血の節・覚醒 其之弐『神威の戦』
ラストバトル・スタート。
いくつかショッキングなシーン・描写が連続します。
なかなか、ライト用の校正がたいへんでした。
神威の戦
Side Ormu & Yui & Others
襲撃に怯えつつも気丈に振る舞っていた管理人は、今朝までの柔和な笑みを、邪悪な嘲りへと変えていた。
「どうか、お静かに」
脱衣所から出てきた維と、屋根の上の顕醒に向けて、凰鵡の状況を示す。
妖種達は山房を囲んだまま、なぜか、ぴたりと足を止めていた。
「管理人さん、あんた一体……」
睦紀は維の疑問には答えず、代わりの問いを別人に投げた。
「私が誰か、お分かりですね? 顕醒?」
「……天風鳴夜」
凰鵡も維も、耳を疑った。
「こいつが⁈」
にわかには信じがたい。顕醒の話では、銀髪の青年のはずだ。
それに……なぜ妖種でありながら、この山房の結界に探知されていないのだ。
「御名答ですが、半分は違います。この体は借り物に過ぎませんので」
「管理人さんを乗っ取ったってこと⁈」
「それはまったくの不正解」
睦紀──鳴夜はさも愉しげに口角を上げて、維に応える。
「これは一昨日、とある喫茶店でいただきました。本物の睦紀さんは……あなた方のお腹のなかです」
今まで経験したことのない嫌悪感が凰鵡のなかに渦巻く。維も絶句し、妃乃は悲鳴とともに口元を覆った。
腹のなか……食べた? 本物の睦紀さんを?
肉──昨日の晩ごはん────
(嘘……だ)
恐ろしさと罪悪感で涙が溢れ、息が詰まる。
「冗談ですよ」
クスクスと鳴夜は笑う。
「手出しはしない、って聞いたけど?」
維が眼に殺気を湛えながら問う。
その圧力を受け流すように、鳴夜は飄々と応える。
「約束を破ったことは謝ります。予想以上にあなた方が優秀だったもので、このままでは面白みにかけると思って……つい」
「お前は──」
凰鵡が言った。
「──いったい、何なんだ⁉」
快楽犯罪者とでもいうのだろうか。今まで見てきたどんな卑劣な妖種にも、その根底には生存本能があった。しかし、この鳴夜の行動の奥には何があるのだ? 凰鵡には理解できない。
「さあ、何なんでしょうねぇ?」
凰鵡が嫌悪と怒りを滾らせるのすら、面白がっているようだ。
「さて、お喋りは楽しいですが、長々と続けてると逃げられかねません──なにせ、そちらには強くてこわーいお兄さんが付いてますからね。月並みな言い方ですが、妹さんを無事に返して欲しければ、少しの間、そこで見ていていただきましょうか」
鳴夜の手が凰鵡の服を引き裂き、剥ぎ取った。
凰鵡は叫びそうになるのを意地で堪えた。
胸が露わになる。残るはボクサーパンツ一枚だけだ。
「てめぇ! その子に手ぇ出したら、頭ぶっ潰すわよ!」
「手を出すというは性的なことを仰ってる? その点はご安心を。貞操は保証しますよ。ですが──」
ザッ──鳴夜の手が、人質の体に残った最後の衣服を裂いた。
「…………ッ!」
凰鵡は歯を食いしばって恥辱に耐えた。
「──あなたは、これが欲しいんじゃないですか?」
妃乃に向かって言いながら、鳴夜はあろうことか、凰鵡の脚を掴んで広げて見せる。
「ぁ、うぁ……」
ショッキングな光景に、妃乃は呆然とした顔で、凰鵡を見つめていた。
凰鵡も恥ずかしさと悔しさと怒りで、頭がおかしくなりそうだった。
なんとか脱出しようとしても、どんな腕の極め方をされているのか、まったく体を動かせない。
せめて声を出さないことが、鳴夜のサディズムに対する唯一の抵抗だと思った。
しかし闘志は失わぬまでも、眼は自然と助けを求めてしまう──屋上の兄に向けて。
(兄さん……どうして?)
弟の危機に、顕醒は微動だにしない。眉ひとつ動かさない。
傍観者どころか、案山子のようだ。
「妃ちゃん、駄目!」
維の叫びで、凰鵡は視線を前に戻す。
妃乃が這いずるように、じりじりと凰鵡へ迫っていた。
「え? 妃乃さん? 妃乃さん、どうしたの⁈」
呼びかけても、なんの反応もない。
目は瞬きすら忘れている。口から漏れる荒い吐息が、すぐ耳元で聞こえるようだった。
凰鵡の足下にたどり着くと、すがりつくように、むき出しの腰骨を両手で掴んだ。
開かれた唇から、ぐっ……と舌が突き出される。
「なに? やめて! 妃乃さんッ、やめて──!」
直視できず、凰鵡は眼をつむり、顔を背けて叫ぶ。
鳴夜が勝ち誇った笑みを浮かべる。
その顔が、身体が、腕が、脚が、バラバラになった。
「え──」
支えを失った凰鵡を、突進してきた維がすくい上げるように抱きかかえる。
「維さんッ……兄さん⁉」
床に散らばった鳴夜(に乗っ取られた、名も知らない誰か)の破片のすぐそばに、顕醒がいた。
驚いて屋根に眼を向ける。
いる──と思った途端、その形が崩れた。光の塊になって宙を飛び、もう一人の顕醒の掌へと吸い込まれた。
気で創り出した偽物だったのだ。一体、いつからすり替わっていたのか。
鳴夜の目的もさっぱり分からないが、とにかく辱めが終わったことを、維の腕のなかで噛みしめる。
「妃乃さんは?」
三人の視線が集中する。
凰鵡を奪われた妃乃は、四つん這いになって、力なくうなだれていた。
やがて床から手を離し、ゆっくりと起き上がった。
「────ッ!」
全員に衝撃が走った。
幸せの絶頂にあるかのような、恍惚とした表情の妃乃。
その口もとには虫が──薄羽と、蟹のようなハサミを持つ、見たこともない虫が──取りつき、引き裂かれた凰鵡の下着に染みた血を、甲斐甲斐しく舐めさせていた。
バンッ──顕醒の指から飛んだ光が、一瞬でその虫を四散させる。
だが、遅かった。
「ひめ──」
凰鵡の叫びが、絶句に変わる。
真冬の風を当てられたように、全身が一気に粟立った。
二日前、支部で感じた途轍もない悪意が──あのときをさらに上回る強さで──目の前にいる。
妃乃のなかで膨れ上がったそれが、毛穴という毛穴から噴き出しているようだった。
「くッ──!」
顕醒が前に出て、気を集中させた右手を、妃乃に向けて振りかぶった。
「いやぁぁぁ────‼」
至福の笑みを恐怖に歪めて、妃乃が絶叫した。
その瞬間、顕醒の肉体が粉微塵に爆ぜ、一粒の欠片もこの世に残さず、消滅した。
バチン──弾ける音がして、布留部の体が床に転がった。
「てめぇは──!」
大鳥の拳が振りぬかれていた。
殴った。悪いと判っていながら、そうせずにいられなかった。
「どこまで腐って──つッ!」
脇腹を押さえつつ、絨毯のうえに倒れた布留部へと、なおも詰め寄る。
ヒィ、と悲鳴を上げて縮こまる、その胸ぐらを掴んだ。
「生まれ変わりだぁ⁉ ふざけンな!」
もはや恫喝と変わりない。はなから諭す気もなかった。大人気ない怒りの発現だ。
「生まれ変わったとして、何をしてもいいのか! テメェはあの娘を何だと思ってやがる!」
「黙れ……! 僕にはわかるぞ。わかる! あれは失敗作のニセモノじゃない。妃乃が帰ってきたんだ。それを、お前たちが──!」
そこで、布留部の声が途切れた。
大鳥の二発目ではない。
その体が消えたのだ──フッと、空気に溶けたように。
「な……ああ⁉」
大鳥にも、まったく状況が呑めなかった。
唐突に悪寒を覚えて、零子は椅子から立ち上がった。
書類棚を開き、一冊のA4ファイルを取り出すと、なかに仕込んでいたカード型のナンバーキーに数列を入力した。
仕掛けられた機構がアクセスを受け取り、書類棚が横にスライドした。隠された壁面と、金庫の扉が姿を現す。
眼鏡を外して、扉に取り付けられたカメラに自分の眼を映す。虹彩が読み取られ、金庫が錠を解く。
扉を開けて、零子は息を呑んだ。
厳重に保管していたはずの邪願塔の一部は、影も形もなくなっていた。
妃乃から立ち昇るドス黒い気配は、いまや目に見える形となって彼女を包み込もうとしている。
「おうむ、ちゃん……」
絞り出される声は、本人のものとは思えないほど低く、重く、響く。
「妃乃さん?」
「ゴメンナサイ……わたしヲ……コロして……」
凰鵡は息を呑んだ。
(そんな!)
懊悩が凰鵡を襲う。
出来ない──けれど、やるしかないのか。
(嫌だ‼)
強く、心のなかで叫んだ。なにか手はないのか。他に、彼女を救う方法は…………
だが逡巡する数秒のあいだにも、妃乃の変容は進んでゆく。両眼から流れる涙が墨汁のような黒に変わり、別の生き物のように大きく広がって、全身を覆いはじめた。
「オネがイ……ころ、シ……」
必死の嘆願は叶えられなかった。
「妃ちゃん駄目! 最後まで諦めないで! 闘うのよ!」
維も懸命に語りかける。
「凰鵡に伝えたいこと、あるんでしょ! それがこれなの⁈ 殺してくれでいいの⁈」
「ウァ……ああ…………イヤ……!」
身体の半分を黒く染めながらも、妃乃はあらがい、身をよじる。
そのときだった。
突然、なんの予兆もなく、一人の男と、ひとつの物体が、その目の前に姿を現した。
「ここ、は?」
布留部長太郎だった。
そして、もうひとつは────
「え、なんで⁈」
零子のオフィスから消えた、邪願塔の陰茎部分である。
「妃乃?」
「ア、ア」
やつれた創造主と、変わり果てた創造物が、真正面から顔を合わせた。
「ああああああああ‼」
魂を食いちぎるような叫び。
直後、今まで微動だにしなかった女妖種達が、一斉に動いた。
(来る!)
身構える二人。
だが女達の狙いは凰鵡でも、維でも、妃乃でもなかった。
「な、あ?」
白魚のような指が、布留部に群がった。
一人が邪願塔の欠片を拾い上げ────妃乃の体へ、深々と刺し込んだ。
「いぃやぁぁぁあッ!」
その瞬間、凰鵡達は、妃乃の巨人化を妨げていた最後の砦が崩れたのを知った。
邪願塔が復活したのだ。
そして、予想だにしなかったことが起こった。
「ぎゃぁぁぁあああ──‼」
女達の手が、布留部を解体し始めたのだ。
「や、め……なんで⁈ ひめのぉッ、ぼく、は──お……あい!」
必死に呼びかける唇が、喉が、顎が、そして首から下が、次々にむしり取られてゆく。我も我もと群がる手が、まるで大きな綿アメをみんなで別けるように、いとも容易く。
「う……ぅえ……あ」
死にそうな声を出したのは凰鵡だった。
堪えきれず、胃の中のものをしたたかに吐いた。
(いいわけない……酷すぎる。こんな……!)
最初に妖種達と出遭ったときは、虐殺の現場を見なかった。芳養も、駆け付けた時には終わっていた。どちらも、見なくて済んだのだ。今はそのことを心から幸運に思う。
維は目を背けないまでも、困惑し、戦慄していた。
妖種達は、布留部の創造物ではなかったのか。
邪願塔が生み出すのは術者の〝願い〟だ。術者自身を殺すために生み出されたならまだしも、そうでない創造物が創造主を殺すというのはあり得ないはずだ。
バラバラになった生みの親の肉片を持って、妖種達は一人、また一人と形を崩してゆく。白い靄のような塊──エクトプラズムに戻っているのだ。
その靄が、妃乃の口へと飛び込んだ。すべてが納まりきるのに、五秒とかからなかった。
「やばい!」
維は凰鵡を抱えて後ろへ跳んだ。
バシャン、と膝下まで湯に浸かる。
ぼうッ──直後、妃乃の体が一瞬、大きく膨れ上がって爆発した(ように見えた)。
「あ……ああ……」
凰鵡の顔が恐怖に引きつる。
感情の見えない冷たい双眸が、二人を見下ろしていた。
象の頭を持つ巨人が、ふたたび姿を現したのだ。
(違う……今度のは)
湯に入っているはずの足に、まったく温かさを感じない。
一昨日でさえ凄まじい威圧感だったが、いま目の前にいるそれは、もはや規格外の存在だった。
全長五メートル──大きさからして明らかに違う。その巨体と、全身から発散される邪気に、凰鵡は恐怖するしかなかった。
「リターンマッチ? 上等よ!」
ザンッ──水柱を立てて維が飛び出した。
(唵──!)
表皮のすみずみにまで念を巡らせ、全身を鋼鉄化する。
と、巨人の額が、第三の眼を開いた。
「う、あ……⁈」
その燃えるような瞳の奥から、悪夢が、維に襲いかかった。
──やめて! やめてよ、お兄ちゃん、どうして⁈
叫んでも、終わらない。誰も助けてくれない。
むしろ、自分が泣き叫ぶのを面白がるように、兄の行為はエスカレートしてゆく。
──いや……痛い……いやぁ…………
焼印のように刻みつけられてゆく恐怖が、叫ぶ気力をも失わせる。
維にはもう、この苦しみが終わるときを、黙って待つことしか出来なかった。
「ぅぉぉああ────‼」
鮮烈に甦った忌まわしい記憶を怒号で吹き飛ばし、維は巨人の腹に飛び蹴りを叩き込んだ。
ドッと、音が鳴っただけで、跳ね返された。
「まさ──うッ」
自分に何が起こったのか気付いたときには、お返しのひと蹴りが腹に直撃していた。
維の体が放物線を描いて宙を舞い、水飛沫を上げて墜落した。
「あが、は……ッ」
喉の奥の奥から、どろりとした血を吐き出す。
「維さん!」
(凰鵡……たす……)
助けて──駆け寄ってくる弟分にそう言いそうになって、維は思いとどまった。
無力感が、虚しさが、寂しさが、心の底から際限なく湧いてくる。
少しでも気を抜くと、涙が溢れ出してしまいそうだ。
(あのデカブツ、まさか邪眼なんて──!)
原因が巨人の額の眼にあると、維は即座に理解した。
邪眼──見た相手の精神に影響を及ぼす魔の眼。催眠術に似たその力でトラウマが増幅され、心を乱されたのだ。効果はてきめん。精神統一による念を最大の武器にする自分は、もはや爪をもがれたカニも同然だ。
前に戦ったときにはなかった力だ。これも凰鵡の血を得た影響なのか。
だとしたら、分が悪すぎる。
「維さん、しっかりして!」
「凰鵡、逃げて……」
姉貴分を抱き起こそうとした凰鵡は耳を疑った。
声が震えている。こんなにも弱気な維を見たのは、生まれて初めてだった。
いまの短い攻防のあいだに、いったい何があったというのだ。
「アタシが時間を稼ぐ。振り返らないで、全力で山を下りるのよ。あいつの額の眼を見ちゃ駄目。いいわね」
「イヤです! 維さん、諦めないで!」
諦めないで──維も妃乃におなじことを言った。しかし諦めなかったとして、どうなるのだろう。
自分が、この状況を打破できる? 助けがくる? 本当に、そう思うか?
「言うことを聞いて。あいつの狙いは、あんたの血。一滴でもあれだけ強くなったのよ。全部吸い取られたら、どうなると思って?」
ウクッ、と凰鵡は奥歯を噛みしめる。
(そんな力があるなら、ボクが、なんとか出来ないのか⁈)
自分に問うてみても、答えは返ってこない。
悔しかった──こんなにも有り余っているはずの力を活かす術を、なぜ知らないのか。
もっと修練にはげむべきだった。もっと勉学につとめるべきだった。
こんなことに、なると分かっていたら!
(──竜王!)
風呂のどこかへ放り投げられた倶利伽羅竜王のことを思い出す。
霊力を刃に変えるあの宝剣があれば、なんとかなるのでないか。
「凰鵡!」
いきなり維が凰鵡を突き飛ばした。
「ぶは──維さぁんッ!」
湯面から顔を上げた凰鵡の眼に、大蛇のような鼻に捕まった維の姿が映る。
自分をかばったために────
凰鵡に見せつけるように、巨人は鼻を締めつける。
「くっそぉぁあ……ッ!」
維も振りほどこうとして懸命に身をよじる。
だが、ビクともしない。いつもの力の半分も出せていないのだ。
(耐えるの……せめて、耐えなきゃ! 逃げなさい、凰鵡!)
ただ、ただ、弟分の無事を願う。
少しでも巨人の気を逸らさなくては、凰鵡が──芳養のように──一方的に、いいようになぶりものにされて──あの頃の自分のように────
(──だめ! 駄目よ、思い出しちゃ! 思い出したくない!)
脳裏に押し入ってくる記憶を、一心不乱に振り払う。
「──!」
下着が引き裂かれるのを感じた。
(そう、来なさいよ……簡単にくたばると思うな……!)
闘志を奮い立たせ、神通力を発現させようとする。
が、そのたびに悪夢が心を侵す。
「か……あああー!」
先端が押し付けられ、維は悲鳴を上げた。
途轍もない圧力で股関節が砕かれそうになる。芳養もこの苦痛と恐怖のなかで殺されていったのだと、維は実感した。
「わあああああ────‼」
目の前に光が走り、体じゅうの拘束が一斉にとけた。
自由落下する身体が床に打ち付けられる寸前に、維は反射的に身をひるがえして着地した。ズキリと股が痛む。
オオオオ────
巨人が悲鳴を上げていた。
その鼻と両腕が、途中からスッパリと切断されていた。
(なに……?)
維の視線が真横へと移動し、釘付けになった。
「……はぁ、はぁ……」
息を荒くして、凰鵡が倶利伽羅竜王を構えていた。
驚くべきことに、光の刃は二メートルを超えていた。
いや、その位置から巨人を斬ったのなら、瞬間的には十メートルにも達していたはずだ。
「来い! ボクが相手だ!」
剣先を巨人に向け、凰鵡は叫んだ。
(出来る。今のボクなら、やれる!)
刃がここまで伸びたことに自分で驚きつつも、かつてない自信が体の奥から溢れてくるのを感じる。
維が捕まったとき、無我夢中で倶利伽羅竜王を呼んだ──師匠に教わったとおり、心を押し付けるのではなく、繋げることを意識して。
そして湯の底から飛んできた宝剣を手にした瞬間、「出来る」という確信に突き動かされ、その場から振り下ろしたのだ。
オオオオオ…………
巨人は低くうなって、風呂に落ちた自分のパーツを見下ろす。
「ええッ」
凰鵡も維も戦慄した。
切断された巨人のパーツが宙に浮き、もとの場所へと舞い戻ったのだ。接合し、斬られた跡さえ消え失せる。
今までとは比べものにならない生命力を見せつけ、巨人は凰鵡へと向き直った。
「眼を見ちゃ駄目!」
維の声で、凰鵡はとっさに瞼を閉じる。
世界が暗闇に──敵が見えない恐怖に──染まる。
水音で巨人の動きをさぐる。
そうじゃない、それじゃ駄目だ──心のなかの自分が諭す。
教わったことを、思い出して。
凰鵡は意識を拡げた。宝剣を呼ぶときよりもずっと深く、広く……この一瞬一瞬に──水の音、木々のざわめき、鳥の声、維の息づかい、自分自身の鼓動に──今と、過去と、未来がある。目に見えなくとも、すべてが互いに繋がっている。大きな流れのなかにある。
(──ッ)
揺らぎ──流れのなかで、凰鵡はそれに道をゆずる。
ざばん! もといた場所で、飛沫が上がる。
巨人の鼻が、風呂の底を叩いていた。
(避けた! 凰鵡──⁈)
維は目を円くする。まぐれでないのは動きでわかる。
いつの間に、これだけの力を身につけていたのだろう。まるで……師である不動の爺様のようだ。
巨人がさらに鼻を薙ぎ払っても、凰鵡は紙一重でそれを飛び越える。
(けれど、このままじゃ駄目だ)
自分でも驚くほど落ち着いた心のなかで、凰鵡は考えた。
ただ斬るだけでは終わらない。倶利伽羅竜王と、いまの自分の霊力をもってしても、あの化け物を倒すことはできない。
念を殺法に用いる力が、自分には決定的に不足しているのだ。
(それに────)
妃乃は、どうするのだ。ああなってしまっても、まだ彼女を助けたいと思う。
最後の言葉が「殺して」なんて、そんな別れは嫌だ。
もっと話して、ご飯を食べて、ゲームもして──いっぱい、一緒に生きてみたい。
けれど、どうすればいい? あの凶悪な巨人を殺さず、もとの妃乃に戻す方法があるのだろうか。
邪願塔は? あれがある限り、妃乃はまた巨人になるのではないか?
わからない。わからない……妃乃さん、ごめんなさい…………
懊悩と悲嘆が、凰鵡の念を蝕みはじめた。
──これは殺法ではない。
(……誰?)
心の中に響いた声に、凰鵡は問うた。
──念とは意識の有りようだ──闘いに活かすことに限らず。
返答はなく、ただ断片的な言葉が返ってくる。
その声の主を、凰鵡は知らない。
だが、なぜか胸が熱くなる。瞼の裏が潤む。
忘れてはいけない何か、なのだろうか。
──お前は、どうしたい?
(ボクが……ボクのしたいことは──!)
凰鵡は剣を構えた。
(殺せない。殺したくない。だからボクは!)
鋒を巨人に向ける。
また、揺らぎが来た。
凰鵡は、それを避けなかった。
「妃乃さぁーん‼」
ありったけの願いと想いを込めて、剣を突き込んだ。
(わ──⁈)
手応えを感じた瞬間、凰鵡の意識は真っ白い光に包まれていた。
次回…………覚醒 其之参『降魔の光』