奇の節・闇夜 其之参『巨獣の影』
サクサク参ります。
今回はほとんどバトルはなく、会話が主です(そもそも会話だらけの物語ですが……)
※本作にはグロテスク及び性的表現が含まれます。
※また宗教的なニュアンスを想起する語句がありますが、本作はいかなる宗教および団体とも関係はありません。
巨獣の影
Side Kensei
正方形のステンレスの扉が壁一面にずらりと並んでいる。
ここは市内にある大学病院──その遺体保管室だった。
「急な呼び出しで悪かったが、どうしてもな」
数ある扉のノブのひとつを、大鳥は掴んで引いた。
ザァァっと、扉と一体になった大きなトレーが前にスライドして、冷気を纏った遺体袋が出てきた。
ビニールの手袋を着けた大鳥の指が、そのファスナーを開いた。
露わになった死体に、顕醒は眉根を顰めた。
「オレがあの弾丸娘に見せたくなかった理由、わかるだろ?」
反応はない。
「司法解剖は二時間後。その前に、お前さんに視てもらいたくてな」
「触れてもよいですか?」
「これでオッケー?」
大鳥が自分のものとおなじ手袋を差し出す。
「布はありますか?」
「じゃ、こっち」
ビニール製が、綿の白手袋に交代した。
「お借りします」
「あげる」
顕醒はそれを右手にはめ、人差し指で犠牲者の額に触れた。
警官でも医療関係者でもない身分で変死体に触れるなど、本来あってはならないことだが、大鳥の存在がそれを可能にしていた。
大鳥拓馬もまた衆の構成員であり、警察上層部から極秘裏に認可を受けた、両組織のパイプ役なのだ。
「血が残っていませんね」
「さすが、CT要らずだな」
茶化しているようで、大鳥は素直に感服していた。
遺体や被害者についてはなんの事前説明もしていない。
が、顕醒の言ったとおりだった。現場で流れた量もかなりのものだったが、それ以上に被害者の体内からは血が一滴残らず失われていた。
顕醒はそれを、遺体に気を巡らせることで視たのだ。
「流れは下腹部に集中しています。何かが被害者の中に入って、無理やり吸い取ったようです」
「ずいぶん手の込んだ吸血鬼だな。心当たりは?」
沈黙────顕醒は目を閉じ、指先に集中していた。
大鳥もそれを察して、じっと待つ。
およそ三〇秒を経て、顕醒は指を離し、応えた。
「さきほど交戦しました」
「なに?」
話が飲めない大鳥に、顕醒は公園での一件を話した。
「たしかか?」
「こちらの被害者から感じる名残は、私が討滅した妖種のものです」
「お前さんの力を疑うわけじゃないんだがなぁ」
それでも大鳥は首を捻る。犯人の妖種は、一方では女を(内臓をえぐり出すほどに)強姦して血を吸い尽くし、一方では男たちをバラバラにして少女を誘拐しようとした。
前者は確定でないにせよ単独犯で男性型、後者は明らかに複数犯で女性型だ。
いくら妖種に人間の常識が通用しないといっても、同一の存在とは思えない。
「しかし倒したってことは、一応解決か?」
「まだでしょう。あの六体以外にもいる可能性は高いです」
正体不明の監視者のことを、顕醒は伏せた。
「おお、一匹見つけりゃ三〇匹。六体いれば百八〇体だな」
ゾッとする冗談を大鳥が飛ばす。
「ほかになければ、私は支部に戻って維達と合流しますが」
「おっけい。あとはこっちで調べる、ありがとよ。ああ、それから……」
大鳥が懐から茶封筒を取り出して顕醒に渡す。かなりの厚さと重さがある。
「零子に」
「お預かりします」
顕醒は封筒をジャケットにしまうと、遺体に手を合わせ、保管室を出ようとした。
「ああ待った」
大鳥が呼び止める。
遺体を棚の中に戻し、今度は自分のスマホを取り出した。
「これだけ、ここで見てってくれ」
画面を顕醒に見せてくる。
映っている場所は線路の高架下──電柱に備えつけられた監視カメラの映像らしい。角度のせいでトンネルの内部は見えない。弱々しい照明が外に漏れているのが分かるくらいだ。
が、その光のなかに、異様な影が蠢いていた。
間違いない。これは被害者が殺された瞬間だ。
「この影、何に見える?」
大鳥が訊ねるのも無理はない。人の手による事件でないのは明白だが、だとしてもこれは奇妙すぎた。
まるで大きな蝶が羽ばたいているようだが、動きは柔らかくゆっくりだ。それとは別に、ときおり蛇のような長い影も現れる。真横から生えている巨大な釣り鉤のようなものは…………
「象」
羽ばたく大きな耳、長い鼻、そして牙。
一見して、象の頭シルエットだ。
しかし大鳥には不充分らしい。
「もうひと声」
その直後、光のなかに一瞬だけ映った影を顕醒は見逃さなかった。
腕──それも人間の────
「ガネーシャ?」
インド神話に伝わる象頭人身の神──さしもの顕醒も、疑問符を付けずには答えられなかった。神が人を殺したのか?
「俺がお前さんの話を疑いたくなるのも、わかるだろ?」
画面を消し、大鳥は頭を掻いた。
「インド人もビックリだよ、ッたく……ああ、その封筒のなか、妹さんには見せるなよ。出来ればあの鉄砲弾にも」
「弟です。では」
それだけ言うと、顕醒は今度こそ部屋を出ようとして。
「最後に……」
また呼び止められた。
「たまにはオレの冗談に反応してくれ。オッサンってのは話し好きな生き物なんだ。無視されるとストレスで死んじゃう」
「……善処します」
小さな溜め息とともに保管所を出た。
夜更けとはいえ、院内には看護師や当直医の姿もある。
その目立つ風体を彼らの目から消しつつ、顕醒は正面玄関ではなく、職員用の通用口から外へ出た。
そして、そこで足を止めた。
「おやおや、お見通しですか。恐ろしい人だ」
そう言ったのは顕醒ではない。
はるか頭上から聞こえてくる、艶然とした声だった。
瞬間、顕醒は上に跳んだ。
重力を無視するように、地上五〇メートルはある病棟の屋上へと降り立った。
その視線の先に、声の主がいた。
白のローブをまとい、腰まで伸びた艶やかな銀髪、そして美神の祝福を受けたかのような容貌を備えた青年だった。
「完全に姿を消したつもりでしたが、失礼……あなた方を少し、侮っていたようです」
目論見を崩されたらしいが、悔しがるどころか、むしろ楽しんでいるように見える。
「何者だ」
「人に名を訊くのなら、まずご自分から名乗っては?」
顕醒は応えない。
すると、青年の方があっさり折れた。
「そんな怖い顔をしないでください。わかりました。ええ、存じておりますとも。顕醒、でしょう?」
公園での会話も盗み聞きしていたのならば、知っていて当然だ。
「私の名は、天風鳴夜──以後、お見知りおきを」
そう名乗ると、青年──鳴夜はうやうやしく礼をした。
「顕醒……予測のつかない方ですね、あなたは。私に気付いていながら、泳がせたのかと思えば唐突に接触してくる。私の目的があの遺体の回収で、その遂行と隠蔽のために院内を血の海にすることも辞さなかったら、どうするおつもりだったので?」
顕醒はこれにも応えない。眉ひとつ動かなかった。表情筋がないのかとさえ思える。
「沈黙ですか。あなたのようなタイプは図星かどうかも判らないから、怖いこわい……」
無言の圧力を、鳴夜は飄々とした態度で受け流す。
「目的は?」
「観察」
「なんの?」
「私の依頼人と、私が依頼人に渡したあるものの経過」
「あるものとは?」
鳴夜は答えず、手を横に広げて惚けるフリをした。
フッと、常人には判らないレベルで、顕醒の周囲の空気が変わった。
「抑えておさえて。ね? 質問に答えてもらえないと、悲しいでしょう?」
その空気を察しながら、鳴夜は戯けてみせる。
「それに、あなた方なら、すぐに答えを見つけられるはず。そのへんは専門分野では?」
なおも惚けるように、腰に手を当てて夜空を仰ぐ。わざとらしい仕草だが、この青年がやるとモデルのように決まってしまう。
「それでも、私の口から聞きたいのであれば……」
星空よりも静かな沈黙が、二人の間に降りる。
鳴夜は鼻先を空に向けたまま、澄んだ瞳だけをスウッと下ろして、顕醒を見た。
「さよなら」
顕醒が腕を振った。
それだけで、離れているはずの鳴夜の場所に、網のような光の束が流れる。
その流れに呑まれた瞬間、バッ、と鳴夜の身体が弾けた。
光の隙間を縫って辺りに散らばったそれは、何百、何千匹という小さな虫だった。
羽を持つもの、多くの足を持つもの、長い触覚を持つもの、牙を持つもの、針を持つもの、何も持たないもの──しかしどの一匹を取っても、人間に知られている種はいない。
奇妙な虫の群れは夜の闇に溶けるように、一斉に顕醒の前から姿を消した。
「ほほ、危ないあぶない」
静かな屋上に艶めかしい声が響く。
その主はもう、どこにも見えなかった。
「ですが、私を見つけたご褒美に、もう少しヒントを差し上げましょう」
どこから声が聞こえてくるのか。空気全体がスピーカーになったか、あるいは顕醒の頭のなかで喋っているかのようだ。
「私はただの調達人。人から注文を受けて逸品の庖丁を仕入れるようなもの。その庖丁が美味しい料理で誰かを幸せにするか、それとも誰かの心臓に刺さるか。それは依頼人次第……」
虚空から聞こえる声を、顕醒は黙って聴いていた。
「今は、ことの顛末に興味があるだけです。もっとも、あなた方にも惹かれつつあるのですがね。いずれにせよ、私は手を出す気はありません」
もう少しと言いつつ、鳴夜は変わらず饒舌だ──まるで最初から教えるつもりだったか、こういう状況になることを知っていたかのように。
「かといって捕まっても面倒。今後はあなたに見つからないよう、ずっと遠くから、用心深く、なりゆきを見守らせていただくことにします。では顕醒、ごきげんよう」
それを最後に声は消えた。
夜が本当の静けさを取り戻していた。
Side Ormu
凰鵡達が向かった衆の支部は、市街地の中心部に堂々と建っている。
といっても、高層ビルなどではなく、三階建ての平べったい造りで、傍目からはどこかの会社の研修施設か社員寮のように見える。
実際、衆の事務所がある以外、内部は旅館に近い。和洋の宿泊室、食堂、そして大浴場。
「んあぁー!」
たっぷりの湯のなかで、凰鵡は思い切り伸びをした。
とある理由から銭湯や温泉に入りづらい凰鵡にとって、この大浴場は気兼ねなく使える数少ない〝大きなお風呂〟であり、お気に入りの場所だった。身体の汚れがひどかったため、支部に到着して早々、入ってくるようにと維に言われたのだ。
しかし今の叫びは、お湯に浸かって「極楽ごくらくー!」という歓声ではなく、悔しさと腹立たしさが口から迸ったものだった。
宝剣・倶利伽羅竜王を用いたうえでの惨敗。心は自分への怒りで熱くたぎり、風呂を楽しむどころではない。
維の蹴りの破壊力。兄の殺法と活法。そのどちらもが自分にはない。
無い物ねだりなのは分かっている。二人とも〝闘者〟と呼ばれる衆の戦闘要員のなかでも上級クラス──とくに兄は筆頭十指に名を連ねる最強格だ。
だからこそ、その強さに凰鵡は憧れ、憧れるたびに、その背中には決して追いつけないと感じてしまう。
「こらッ!」
「ひェエッ⁈」
いきなり後ろから抱きすくめられ、凰鵡はファルセットの悲鳴を上げた。
自分一人のはずの湯船でそんなことをされれば驚きもする。
「な、や……! 維さん、なんで⁈」
いつの間に入ってきたのだろう。てっきり支部長に報告をしている最中だと思っていたのだが────
「零子さんが『顕醒さんがお戻りになってからでよろしいのですよ』だってさ。ほら、アタシ説明とかヘタじゃん?」
離れようと暴れる腕を押さえ込みつつ、凰鵡の体を湯のなかでゆらゆらと揺らす。
「ああ、なるほど──いやだからって、なんでこっちに⁈ ここ男湯ですよ⁈」
「いいじゃん、今日アタシらのほかに誰も来てないし。一人だとつまんないし。それに前はよく一緒に入ってたでしょ」
「何年前の話ですかッ! ボクもうそんな子供じゃないです!」
「ほんとにぃ? 色んなとこが、まだこれからって感じだけどぉ?」
「わぁあ! や、やめてくださいッ!」
維の手が凰鵡の身体をくすぐる。
「だーめ。虫が取れるまでやめないわよ」
「虫ぃ⁈ え、いやだ、どこ⁈」
虫と聞いて凰鵡は飛び上がりそうになる。
それでも維の手は振りほどけない。筋力の差もあるが、相手の動きを封じる技量の差が大きい。
「この奥に、ウジウジ虫が」
「ウジ虫⁈」
「違うちがう。ウジウジ、の、虫」
「ウジウジって……ボクだって悩むことくらいありますよ」
「悩んで解決することじゃないでしょ? 晩メシのメニュー選んでンじゃないんだから」
「晩ごはんのメニューだったらどうするんです?」
「マジ?」
凰鵡は溜め息を吐いて抵抗をやめた。
「……違います」
すると維もからかうのをやめ、かわりに後ろから包むように抱いて、自分の胸にもたれさせる。
「大丈夫。凰鵡は頑張ってるわ。あんたがあの場にいなかったら、あの子はどうなってたか。あ、ニキビ発見」
濡れてオールバックになった癖毛を、維の手が撫でる。
あの子、とは妖種に襲われていた少女である。車中ではもちろん、支部に着いても目を覚まさなかったため、今は身体の汚れを拭って、医務室のベッドに寝かされている。
まだ名前すら聞けていない。どういう子なのだろう、と凰鵡はつい彼女のことを考えてしまう。
「けど、結局は維さん達が」
「アタシらじゃ間に合わなかったわよ。あの子は正真正銘、あんたが助けたの。顕醒もそう思ってるわ」
「兄さんが……」
そう言われると凰鵡の心は少し軽くなる。
「あ、そうだ。結局、維さん達があそこにいたのって、どうしてなんです?」
今夜だけで三度目の問いを投げる。
実は車中でも訊いたのだが、そこでも「支部に着いたら」とはぐらかされたのだ。
「あんたも唐突に話変えるわね。まぁ、今なら大丈夫ね」
「今なら?」
「あの子がいるトコでは話しにくかったのよ」
「それってどういう……」
「うーん、実はね……」
凰鵡を後ろから抱っこしたまま、維は地下鉄での出来事を話してくれた。
現場での検分中に突如として線路へ降りた顕醒は、そのまま何かに導かれるようにトンネルのなかを歩いて行った。
仕方なく維もそのあとに続いてゆくと、百メートルほど進んだところで顕醒はまた唐突に足を止め、今度は壁にあった梯子を昇りはじめた。
梯子が金網の足場に変わると、その先は地下鉄の風を地上へ逃がすための通気口である。メンテナンス用の出入り口には錠が下ろされていたが、顕醒が〝練った気を鍵穴に注いでピッキングする〟という反則のような技で突破。地上に出てみれば、それがあの公園だったというわけだ。
「そしたら、あんたと妖種の気配がビビッと来て、あとは知ってのとおり」
ビビッと言うところで、維は凰鵡の毛を摘まんでアンテナのようにピンと持ち上げる。
「そうだったんですか。それに彼女がどう関係してるんです?」
「ん? なにも。部外者の前じゃ話せなかっただけよ。だってアタシら、違法行為をふたつはやってるわけだし」
「あ、なるほど。たしかに」
苦笑しながら、本当にそれだけだろうかと凰鵡は訝しむ。
そのとき、浴場の扉が静かに開かれた。
「わぁッ?」
バシャン──凰鵡は維の胸から投げ出されていた。
「やーん、ダーリンおかえりー!」
凰鵡を放り投げた維が湯槽から飛び出して、入ってきた顕醒に抱きついた。
抱きつかれたほうは振りほどかないまでも、見るからに「なんでお前がここにいるのか」と言いたげな呆れ顔で溜め息を吐く。
「おかえりなさい、兄さん。早かったんですね」
水面から上半身を出して凰鵡も兄に声を掛ける。
それに対して、顕醒は維を引きずるように歩きながら、静かにうなずいただけだった。
「身体洗ったげる!」
「いらん」
維を素っ気なくかわしつつ、顕醒はゴム紐で長い髪を器用に結わえ、頭にタオルを巻く。
その所作で露わになる逞しい背中と腋に、凰鵡は眼を奪われる。
隆々としているが、太さを感じさせず、またボディビルダーのようなグロテスクさもない──例えるなら、凛とした大刀のような身体だ。
それでいて、力と鋭さだけでなく、速さとしなやかさも兼ね備えている。
強さが肉体に現れるのだとしたら、兄ほどの強者はこの世にいないのではないかと凰鵡は思う。さすがは衆の闘者筆頭であり、自慢の兄──それだけに、遠すぎる背中だ。
「背中くらいイイでしょ。洗わせなさいよぉ」
洗い場に座った顕醒の手からタオルがひったくられる。腕っぷしの差など、普段の二人からはまるで感じられない。
図々しく無遠慮な維と、それに振り回される顕醒。この光景を、凰鵡は何年も間近で見てきた。
一応、現在は付き合っているそうだが、デートしている様子もない。
そもそも、維と一緒にいるときの兄は楽しいのだろか。
そんな(傍目には)微妙な恋人達の姿を見るたび、凰鵡は胸の奥から込み上げてくる苦しさと、どこにぶつければいいか判らない苛立ちを覚えるのだった。
次回…………宵の節・伏魔 其之壱『対妖の衆』