奇の節・闇夜 其之壱『暗中の眼』
いきなり約6,000字投稿(以後も、これ以上の分量での更新となります)。
主要キャラクター4,5人が登場して、視点が目まぐるしく変化します。
※本作にはグロテスク及び性的表現が含まれます。
※また宗教的なニュアンスを想起する語句がありますが、本作はいかなる宗教および団体とも関係はありません。
暗中の眼
1日目 夜
Side Ormu
都会の真っ只中にあって、その広大な都市公園が抱える夜の闇は深く、濃い。
周囲が煌びやかなぶん、人工林の木の間や、低木の茂みが生み出す黒は、ときに大自然のそれよりも鮮烈だ。
文明の灯りが織り成す銀河に黒点を穿つブラックホール。ひょっとしたらそれは、光に追われた闇達が身を寄せ合っている姿なのかもしれない。
そんな公園のなかを、凰鵡は臆面もなく疾駆していた。目元にかかる癖の強い前髪が揺れ、うなじで結んだ後ろ髪がなびく。
パーカーとハーフパンツ。ありふれた服装だが、それを着ている本人の顔には、十代半ばとは思えぬ気迫がある。
それでいてなお、表情では隠すことの出来ない、類い稀なる愛くるしさの持ち主だった。
少女のようと喩えるのも悪くないが、凰鵡の場合には〝仔猫のような〟と言うほうが的を射ている。眼は大きく円く、鼻は控えめにツンと上を向いている。口はこぢんまりとして見えるものの、食べるときと笑うときには大きく開きそうだ。
園内の遊歩道は常夜灯で照らされているが、凰鵡はあえて道を外れ、人工林のなかを進んでいた。
人目を忍ぶためだ。すでに園内から人の気は絶えているが、油断は出来ない。
そうする必要のある走り方だった。足音は立たず、闇のなかで手探りもなしに木の幹や根を避け続けている。そして、もし百メートルのタイムを測ったなら四秒を切る。常人の運動能力ではない。
ふと、その足が止まった。小さな身体に連れられていた風が前に飛び出し、「早く行こう」と急かすように髪を引っ張る。
瞼が円みを増し、鼻がヒクッと震えた。なにかを見つけた仔猫さながら、警戒半分、好奇心半分といった顔になる。
(なに、この感じ……嫌な予感? それとも、誰かが呼んでる?)
ズボンの尻ポケットからスマホを取り出し、素早くメールを打って転送する。
スマホをしまい直すと、凰鵡は予定の進路を逸れて走り出した。
Side Kensei & Yui
駅員は頭痛がしてきた。
仮眠室のベッドに腰を下ろした彼の目の前には、二人の男女。
男のほうは身長一九〇センチはあろう。革ジャンに黒ジーンズ。結んだ髪は腰近くまで伸びている。チンピラかと思える風体に反して、面立ちは理性的。たたずまいも整っている。
不良に見えるのは女のほうだ。おかっぱのなり損ないのような短髪。両の耳にバチバチと連なるリングピアス。左の鼻にもひとつ、大粒のピンが銀色を放っている。
ジャケットの下に着たニットは胸元がバックリと開かれたデザインで、中身もそれに相応しい豊満。しかも左胸には星と翼を組み合わせたタトゥーを刻んでいる。
明らかに退屈そうだ。
男が顕醒で、女が維──訪ねてきたとき、彼らはそう名乗った。
女はともかく、男のほうはずいぶん変な名前だ。とにかく全体的に印象がちぐはぐで、つかみ所がない。
「事情は警察からも聞いています」
顕醒の声で、駅員の意識は現実に戻った。
「映像も拝見しました。我々も少女だという認識で一致しています」
男はじつに堅く、丁寧な口調で話す。
映像というのは監視カメラのものだ。
救急も警察も首を捻った。遺体はおろか、人が飛び込んだ痕跡もない。だが、カメラには列車の下に消えてゆく白いブラウス姿の少女がはっきり映っている。
列車に飛び込んだ瞬間に消えた──そんなことがあるだろうか。
結局、映像だけを持って警察は引き上げ、電車も運行を再開した。
その三〇分後、この二人が訪ねてきた──しかも鉄道会社の代表取締役の紹介状を持って。
なんでも、この手の事件を専門に調査するコンサルタントらしい。
「映像の少女について、なにか不審な点は見当たりませんでしたか」
「いいえ、警察にも話しましたけど……」
「警察に話せないようなことはありますか?」
「どういう意味です?」
「たとえば眼の錯覚や幻聴──顔が歪んで見えた、さっきまでそこにいなかったのに急に現れた、などです」
駅員の心臓がドッと鳴った。こいつは俺の心を読んでいるのか。〝この手の事件の専門家〟という自称は伊達ではないのかもしれない。
「あの、他言無用でお願いします」
「無論です」
「彼女、バッグを持ってませんでしたよね?」
女の方が「おっ」という顔をした(そういう彼女も持っていないのだが)。
「女性って、高校生くらいの子でも、電車に乗るような外出のときは必ずって言っていいくらい、バッグ持ってるでしょ? だから、ないと逆に目立つんです。持ってないと思ったら自殺者だったって話も聞いたことがあるし、そういう人がいたら見逃さないはずなんです。まして今夜は、人がめちゃくちゃ多いわけでもなかったし……」
「けれども、感知できなかったのですね?」
冷めた言い方だが、駅員にはちょうどいい合いの手になった。
「いきなり現れたとしか思えないんです。でもカメラには堂々とホームにいたのが映ってるし、こんなの警察や上司に言ったところで、俺の職業態度が疑われるだけですから……」
「あなた以外に、飛び込む前の少女を見た方は?」
「職員のなかでは、誰も」
「わかりました。ご協力ありがとうございます。他になければ、我々はこれで失礼いたします」
駅員に頭を下げ、男は仮眠室を出ようとした(女の方はひと足先に扉を開けていた)。
「あの」
戸をくぐる大きな背中に向かって、駅員は最後に率直な疑問を投げた。
「あなた達は、どういう……?」
不明瞭な質問に、顕醒は少し黙ってから答えた。
「《衆》とだけ、申し上げておきます」
謎めいた言葉を残して扉が閉ざされた。
途端に、駅員のなかに苛立ちが甦ってきた。
男の気取った言い方が癪に障る。なにが「衆とだけ申し上げておきます」だ。どうせ新手の霊感商法かオカルト雑誌記者だろう。あの名前だって、いかにも新興宗教くさい。
……名前? あの男、名前、なんていった?
女の方は……駄目だ、胸が大きかったことしか思い出せない。
あれ。自分は誰に会って、何を話したんだ?
十秒も経つころには、駅員は二人に関するすべてを忘れていた。
「あーだるい。面倒。あの駅員、おっぱいチラチラ見てくるし」
構内に戻ったところで、維は伸びをしながらぼやいた。
顕醒は黙ってスマートフォンの画面を見つめる。
「もー。人手が足りてないからって、零子さんも人使いが荒すぎ──ッて、ちょっと顕醒? 相棒よりスマホが大事?」
ふくれっ面の維が横から覗き込む。
画面には件の事故映像が流れていた。
「まぁ、この子がバッグ持ってないって 気付くだけ、あの駅員も案外イイ男かも?」
顕醒が画面を消した。
そのまま、どこかへ向かって歩き出した。
維のことなど存在しないかのように振る舞っている。駅員に対する丁寧さが嘘のような無愛想ぶりだ。
「あっれぇ、妬いた? んもー、アタシがあんた以外に惚れるわけないじゃん」
歯の浮く科白を恥ずかしげもなく吐きながら、維は顕醒の横に並んで腕を絡めた。
「任務中だ」
部屋を出てから初めて顕醒が喋った。
「だったら、なおさら怪しまれないよう、カップルらしくしないとね」
顕醒は無言のまま、維を引きずる勢いで黙々と歩いてゆく。
カップルには見えるが、やはり悪目立ちする二人だった。しかし人の行き交う構内で、彼らに視線を向ける者はいない。
さきほど顕醒が言ったとおりだった。誰一人として、彼らの存在を感知していないのだ。
気配を完全に断つ──言葉で言うほど簡単ではないその技を、二人は平然とやってのけていた。
やがて、顕醒の足がホームの縁で止まった。
少女が飛び込み、消えた現場だ。
「名残は感じられないわね」
維の言葉に顕醒もうなずく。
名残とは〝何らかの気配の痕跡〟を指す、彼らの符丁だ。
「そういや最近、若い女の失踪が増えてるらしいじゃない? なにか関係あったりして」
維は顕醒の腕をはなし、縁から身を乗り出してホームの下を覗き込む。
普通なら即座に駅員に止められるが、気配を消しているがゆえに、やりたい放題である(もっとも、これも監視カメラには映っているのだが)。
「たとえば自殺を図った女を狙って食うような──ッてぇ」
相棒の挙動に、維は驚いた。
フワリ、と長い髪をなびかせて、顕醒が線路に降りたのだ。
そのままトンネルへと歩いてゆく。
「ちょっと顕醒どこ行くの⁈ 危ないわよ⁈」
維も急いでその後を追った。
遠くで列車が動いているのだろうか。地下の風が二人の背中を強く押した。
Side Ohtori
──ときおり電車が頭上を通るだけの、薄暗い高架下のトンネル。
何人もの同僚が直視できずに顔を背けるなか、大鳥拓馬はその死体のそばに跪き、無精髭を撫でながら、まじまじと眼を凝らした。
被害者は泉下で嫌がるかもしれないが、観るのは自分の第一の仕事だ。
若い女性だった。髪型も服装も最近よく見るタイプ。特徴らしい特徴はないな、と大鳥は思った。
いつの時代も、オッサンに若い娘の見分けなどつかない。殺しの手口のほうが、まだ判別がつく。
治安大国と言われる日本だが、世界的に見て〝かなりマシ〟というだけで、人間の所業とは思えない事件が決して起こらないわけではない。
所轄外ではここひと月の間に、同一犯と思われる、男性を狙った猟奇殺人が三件も起きている。二件はホテルの一室で、一件は被害者の自宅で。しかも遺体はすべて、原形を留めないほどバラバラにされていた。犯人はまだ捕まっていない。
目の前に横たわる被害者とは、なにか関連があるのだろうか。向こうがバラバラなら、こっちはなんだろう。
ジャケットもスカートも、血まみれどころではなかった。
両の股関節が脱臼して、下半身が真横に広がっている。骨盤も砕けているだろう。
被害者の腹に入り込んだ何かは、間違いなく赤ん坊よりも大きく、成人男性の腕よりも長い。
どれだけの力があればこうなるのだ。下っ腹を突き破って、臓を根こそぎ掻き出している。
トンネルから出て、辺りを見渡す。
電柱の上に防犯用監視カメラ──この角度では犯行現場は映っていないだろうが、なにか手がかりがあるかもしれない。
スマホを取り出し、どこかへと電話を掛けた。
「お掛けになった電話は、現在、電波の届かない地域にいるため、繋がりません」
「まじかよ」
Side Girl
少女の足取りは重く弱々しい。
煉瓦敷きの遊歩道がまるで吊り橋であるかのように、ゆらゆらと揺れながら渡ってゆく。
身体にあわせて震えるポニーテールは、それ自体が小さな幽霊に見えなくもない。
わずかな常夜灯と月明かりしかない夜道に似て、その面は暗く、瞳は静まりかえっている。
前方から騒々しい話し声を立てて、若い男達が歩いてきた。わざわざこんな辺鄙な場所を通るのは酒宴の帰り道だからか、次の遊び場へゆくための近道か、それともただの余興か。
暗がりで互いの存在に気づかぬまま、少女が彼らの間を通り抜ける──と思いきや、ブラウスの肩が一人の腕に当たった。
「ねぇ、ちょっときみ」
無反応で立ち去ろうとする肩を、男がつかまえる。
少女は抵抗もなく歩みを止めたが、それだけだった。
男達が前に回り込んで顔を覗き込んでも、その表情には何の変化もない。
瞬間、男達は飢えたケダモノと化した。
六本の手が、獲物を茂みの奥へと引きずりこんだ。
ブラウスが強引に開かれボタンが飛び、スカートがめくられる。
「いや……だめ……だめ……」
すると、少女の唇が声を漏らした。
「うっせぇメスブタ」
「こういうのが好きなんだろうが」
彼らに少女の言葉の意味など分かろうはずもなかった。
「だめ……逃げて……!」
それは拒絶ではなく、警告だった。
「ぁ……がッ!」
突然、男の一人が口から鈍い悲鳴を漏らした。
そして悲鳴は、おびただしい血へと変わる。
彼が最後に見たのは、自分の胸から突き出た細い腕と、その手が握る心臓だった。
仲間はなにが起こったのか理解できず、ただ呆然とそれを見ていた。
死者の背後から、襲撃者の姿が覗く。
遊歩道からのわずかな光に照らし出されたそれは、裸の女だった。
「ひ──ッ⁈」
周囲から次々と手が現れ、二人に襲いかかった。
それらは凄まじい力で彼らを少女から引き剥がし、地面に押さえつけた。
襲撃者は全部で七人。その全員が女だった。
性別だけではない。顔も、髪も、体も、全員が〝同じ女〟なのだ。
「な、なんだよ! なんだよお前ら……ああぁぁぁ‼」
「やめ、やめぎゃぁぁぁ!」
悲鳴が連鎖してゆく。火山が一斉に噴火したかのように、真っ赤な飛沫が上がり、大地に流れた。
男達は解体されていた。
比喩ではない。鋭い爪もない白魚のような指が肌を切り裂き、肉を削ぎ、骨をむしり取っていった。
「いやぁ……もう、いやぁぁ……!」
男達から解放された少女は、何かに取り憑かれたようにむせび泣く。
彼女の目の前に、女の一人が立った。その手には、最初にえぐり出された心臓が握られている。
それに続くように、他の女達が二人ぶんの心臓を持って集う。
すると、今度は別の女が一枚の椀を、彼女達の前に差し出した。
奇妙な椀だ。小船のような紡錘形で、素材は石か鉄か判然としない。
なにより、中央には一本の柱が立っていて、塔のように天を指している。
その真上で心臓が握り潰された。
ひとつ、またひとつと犠牲者の血が絞り出され、真っ赤な命脈が柱を伝って椀の底に溜まってゆく。
やがて奇妙な椀は、血の杯となった。
血絞りが終わると、今度は杯が少女に迫った。
「やだ……いや! やめて!」
男達に嬲られたときとは打って変わって、少女は明確に拒絶した。虚ろだった眼にも、今は理性の光が戻っている。
後退って逃げようとするも、その肩に、腕に、血まみれの手が絡む。
顔を背けて抵抗すれば、今度は後ろから頭を鷲掴みにされ、別の指が唇に割り込んで強引に顎を開かせる。
杯はもう鼻先にある。濃密な鉄臭さが、少女の鼻を突く。
ザッ──そのとき、地面が鳴った。
女達が動きを止め、一斉にそちらを向く。
「えッ?」
声を上げたのは女達ではなく、見られた方だった。
驚いた猫さながらに、目を大きく開いて固まっている。
癖毛の少年──凰鵡だった。
次回…………闇夜 其之弐『凰雛の嘴』