血の節・覚醒 其之壱『死線の刻』
結部入ります。今作二度目の風呂シーン。
また本部分では生理に関する描写が入ります。
血の節 覚醒
死線の刻
4日目 朝
Side Otori
寝室のベッドで、布留部は眼を覚ました。
「う、あ……」
鈍い痛みの残る頭を揺すって、小さく呻く。
「ようやくお目覚めか。よっぽど寝不足だったらしいな」
ソファでくつろいでいた大鳥は、脇腹を押さえながら大儀そうに立ち上がった。
背後の窓から見える空は、白い。
「安心しな。まだ、お前さんの家だよ」
刑事と顔を合わせた瞬間、布留部が跳ね起きた。だが、ベッドから飛び出したところで、盛大に転げ落ちた。
その両手は背中に回され、手錠で繋がれていた。
「慌てなさんな。そっちがまた銃でもぶっ放さねぇ限り、こっちも手荒にはしない」
そう言うと、大鳥は倒れた布留部の両肩を掴んで、ソファへ放り投げた。
うまい具合に、容疑者の体は深々と座りこんだ姿勢で落ち着いた。
「布留部長太郎。銃刀法違反ならびに殺人未遂の現行犯、および数件の誘拐と殺人容疑で逮捕……といきたいが、その前に、この場で教えてもらわにゃならんことがある」
ソファの前にワークテーブルをむりやり引き寄せ、大鳥はその上に座った。八畳間のなかに調度品を詰め込めこんだこの部屋が、布留部の仕事部屋兼寝室だった。
「あんたのやったことは、だいたいコレに教えてもらった」
大鳥はテーブルの引き出しから一冊の大学ノートを取り出した──布留部が苛立たしげに頬を震わせた。
「妄想と言われないのが意外か? 天風と関わったあんたなら分かるだろうが、俺だってただの警官じゃない。こういう超常怪奇に、正気で首を突っ込める人間さ」
ノートの中身は、日記を兼ねた一種の研究記録だった。塔の使用法、それを用いた儀式の成果、そして失敗に対する改善点や要検証項目が細かに記されていた。
理路整然と書き連ねられた論や考察に、高い教養と知性が感じられる一方、その内容は狂人のそれだった。
地下室を覗いたとき、大鳥の脳裏によぎった最悪の予想は当たっていた。床に転がされていたドラム缶。あれは布留部によって拉致され、儀式の贄にされた、女性達の棺だった。
ドラム缶の数は九つ。女を次々に攫っては殺し、攫っては殺し、繰り返された悪魔の人体実験。目的は、ただひとつ──妹、布留部妃乃の復活。
布留部のPCには、邪願塔から妃乃達が生み出される過程を撮影した映像も残されていた(誰も見ないと思っていたのか、パスワードは設定されていなかった)。
それを見る限り、邪願塔は杯に受けた血から霊力を抽出し、エクトプラズムに変換する力をもっているようだ。捧げられた血に含まれる霊力の総量によっては、一度に複数の願望を叶えることも可能らしい。
たとえ破瓜の血でなくとも、全身ぶんの血液となれば、それなりの霊力量にはなるわけだ。
そうして攫った女から抜き取った血を贄にして、たしかに妃乃は創造された──ただし、布留部の真に望んだ復活ではなく、誕生として。
それが、あの《妖種妃乃》だ。
死を知らず、恐れも知らず、言葉も持たず、いとも容易く素手で人間を引き裂く。そんな怪物を、布留部も妹とは認めたくなかったのだろう。『偽物』『まがい物』という言葉が、ノートを滅多斬りするように書き連ねられている。
二度目の儀式の結果にも、三度目にも、その次も、その次も…………
「わからんのは──」
大鳥は、再読していたノートをパタンと閉じる。
「こっちが保護したあの娘は、結局、誰なんだ? あの娘についちゃ、これにはナンも書いてやしねぇ」
繰り返す儀式の行き詰まりを示すかのように、ノートは終盤に向かうにつれ、文体も筆跡も混迷をきたしていった。目に見えて罵倒が増え、妹の似姿をした女達を『できそこないども』と読んで地下室に押し込め。ときには手遊びに傷つけた。暴行の記録のなかには、肉体を切断したという記述さえあった(それでも、妖種妃乃達が布留部に反意を示すようなことはなかったらしい)。
怒りと憎悪が紙面に満ちる一方で、妃乃に対する『あいしている』『だきしめたい』といった情語の数々が現れたことで、大鳥は腑に落ちるものを感じた。
布留部長太郎は亡き妃乃を、妹としてではなく、一人の女性として愛していたのだ。
妹のほうが兄をどう思っていたのかは判らないが、いずれにせよ、二人の仲は引き裂かれた。
一年前のある日、布留部妃乃は失踪し、一週間後、山中の河原で遺体となって発見された。全裸で、全身に暴行の痕、そして血中からは高濃度の薬物。
警察は遺体の状況から、彼女がマフィアあるいは不良グループに拉致され、数日間にわたって暴行されたのち、薬物の多量投与によって中毒死したと判断。ほどなく、体内の残留物や目撃証言から、妃乃が院生として通っていた大学内のグループと、彼らに薬物を提供していたバイヤーが一斉逮捕された。
だが加害者達が「合意のうえ」「殺意はなかった」「遺体は怖くなったから捨てた」と主張し続けたことと、連中の殺意が立証されなかったことから、全員が死刑を免れた。
司法の限界だと、大鳥は歯がゆく思う。人の心のなかには入れないし、入れたところで見たものを科学的に証明する手立てもない。
自分達でさえ、零子をはじめとするサイコメトリスト達の言葉を判断する基準は、ただ〝信じるか否か〟でしかない。
死の真相はいまだ藪のなか。だが、いずれにせよ布留部の心情は察するにあまりある。
最愛の人を最悪の手段で奪われ、憎悪と渇愛を抱え続けた。その結実が、あの妖種妃乃なのだ。
怪力と不死性は男達への憎しみ。盲目的な従順さは彼女に愛されたかったから。これらを抱き続けたがために、何度でもおなじ〝理想的な妃乃〟が生み出され、理想で歪められたがゆえに「まがい物」と呼ばれた。
その矛盾に、布留部自身が気付いていたかは分からない。ノートの最後には疲れた筆跡で『違う 違う 違う』と繰り返し綴られている。
〝もう一人の妃乃〟が生まれたのはその直後だろうが、記録はない。彼女の誕生によって、ようやく布留部の目的が遂げられたからだ。
では、〝もう一人の妃乃〟と妖種が街に解き放されたのはなぜか。裏庭での言動を聞く限り、布留部の意志ではなかったようだ。
ならば、創造主の意に反して、妖種達が〝もう一人の妃乃〟を外へ逃がしたのだ。
なにかが起こった。布留部に逆らうはずのない妖種妃乃達が、ただの一人も残さず、邪願塔すら奪って、彼から離反するほどのなにかが。
「どうやら、あの娘に関しちゃ、あんたにもワケが分からんらしいな」
大鳥はテーブルから降り、黙秘しつづける布留部に詰め寄った。
「なんで妹さんの名を騙ってるかは不明だが、あんたとも無関係なら、これ以上問いつめてもラチが明かねえな」
懐から小さな鍵を取り出し、布留部の背中に手を伸ばす。
「しかし、なんにせよ。こっちで保護できてよかった。なにせ──」
カチャリ、と手錠が外れた。
そして、大鳥は布留部の耳元で囁いた。
「あの子、新しい恋も見つけたみたいだしな」
「ああああああ──ぁ‼」
叫び声を上げて、布留部が大鳥に飛びかかった。両手で首を絞めながら、テーブルの上に押し倒す。
「返せ……かえせ! ぼくの妃乃をかえせ‼」
その顔は、完全に正気を失っていた。
「なんで! どうしてぼくから逃げたんだ⁈」
刑事に向けた言葉とは思えない。錯乱が極まったか、目の前にいるのが誰かも判っていない様子だ。
そして、続いて吐き出された怨嗟に、大鳥は耳を疑った。
「せっかく……生まれ変わらせてやったのに!」
Side Ormu & Kensei
朝靄の立ちこめる山林に、凰鵡は佇んでいた。
瞼を閉じ、右手には宝剣・倶利伽羅竜王を握っている。
突然、右から光の球が飛来した。
「──はッ!」
瞑目したまま、凰鵡はその球に向かって剣を走らせた。
見事、刃に捉えられた球はシャボン玉のようにはじけて消えた。
が、それと同時に、まったく別の方向からふたつの光球が飛んでくる。
「つ……!」
薄目を開け、最初のひとつを切り払うも────
「あぅッ!」
ふたつめの球を額に喰らって、大きく仰け反った。後退った足が石に引っ掛かり、そのまま背中から地面に転んだ。
その拍子に、宝剣が手からすっぽ抜けて宙を舞う。
だが土のうえに落ちる寸前、重力を無視して別の手へと吸い込まれた。
「恐怖心に負けたか」
いつの間にか、すぐそばに顕醒がいた。
「……はい」
ぐぅの音も出ず、凰鵡はしょんぼり顔で立ち上がる。最初の一発を切ったときの、予想以上の手応えに心が怯んでしまった。
今朝の修練は、昨日教わった技のお復習いだというが、どう考えてもハードルが上がりすぎだ。
もちろん、気弾は殺傷力を持たぬよう練られているし、速度も遅い。言うなれば〝弟弟子を鍛える用〟で、ぶつけられるのは凰鵡もこれが初めてではない。それでも、まともに当たればドッヂボールの直撃くらいには痛い。
「調子が悪いのか?」
「え?」
兄に問われて、初めて凰鵡は自分が汗まみれになっているのに気付いた。
「なんだか、集中しづらくて」
それは事実だった。ここ数日間にわたる、かつてない緊張で心が乱れているのだろう。
今の修練でも、気力を奮い起こして臨んだはずだったのだが。
「今朝はここまでだ」
宝剣を凰鵡に差し出し、顕醒は告げる。
「まだ、やれます」
「駄目だ」
静かだが有無を言わせぬ兄の迫力に、凰鵡は気圧される。普段からスパルタというわけではないが、ここまできっぱりと止められたのは初めてだった。
「無理をするな。汗を流してこい」
「……はい。ありがとうございました。失礼します」
渋々、剣を受け取り、礼をして凰鵡は小屋に戻る。その表情は暗い。
兄が自分の体調を慮ってくれるのは嬉しいが、それが同時に不満でもあった。
「はい」
弟の去った場所で、顕醒はスマホを耳に当てた。零子からの着信だった。
「おはようございます。いま、よろしいでしょうか?」
「ええ」
「長老会議の結論が出ました」
その声音で、顕醒はすべてを察した。
「〝邪願塔の残りの奪回を最優先。化身たる象頭の巨人、ならびに布留部妃乃を名乗る存在を消滅させてでも、速やかに遂行すべし〟」
事実上、妃乃に対する死刑宣告であった。体内の邪願塔が彼女という存在を保たせているのなら、その回収は妃乃の消滅に繋がりかねない。
「すみません、私や不動翁も説得したのですが……お力になれず」
不動翁──顕醒達の師の通称である。
「いえ、あとはお任せください。〝審議の決、謹んで承りました〟と、諸師にお伝えください」
そう言うと、顕醒は通話を切った。
Side Yui
湯に浸かってぼんやり天を仰いでいると、ときどき、自分が誰なのかを忘れてしまいそうになる。プールや海でもおなじことが起こる。
水の浮力だけでなく、この身体が見えなくなるからだろうか。
衆に入ってからは、かつての悔しさをバネに、ひたすら鍛え続けた。いまではヘビー級ボクサー程度のパンチなら、金剛流派の神通力を使わずとも楽勝で耐えられる。
闘者の肉体としては、完成まであと一歩。だが維はあえて、最後の詰めを──女特有のふくよかさを削ぎ落とすことを──放棄している。
なんのために、とはよく訊かれる。そのたびに「野暮なことを」とかなんとか答えてごまかしている。凰鵡に対してもそうだった。
理由がないわけではない。ただ、口に出すのが恥ずかしいのだ。
「維さん」
名を呼ばれて、維は現に返った。
(やばいやばい任務中だった!)
バサッ、と飛沫を上げて身体を起こす。石造りの浴槽の縁で暖を取っていた野鳥達が、一斉に飛び去った。
水音と、山野から飛び込んでくる鳥の声を、強く意識する。
「ここ、本当に覗きとか大丈夫なんです?」
湯の中で三角座りした妃乃が、不安そうにこちらを見ていた。
この露天温泉は小屋の陰にこじんまりとあって、斜面の上からは見られないようになっている。が、それ以外の三方向には石組みの低い垣が設けられているだけで、野生動物は入り放題だ。
「大丈夫だって。ここ、普通の人間は来られないし、万が一来ちゃっても、気配がわかるようになってるからね。便利な結界レーダー付き」
「そう、ですよね。でもこういうの馴れてなくて」
「アタシも何度か来てるけど、覗きにきたオスなんて、サルとかシカとかよ」
「サル来るんですか⁉」
「ああ、タヌキとかイノシシも来るわね」
「タヌキ! え、見たい!」
「動物好きなの?」
「はい!」
「まぁ、すぐ逃げちゃうんだけどね。あと糞とかされてると、入る気なくなっちゃう」
「そうですかぁ……そうですよねぇ……」
「そういや、こことは別の山房だけど、前に一度、成獣のヒグマがいたときはアタシもさすがに悲鳴出たわ。おっぱい縮むかと思った」
「え、クマ……⁉」
妃乃が青ざめて周囲を見渡す。
「ど、どうしたんですか? そのクマ……」
「アタシの悲鳴で顕醒が飛んで来て、追っ払ってくれた。こう、頭に気を通して落ち着かせてさ。あいつの技、マジ反則」
妃乃の額にそっと指をつけて、維は説明する。
「それは、たしかに……って、顕醒さんと二人で?」
「うん。アタシが集中特訓したかったから付き合わせたの。だいぶ前の話だけどね」
「維さんは顕醒さんとは……その、衆に入った頃から?」
「彼氏彼女、ってこと?」
恥ずかしげに妃乃がうなずく。
「ぜーんぜん」
へらへらと笑いながら、維は手を振る。
「あいつがアタシの男になったの、二年前だから」
「え?」
「ほら、このピアスの行列。これ、なんでこんなに刺さってるか分かる?」
妃乃は首を振る。
「これね、あいつにコクってフラれた回数」
「ええっ」
「一回目でヤケ起こして刺したんだけどさ、諦めきれなくって。二回、三回って挑んでるうちに、どんどん増えてったの」
「えっと……一年に一回って数じゃないですよね? 二〇回くらい?」
「二十一回ね。多いときで年五回かなぁ。思い切って他の男に乗り換えようとしたこともあったけど、アタシ性格がこれだから、どれも長続きしなくってね。やっぱあいつが欲しいって思ったら、もう意地よ」
「意地……」
妃乃は口をあんぐり開けて、維の恋愛譚に聴き入っている。
「で、耳に刺す場所なくなって、鼻に一発入れたら、とうとうあっちが折れた」
「あの、失礼な言い方かも、しれないんですけど……」
「ン?」
「維さんは、顕醒さんのどこを好きになったんです?」
「あら? あいつのこと気になる。イヤよ取っちゃ」
「そうじゃないですッ。ただ顕醒さんって、人柄があんまり分からなくって。怖い人じゃないのは判るんですけど、じかには話しづらくって」
うんうん、と維は感慨深げにうなずく。
「あいつねぇ……ぶっちゃけ、格好つけてるヘタレ」
「ええッ?」
「主体性がない。自信家のくせにプライドが低い。朴念仁で面白みがない。人間性っていうネジが何本か外れてる」
姫乃の目が点になっている。自分は何を聞かされているのか理解できていない顔だ。恋人のどこが好きかと問うて、答えはまさかのマシンガン罵倒である。
「でもね、居心地いいのよ、あいつの隣。何言っても馬鹿にしないし、反応薄いけど話は聴いてくれてるし、〝俺はおれは〟ってうるさくないし、アタシみたいな自己中には丁度いいの」
「居心地ですか。強いとか、そういうのはないんですね」
「まぁ、仕事となりゃ頼りになるけどね。でも、守ってもらおうなんて考えたことないわ。あの澄まし顔にワンパンかますのは人生の目標だけど」
それに……と維は心のなかで続きを語る。
顕醒──感情や欲求が欠落したあの男を、自分はいつか、思いっきり甘えさせてみたいのだ。
〝鬼不動〟という渾名に込められた〝戦闘マシーン〟という皮肉。その理由を、維は知っている。知ったからこそ、そばにいたいと思い、今にいたる。家族を妖種に殺されて以来、ずっと孤独のなかで生きてきたような男だ。
向こうはどう感じているか判らないが、少なくとも維は、お互いに傷を舐め合ってきたと思っている。
そして、自分がまがりなりにも顕醒の舌で傷を癒やしたように、顕醒にも、心を閉ざしたマシーンから、ただの男に戻るときが、いつか来ると信じている。
そのときになって、その〝ただの男〟を受け入れる者がいるとしたら、それは自分でなければならない。
決して、凰鵡であってはならない。
「アタシを見習えってワケじゃないけどね、妃ちゃん」
「は、はいッ」
「本気だったら、あんたも諦めちゃだめよ──凰鵡のこと」
「え、ちょ。気付いてました?」
「うん。もろわかり」
湯面から手を出してVサインする。
「あの子、ちょっと変わってて世間知らずなとこもあるけど、見た目どおり優しいわよ。ブラコンが玉に瑕だけど」
「ああ、そうですね。お兄さんのこと、すごく好きみたいで……」
妃乃の声が弱くなった。頬がリンゴのように紅潮している。
「……なんか、頭くらくらしてきました」
「あら、大人の恋バナで興奮させちゃったかも。上がろっか」
二人して湯から出た。風呂側から小屋に入れば、まずは脱衣所だ。
妃乃を先に行かせ、維は背後を確認する。
陽はまだ低い。朝日の差し込む山中は、騒がしくも、人を知らぬ静けさを保っている。
ただ、この平穏は嵐の前ぶれ。結界では探知できない境界のギリギリに、おびただしい数の女妖種が集っている。そのことは、顕醒から密かに聞かされていた。
「きゃっ!」
妃乃の悲鳴がした。
続いて、どっ、と何かが床に落ちる音。
(しまった──⁈)
敵の気配がないとはいえ、またも気を逸らすとは不注意にもほどがある。今日の自分は、まったくどうかしてる。
脱衣所に飛び込む。
(あ、なんだぁ)
妃乃の視線の先にいたのは、凰鵡だった。
維は安堵のため息を吐きかけて────
(いや、やば……)
背筋を冷やした。
凰鵡は全裸で、床にへたり込み、手と脚で股を隠していた。
そして、そのそばには、血で赤く染まったナプキンが落ちているのだった。
Side Ormu & Others
……一分前
気だるい体を脱衣所に運ぶ。
逆上せたわけでもないのに頭がぼんやりしていて、痛みも少しある。
長湯は出来そうにない。とにかく、服を肌に貼りつかせる汗だけでも、なんとかしたかった。
「うッわ……」
ボクサーパンツを下ろして、凰鵡は顔をしかめた。
むわっ、と立ち昇ってくる、生魚が腐ったような匂い。
パンツの裏は、真っ赤に染まっていた。
といっても、そのためのナプキンが受け皿になってくれている。この日のためにと零子から渡されていたものだ。
自分の体がどうなっているのかは、ちゃんと理解しているつもりだ。数日前には赤黒いかたまりも出ていて、「そろそろかなぁ」と覚悟もしていた。
だが、いざ目の当たりにすると、どうしても尻込みしてしまう。おっかなびっくりパンツから剥がしたナプキンが、凰鵡には血を吸った巨大な山ヒルに見えた。
(……くさい)
独特の臭気もあって、本当になにかの生物を叩き潰したようだ。
地肌にもべったりと血がこびりついていて、怪我や病気ではないのかと不安になる。
(お風呂上がったら、維さんに相談しよ)
と思った瞬間、浴場への扉がスッと開いた。
「きゃッ⁈」
「ぅわゎッ!」
体を火照らせた妃乃が驚いて胸を隠し、凰鵡はとっさに腕で視界を遮って後退る。
またしても脚がもつれ、今日二度目の尻餅をつく。そのはずみで、ナプキンも床に落ちた。
(あ──⁈)
すぐに脚を閉じて隠したが、時すでに遅し。
見られた。
見たほうも、その眼を凰鵡へ、血染めのナプキンへ、と交互にやって、固まる。
「あら、あらあらあら」
妃乃の後ろから入ってきた維が声を上げた。体も拭かず、水滴を弾かせながらタオル棚へと走る。
「ようやくね、凰鵡。ちょっとそのままよ」
棚から新しい一枚を取る。
そのときだった────
「ええッ⁈」
「まじでッ⁈」
凰鵡と維が同時に声を上げた。
この山房の敷地内にいる衆の者にしか感知できない警報が、意識に鳴り響いたのだ。
結界の発動──侵入者である。
「もうこんなときに! 凰鵡!」
名を呼ばれても、凰鵡は動けない。
結界が伝えてくる情報に圧倒されていた。
(なに、この数……三〇……四〇……いや、もっといる…………)
初めて体感する、妖種の大群団。二日前には六人を相手にしても殺されかけたというのに、今度はそれが何倍にもなってやってくる。戦慄するなという方が無理だ。
ぺちん──ささやかな平手打ちが頬を打った。
「……維さん?」
「しっかりしなよ。妃ちゃん、護るんでしょ?」
ハッとして恐怖を振り払う。
そうだ。護ると言った。それ自体はたとえ大言であっても、〝護りたい〟という気持ちに嘘はない。
敵は多くても、今度は一人じゃない。兄がいる。維もいる。いまは、自分に成せる精一杯の働きをすべきだ。
維に渡されたタオルで股を軽く拭き、新しいパンツとジャージに着替える。ブラトップとナプキンは省略した。
「妃ちゃん? おーい妃ちゃん!」
凰鵡が着替えてる間に、維が妃乃の様子を見る。
「え? あ、何ですか?」
夢から覚めたように、妃乃が目を瞬かせる。
「よく聞いてね。敵が来てるの。焦らずに服を着て、私達から離れないで。いいわね」
妃乃は息を呑み、コクコクとうなずく。凰鵡の裸については、いったん頭の隅に押しやったらしい。
年少の二人が着終えたのを確認して、維も自分の衣服に手を伸ばす。スポーツブラとボクサーショーツだけを纏って「よし!」と意気込む。
三人でリビングに出ると、戻っていた顕醒が、それぞれの靴を差し出してきた。
隣には、管理人の睦紀もいる。
「皆様の足手まといになるわけにはいきません。わたくしのことは、どうぞお構いなく」
「殊勝なこと言わないでよ。アタシらがいれば大丈夫だから」
スニーカーの紐をかたく縛り直しながら維が鷹揚に応える。
「部屋のなかだけど、いいの?」
妃乃が小声で凰鵡に訊ねる。
「今は気にしないで」
凰鵡自身もやや気は退けるのだが、礼儀に構っていられる状況ではない。窓を割られたら、散乱したガラス片が脅威になる。
「顕醒、どうするの? 完全な籠城戦よ。援軍待つ? 突破?」
「維、凰鵡。ここを頼む」
「はい! 兄さんは──えッ?」
弟が訊ねた瞬間には、顕醒は跳んでいた。天窓の枠に片手でぶら下がりながら鍵を外し、身をひるがえして屋根へ出た。
「兄さん、何を?」
「あいつ……外のやつ全部、一人で相手する気ね」
「ええッ、加勢しなくていいんですか? いくらなんでも多すぎますよ」
「大丈夫よ。っていうか、〝不動の者〟だったら、相手が集団のときは一人で相手したほうがいいって、顕醒から聞いてない? 〝不動は独孤にて至高〟って」
凰鵡は首を横に振る。自流派のことを他流派の維から教わるのは、不思議な気持ちがする。
「不動の技をフルに使ったら、味方も簡単に巻き込んじゃうのよ。だから、一人の方がかえって闘いやすいって話」
凰鵡は目からウロコが落ちる思いだった。言われてみればそうかもしれない。
本気の兄を見たことはないが、あれだけ変幻自在の気を縦横無尽に振るうとなれば、むしろ四面楚歌くらいの状況がちょうどいい気もする。
「だからって気を抜いちゃ駄目よ。ホントの単独行動ならまだしも、みんなを守りながらってなると、あいつでも討ち漏らしが出るかもしれない」
「はい」
「来たぞ」
凰鵡の返事に被さって、上から声が降る。
顕醒のいる屋根の上からは、迫ってくる妖種達の姿がよく見えていた。斜面の上からも下からも、鬱蒼と茂る木々を抜けて、一糸まとわぬ女達がぞろぞろと行進してくる。
「ひ……」
窓の外に見えたその光景に、妃乃が引きつった声を上げ、凰鵡は息を呑んだ。
山野にひしめく、おなじ顔、おなじ躰。
それらが一斉に蠢くさまは、虫の大群を見ているような嫌悪を呼び起こす。
木立のなかから湧いて出るように増えつづけ、包囲網が狭まるにつれて密度を濃くしてゆく。たった一人の女で世界が埋め尽くされるようにすら思えた。
「やけに遅いわね」
維が苛立ったようにつぶやく。
妖種達は走るのではなく、歩いていた。数にものを言わせ、なだれ込んできてもいいようなものだが。
「下だ!」
顕醒の声に、凰鵡と維は即座に反応した。それぞれに妃乃と睦紀を抱えて部屋の隅に走る。
ドッと小屋が揺れ、床板がはじけ飛んだ。
木片と土砂を部屋じゅうに舞わせて、巨大なムカデのような異形が姿を現した。
「いやあああ!」
そのおぞましさに妃乃が絶叫する。睦紀も「ヒイッ」っと悲鳴をもらした。
女妖種の集合体だ。列車のように連結した胴体の真横から、何本もの脚が突き出している。手は先端に集まって、イソギンチャクのようにうねっていた(土を掘るためだろう)。
そのイソギンチャクがぐいっと持ち上がって凰鵡達のほうを向き、腕を開く。
複眼──否、一カ所に集合した、女達の顔だ。
「凰鵡、二人をお願い!」
叫ぶが早いか、維の飛び蹴りが、異形を真っ二つにした。
さらに頭部のほうにまたがり、滅多矢鱈に拳で撃ちすえる。一撃するたび妖種の体がえぐれ、飛び散った破片は溶けて消える。
(うっわぁ……)
その猛攻を見ているだけで、凰鵡は圧倒される。
相手が実体だろうが霊体だろうが殴って倒す。それが維の闘い方だ。不動のような気弾こそないものの、念によって神通力を発現させるのは金剛もおなじ。この念こそが、霊体に対する攻撃の要となるのだ。
(──来る!)
結界が外の様子を凰鵡に伝えた。
包囲網の先頭にいた十数人が、一斉に突撃してきた。床下からの襲撃に呼応したのだろう。
恐怖を抑えこみ、宝剣を握りしめ、奥歯を噛みしめる。
(来るなら、来い!)
が、窓から入り込んできたのは恐るべき不死者ではなく、気弾の余光だった。雨のように降りそそぐ輝きに撃ち抜かれて、妖種の第一突撃隊はまたたく間に消滅した。
「兄さん⁉」
屋根に上がった兄のことを思い出し、愕然とする。
次元が違う──維から聞いてはいたが、まさかあれだけの数を本当に一瞬で消し去るとは。
だがその反面、凰鵡の闘志は触発されるどころか、逆に萎縮していた。
二人とも強すぎる。これでは、自分がいる意味などあるのだろか…………
と、その直後、三つのことが立て続けに起こった。
外では数を増やした第二突撃隊が繰り出され、内では床下から新たなムカデ型の群体が飛び出した。
すぐさま、顕醒の気弾と、維の鉄拳がこれを迎え撃つ。
そして────
「えッ⁈」
その瞬間、凰鵡は強い力で抱きかかえられ、脱衣所へ、そして風呂場へと連れ出されていた。
「え、なに⁉ 顕醒!」
異変に気づいた維だが、群体を処理しきれず釘付けとなる。
凰鵡には、何が起こったのか考える暇もない。
「あぅっ!」
風呂場の石床に妃乃が転がされた。
「妃乃さんッ!」
他人の心配をしてる場合ではない。凰鵡は背後で腕を極められ、倶利伽羅竜王を奪われていた。
ぼちゃん──宝剣が浴槽のなかへ放り込まれた。
「どうして……ッ⁉」
腕に走る痛みをこらえ、後ろに首を回す。
「なんでですか⁉ 睦紀さん!」
次回…………覚醒 其之弐『神威の戦』