奇の節・闇夜 其之弐『凰雛の嘴』
今作では更新手間数削減のため、適性文字数よりも、小節の区切りを優先して更新しております。そのため本部分の文字数は8,000程度です。
今部分は、メイン主人公凰鵡にスポットの当たった、おおむねバトル回となっております。
※本作にはグロテスク及び性的表現が含まれます。
※また宗教的なニュアンスを想起する語句がありますが、本作はいかなる宗教および団体とも関係はありません。
凰雛の嘴
Side Ormu
(これは……なに? なん、なの……?)
凰鵡は立ちすくんだ。
全身の毛穴が一斉に脂汗を噴き、パーカーの内側がジットリと暑くなる。それでいて腹の底は氷を飲み込んだように冷えていた。
通り魔? 儀式? 私刑? 状況がまったくわからない。
わかるのは辺り一面が血の海、肉の原になっているということ。そして、その真ん中には服をはだけられた女の子と、彼女を取り囲む、まったくおなじ顔の女、女、女────
「お前たち! これ以上、人に仇を成すなら容赦できない! けど、やむを得ない理由があるなら話し合いたい! どうする⁈」
いつでも相手を迎え撃てるように構え、凰鵡は叫んだ。
警告と、交渉の提案──衆で徹底されている手順だ。もっとも、凰鵡ひとりで妖種と相対したことはないため、兄の見よう見まねである。
そしてアッサリと無視された。
たちまち、ふたつの影が凰鵡に襲いかかった。
いけない──凰鵡はギリギリで死を振り切った。
赤く染まった指がパーカーの脇腹を引き裂き、布きれが宙に舞った。
この指が、人をバラバラにしたのか。一見なんの変哲もない女の手を見ながら、凰鵡は息を呑む。
後ろに跳び、距離を取る。
二人組が追撃してくる。
「はいやぁ!」
それを迎え撃って振り回された足の裏が、女の片割れの顔面を薙ぎ払った。
クリーンヒット──喰らった女の身体はバットで打たれたボールのように吹っ飛び、そのままもう一人に激突。二人は手足を絡めて地面を転がっていった。
凰鵡のローリングソバットだった。その小柄な体躯から出たとは思えない威力である。
が、女達はすぐさま起き上がった。
蹴られた頭は左半分をグシャグシャに陥没させ、さらに一回転してから真横に折れ曲がっていた。車にでも轢かれたのかというありさまだ。
それが──ギュッと──音を鳴らして、一瞬で治った。
ありえない光景だ。普通ならパニックを起こしそうなものだが、凰鵡は苦々しげに顔をしかめ、「くっ」と唸っただけだった。
女が人間ではないことは、最初から分かっていた。
魔物、怪物、妖怪、悪鬼──古今東西さまざまな名で語られてきた存在だが、凰鵡達はそれらを〝妖種〟と呼んでいる。〝表の世界の生態系に属さない種〟という意味だ。
(だめだ、ボクひとりじゃ……!)
早くも凰鵡の闘志が萎える。
(ごめんなさい……兄さん)
震える心の奥で、この場にいない兄に土下座した。
(許可なく、これをお借りします!)
パーカーのなかに手を入れ、内側に隠し持っていたものを取り出した。
一見すると、密教で用いられる法具、金剛杵である。しかし一端がたしかに金剛杵であるのに対し、もう一端は竜の頭を模っていた。
(唵……宝剣、倶利伽羅竜王! ボクに力を!)
握りしめた金剛杵に念を籠める。
すると──どのような原理か──竜の顎が開き、喉の奥から光が伸びた。
それは六〇センチほどの長さに留まり、暗闇のなかに煌々と輝く。
光の剣である。
凰鵡はそれを青眼に構えた。
女達が猛然と迫ってくる。
その動きに反応して、凰鵡は自分からも距離を詰め、躊躇なく剣を振った。
スゥッと、光が闇に閃く。
女達が体勢を崩し、地面を滑っていった。
そのあとを追うように右脚と左脚が一本ずつ、ゴロゴロと転がってゆき、光に包まれて消えた。
倶利伽羅竜王と呼ばれた剣の、恐るべき斬れ味だ。
だが、輪切りになった腿からは一滴の血も流れ出ない。それどころか骨と肉の境目すらない。身体構造が人間とまったく異なる証だ。
「いやぁ……ぁッ!」
少女の叫びに、凰鵡はハッとして眼を向ける。
飛び込んできた二人に気を取られている間にも、儀式は再開されていた。
血の杯が少女の唇にあてがわれる。
凰鵡は剣とは逆の手をぐっと握りしめ、人差し指と中指を立てた。
(唵! 撃てる……ボクは、撃てる!)
二本指に強く念じ、手裏剣を投げるように振り抜いた。
バンッ──少女の目の前で、火花のように小さな光が爆ぜた。
杯が吹き飛び、血が地面にぶちまけられた。
それは、凰鵡が想像力によって作りだした、光る小石のようなものだった。
あるいは〝気の弾丸〟と言ってしまうほうが分かりやすいかもしれない。強い念によって半実体化した精神力の塊だ。
(やった!)
思わず喜ぶ凰鵡。師と兄のもとで必死に修練を積んだこの技を、今日初めて実戦で使い、成功させたのだ。
だが、その次に来る危険にまでは想像が及んでいなかった。
儀式を台無しにした不届き者を生かして帰すなとばかりに、女達が総攻撃を開始したのだ。
その数に、たちまち凰鵡は気圧された。
血まみれの手が次々に延びてくる。避けるたびに、鉄と脂の匂いが鼻をついた。
囲まれまいと走りながら、倶利伽羅竜王で反撃する。だが、焦りで狙いが定まらない。
(このままじゃ──あッ⁈)
消耗戦を強いられていると感じた途端、凰鵡はドッと地面に倒れていた。受け身を取る間もなく、小さな鼻が土に埋まる。舗装された道だったら折れていた。
足を掴まれたのだ。ついさっき左脚を斬った女だ。
「ぅぁあ……ッ!」
細腕からは想像もつかない握力に骨肉が軋み、凰鵡は苦痛で顔を歪める。
謀られた──敵群の動きは、この生きたトラバサミに自分を誘い込むためものだったのだ。
足を振って仰向けになりながら振りほどこうとするが、手は離れない。
ならばと腕を上げ、剣の鋒を拘束者へと向ける。
だが、追いついた女達がその手を払った。
宝剣が凰鵡から離れ、光を失って茂みの陰へと消えた。
しまった、と思う間もなく、群がってきた手が凰鵡の身体を大の字に広げた。
危機感を覚えて凰鵡は手足に力を込める。
遅かった。拘束している女達が獲物の四肢を両手で捻った。
捻った、とひと口に言うが、人間の身体をやすやすと引き裂ける力である。
──みしぃ。
「うあぁァッ!」
肘と膝、そして口が悲鳴を放つ。
折れてはいない。だが関節がやられた。
歯を食いしばって痛みに耐えながら、それ以上やられまいと抵抗する。
目を開けば、星の見えない空を背景に、女達の顔がずらりと連なって自分を取り囲んでいた。
女の指が胸に触れ、その先端が──ズブッと──埋まる。
「ああーッ!」
今度こそ、凰鵡は死を感じた。
(いやだ……兄さんッ!)
文字通り胸を刺す激痛。
その時だった。
フッ──と、指を突き立てた女が突然、光になった。
そして花火のように──だが静かに──爆ぜて消えた。
(え、これ……ッ!)
突然のことに驚きつつも、凰鵡は胸の奥が熱くなるのを感じた。
女達が一斉に手を離して、四方八方に飛び退く。
その一人に、影が躍りかかった。
「おりゃぁ!」
砲弾のような跳び蹴りが腰にきまった。
ドウッ──鈍い炸裂音を響かせて、裸の胴体が真っ二つに割れた。凰鵡のキックとは比べものにならない速さと威力だ。
「維さん⁈」
救援の主に、凰鵡は思わず声を上げた(ただし、疑問符を添えて)。
その声に応えるように、維は凰鵡のそばへ降り立つ。
「どこで油売ってるのかと思ったら、逆に喧嘩買ってるとはね。お小遣い足りてる?」
「いけない! あの人を!」
維の冗談をさえぎって、凰鵡は茂みの向こうを指す。
「え⁈ うそ!」
その方向を見た維の吊り目が円くなる。
「やめて! 放して!」
全裸の女ふたりに左右から取り押さえられている、白いブラウスの少女だった。
連れ去る気か──すぐさまそちらへ走ろうとする。
しかし、駆け出した維を二条の光が追い越し、女達を直撃した。
たちまち少女の左右で光が爆ぜた。
(やっぱり!)
凰鵡は確信し、光が飛んできた方角に目を向ける。
長い髪を揺らしながら、顕醒がゆっくりとこちらへ歩いてくるのが見えた。
「兄さん!」
目頭が熱くなる。
先ほど自分を救ってくれた一発と、いまの二発の光は、やはり兄の気弾だった。
ただ、同じ技でも、凰鵡のものとは天と地の差がある。
《内破》という絶技を兄はマスターしていた。気を質量体にしてぶつけるだけでなく、目標の体内に吸収させ内部から爆発させる技だ。
凰鵡の気弾が石ころなら、顕醒のそれは回避も防御も出来ないミサイルである。
「うげっ、こいつまだ生きてる!」
維が嫌そうな声を上げた。
その目の先では、キックで真っ二つにされたはずの女が、腕と脚をジタバタと動かしていた。
まるでミミズ、と凰鵡が思った途端、左右から飛び込んできた別の女達がその上半身と下半身を抱え、互いに頭から衝突した。
自爆──ではなかった。まるで粘土をぶつけ合ったかのように、三人の身体がグニャリと混ざり合ったのだ。
グネグネと蠢きながら、その肉の塊はやがて、人間を解体して繋ぎ合わせたような、巨大な妖種へと生まれ変わった。
三つの顔、六本の腕、六つの乳房。脚は四本しかないが、それは飛び込んできた二人が、凰鵡に片脚を斬られた者達だからだ。
人を玩具にしたような姿に、凰鵡は吐き気をもよおす。色んな妖種を目にしてきたが、人の形を中途半端に崩されたときの悍ましさには、いまだ慣れることがない。
だが今回の不快感は、またたく間に消えた。
光の刃が真上から妖種を串刺しにしていた。
紛れもなく、凰鵡がなくした倶利伽羅竜王の光──そして剣を握るのは、妖種の頭を足下に掛けた顕醒。
(はやい!)
凰鵡の目が、今日いちばん円くなる。
兄の動きがまったく見えなかった。
しかも妖種を貫く光の刀身は、二メートルを超えている。凰鵡が出した刃の三倍以上だ。
スッと、刃が竜の顎に吸い込まれる。
顕醒が飛び降りると、妖種の群体は光になって消えた。
それを最後に、公園はいつもの夜の静けさを取り戻した。
あたりを見回した顕醒が、地面にへたり込んだ少女のもとへと歩み寄る。
「ひ……」
だが、少女は助けてくれたはずの男に怯え、後退る。
足を止めた顕醒の肩に、ポンッと維が手を置いた。
「あんたツラが怖すぎンのよ。ここはアタシに任せて、凰鵡見たげて」
そういう維も強面ではいい勝負だ。
軽い溜め息を漏らして、顕醒は少女に背を向けた。一瞬、維と眼を合わせ、凰鵡のもとへと向かう。
「たいへんだったわね。もう大丈夫。アタシ達はあなたの味方よ」
維はしゃがんで目線を少女に合わせ、優しく微笑みかけた。
顕醒も弟のそばに膝を突いた。
凰鵡はなんとか起き上がろうとしたが、関節が痛み、ままならない。
「動くな」
兄の静かな声が降る。
大きくて硬い指が、凰鵡の首の後ろに触れる。
グッと項を握られ、凰鵡は一瞬顔をしかめる。
だが、その直後に感じたのは、身体のなかを駆け巡ってゆく温かさだった。
ぬくもりの流れに沿って、身体の痛みが退いてゆく。胸の出血もいつのまにか止まっていた。
《内破》と対を成す顕醒の絶技、《内功》だった。体内に気を流して治癒力を活性化させ、傷を沈静化させたのだ。それも、相手の患部に直接触れることなく、頸椎を刺激するだけで。
気を用いて、あるときは敵を一瞬で葬り、あるときは怪我人を癒やす。
凰鵡の兄、顕醒こそはこの活殺自在の技を極めた、衆でも──否、世界でも稀なる存在だった。
「ありがとうございます、兄さん。ごめんなさい!」
動けるようになるや、凰鵡は勢いよく土下座した。
「まっすぐ合流しろっていう言いつけを守らず、お預かりした倶利伽羅竜王まで無断で使って……結局ひとりじゃ、なんにも出来ませんでした……」
グスグスと鼻をすする音が混じる。
そんな弟の肩を、顕醒は掌でポンポンと優しく叩いた。
「ご苦労だった」
掛ける言葉も少ない。
それでも、凰鵡はようやく泥まみれの袖で涙を拭いながら立ち上がった。
「ありがとうございます」
「だが」
「は、はいッ」
兄の逆接に、思わず気をつけの姿勢を取る。
「危険を感じたのなら、確証がなくともそう伝えろ。あれでは不明瞭だ」
「すみません」
顕醒の言いたいことが凰鵡にはわかる。
〝あれ〟とは、胸騒ぎを感じたときに打ったメールだ。
そこには『ちょっと遅れます』としか書いていなかった。実際のところ凰鵡は危険を察知したわけではないのだが。
「あの、ひょっとしてボクのせいで」
そのとき、凰鵡の言葉をさえぎって、顕醒の懐からダカダカと賑やかなヘヴィロックが流れた。メールの話をしていたところに湧いた着信音。類は友を呼ぶと言うべきか。
顕醒の趣味ではない。いまの服装に合うようにと、維が勝手に設定したものだ。ちなみに凰鵡のスマホからは流行りのアニメソングが流れる。
「はい」
発信先を確認して顕醒は電話に出た。
「……そうでしたか。申し訳ありません、地下にいたもので」
謝ってはいるが、眉ひとつ動かない。表情がないという点では、さっきまで戦っていた女の妖種とそう変わらない。
「わかりました。維をそちらへ向かわせます」
しかし、なおも会話は続いた。凰鵡からはよく聞こえないが、どうやら顕醒の意向に先方が難色を示しているらしい。
「呼んだ?」
気がつくと話中の人物が隣にいた。襲われていた少女もいる。維のジャケットを借りているのは、ブラウスのボタンが取られてしまったからだ。
改めて少女をよく見ると、背も歳も自分より上だ。大学生ぐらいだろうか。自分からは口に出して〝少女〟と形容できそうにない。
少し落ち着きを取り戻したようだが、重たげに下りた瞼に疲れが見える。
見るからに普通の女の子だ。妖種達はどういう理由で彼女を狙ったのだろう。
霊力が高いから? たしかに、彼女からは一般の人とは違う気配を感じる。
肉体の力を体力というのに対して、魂の強さをあらわす霊力は、妖種達にとっては最上の餌となる。体と魂が繋がっているように、霊力は肉体にも遍在しているため、ヒトを捕食する妖種も珍しくない。
「大鳥さんから、下見の要請だ」
維に応える顕醒の声で、凰鵡の意識は現実に戻った。
胸がグッと絞めつけられる。
また、誰かが妖種の犠牲になったのだ。
衆の符牒で、下見とは〝死体を見る〟という意味だ。誰が言い出したか知らないが、これほど笑えない駄洒落もそうない。
そしてもうひとつ、思い出が凰鵡の心を切なくさせる。大鳥の名を聞くたび、半年前に経験したつらい別れが甦るのだ。
「そう。そっちはあんたが行ったげて。アタシはこの子を連れて支部に戻ってるわ」
この子、と言われた少女は顕醒の目を露骨に避けて、維の後ろへと隠れた。
うろうろと落ち着きなく泳ぐ視線が、凰鵡とかち合う。
そのまま数秒、見つめ合うと、少女はうつむき、動かなくなった。
その様子を見て、顕醒は維にうなずいた。
「了解しました。そちらには私が行きます」
大鳥にそう言うとスマホを切った。
「凰鵡も支部で待機していろ」
「はい。お気をつけて」
「気を抜くな」
「え?」
「顕醒、あとは任せて」
なにか言おうとしたのを維にさえぎられ、顕醒はまたうなずく。
そして、フッと姿を消した。
走っていったのだが、あまりにも速く、そして静かだった。
《雲脚》という駿足の術と、気配の完全消去を同時に行っている。雲脚は凰鵡にも使えるが、あと何年修練を積めばあの域に達せるのか想像もつかない。
「ほんじゃ、アタシらも行こっか」
スマホでどこかにメールを送信しながら維が言った。
「はい。あ、待って、その前に」
凰鵡は血みどろの現場へ向かって、手を合わせた。
遺体はすぐに衆の処理班が来て回収してゆくだろう。だから、その前に謝っておきたかった。
(助けられなくて、ごめんなさい)
自分ひとりでは少女も救えなかったのだから、これは驕りだ。だが、もっと早く来ていれば、という後悔はどうしてもつきまとう。
どういう人達だったかは知らないが、こんな死に方をしていい人などいない。そう凰鵡は信じている。
そんな凰鵡を維は黙って見守り、少女は重たげな視線を地に落とした。
ほどなくして三人はその場を離れた。
少女は足取りがおぼつかなかったため、維が背負うことにした。混乱と緊張で疲れたのだろう。話しかけても反応は芳しくないが、顕醒に見せたような拒絶は示さなかった。
むしろ凰鵡に対しては、たびたび視線を送りつつ、眼が合えばそそくさと逸らすのを繰り返していた。
(やっぱり、匂うかな……?)
凰鵡はパーカーの汚れを気にする。妖種達に握られて付いたものだ。地面に押さえつけられたときに、あちらこちらを触られているので、全身に渡っている。
血もキツいが、とくに脂の匂いは時間が経つほどにひどくなり、しかも落ちにくい。
「兄さんと維さんは、地下鉄を調べてたんですよね? どうしてここに?」
維に向けられた問いに、少女がハッと息を飲み、目を見開く。
だが、そのことに凰鵡は気づかなかった。
「うーん、ちょっとややこしいから、その話はあとでね」
振った話題を軽くいなされてしまい、凰鵡はしょんぼりする。
「それより凰鵡、あんた顕醒がなんで気を抜くなって言ったか、わかる?」
「え? あ……わかりません」
「あのストリップガールズとは別に、こっちを観てる奴がいたわ。かなり離れてて、正体は掴めなかったけど」
ぞ……っと、得体の知れない冷たさが、凰鵡の背筋を撫でた。
普通の人の気配なら、未熟者の自分でもわかる。だが、兄や維でかろうじて感じられたというのなら、ただ者ではない。
そんな奴が監視? あの惨事を? なんのために?
「そいつは今も?」
「顕醒の方に行ったわ」
「え……」
「どっちに来るか判んなかったし、承知の上で別行動にしたんだけど、まぁ顕醒なら大丈夫なんじゃない?」
「……そうですね」
「ほかの都合もいろいろあったけど、でもねぇ」
だはぁー、と維は大きな溜め息を吐く。
「もうちょっと、あいつと一緒にいたかったなぁ」
突然ゆるんだ緊張感に、凰鵡は苦笑を漏らした。
「あとで合流するって言ってたじゃないですか」
「あ、そうか。えー、でも支部ででしょ。いかにも仕事って感じでヤだわぁ」
「さっきまでのも、お仕事じゃなかったんですか?」
「あんた最近言うようになったわね」
「すみません」
「いいのよ」
などという話をしている間に、維の背中では少女が静かに寝息を立てていた。
やがて公園の出口が見えてきた。その向こうの車道では、一台の車がハザードを点滅させて駐まっている。維のメールで衆の支部から回されたものだった。
これでやっと、ひと息つける。死の危機から解放されたことに、凰鵡は安堵する。
自分に、重大な見落としがあったことにも気付かず…………
次回…………闇夜 其之参『巨獣の影』