配を一身に浴びる。
やはり、ものすごい情報量だ。支部のロビーにいるのに、人混みのなかで一人ひとりの声や足音を聞いている気分になる。
だが、それらはすべて、過去と未来に繋がっている今なのだ。
そして、自分もまた…………
(────なに?)
不意に、自分に向かってくる流れのようなものを、凰鵡は感じた。
このままでは、ぶつかってしまう。
流れに道を譲るかのように、身体をかたむける。
「えッ⁈」
思わず凰鵡は瞼を上げた。
いま、自分は何をしたのだろう。
顔の横に、顕醒の腕がある。
まさか、兄の拳を避けたのか。
「よし」
それだけ言うと、顕醒は凰鵡の肩に手を置いた。
「これが第一歩だ。忘れるな」
褒められた──嬉しさが半分、あれでよかったのだろうかという疑問が半分だ。
「今日はここまでだ」
「はい。あの、兄さん……」
顕醒は「うん?」とも応えない。凰鵡の次の言葉を待っている。饒舌タイムは終わったらしい。
「どうして今日、この技を教えてくれたんですか? 今のボクじゃ、教えてもらっても兄さんのように闘えるとは思えないんですけれど……」
いささか失礼な言いようだとは思ったが、凰鵡はやはり、兄の考えが知りたかった。
「これは殺法ではない。まして闘技でもない。活法だ」
「え?」
「念とは、意識の有りようだ。私から教わることよりも、お前自身が探し、深めてゆくことに意味がある。闘いに活かすことに限らず、な」
最後の言葉が少し強調されたように凰鵡には聞こえた。
そのとき、事務室の扉が開かれた。
「顕醒、零子さんが呼んでるー」
維が妃乃を連れて出てきた。
「凰鵡と妃ちゃんはアタシが見とくから安心して」
妃ちゃん呼ばわりされた本人は暗い表情ながら、恥ずかしげにうつむく。二人と話して、少しは気が落ち着いたようだ。
顕醒は維に小さくうなずいた。
「凰鵡」
「はい」
「お前の成したいことを信じて、念にこめろ。その強さで、決まる」
そう言い残して、事務室へと入っていった。
凰鵡はその場にたたずみ、兄の言葉を心のなかで反芻した。
(ボクのしたいこと……念の強さ……)
だが一体、なにが決まるというのだろう。
ふと、妃乃が不安そうな目を向けているのに気付いた。
「妃乃さん、気分どう? 何か飲む?」
妃乃は疲れた笑顔で首を横に振った。
無理もないし、可哀相だと凰鵡は思う。だからこそ、彼女ために自分がしてあげられることは何かないだろうかと、考え込んでしまう。
「よし、そんじゃぁ難しいことは顕醒に任して……」
ふと、維が声を上げた。
「腹も減ったことだし、アタシらはなんか食べに行こっか──外にでも」
凰鵡も妃乃も、目を円くした。
Side Kensei
テーブルの上に差し出された零子の手を、顕醒が包むように握っていた。
「顕醒さんのお手間を取らせてしまって、ごめんなさい。私が支援すべき立場なのに」
疲れた声で零子が詫びた。
「構いません。かなり、ご無理をなさっていますね」
「私だけ、楽をするわけにはいきませんから」
強力なサイコメトリストの零子だが、その力は彼女自身の精神力を激しく消耗させる。
対象を視ることで零子が感じるのは、映像のような第三者的知覚ではなく、記憶の追体験である。
殴られた者を視れば、零子もおなじ状況で殴られた感覚を得る。
そして死者を視れば、生きながらにして死を感じる。
その力をもって、零子は一昨日から今にいたるまでに四つのものを視ていた。
ひとつめは妃乃。
ふたつめは顕醒を介して大鳥から渡された、被害者の遺体と現場の写真。
みっつめは殺された芳養。
そして四つめは、昨日顕醒が拾った、折れた棒状の破片──あれは間違いなく、奪われたはずの邪願塔の一部だった。
「芳養さんの記憶と、拓馬さんからいただいた被害者の写真、それから顕醒さん達が回収してくださった塔の一部から、おおよその結論は出ました。あなたの予想通りです」
「では、やはり」
「はい。妃乃さんは《エクトプラズム》です」
エクトプラズムとは、霊魂が実体を得たり、ポルターガイストのような物理的なエネルギーを発するさいに媒介とする超常物質である。
大気中にもわずかに存在するが、多くの場合は人の体内に蓄積され、時として霊の依り所となる。そうしてエクトプラズムを体に溜めやすく、幽霊に憑かれやすい人のことを俗に〝霊媒体質〟という。
だが、妃乃が霊媒体質ではなく〝実体化した霊魂そのもの〟である可能性を、顕醒は当初から提示していた。
その理由のひとつが、地下鉄から公園への移動である。投身した妃乃は公園に瞬間移動したのではなく、車輌に轢かれた瞬間、非実体の霊魂とエクトプラズムに戻り、地下鉄内の風に運ばれて地上に出たのではないかと考えたのだ。
そしてもうひとつの理由が、〝公園で凰鵡が見失った妖種は何処へ行ったのか〟という問題だ。
先んじて逃げたか隠れたとしても、臨戦状態に入った顕醒達の索敵網から消え失せるのは容易ではない──それこそ瞬間移動か、〝別のものに同化〟でもしない限り。
邪願塔を所持していた個体は、あの場で妃乃の体内に入り込み、顕醒達から身を隠しつつ、ふたたび獲物を得る機会を窺っていたのだ。
「ただ……」
零子の表情に怪訝な影がよぎる。
「これはあくまで、妃乃さん、巨人、邪願塔、女性型の妖種達……この四者の関係性と、塔の破片に残留していたエクトプラズムから導き出した状況証拠に過ぎません。私の力で視るかぎり、彼女は間違いなく人間です」
顕醒は眉根を顰めた。
「ありがとうございます。もう大丈夫ですよ」
互いに手を離し、ソファに座り直す。
「物証が、相反していますね」
物的あるいは霊的に確認された情報を式で表せば【(人間=妃乃)=巨人=(妖種群=エクトプラズム)】となる。
だがそれでは【人間=妃乃=エクトプラズム】が成り立ってしまう。
「ええ。人間なら、地下鉄から公園に移動した説明がつきませんし、彼女は超能力者でもありません」
正体が霊魂であれば、どれほど巧妙に実体化していても零子には判る。
その彼女をして「間違いなく人間」と言わしめるのは、過去に例のないことだった。
「巨人の行動に、妃乃の意志は関係していますか?」
「自分が巨人であるという確固たる認識は、妃乃さんにはありません。ですが高架下で女性を殺害したことは断片的に記憶していて、当初、彼女はそれを夢だと思っていました」
「被害者と面識は?」
「ありません。芳養さんのことでようやく現実だと認め、ショックを受けています」
「駅で自殺を図った理由は?」
「男性が三人──公園とは別の方々ですが──妃乃さんの目の前で妖種達に殺され、本人も邪願塔を介して血を飲まされています。それらが原因で、自分は人と関わってはいけないと思い詰め、自らを殺めるに適した場所を探していました。飛び込む直前まで目撃されなかったのは、巨人から妃乃さんに戻る過程で幽体化していたせいでしょう」
「血を飲ませるのは、霊力を供給するためですか?」
「ええ。当初は妃乃さんを依代に、あるいは生贄にした儀式かと考えていました。ですが、ここにいたって霊力の供給そのものが目的である可能性が強くなってきました」
顕醒は押し黙った。
「いずれにせよ、彼女の体内に塔のもう半分が秘められているは確かです。問題は、それをどう奪還するかについてですが……困ったことに、長老座のほうで審議会を招集すべき、という意見が出始めてもいます」
ふたたび顕醒が眉を顰める。
長老座とは、衆のなかでもとくに実力と経験を兼ね備えた師範クラスの重鎮達による、一種の評議会である。合議制で、有事の際の方針を決する舵取り役として機能することが多い。
顕醒や維の師達、そして他ならぬ零子自身も、その座に名を連ねている。
「ことによれば、妃乃さんを抹殺してでも塔の奪還を優先、という決が降りかねません」
「わかりました。結果が出るまでは、妃乃の身柄は引き続き、私がお預かりする形でよろしいですか?」
「ええ、現時点で方針に変更はありません。お任せします」
「ありがとうございます。現在、他のメンバーが使用していない山房はありますか?」
「ええ、あると思います」
そう言うと、零子はテーブルの上のノートパソコンを開いた。
「少し遠いですが、ひとつ」
「では妃乃を含め、我々四人でそこを貸し切らせてください。一両日中にはかたがつくと思います」
「……了承します。ですが、あまり無茶をなさらないでください」
零子の言葉に、顕醒は眼を閉じて、頭を下げただけだった。
Side Otori
街の中央から車で約一時間。山野を貫く街道の途中にポツンと、その邸はあった。周囲一キロ圏内に他の民家はない。
バブルに沸く八〇年代の末に建てられ、やがて主を失い、半年前まで廃屋同然だったこの邸を、ある男が買い上げた。
布留部長太郎──一年前に死亡した、布留部妃乃の兄だ。
職業はインテリアデザイナー。以前は現場に出ることも多く、専門学校の建築家で講師もしていた。
だが妹の死を皮切りに、人と会うのを嫌うようになったらしい。講師も辞め、こうして山奥に引っ込んでからは、本業をリモートワーク専門でこなしつつ細々と暮らしている。
大きな住まいに、一人暮らし。
(……ああ?)
玄関に近づいたところで、大鳥は犬のように鼻をひくつかせた。
匂いというよりは、肌を刺すような違和感。
ノッカーを鳴らすと、三〇秒ほどして鍵が解かれ、恐る恐る、扉が開かれた。
「どちらさまで?」
写真よりもかなり痩せているが、布留部本人で間違いない。
大鳥はその面立ちに既視感を覚えた。
資料の写真ではなく、過去にどこかで遭ったか、見たか…………
「警視庁の大鳥といいます。布留部長太郎さんですね?」
思い出せないもどかしさを頭の隅にうちやって、警察手帳を見せながら確認する。
やつれた男はうなずく。
「お訊ねしたことがあってうかがったのですが、よろしいですか?」
「話すことはありません」
そう言って扉を閉めようとしたが────
「布留部妃乃と名乗ってる女の子……」
大鳥の言葉に手を止めた。
「……をうちで保護しているのですが、心当たりは?」
保護しているのは警察ではないが、嘘は言っていない。
布留部は目を地面に落として、考えるように黙り込む。
数秒して、ようやく首を横に振った。
「妃乃さんに顔や体格のよく似た親戚や、知人の方はおられませんか?」
「そういうのは警察の方が詳しいでしょう」
「では、ここ二ヶ月ほどの間に、変わったものを買ったり、貰ったりしませんでしたか? 変な器とか」
「それはなにか、関係があるんですか?」
「そこはちょっと私にも分からんですが、いかがです?」
「……いえ。もういいですか? 今日は気分が悪いので」
「すみません、あとひとつだけ。天風鳴夜というのに聞き覚えは?」
「知りません、そんな人」
そう答えてから、布留部の表情が、苦虫を噛み潰したようになった。
「これ以上、お話しすることはありません」
足下へ放り投げるようにそう答えると、今度こそバタンと玄関を閉ざしてしまった。
(まさに、けんもほろろ、か)
大鳥は仕方なく邸をあとにした。
だが、その外観が完全に見えなくなったところで、歩を止めた。
車で約一時間……の、この道を、自分の足で越えてきたのだ。
雲脚なら、大鳥は上級闘者にも劣らぬ巧者だった。その技を活かした情報収集も、彼の役割のひとつだ。
「藪のなか、けんもほろろと隠れれど、キジも鳴かずば撃たれまい。……てか」
即興で作った短歌を口にしながら、気配を消して山林に飛び込んだ。そのまま、布留部邸の側面に回り込む。門前払いは想定内だ。
邸に近づくと、やはり静電気のような不快感が肌に走る。
直感──これが大鳥の最大の武器だった。
戦闘力は凰鵡の足下にも及ばない。霊力も一般人に毛が生えた程度で、衆でも最下位クラス。その一方で、霊力の発現による直感力だけは人並み外れて強かった。
この家に間違いなくある──盤上の駒を操る糸、すべての点を繋ぐ線が。
十中八九、布留部は天風鳴夜と関係している。「天風鳴夜というのを知らないか」と訊かれて、「知りません。そんな人」と答えた。あれが人名だなどと、よく判るものだ。自分でさえ零子から聞いたときには「それ名前か?」と訊いたくらいだ。
もっとも、布留部本人も口を滑らせたことに気付いたようだ。証拠を消しにかかるかもしれない。
「……ちっ」
邸の裏に回ったところで、大鳥は舌打ちをした。
地下室への入り口だ。アメリカの邸宅にあるストームセラーというやつか。この家を建てた人間は、そうとうなかぶれだったようだ。
新しげな木と鉄枠の扉は今、大きな閂をかけられ、重く閉ざされている。
どう封じられようとも関係ない。
探しているものは、この奥にある。
だが同時に、危機感が警鐘を鳴らす──開けてはならない、と。
パンドラの箱か、それとも地獄門か。
命か、真実か。
大鳥は閂を外し、扉を開けた。
下へ続く、急な階段。
その向こうには、地下室の闇が垂れ込めていた。
音も、生き物の気配もない。大鳥は映画で見た納骨堂を連想した。
直後、その連想が間違っていなかったことを思い知った。
目が慣れてくるにつれ、闇の奥にドラム缶が一本……二本……全部で九本、無造作に転がされていた。
ぞわ──最悪の予測に、全身の毛が逆立つ。
その動揺が直感を鈍らせていることに、大鳥は気付かなかった。
──ダァン!
突然、横から破裂音が響き、鉛の散弾が脇腹を直撃した。上着の繊維がちぎれ飛び、衝撃で身体が宙に浮いた。
土の上に転がると、そのまま大鳥はピクリとも動かなくなった。
「は……はは……!」
倒れた刑事の姿に、布留部は引きつった嘲笑を漏らす。
その手には二連式の散弾銃が握られていた。
「ああ、バカが。バカが。嗅ぎ回るお前が悪いんだ。どいつもこいつも僕の言うことを聞かない。生みの親を裏切って……役立たずだから。ムカツク……ああムカつくなぁ、くそっ……ははは」
引きつった顔をあっちへこっちへと向けながら、一人芝居のように虚空へと話し続ける。
「この役立たず! やくたたずども‼」
突然声を荒らげ、大鳥に向かって再び銃を向ける。
が、たったいま撃ったはずの男の姿は、どこにもなかった。
「が──ッ⁈」
背後から頭に肘打ちをくらって、布留部は昏倒した。
「いってぇ……!」
殴った大鳥も、あばらを押さえて唸った。
万一にと防弾ベストを着てきたのが幸いしたが、骨にヒビくらいは入っただろう。
布留部が猟銃所持者だとは聞いていなかった。どこから入手したのか、あとで丁寧に問いたださねばなるまい。
さて、どうするか…………
腹に当てた手を懐に滑らせ、スマートフォンを取り出す。
「まじか」
散弾の一発を喰らって、文明の利器は沈黙していた。
次回…………脈動 其之参『深謀の山』