宵の節・伏魔 其之壱『対妖の衆』
前節までのおさらい的な回です。
※本作にはグロテスク及び性的表現が含まれます
※また宗教的なニュアンスを想起する語句がありますが、本作はいかなる宗教および団体とも関係はありません。
対妖の衆
1日目 深夜
Side Ormu
時計の針は明日に近づいていた。
部屋の主に似て、飾り気のない事務室である。
調度品はデスクトップパソコンがふたつ載った大きな事務机と、壁を埋める書類棚と、応接セット。観葉植物や絵画もない。
主は主で、顕醒に似た長い黒髪を後ろで結んだだけの簡単な髪型に、服はワイシャツとスラックス。実用主義的な人間の典型例だ。
その一方で、室内──それも夜だというのに──ラップアラウンド型のサングラスをかけている。レンズは灰色で光沢がなく、その奥の眼差しも、ある程度は見て取ることが出来る。
それがこの支部の長、麻霧零子である。
「あらためて、御三方ともお疲れ様でした」
向かいのソファに並んで座る凰鵡、顕醒、維の三人に頭を下げた。
ちなみに三人組の格好はカジュアルから一転、作務衣に変わっている。この支部で支給されるものだ。
「では時系列を追って、と言いたいところですが、今回は凰鵡くんのほうから報告していただけますか?」
「えッ? ……あ、分かりました」
まさか自分が最初に来るとは思わず、凰鵡は少し慌てたあとに、ひと息ついて話し始めた。
公園を抜けようとして、なにかの予感(今にして思えば、妖種の気配だったのだろう)に突き動かされたこと。
現場に着いたときには、まったく同じ姿をした女性型の妖種が七人おり、すでに何人かの犠牲者が出ていたこと。
「え、ちょっと待って」
「維さん、話を最後まで聴いてからにしてください」
維が声を上げ、零子に制された。
「あッはい」
「凰鵡くん、どうぞ続きを」
「あ……はい」
気を取り直して、思い出せる限りの出来事をつぶさに話す。
妖種達が奇妙な器を使って、少女に血を飲ませようとしていたこと。
警告をしたものの無視され、交戦状態に入ったこと。顕醒に渡すべき倶利伽羅竜王を無断で使用したこと。敵の脚を斬ったことと、その時の相手の様子。
そして、自分がいかに追い詰められたか…………
「以上です」
「わかりました。ありがとうございます。顕醒さんと維さんから、凰鵡くんへの質問や意見はありますか?」
「はい」
維がまっさきに手を上げた。
「七人いたって言ったわね。一人、どこに逃げたか見た?」
「え?」
言われていることの意味が凰鵡には理解出来なかった。
「気付いてなかったの? アタシ達が討った妖種は、六人しかいないのよ」
「あッ」
言われて初めて、辻褄の合わなさに思い至った。
自分が組み伏せられているときに一人、少女が連れ去られかけたときに二人、そして合体した三人。これらはをまとめて兄が討っている。ちなみに「アタシ達」と言いながら維の討滅数はゼロだ。
だが、最後の一人は何処へ行ったのだ?
維の口ぶりからして、二人が来たときにはすでに六人しかいなかったのだろう。思い返せば、地面に押さえつけられたとき、自分を見下ろしていた顔も六つだった。
「すみません……」
項垂れ、囁くような声で詫びた。
「いいのよ。アタシも言い方がキツくてごめんね。さっきも言ったけど、あんたはよくやったわ。たしかに最初は七人いたのね?」
顕醒の膝をまたぐように、維が手を伸ばして凰鵡の頭を撫でた。
「ありがとうございます。はい、七人いたのは本当です。それは憶えてます」
少女を取り囲む妖種達の姿は、しっかりと眼に焼き付いている。間違えて少女を数に入れたりはしていない。
その場でしっかり数えたわけではないが、記憶術の一種で、意識して見たものは正確に思い出せる。
「じゃぁ、残る一人が〝変な器〟ってのを持ってるンだろうけど……その器ってどんな器?」
「えっと……これくらいの楕円形のお皿の真ん中に、棒が一本が立ってる感じでした」
身振り手振りを加えながら、凰鵡はなんとか形状を伝える。
三人の目つきが、明らかに変わった。
「少々、失礼を」
零子はそう断ると、スマートフォンを繰り、画面を凰鵡に向けた。
「凰鵡くん。あなたが見たのは、これですか?」
そこにはたしかに、あの器が映っていた。
ただし、こちらのほうは美術品のように、赤い飾り台の上に鎮座している。
「はい、これです。間違いありません」
不思議な気持ちで写真を見つめながら、凰鵡は答えた。
先刻はじっくり観る暇もなかったが、中央の棒はただ真っ直ぐというわけではなく、どこか生々しい形状をしている。
「まじかよ……公園で聞いときゃよかった」
切羽詰まったような表情で、維は拳を自分の頭に押しあてる。
顕醒はうつむき、瞑目していた。
皆の様子で、凰鵡は自分がなにを見たのか悟った。
呪物、魔道具、祭器──いわゆる〝アーティファクト〟と称されるものだ。
それも、三人の様子からして、かなりのいわくつき(・・・・・)に違いない。
「あの、これは何なんですか?」
「申し訳ありませんが、それを教えることは出来ません」
丁寧に突っぱねられてしまった。
悔しいが仕方ない。訊いたのも駄目元でのことだ。
アーティファクトの情報については、その危険度や希少度に応じて公開制限が設けてられている。下位の構成員が高レベルのアーティファクト情報を得るには、支部長クラスの承諾を得ねばならない。
自分が関われるのはここまで。あとは家に帰って留守番か。
そう思ったときだった。
──トゥルル、トゥルル、トゥルル。
事務机に置かれた電話が鳴いた。内線の音色だ。
「失礼…………はい、こちら麻霧です」
席を立った零子が受話器を取る。
「はい……はい……そう、ですか。わかりました。では維さん達と一緒に、すぐそちらに向かいます」
「ん? アタシ?」
維が自分を指さして首を捻る。
「医務室からです」
受話器を置いて零子が言った。
「保護した女性が眼を覚ましましたが、錯乱しておられるようです。みなさんの顔を見れば、落ち着くかもしれません」
「あ、なるほど。じゃぁアタシと……凰鵡、あんたも来て」
「え、ボクも?」
「そ、あんたも。はい、急ごいそご」
言うなり、維は凰鵡の手を取って引っ張った。
「わっ⁈ あ、兄さんごめんなさい!」
あまりの力に、凰鵡は顕醒の膝の上に倒れてから、ようやく立ち上がった。そのまま引きずられるように出口へ連行されてゆく。
そんな二人の背を見て、溜め息なのか含み笑いなのか判らない吐息を鼻から漏らしつつ、顕醒も席を立ってあとを追った。
「顕醒さん、大鳥さんからいただいた資料ですが──」
その横に並んだ零子が静かに告げる。
「他には、なにか預かっていませんか?」
「ええ。あれだけです」
顕醒が答えると、零子は眉根を顰め、不満げに小さな溜め息を吐いた。
「わかりました。それから、お二人の報告が済み次第、あれの捜索と奪回をお願いしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「私は構いません。可能なら維と、大鳥さんを補佐に付けさせてください」
「珍しいですね、あなたが補佐を希望するなんて。拓馬さんも……ですか。ふたつの事件には関連があると?」
「ええ、詳細はのちほど」
「はい。凰鵡くんはどうなさいます?」
「ここで預かっていただけますか?」
「構いませんが、あなた方と一緒のほうが安全では? 後学のためにも」
「今回の相手とは相性が悪いかもしれません」
廊下を渡りながら、静かな一問一答が続く。
「では、あなたも感じておられるのですね。そろそろだと」
「零子さんほど正確には視えていませんが」
「彼のなかでは、すでに変化が起こっています……一両日中には来るでしょう」
顕醒は言葉ではなく、ただ「ふうっ」と溜め息で応じた。
「久しぶりに気負っておられますね。大丈夫、私や維さんがついています。あの子のお父さんだからって、一人で背負い込もうとしないでください」
維と凰鵡が医務室の前に着くと、扉越しに室内の声が聞こえてきた。
「大丈夫。大丈夫だから、落ち着いて。僕はきみに何もしないから」
一生懸命に少女をなだめているのは、この支部の宿直医だ。今のところ、努力は実っていないらしい。
「いや……! こないで……こないでぇ……!」
その引きつった涙声を聞くだけで、凰鵡は胸が張り裂けそうになる。
あの少女は、一体どんな目に遭いながら公園に辿り着いたのだろう。
「タヌキ先生、入りますよ」
軽くノックをしてから維は扉を開いた。
学校の保健室を広くしたような、診察スペースと数台のベッドを擁した部屋が現れる。
「ああ、助かったよ」
床に片膝をついていた白衣の男が、入ってきた二人を見て安堵の溜め息を吐く。
「僕じゃぁ、どうやっても逆効果みたいでね」
先生と呼ばれた男は大きな腹を抱え上げるように、のっそりと立ち上がった。
〝タヌキ先生〟とはもちろん渾名で、信楽焼の狸像のような印象から維が呼び出して広めたものだ。人を身構えさせない愛嬌があるのだが、今度の患者には通じなかったらしい。
少女はベッドから落ちたのか、床に座り込んで震えていた。背中をピッタリと壁につけながら、なおも後退ろうと足をばたつかせている。入院着の裾がめくれ、内股が露わになっている。
だが凰鵡と維の姿をみとめるや、その震えが止まった。表情から緊張が薄れ、二人の──正確には凰鵡の──顔をぼんやりと見つめる。
「ごめん、先生は外してくれたほうがいいと思う」
「ああ、そうみたいだね」
維に賛成した先生が医務室を出る。
それと入れ違いで、顕醒が入ってきた。
「顕醒、来ちゃだめ!」
維が止めようとしたが遅かった。
「ひッ!」
途端に、少女は頬を引きつらせる。
「いや! いやぁ!」
背後の壁にすがりつき、手で叩き始めた。
バン、バン、バン──まるで、そこに閉ざされた扉があるかのように、何度も、何度も手のひらを叩きつける。
「言わんこっちゃない!」
維が顕醒の腕を掴み、強引に外へと引っ張っていった。
(なんで……どうして……?)
残された凰鵡は、少女の狂態に立ちすくむ。
彼女に何があったのか。なぜ、兄が恐れられているのか。そして自分は今、何をすればいいのか。
妖種に関わったのが原因で錯乱する人の姿はこれまでも目にしてきた。だが見て知っていることと、実際に対処出来ることは同義ではない。
すると突然、少女は意を決したように、スゥっと息を吸い、壁に対して頭を大きく引いた。
「だめ!」
凰鵡は反射的に駆け出し、頭が壁に激突する寸前の少女を抱き寄せた。
覚悟していた抵抗はなかった。腕の中の少女は肩で息をしながら震えていた。
「大丈夫……そんなことしなくても、大丈夫です。あなたはボクが護ります。だから、大丈夫」
震える声で、震える耳に囁く。
自責の念が凰鵡を締めつける──自分が護るなどと、ついさっき目の前で醜態をさらした身で、厚顔無恥もいいところだ。
それでも、護りたいと思った。その力があるなら──たとえ、なくとも。
ふと、少女の手が自分を包み返してきた。
凰鵡の眼から涙が溢れ出した。
信じてくれたのだ。こんな自分を。
(ああ……強くなりたいなぁ……強く……)
今日ほど、そう思ったことはない。
兄のような強さで、維のような優しさで、自分を傷つけたくなるほどの恐怖から彼女を救いたかった。
だが今は紛れもなく、自分の方が彼女に救われている。そんな己の情けなさと悔しさが、凰鵡の涙をさらに加速させてゆく。
Side Himeno
「それ以外は憶えてないんです。なにも……」
ベッドに座った妃乃は、弱々しく答えた。
意識があったのはあの公園から。男達に捕まり、それから恐ろしいことが目の前で繰り広げられ、凰鵡達三人に助けられて、気がつけばこの医務室のベッドの上…………
唯一答えられたのは、布留部妃乃という名前。
住所や身分が判るものも持っていない。
「すみません。お役に立てなくて」
「いいんですよ」
丸椅子に座った零子が優しく応えた。
その隣には同じように維が座り、凰鵡だけは妃乃と並んでベッドの上にいた。
「記憶がなくなるのは、こういう事件ではよくあることなんです」
柔和な瞳は、灰色に濁ったレンズの向こう側だ。ときどき眼鏡を下にずらしてこちらを覗き見るが、すぐに戻す。
「こういう事件……あの、あなた達は一体……」
「おばけ退治の専門家ってとこかしら」
維が答えた。
「おばけ退治……」
妃乃は維の言葉を確かめるように繰り返した。
「ボクらは妖種って呼んでます。妖怪の妖、種族の種、で妖種です」
凰鵡が合いの手を入れるように話した。
そちらに顔を向けて、妃乃は思わず眼を逸らす。
「その……エクソシストとか、祓い屋さんとか、ってことですか?」
怪しい宗教じみたものを感じて、妃乃は内心怯えた。
「うーん、幽霊を扱うときもあるけど、たいていはそれよりずっと激しいわね。物理被害ハンパないし」
皮肉っぽく笑いながら維が言った。
「思い出させたくないけど、あなたも見たでしょ。ああいうトンデモナイ奴らよ」
妃乃は恐る恐るうなずいた。
「私達は、科学で解明できない事件を調査し、それが人智を超えた存在、つまり妖種の仕業であれば彼らと接触し、諸問題に対処、敵対が不可避な場合は討伐を行う組織です。ですので、今回の事件が解決するか、布留部さんの身の安全が確認されるまでは、当方で保護したいのですが、いかがでしょう?」
「保護? 私をですか? あの、あなた達を疑うわけじゃないんですが、警察には話さなくていいんでしょうか?」
「非公開ですが、我々と警察との間には連携体制が敷かれています。妃乃さんについてもすでに情報を共有し、身元を調べてもらっています。ただ、先ほどの妖種が妃乃さんを標的にしているのなら、警察の保護は安全とは言い難いのです。幸い、ここは構成員の宿泊所も兼ねていますので、衣食も提供できます」
奇妙な眼鏡に淡々とした口調。現実のものとは思えない組織。本来なら怪しい限りだが、妃乃の心は不思議と落ち着いていた。
「でも私、お金持ってません」
「そちらもご心配なく。たしかに我々は基本的には依頼を受けて動き、報酬を得る営利団体です。ですが今回の件は非営利の自主捜査として扱うので、妃乃さんにお金や、その他の対価をいただくことは一切ありません」
ホッと妃乃は胸を撫で下ろした。
「──というより、正直なところ、我々としては先の妖種を看過するわけにはいかないので、事件解明の糸口を掴むため、あなたの力をお借りしたいのです。どうか、協力していただけませんか?」
零子の要請に、妃乃はうつむき、少し考えてから答えた。
「わかりました。でしたら、しばらくの間、ご厄介になります」
「こちらこそ、感謝いたします」
零子がフッと胸を撫で下ろしたのが、妃乃にもわかった。
「では、夜も遅いですし、今日のところはこの辺で。また明日、お話を聞かせていただけますか?」
「ええ、はい。いいですよ」
ひと区切り付いたと思った途端、頭がぼんやりし出した。道中で寝ていたはずなのに、まだ足りなかったらしい。
「で、零子さん。付き添いは誰が?」
維が言った。
付き添い……ボディガードだろうか。さすがに、この建物の中にいるだけで安全、とはいかないらしい。
「そうですね……では凰鵡くん」
「え⁈ はい!」
「宿泊室をひとつ用意しますので、今夜はそこで妃乃さんと、ご一緒してください」
ドキッ──妃乃の胸が高鳴った。
「え、そ、それって……」
凰鵡のほうは見るからに顔を赤らめ、あたふたしている。
「ちゃんと二人部屋を用意しますから、深刻に考えないでください」
「あっ、はい……そうですよね……」
「では、いったん事務所に戻りましょうか。そこで鍵を渡しますので」
零子が椅子から立ち上がった。
続いて維が、凰鵡が────
最後に妃乃が立ち上がるが、途端に猛烈な立ちくらみを感じてふらついた。
即座に、凰鵡がその身体を支えた。
「大丈夫ですか、布留部さん?」
顔を上げた妃乃と、不安そうに覗き込む凰鵡の瞳が交錯した。
頭のなかで電流が弾けた。
「ありがとう。だいじょうぶ……たぶん」
飛び散る火花は、つぶした柑橘の飛沫のように甘酸っぱかった。
Side Kensei
「今日は遅くまでお疲れ様でした。ゆっくり休んでくださいね」
「はい、零子さん。兄さんと維さんも、また明日」
「ん。アタシらは隣の部屋にいるから安心してね。ほんじゃ、おやすみー」
笑顔で手を振る維と零子に、凰鵡は一礼した。部屋の奥では妃乃も畳に座ったまま頭を下げる。
ばたん、と戸が閉められた。
「顕醒、不満そうね?」
廊下の壁に背を預けていた顕醒に、維が顔を向ける。医務室からずっと行動を共にしていたのだが、妃乃を気遣って気配を断ち、発言も控えていたのだ。
だが、寡黙な男は問われてなお無言を通している。
「申し訳ありません。あなたの許可も得ず、凰鵡くんに頼んでしまって」
隣室の戸を開けながら、零子は詫びた。
どうぞ、と二人に先をうながす。
「いえ、こうなった以上は致し方ないかと」
声を絞り出すように囁き、顕醒は戸をくぐる。
支部の宿泊室にはいくつか種類あるが、顕醒達がいるのは和室の区画だ。
「では、お二人からの報告をお願いします」
座布団を敷き、卓を挟んで三者が座したところで、零子が口火を切った。
「地下鉄に身を投げた少女は──」
さっそく顕醒が発言した。
「──布留部妃乃、本人で間違いないでしょう。ただ、彼女が自殺を図った動機と、誰にも見られず無傷で公園まで移動した方法は不明です」
「そのわりには、あんたもストレートに公園に出てあの子見つけたじゃん」
「偶然だ」
「うっそだぁ?」
「その件は維さんから聞いています。確証がなくても構わないので、理由があれば教えていただけますか? 私としても、許可なく線路を渡ったことと、通風口の鍵を開けた必要性を、関係先に説明しなければならないので」
零子に問われ、顕醒はしばらく考えるように目を伏せてから言った。
「風です……」
Side Ormu
さり気なく耳を壁につけ、凰鵡は隣室の声を探ってみた。
なにも聞こえない。防音設備は完璧だ。
「凰鵡さん?」
先に布団に潜り込んでいた妃乃が不思議そうにこっちを見ていた。
「あはは、隣の会議の声が聞こえないかなぁ、なんて……駄目ですね。ここ、防音すごくしっかりしてるから」
「そう、なんだ……でも、何かあったらどうやって助けを呼ぶんです?」
「壁を叩くんです。それはよく響きますから」
「あ、なるほど」
目から鱗という面持ちの妃乃だったが、その瞼は欠伸とともに閉ざされた。
そんな妃乃を見た凰鵡にも、欠伸が伝染する。
「ボクらは寝ましょうか。この建物は妖種が入ったらすぐ分かる術がかけられてるので、安心してください」
そう言いながら、凰鵡は自分用の布団を広げる。
「凰鵡さんは、会議には出なくてよかったんですか?」
「ええ。ボクが関わってない調査の報告会ですから」
眼の底からクッと込み上げてくるものを堪えて、凰鵡は電灯の紐を掴んだ。
「すみません。灯り、点けたままでいいですか?」
「え? ああ、いいですよ」
紐から手を放し、布団に潜り込んだ。
「ありがとうございます」
「大丈夫です。ボクは明るくても平気なので」
「いえ、そうじゃなくて……公園で助けてくれたこと。まだ、ちゃんとお礼も言えてませんでしたし」
「いえ……ボクはなにも」
「それから、パニックになってるときも」
「……すみません」
「どうしてです?」
「本当は、ボクにはあなたを護る力なんてないんです。公園でだって、兄さん達が来てくれなかったら、あなたどころか、自分だって……」
言葉を切り、凰鵡は押し黙った。
「でも……」
応えない凰鵡に、妃乃はなおも語りかけた。
「それでも、嬉しかったです」
それっきり、二人は朝まで言葉を交わさなかった。
2日目 未明
Side Yui
ひとつの布団の中で、維は顕醒の大きな肩を枕代わりにしていた。
パートナーの長い髪をすくってはもてあそぶ。
一方の顕醒は、黙って天井を見ていた。
「なに考えてるか、当ててあげよっか。凰鵡と、妃乃って子のことでしょ」
壁越しに、二人の気配を探る。
ちゃんと寝ているようだが、凰鵡はひそかにこっちを窺っていてもおかしくない。
自分達がしていることを知ったら、あの子はどう感じるだろうか。
彼女と歳が近く(推定だが)と、自分達には報告会が残っていることから、凰鵡に護衛を任せる形になったが、不安がないわけではない。
もし、凰鵡の正体がバレたら?
凰鵡が完全な女の子だと思っているからこそ、妃乃はあそこまで気を許している。
男性恐怖症なのだ。
公園で男達に襲われたからだと維は思ったが、タヌキ先生によればもっと強烈なトラウマが原因ではないかという。
「彼女の状態を考えたら、凰鵡はいたほうがいいんじゃない? あんたの言ってた鳴夜ってのが、手を出してこない保証もないんだし」
情報の共有と今後の方針は、先の報告会で済ませてある。
天風鳴夜──零子も初めて聞く名だという。衆のデータベースにも存在しない。
「過保護になるのも分かるけどさ、あの子だってあんたに認めてもらいたくて必死なのよ。這い上がってくるのを信じて谷に落とすくらいのこと、たまにはやってみたら?」
顕醒に反応はない。
なので、維は喋り続けた。
「あの子を見てると、昔のあんたに被るのよ──最近、とくにね。生真面目で頑固で健気で、そのくせ生意気なとこまでソックリ。ほんと、血は争えないわね……まぁ、繋がってないんだけど。けど、血が繋がってないから、なおさら溺愛しちゃうのかしら?」
「溺愛しているつもりはない」
布団に入ってから、初めて顕醒が発した言葉だった。
「おなじ轍を踏んでもらいたくないだけだ」
次回…………伏魔 其之弐『不動の技』