あの頃の景色が消えていく
数ヶ月ぶりに帰省したら、地元の駅に自動改札ができていた。
古くさいばかりの田舎の駅が、急に近代化したようで、違和感ばかりを強く覚えた。
駅前にあったコンビニは、いつの間にか潰れていた。
駅前なのに潰れるなんて、さすがは田舎だな、と変な納得の仕方をしながら、迎えの車に乗り込んだ。
時間が止まったかのような、変化の乏しい地方の町でも、数ヶ月離れているだけで、いろいろとあるものだ。
大学に進学するため地元を離れて、もう二年が経とうとしている。
長期休暇も、バイトだサークルの合宿だで何かと忙しく、実家には数えるほどしか帰っていない。
たまの帰郷は片道時間からして長くて、ちょっとした旅行気分だ。
大学に入ってすぐの頃は、周りの景色に慣れなくて、疎外感が強かった。
まるで自分が、場違いな“異物”のようで、あの街に馴染める気が、まるでしなかった。
だが、さすがに二年も経てば、風景くらいは見慣れてくるものだ。
まだまだ知らない場所や知らないことは多くても、自分を“異物”だとは感じなくなった。
どこから来たどんな人間でも、ごった煮の闇鍋のように呑み込んでしまうあの街に、俺もいつしか溶け込めているような、そんな気がした。
だが、その代わりのように、地元がだんだん遠くなっていく気がする。
ほんの二年前までは、毎日当たり前にそこにいて、俺の世界の全てだったあの町が、何故だか帰省をするたびに、少しずつ少しずつ、俺から遠ざかっていく気がする。
中学生くらいの時まで、学校帰りにいつも寄っていた駄菓子屋は、店の形は残っているものの、商売を続けている気配が全く無かった。
母校の校舎には耐震補強の鉄骨が取り付けられ、校庭からは雲梯やジャングルジムが消えていた。
町中には、いつの間にか更地ができていたが、そこにかつて何があったのか、思い出そうとしても思い出せない。
俺の離れている間に、少しずつ町の形が変わっていく。
俺の知らない間に、知らないことが増えていく。
ここ最近の間に起きた町の変化を、眺めるともなく眺めながら、実家に帰った。
何も変わらない我が家の、二年前から時の止まった自分の部屋に寝泊まりし、いつも通りの年末年始を迎えたそんな時――思いがけない話を聞かされた。
両親が、近々引っ越しを考えているという話を……。
考えてみれば、全く思いがけなくない話だ。
俺の実家は社宅で、父が退職すれば、もうそこには住み続けられない。
そして父は早期退職を、半ば心に決めていると言う。
二人暮らしなら、そんなに大きな家は必要ないから、小じんまりした中古の家でも良い。いっそのこと、もっと住みやすい場所を探して移住しようか。できることなら野菜作りなどにチャレンジしてみたい……などと、両親は楽しげに話す。
それを聞くともなしに聞きながら……俺は言いようのない衝撃を受けていた。
よく考えれば簡単に予測できたはずのこと――なのに、実際、俺は、考えたこともなかったのだ。
今、当たり前に在るものが、これからも当たり前に在り続けるわけではないという事実を。
時の流れの中で、いつか必ず失われてしまうもののことを……。
子どもの頃は、ちっぽけなこの町が、俺の世界の全てだった。
あの頃の俺は何の根拠も無く、この世界は不変のものだと信じていた。
ささいな変化や、人生の移り変わりはあっても――この町はいつまでも変わらずに、ここに在り続けてくれるだろうと……。
だが、そんなものは、ただの俺の願望でしかなかった。
近所にはいつの間にか、空き家が増えた。
親しいと言うほどでもないが、かつてはよく顔を見ていたおじいさんやおばあさんが、俺の知らない間に亡くなったことを聞かされた。
以前は田んぼや畑だった場所には、真新しいアパートが建っていた。
最近越してきた若い人はゴミ出しのルールもよく知らなくてね……などと、母が文句を言っていた。
町の形だけでなく、そこに住む人間も、少しずつ少しずつ入れ替わっていく。
この町のことを、特に好きだったわけじゃない。
愛郷心などさらさら無いし、大学を出た後に戻ろうという気も無い。
なのに……それでも湧いて来る、この感傷は何なのだろう。
近い未来には、もう二度と、入ることすらできなくなる実家を、記憶に刻むように一巡りしてみた。
どの部屋にも……何の変哲もない柱や壁にも、他愛ない思い出が染みついている。
俺が思い出を刻んだ家。俺の思い出を育んだ家。
なのに、もうすぐここは、俺の家ではなくなるのだ。
両親の引っ越す新しい家は、俺にとって“何”になるのだろう。
帰省先ではあるけれど、俺の部屋も無く、馴染みも無い、見知らぬ家。
きっと、自分が場違いな“異物”のように感じて、微妙な居心地の悪さを味わったりするのだろう。
知っている場所が失くなるたびに、俺の居場所がひとつずつ、失くなっていく気がする。
知らないものが増えるたびに、疎外感が強くなる。
そこが俺の居場所じゃないような、俺が異物になったような感じがする。
……つまりは、そういうことなのかも知れない。
俺は、ここに自分の“居場所”が失くなっていくことが怖いのだ。
自分で故郷を出ることを選んだのに、身勝手な思いだとは思う。
平気で手放し、離れておきながら……それでも心のどこかで『いつでも帰れる』と信じていた。
このちっぽけな世界は、俺の知るあの頃のまま、いつでも俺を受け入れてくれると……。
時の流れに否応なくトシを取らされ、人生がめまぐるしく変わっていっても……ここへ帰れば、変わらない何かが待ってくれていると。
けれど、この町は確実に変わっていく。
俺がここにいても、いなくても。
俺自身が否応なく変わらされていくように、時の流れがどんどん削り取っていく。
見知った景色も、見知った人も、それによって呼び覚まされる思い出たちも……。
――それに気づいたところで、何ができるわけでもなく、何を決断するわけでもなく、俺は今日また、この町を離れる。
この景色を忘れないようにと、しっかり心に刻みつけたところで、きっといつの間にか忘れてしまうんだろうな……車で送られ駅へと向かいながら、そう、諦め半分に思った。
かつての俺が居た場所――思い出の場所が失くなっていくたび、俺の人生の軌跡までが失われていく気がする。
俺自身がどれだけ変わっても、ここへ戻って来れば、心だけはあの頃に帰れる気がしていたのに……その心が帰る場所さえ、少しずつ少しずつ失われていく。
きっと、その喪失を埋めるためには、新しい居場所を築くしかないのだろう。
それが決して、失くした場所の“代わり”にはならなくても……。
そうして築いた新しい居場所さえ、時の移ろいと共に変わっていく、儚いものなのだとしても……。
やるせない想いと共に、ふと、懐かしいフレーズが脳裏を過った。
いつか、国語の授業で暗唱させられた文章。
あれは、平家物語だったか、方丈記だったか……。
あの頃は、よくよく意味も理解しないまま諳んじていたフレーズ。
……だけど、そうか。あれは、時の無常と無情を嘆くものだったのか。
物理法則や自然災害をどうしようもないように、時の流れを恨んでもどうしようもない。
気も遠くなるような昔から、人はそうやって、世の変化、町の変化を、空しくも寂しくも、諦め受け入れて来たのだろうか。
故郷の町自体は在り続けても、その姿は俺の知る“あの頃”とは別のものに変わっていく。
俺の“故郷”は、いつしか俺の心の中にしか存在しないものになり果てるのかも知れない。
だが、消えていくそれを惜しんで、ここに残る気は無い。
俺は身勝手な思いのまま、変わっていく故郷を懐かしんで、哀しんで、それでも都会で生きていくのだろう。
むしろ、帰らないし、帰れないと知っているから、余計に懐かしく、哀しく思うのかも知れない。
幸福なばかりでもなかったはずの子ども時代を、なぜか懐かしんで帰りたいと思ったりするように……楽しいことばかりじゃない、特別好きなわけでもないこの町に、それでも、ふと帰りたいと……。
せめてもの抵抗のように、地元の姿を目に灼きつけながら、駅の真新しい自動改札を通り抜けた。
まだ故郷ほどには馴染みの無い、遠い都会へと帰るために……。
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