顛の節・脈動 其之参『深謀の山』
起承転結の転部分の終わりです。
今回は顕醒と維の過去が少しだけ語られます。
あと今更ですが、大節題の〝○の節〟の〇部分は「起・承・転・結」それぞれの同音語です。
深謀の山
Side Ormu
平日の昼間でも、駅前の広場は人で賑わっている。
理由は車道べりに列をつくるキッチンカーだ。
日替わりでさまざまな店舗が並ぶことと、ベンチや噴水、花壇もあって小規模な公園になっていることから、地元では有名なB級グルメスポットだった。
「あ、カオマンガイ! 二人のぶんも買ってくるから、そこ座って待ってて!」
着くや否や、維が車の一台に突撃していった。
「カオマンガイ?」
妃乃が独り言のように訊ねる。
「ええっと、タイ──だったかな──の、どんぶりみたいなの。座ろっか」
そばのベンチに二人で腰掛ける。
昨日の朝食では太腿が触れそうだった距離が、今は自然と開いてしまう。間に維が入れば、ちょうどベンチが埋まるくらいだ。
「ごめんなさい」
「え?」
突然の妃乃の謝意を、凰鵡は理解出来なかった。
「騙してて、ごめんなさい。芳養さんのことも……本当に」
「そんなこと……」
ない、とは言い切れず、黙ってしまう。
「私、誰なんだろう」
自問のように呟く妃乃の目は、道行く人々を眺めていた。
課外活動か早退けか、昼過ぎだというのに中学生や高校生の姿もちらほら見える。彼らとおなじ制服を着る妃乃の姿を思い浮かべ、凰鵡は似合うと思った。
自分はというと、高校への潜入調査で一度着たことがあるが、お世辞にも似合うとは言いがたかった。こんな硬い素材の服に毎日腕を通すのかと顔をしかめもした。
それでも、そういう日常を送ってみたいという憧れはある。
妃乃もおなじ思いを抱いているのだろうか。
「凰鵡ちゃんは、学校通ってないの?」
少し沈黙してから、凰鵡は「うん」と答えた。
「あれ? ごめん、まだ中学生くらいかと思ってた」
「ううん、まだ十四歳。でも学校は行ったことがない──小学校も」
妃乃が驚いた顔を凰鵡に向けた。
「それ、いいの?」
「勉強は大丈夫だよ。十八歳までは、衆のなかで開いてる塾に通うことになってるから」
「ああ、そうなの……いや、そうじゃなくて。学校で問題になったりしないの?」
「大丈夫。ボクには、戸籍ないしね」
「え?」
「捨て子だったんだ、ボク」
妃乃の目が今日いちばん、円くなる。
「自分じゃ憶えてないけど、赤ん坊のときに、山で兄さんに拾われたの。普通だったら施設で育てられるんだろうけど、兄さんとお師匠がボクを引き取ってくれた。だから十四歳ってのも、本当はよくわかんない」
「え、でもそれ、大丈夫なの? 戸籍ないのって問題なんじゃ」
うーん、と凰鵡は少し考えてから応えた。
「ボクみたいな霊力の強い子供は妖種に狙われやすいから、組織の一員として育てるのがもっとも安全なんだってさ。武術にせよ超能力にせよ、自衛力をつけるのが最優先で、そうなるまでは戸籍はないほうが動きやすいんだって。ボクみたいにね」
へぇ、と妃乃が首をかしげながら相槌を打つ。
「いまの、ひょっとして零子さんか顕醒さんの受け売り?」
「え、なんで分かったの?」
「まるわかり」
そう言って妃乃は笑う。
「でも顕醒さん、本当のお兄さんじゃなかったんだ。それで……」
「似てないでしょ?」
凰鵡も笑い返して悪戯っぽく訊く。
「え? う、うん。じゃぁ、そのお師匠様が顕醒さんのお父さんなの?」
スッと、凰鵡は表情を翳らせた。
「んーん。兄さんは小さい頃、妖種に家族を……」
言葉に詰まる。
つい真っ正直に答えてしまったが、一言多かったなと後悔する。
「殺されちゃったの?」
結局、ストレートな表現で訊かれてしまった。
凰鵡はうつむき、静かにうなずいた。
「そうなんだ」
「詳しくは教えてくれないんだけど。あ、ボクが言ったことも、兄さんには内緒にしてね」
「うん」
妃乃は微笑んでうなずいた。
維がこちらに戻ってくるのが見えた。右手のには三人ぶんの弁当箱を積み、左手ではスマホを握って誰かと話している。
「うぇーい、お待たせー」
通話を切った維が凰鵡達に弁当箱を配る。
「ごめん、ゆっくり食べていいんだけど、飯が終わったら帰らなきゃいけなくなっちゃった。買い物とか行きたかったのになー」
「なにか、あったんです?」
凰鵡が訊いた。
「ていうわけじゃないけど、顕醒が場所を移すんだって。山房だってさ」
「へぇ」
凰鵡が驚いたような顔で、なんとも言い難い声を上げる。
「山房?」
「えっとね……温泉があるよ」
3日目 夜
Side Yui & Himeno
山房と呼ばれる施設は、山奥にあるこじんまりとした小屋だった。
車は麓までしか入れないため、そこから数十キロは徒歩で越えねばならない。しかも登山道などなく、すべてが獣道だ。支部の送迎車を降りたあとは維が妃乃を抱え、雲脚を使っての高速登山となった。
目的地に着くころには、陽は山の陰に落ち、あたりは深い群青に染まっていた。
そんな空色もあって、木々の茂る斜面にポツンと現れる小屋の姿は、妃乃には陸の孤島というよりも、山の怪の家のように見えた。周囲に張り巡らされた結界のおかげで常人の目にはつかず、衛星写真にすら映らないのだとか。
もとは組織の黎明期から存在する、山籠もり用の施設だという。たびたび改修されてはいるが、石垣の苔や柱の染みなどには、往年の息吹が感じられる。退魔組織のなかでも先進的な部類の衆に今も残る、伝統的な部分のひとつだという。
電気も通っていて、食事も管理人が用意してくれた。
こんな山深くの小屋に管理人がいるというのが妃乃には意外だったが、こういった施設には、特殊な事情を抱えた人や、ヒトに友好的な妖種に仕事を斡旋する目的もあるのだという。
ちなみに、この山房の管理人は、人の良さそうな中年の女性で、睦紀と名乗った。
夜ともなれば、窓の外からは虫の声と水音が絶え間なく入り込んでくる。月明かりも梢に隠れるため、灯りを消せば真っ暗闇だ。
とはいえ、まだ居室の電灯は煌々と光り、布団に座り込んだ維と妃乃を照らし出している。
「あがりです」
「ええーまた負けたー!」
外の闇を吹き飛ばすような維の大声が、狭い室内に満ちる。
百円ショップで買ったカードゲーム──道すがら〝暇つぶし用品〟として維が買いに走ったうちのひとつだった。いくらかの戦略性が要るため、維には苦手分野らしい。
ここまでの戦績は妃乃の五戦全勝で、よほど運に見放されない限り、負ける気はしない。
が、二人だとすぐに終わってしまうので、凰鵡にも混ざって欲しいところだった。
その凰鵡は今、顕醒と風呂に入っている。
件の温泉は外にあって、しかも外灯が無い。夜目の訓練を積んだ凰鵡達には平気でも、妃乃には危ないということで、維と二人して明朝までのおあずけとなった。
楽しみにしていたのだが、暗闇のなかで入るのも怖いので仕方ない。
(凰鵡ちゃんは、顕醒さんと一緒に入れるんだ……)
兄妹だから大丈夫なのかな、と思いつつも、若干の疑念と嫉妬を抱く。
「悔しいー! 勝つまでやるー!」
唇を尖らせながら、維はカードをまとめ直してゆく。こういう一面を見ると、普段の姉御肌が嘘のようだ。
「維さん」
「ん、なに?」
「失礼な質問かもしれませんけど、なんで皆さん、そんなに私に優しくしてるんです?」
カードの束をシャッフルする音だけが室内に響く。
妃乃にはそれが、刃物を磨ぐ音にも聞こえた──快活さの裏に隠された殺意…………
「ごめんなさい。維さん達を疑うような──」
「優しくしてるつもりは、ないのよ」
カードを繰る手を止めて、維がつぶやく。
「正直、あなたがまたあの化け物に変わるの、心のどっかで待ってるのよね。今度こそアタシの手でぶっ殺してやろうって。だから昼飯のとき、わざと凰鵡と妃ちゃん置いて、アタシだけ離れたの。あの子、霊力がどんどん成長してきてるから、あなたのなかの化け物が吊れるんじゃないかって」
妃乃の背に寒いものが走る。
自分に対する殺意はいい。芳養を殺してしまったのだから、当然だ。
だが、凰鵡を餌にしたというのか。弟のように可愛がっている凰鵡を…………
「あの子に手を出させない自信は、あったんだけど……でも駄目ね。アタシ馬鹿だから、なんで上手くいかなかったのかも分かんない」
自嘲のような笑みを浮かべて、維は首を横に振る。
そのしぐさがひどく冷然としたものに見えて、妃乃はまた怖くなる。
だが、今まで感じてきた彼女のぬくもりが──慟哭の枯れぬ自分に寄り添い続けてくれたまごころが──芝居だったとも思えない。
「変身した私じゃないと、駄目なんですか?」
維が自分を手にかける機会は、いくらでもあった。今もそうだ。この体が不死身とはいえ、彼女ならなんとか出来るのではないか(事実、化けたら殺すと言っているのだから)。
「矛盾してるわよね」
こともなげに維は答える。
「ホントはね……芳養のやつ、独断専行したせいで死んだのよ」
「……どういうことですか?」
「昨日あいつが喚ばれたのはね、タヌキ先生じゃ妃ちゃんの診察が出来ないから、その代理ってだけ。記憶を視ろって指示も、視ていいって許可も、もらってないのよ」
妃乃には信じられなかった。維は自分を安心させるために噓をついているのではないか。だが、この人は嘘で友人を貶めるような人ではない。
なら、芳養は功名心に逸ったのか。あの優しさの裏に野心があったというのか。
「たぶん、苦しんでる妃ちゃん見て、いてもたってもいたれなかったンでしょうね。アタシと違って、あいつ優しい奴だったから。早く零子さんみたいになりたいって、口癖みたいに言ってたからね。それでも、あいつは過信しちゃったのよ──自分一人で大丈夫って。この世界じゃ珍しくないわ。そうやって死んじゃう奴」
「そうなんですか……」
──としか、妃乃には返す言葉がない。
「維さんは、どうして衆に入ったんですか?」
「アタシ、田舎の武道家の生まれなの。四人兄妹の末っ子で、上はぜんぶ男。すぐ上の兄貴も衆のメンバーよ」
妃乃は半分驚き、半分納得した。
凰鵡や自分には姉御肌な反面、顕醒に対して見せるどこか甘えん坊な一面の秘密が、分かった気がした。
だが維の口から語られたのは、妃乃が思ったような、平穏な家庭像ではなかった。
「一緒に衆に入った兄以外とは、もう十年以上逢ってないわ。親父とお袋にもね」
「それは、衆の仕事が忙しくて、ですか?」
「死に別れたの。もっとも、死んだのはこっちだけど」
「え? ええ……?」
ギョッとして思考回路が停止する妃乃に、維は微笑みながら肩をすくめる。
「失踪宣告って知ってる? 行方不明になってから云年見つからないと、一応の死亡扱いになるの。それを利用して、もとのアタシと兄は、法的には死人になったってわけ。まぁ、衆に保護されてたから、身を隠すなんて余裕だったんだけどね」
「じゃぁ、維さんも戸籍、ないんですか?」
「あら、凰鵡から聞いたの?」
妃乃は恐る恐るうなずく。部外者の自分が知るべきではなかったのかもしれない。
「アタシも、それから顕醒もそう。というか、衆の闘者はだいたいそうね。この業界、下手に身分なんてないほうが動きやすいのよ」
こんどはニッと歯を見せ、悪戯っぽく笑う。
いろんな笑顔を持っている人だな、と妃乃は思った。
「維さんも、妖種がきっかけで衆に入ったんですか?」
「私も(・)? あの子、顕醒の話もしたの?」
しまった、と妃乃は思い、心のなかで凰鵡に詫びた。
「あ、すみません。私が訊いたせいで……」
「いいのよ。妖種に襲われたとか、身内殺されたとかでこの世界に入るのも、珍しくないことだから」
普通ならありえないことが、珍しくないと言われる。凰鵡や維のいる世界の異常さに、妃乃はあらためて寒気をおぼえる。
「でもアタシの場合はね、妖種は直接関係ないの。実家から逃げたら、たまたまここに繋がったってだけ」
「逃げた?」
「アタシね、虐待されてたの。長兄と次兄の二人から」
ゾクッ──寒気どころではない。いきなり投げつけられた維の過去が、氷の槍のように妃乃の心を刺し、凍えさせた。
一瞬、部屋が真っ暗に見え、息が止まる。
「考えが旧いっていうか、家父長主義で、ヒエラルキーの強い家でね。兄妹も団結するどころか、アタシと兄──つまり下の二人が、上二人のストレスの捌け口にされてたの。親父もお袋も黙認。まぁ、お家のための人身御供よね。兄がアタシを連れて家を出てくれなかったら、今ごろどうなってたか」
「その……警察とかには?」
「ド田舎って凄いのよ。警察のお偉いさんは親父と仲がいいもんだから、知ってて知らぬふり。近所も見て見ぬふり。だから兄は逆に、隣町にある、親父と仲の悪い道場に逃げ込んだのよ。笑えるでしょ」
笑えませんよ、と妃乃は言いたかったが、呑み込んだ。
「そこの師範さんが匿ってくれてね。あとから追いかけてきた親父らも見事に追い返してくれて……それで、親父がその人のことを嫌ってた理由も分かったのよね」
「なんでです?」
「自分と主義が違うのに、自分よりメチャ強い人なんて認めたくないでしょ、人間って」
「ああ、追い返したって、そういう……」
「そういう」
うんうん、と二人でうなずき合う。
維の心の傷を思えば不謹慎なのだろうが、話を聞いている妃乃は胸がすくのを感じた。
「兄もアタシも感激しちゃってさ、弟子にしてくださいって頼んだんだけど……」
「だけど?」
「師範さんが、ひと仕事あるから着いてこいって言ったから、二人で着いてったの。そしたら見ちゃったってわけ」
「妖種、ですか」
「うん。その人が、ちょうどアタシらの住んでた地域を担当してた闘者だったのよ。まぁ、そんときはドンパチなしで済んだんだけどさ。今にして思えば強引な勧誘よねぇ。いきなりハイッてオバケ見せて、ああいうのと関わるか、それとも今の記憶消して弟子入り諦めるかって選ばせるんだから」
「記憶を消したら、どうなってたんです?」
「さぁね。とりあえず、家には還さないようにするって約束はしてくれたわ」
「それで、衆に入ったんですね」
「兄は即決したけど、アタシはすぐには決めらンなかった。関係者ってことで、別の支部で保護されて、一年くらい療養させてもらったわ。そのあいだカウンセリングしてくれたのが零子さん。顕醒とも、そこで初めて逢ったわ。ほんと、人生どこで誰と繋がるか分かんないね」
「記憶は……」
「ん?」
「その……お兄さん達に酷い目に遭わされてた記憶だけ消すってことは、出来なかったんですか?」
その問いに、維は明後日の方角を向き、「うーん」と考えてから、答えた。
「出来るわ。本当は今も消しちゃいたいんだけどね。でも、しない」
「どうして……?」
「あのときの悔しさを忘れないため、っていうのは格好つけすぎね。ぶっちゃけると、いつか、あいつらに復讐してやりたいからなのよ」
ああ、そうなんだ……と、妃乃は妙に納得し、そして安堵する。維ほどの人でも、そういうことを考えるんだ、と。
「もちろん衆じゃ御法度なんだけど、アタシ、見てのとおりの不良だから──馬鹿だけど、馬鹿なりに、なんか上手いことやらかしてやろうって」
「維さん、強いんですね」
「そう見えるんなら、ハッタリ効いてるってことね。本当は怖いのよ。いつかまた、あいつらに会ってしまったらって、ビクビクしてる」
「いまの維さんだったら返り討ちでしょ」
「だとしても、相手をボコり倒すまで、嫌な記憶はいつまでも上書きされないのよ」
「……そうかもしれません。すみません、無責任なこと言って」
「いいのいいの。多分、妃ちゃんの言うとおりだから。でも、本当に向こうがアタシのことを見つけて、しかもアタシよりも強くなってたら? 可能性はゼロじゃないわ。闘うにしたって逃げるにしたって、相手のことも、自分が何をされたかも憶えてないと、また同じ思いをする。アタシはそう考えてる」
妃乃はハッとなった。
これと同じ言葉を、前に、確かに聞いた。
「過去の方が、自分を探しにくる……」
維が目を円くした。
「……芳養さんが教えてくれました。維さんだったんですね」
なにかが、繋がった気がした。
とたんに、ドッ、と熱いものが胸の奥から込み上げてくる。その熱気に押し出されるように、妃乃の両眼から涙が溢れ出した。
「ごめんなさい……私、ぜんぶ憶えてたのに、忘れたフリをしてて……そのせいで芳養さんが……」
随分前に止んだはずの嗚咽が、ふたたび妃乃の身体を震わせる。
ふと、膝に置いていた手に、維の掌が重ねられる。
「妃ちゃん。アタシも、あんたと芳養に謝らなきゃいけない」
「え?」
「芳養はきっと、あんたのことを恨んじゃいないわ。もし、あいつがアタシの前に化けて出てきたら、妃乃さんを助けてあげて、って言うと思う。アタシ、芳養の心を無駄にしちゃうところだった。だから、ごめん。もう絶対に、あんたを殺そうなんて思わない」
「維さん……芳養さん……」
妃乃には、ふたりの名を呼ぶしかなかった。
心の底に蓋をしていた重苦しいものが、少しずつ砕かれてゆくのを感じる。
「アタシね、実家にいたときは、毎日が地獄だった。どうやって死のうかって考えてるときが、いちばん気が楽だった。本当に怖くて怖くて、誰かに助けて欲しいのに、その誰かを頼ることも出来なかった。親父達より強い人も知らなかったしね。それで、心が死んじゃってたの。兄にあんな行動力があるって知ったときは、なんでもっと早く言わなかったんだろう、って後悔もしたわ。だから妃ちゃん。アタシをよく見て」
涙に濡れた顔をあげた。
不敵な笑みが、真っ直ぐに見つめ返している。
「今のあんたにはアタシがいる。ちょっとまだ頼りないけど凰鵡もいるし、性格はアレだけどマジで最強の顕醒もいる」
「維さん……ッ」
「自分だけ消えてみんな幸せなんて、バッドエンドの極みよ。それ以外にないように見える状況でもね。そんなクズみたいなシナリオ、ぶっ壊そうじゃないの」
その瞬間、妃乃の心の蓋が弾けた。
無我夢中で維にすがりつき、懇願していた──「殺してください」ではない、本当に言いたかったことを。
「助けて……維さん。お願いです……助けてください……ッ」
「ようやく言えたわね。うん、アタシらにまかせなさい」
硬い──だが不思議と柔らかな手が、頭を撫でる。
凰鵡に抱き締められたときとは違う安心感が、妃乃を包み込んでいた。
と、そのとき────
「すみません、ボクらだけお風呂いただきまし……」
顔を火照らせた凰鵡が部屋の戸を開けて、固まった。
「妃乃さん、大丈夫……?」
「ノックくらいしなさいよ。これでお着替え中だったらどうする気ぃ?」
叱責と見せかけ、ニヤケ顔で維はからかう。ノックといっても、もともと居室はひとつしかないため、ここは凰鵡の寝室でもあるのだが。
「あ……! ご、ごめんなさいッ」
「冗談よ。妃ちゃんも大丈夫だから」
「うん、ごめんね。ちょっと維さんに喝入れてもらってた」
維から離れ、涙を拭って妃乃は微笑む。
「あ、そうなんだ……」
いまひとつ要領を得られない表情で、凰鵡はうなずく。
「ね、凰鵡ちゃんも一緒に、コレやらない?」
床に散らばったカードを示す。
「あ、来るときに買ったやつ?」
「うん、面白いよ。維さん、ちょっと弱いけど」
「なにをー」
唇を尖らせ、維はカードを拾い集めた。
「あははッ。うん、ボクもやる。今夜は自由にしていいって、兄さんも言ってくれたし」
そう言うと、凰鵡は二人の前に座った。
(あ……)
ふわっ、と漂ってくる湯気を感じて、妃乃の胸が高鳴る。
だが同時に、妙な不安もよぎる。いつかの朝、瞑想している凰鵡に感じたのとおなじ、圧迫感だった。
きっと凰鵡を巻き込む罪悪感だろう、と自分に言い聞かせる。
「顕醒は?」
「まだ入ってます。ボクは、なんだかすぐに逆上せちゃって」
「あ、そう。まぁ、いたところで、こういうのに付き合ってくれる奴じゃないけどね」
ぶつくさと恋人へのグチを垂れ流しつつ、維はカードを配ってゆく。
「顕醒さんは、こういうの苦手なんですか?」
「いんや、激強。あいつマジでほぼ完璧超人だから」
「すっごい。でも〝ほぼ〟ってことは、やっぱり苦手なこともあるんですよね?」
「笑顔」
維の即答に、凰鵡がうんうんと同意する。妃乃も納得してしまった。
「あと、すっごい音痴。反対に、凰鵡はめちゃくちゃ歌うまいのよ」
「えッ、凰鵡ちゃん聞かせて」
「え、いきなり? やだ恥ずかしいよ」
ついさっきまでとは打って変わって、まるで旅行に来たような、和気藹々とした雰囲気。
それが束の間の平穏だろうとは、妃乃にも分かっていた。
それでも、願わずにはいられない──明日も、明後日も、これからもずっと……と。
もし……もし、この事件が解決して、自分も生き残って、新しい人生を選べるとしたら…………
Side Kensei
凰鵡の言葉に反して、顕醒はすでに風呂を出て、作務衣姿で山房のポーチに佇んでいた。
「拓馬さんからは、まだなにも……」
スマホから聞こえる零子の声は不安に沈んでいる。山深い場所だが、電波は届くように施されている。
大鳥が布留部長太郎の家に行ったことは、顕醒も承知していた。
だが、あれっきり連絡がなかった。
「拓馬さんのことですから、またいつもの悪い癖が出ているのかもしれません。ですが、なんらかのアクシデントに見舞われた可能性も捨てきれないので、翌朝までに連絡が来なければ捜索隊を派遣したいのですが、よろしいですか?」
「ええ。そちらは、お任せいたします」
「ありがとうございます」
謝意を述べる声音が、少しだけ明るくなる。
だが、零子の心痛はそれだけではない。
「それから、長老会議の方ですが……明朝、開かれることが決まりました」
顕醒の眉間にしわが寄る。
「そちらは、お変わりありませんか? 凰鵡くんのほうは?」
「今のところは、変わりありません」
「そうですか……くれぐれも、お気をつけて」
「ええ、お疲れ様です」
そう言うと顕醒は通話を切った。
顔を上げ、常人には一寸先も見えない闇のなかを探る。
あの女妖種の気配があった。
山房を中心とした結界の境界線ぎりぎりに、ひとり……ふたり……十……二〇……
五〇は下らない大群が、この地を包囲している。
それを確認すると、顕醒は小屋のなかに戻った。
次回…………血の節・覚醒 其之壱『死線の刻』