未遂の男
繁華街の大通りから一歩道を違えれば、静寂がかつて南米あたりにいると噂された人喰い植物のようにその顎を地面につけ前歯と鼻先を高らかと天に向けてぽっかりと口を開けて待ち構えているのに、無知で無害な歩行人はその罠に気づかずに哀れ丸呑みされてしまうのはよくある事だ
前者と異なる点は、哀れな被食者がいつでも後戻りできる事と突き進む先に見えるのが骨をも溶かす消化液ではなく、まるでタイムスリップをしたのではないかと疑うような侘しい街並み、と言ったところか
喫茶店暝炉はそういったどこにでもある寂れた通りにあるどこにでもありそうな喫茶店で、よく言えば「昔ながら」本音を言えば、「やっているのか?」と疑うような目に見えぬ埃が積もった佇まいだった
店名から察するに、オーナーは暖炉の前で心地よさから目を閉じ現世と夢路を行ったり来たりするあの格別の贅沢を表現しようとしているのだろうが、どうにも一致する点は静寂のみで、それは客がぽつんぽつんとしか来ない事と、常連の彼らが何故か示し合わせたかのように寡黙である為だった
更によくある事で、その常連連中と言う者の過半数が奥様方に家から追い出された旦那衆だったので、彼らが家を出る時には「じゃあ、暝炉に行ってくる」と言うと、近所の友人達とのお茶会の準備に忙しい妻は「はいはい、迷路ね」と言う風に覚えられてしまい、寧ろ喫茶店「迷路」の方が名が広まっていたりする
そんな何とも皮肉な喫茶店暝炉の窓際の一角で男は温くなった珈琲をお供に1人読書に耽っていた
この男というのは過半数からあぶれた独り者という羨望の的な訳だが、やることが無いのかはたまた家が無いのかーーこの喫茶店を気に入っているという第3の理由は誰の頭にも浮かばなかったーー週に幾日も通う常連の1人だった
偶に友人と思われる男の待合に使う以外、男は基本的にその日当たりの良い席で日暮れまで本を片手に居座るのだがーーこれは、他の常連連中にもあたる事で、寧ろこの放置とでも言える接客がこの店の意図せぬウリなのだーー今日はそうはいかなかった
男がいつものように薫香たちのぼるカップを無視してページを捲ろうとした時、彼に話しかける者が現れたからである
現れた男はーー大の中あたりの半端な身長にそれ相応の体つき、見た目から察した年齢に対して落ち着いた物腰が本来備わっているように思えたが、その黒縁の眼鏡の奥にあるややつり上がった瞳がそれに反する情熱的な誠実さを湛えていたーーぽかんとした顔で此方を見上げる男に彼の名前を確認すると断りもせず反対側の席に着くと、射抜くような視線が男に向けられた
「実は、お話があって来たのです」
「ちょ、ちょっと待ってください
大変失礼だとは承知の上なのですが……何処かでお会いした事がありましたか?」
男の戸惑ったような口上に相手は少しばかり緊張を緩めたようで年相応の幼さがふっと微笑みになって浮かんだ
「いいえ、突然で申し訳ありません
私と貴方とで直接の面識はありませんが、恐らく貴方のご友人の1人と私が知り合いでして、その方から貴方のお話をお聞きして是非、相談にのって頂けないかと伺ったのです」
「僕の噂ですか?
変なものではないですよね?」
男が人好きのする自虐めいた笑みを浮かべながら忘れられていたカップに口をつける
「僕には芸術肌な友人が何人かいて、彼らは気まぐれに人を褒めたり貶したりするものですから、あまり鵜呑みにするのはお勧めできませんね」
「しかし、怪盗49から宝石を守ったという話は本当でしょう?」
男はその言葉に初めて見るかのように改めて目の前の闖入者をしげしげと見やり、それから手にしていたカップを皿に戻した
「なるほど、そちらの伝手でしたら正確です
実に堅実的で現実主義な……面白みは欠けてますが一般的な人達からしたら信用のできる友人ですね
ということは、相談というのはつまり犯罪が絡んだ事なのですか?」
「ええ、そうです、そうなんです!
今ならまだ防げると思うと、居ても立っても居られないのです」
語気を荒げて逸る男を落ち着かせる為に、反するように男は穏やかに尋ねた
「それで何を防ごうというのですか?」
「殺人です」
日常に似つかわしくない言葉の到来に、散らばった他の席の客達から緊張感のような物が風を受けたベールのようにふわりと立ち上った
男は興奮のあまりそれすら気づかずに、まるで神託を告げる宣教師のような厳かさで続けた
「あと一月もしない内に、残虐で卑劣な欲望に顔も知らぬ誰かが犠牲になってしまうかもしれないのです」
(以下、闖入者である男の話)
「事の発端、それは私の職業に関係があります
私は隣の市の市営図書館の司書をしていましてーーいえいえ、とんでもありません、大学で講義をきちんと受講していれば誰でも資格は取れます
ただ運良く司書の求人が大学卒業のタイミングに出ていまして、
私も中々の活字愛読者でしてーーここでちらりと男はテーブルの上の閉じられた本に視線を向け微かに口許を緩めたーー天職とばかりに申し込みをして、今年で5年目になります
稀に困った利用者の方は居ますが、大抵は本が好きな者同士、特に大きな問題もなく、互いに本を勧めたり感想を言い合ったりと仕事とは言え、個人的な面に於いてもかなり充実していました
ところが、ところがです
あの男が現れて、その平穏な日常に暗雲が垂れ込め始めました
その男、と言うのが外見は特に怪しい所はなく至って平然としているのですが、今となってはそれが逆に罪深い己の邪悪さを隠しているのではないかと恐ろしく思えてくるのです
彼は2週間に一度程度の頻度で現れ、上限目一杯の本を借りていきます
私の所は貸出期限が2週間なので、そういった利用者の方は多いのですが、問題なのはその内容なのです
ーー司書、という立場ですから利用者の借りる本に対して意見を持つというのは好ましくはありません、職権の濫用でもありますが、人間である以上、記憶する事、思考する事というのは止めようとしてもやめられないものでして、それを脳内で収めるか口に出してしまうかが差であると私は思っております
知識の欲求は憲法に定められた人権であり、それを害する行為は犯罪です
もしも、この一件が一般の方々に漏れた時、図書館で本を借りる時に図書館スタッフの目を気にして内容を選択するような不自由さがあってはならないと思うのです
ですから、殺人の疑いがあるにも関わらず警察ではなくまず貴方に相談しに来たのです
つまり、私が常にこのような利用者の情報を無闇に暴露する訳ではないと言う事を理解して頂きたい……ありがとうございます
話を戻しますね
その男が借りて行った本達というのは、分類で言うと470の植物学、490医学、薬学の2つが多数を占めていますが、全体に広範囲に渡っており、法律や裁判の仕組みと言った物から各国の宗教、文化、歴史ーーいずれも魔女狩りや殺人信仰のある神の信者達の起こした事件についてなど何処か怪奇的な物達
二桁に登る解剖学、病理学、人体についての詳細で順次更新されていく新鮮で豊富な資料の数々
私の言いたいことが何となくお察しかと思います
ーーいいえ、分かっています
それだけではただ単に博学で熱心な善人である可能性は十分にありますし、私もつい先日まではそう思っていました
それがこのような疑いを持つようになったのには、ある夕方の帰り道の事でした
夕方、と言ってもこの時期ですからもうすっかり暗くなっていて夜前と言った方がいいかもしれません
ーー何故、訂正したかと言うと私がその時に感じた恐怖が闇の中でもたらされたことを知っていただきたいのです
その日、私は前日と何ら変わらずいつもの帰り道をいつものように歩いていました
私の家は職場である図書館から多少離れた位置にあるのですが、電車を使うには無駄があり、私自身歩くのが好きな為に毎日徒歩で通っています
ちょうど道程の中程あたりでしょうか
人通りの少なくなった住宅街の道を青白い常夜灯が仕事を始めておりその仄暗い丸い光がぽつん、ぽつんと等間隔に照らしていました
単調な事をしている時の常として、私の思考は何処か違う世界へ行っていました
休憩の時に読んだ本の内容や明日の学童らへの読み聞かせの準備などがかわりばんこに浮上していたのです
そして、ふと肌寒いなと思いコートの襟を立てながら現実世界に意識が戻ってきた時になって漸く、道端の男に気づきました
男は道路に伏して何やら危機迫った様子でした
先程の私同様に相手の存在に気づいていないようで、私は何か失くし物でもしたのかとーーコンタクトをよく落とす知り合いがいるのですーー声を掛けようかどうしようかと歩きながら考えていたのですが、あと距離にして数メートルと言うところで男の意図せずに出た独り言のような唸り声に私は思わず、すぐそばの角を曲がって立ち尽くしてしまいました
「血が隠せない」
はい、そうです
私の聞き間違いでないことは確実です
その後も、すぐそばに私がいる事を知らない男は「死体はいけるな、問題は血をどうするかだ」「バレてはいけない」等とぶつぶつと繰り返したからです
背を預けているブロック塀の冷たさを理性が冷静に知覚している中、私は突如もたらされた非日常の衝撃に立ちすくんでいました
暫くして、男の気配が無くなったように思えても、中々曲がり角の先を見ることが出来ませんでした
恐怖と冷え切った体とで不気味な妄想をしてしまったのです
恐る恐る角を覗けば、すぐ間近にあの男の顔があって血走った目で静かに言うのです「見てたな」と
そんな三文小説のような陳腐な妄想が終始私を襲い、家に帰れたのは何も知らぬ第三者がその道を悠然と歩いてくれたお陰です
私には、後頭部の冷え切った赤ら顔の御仁が清らかな天の使いのように思えました
それから、ずっと頭の片隅にあの妄想がこびりついて離れませんでした
だからこそ、私はその顔が誰だったかを思い出した時思わず声を漏らしてしまったのです
私の様子に本を借りに来た利用者は怪訝そうでしたが、机の上に並べられた貸し出し本を見て勝手に納得したようでした
その時、借りた本は何処かグロテスクな装いを見せており、彼はそれに私が驚いたのだと勘違いしたのでしょう
いつ男が何か口走るんじゃないかと心臓は荒ぶり、凄まじい吐き気を催しながら貸し出しの作業をしたのです
これはひとえに体が勝手に動いてくれたとしか言いようがありません、慣れというものは有難いものです
そして、男に利用者カードを返しながら思い出していたのです
今、1番上にあるこの本には確か血痕を消す薬品についての詳細が書かれていたなと」
告発者は心中の激情を理性で抑えつけたように締め括ると、いつの間にか運ばれていたアイスティーに口をつけた
「なるほど
それで、男が殺人を計画しているのではないかと疑念を抱いたわけですね
ところで、「あと1ヶ月もしないうちに」とはどういう事ですか?」
男の言葉に、彼はグラスをコースターの上に戻して横の椅子に置いていた厚みのある黒いビジネスバックから何か四角いものを取り出してテーブルの上に置いた
それは、濃厚な黒の革表紙に包まれた一冊の手帳であった
「……」
「これは、数日前に館内に落ちていたものです
中を確認して見たところ、後ろのページに男の利用者カードと同じ名前がありました
……本来、このような事はプライバシーの侵害であり許されることではありません
しかし、場合が場合です
犯罪が絡んでいるかもしれないのにそれを見過ごす訳には行きませんでした
私はその中に男の犯罪についての記載がないか家に帰ってじっくりと中を検めました」
「……見てもいいですか?」
男の言葉に厳かな肯定がされる
頷いた眼鏡の男を目の端に男はパラパラとそれを捲っていった
手帳の構成としてはよくあるタイプの物で始めに予定を書き込める空白のある七曜表、その後にメモ機能、それから雑多な情報達ー大都市の交通網から年齢早見まで、インターネットが普及した現代に於いては活用されるか否かだがー最後に知人の連絡先を書き留める為のTEL、MAILの欄が記載されておりページの1番下には持ち主であろう男の名前が癖のある筆跡で残されていた
黙りこくってその紙の集合体に集中する男に、相席者は読み終わるのを待てないかのように言葉を吐き出し始めた
「それを見て疑惑は確信に変わりました
普通の人が持っている手帳ではない
その悍ましい殺人計画の数々、如何に残虐に見せようかという…その男は気が狂っているとしか思えません!
もしも、男が計画を実行に移してしまったらと思うと私は、もうどうしようもないのです…」
悲嘆にくれたその言葉に男の顔をしかと見れば、目の下に薄らと隈が出来ていた
これこそが、世間が求める正しい人間なのだろう
見ず知らずの誰かの悲劇に自身を害せずにはいられない
その無関係に義務を背負わずにはいられないごく普通の倫理観を備えた尋常でない類の人間だ
彼を見る男の目に微かに敬意とそして憐れみの色が浮かんだのは目の錯覚ではないだろう
男は続ける
「そのカレンダーの所に先程の理由が書かれています
その中で明確な意味が捉えられなかったのは、11月30日の「松本」、1月31日の「江戸川」「AC」、それからページを跨いで再来年の日付が一枚に載っている所がありますよね?そうです、空白のない、日付のみのものです
そこにも9月30日と10月31日にも赤丸がしてあります
…私はこれらが何か不気味な気配がしてならない
何か男の執念とも言うべき感情をほんの数文字から受け取るのです」
「なるほど、つまり貴方は11月30日の「松本」さんなる人が殺人鬼の標的にされていると?」
「そう思いませんか?
ちょうどその横に赤文字で「本命」ともあるでしょう?」
「ああ、本当ですね」
「ここ最近の男はやはり様子が何かおかしいです
平常を装っていますが、私には分かります
ぶつぶつと独り言を呟く姿も偶に見かけます
その時のあの血走った目が時折、私には飢えた獣のように思えるのです
一点を凝視して固まる姿は最早、殺人という行為に取り憑かれていて更正は見込めそうにもありません
誰かが止めなくては、けれど私にそれが出来るのか?彼の事を碌に分かっていない
「松本」という人物が誰なのかも分からないから警告をする事もできやしない
それで、それで、貴方の下に訪れたのです
貴方がこれまで私が聞いた以上に様々な経験をし、それを解決してきた事を知っています
分かるのです、そして、今久しぶりに心底安堵しているのです
ぐらぐらと揺れる綱渡りの末、やっと硬い大地にへたり込んだ心地なのです
いいえ、どうか私の直感を裏切らないで頂きたい
その表情からして、貴方はもう解決までの糸口が見えているのですね?」
X
気まぐれに読んだ本が予想外に素晴らしい時に見せるあの愉悦を帯びた表情、それでいて恥ずかしい時に見せる自虐的な笑み、それらを両立させて目をいつになく細めた男は自身の白いカップへと目を向けた
湯気はすっかり消え去り、何処か恨めしげに黒い液体が此方を睨んでいる
その口許には穏やかそうに歪んでいるが、その奥に男の確固たる自信のような物が潜めいている
男はカップを傾けると、唇を湿らせて口述を始めた
(以下、相談された男の話)
「貴方の話を聞いて、私がまず思った事は男はまるで二重人格者だと言う事です
そう思いませんか?
夜の住宅街で貴方が会った男は罪を隠そうと画策しており、その後も隠蔽に関する情報には飛びからんとばかりです
しかし、その一方で注目を浴びたいが為に血文字でサインをしかねない自己顕示欲です
ここの「犠牲者の首を公園のベンチに置き去る」なんてまさにそうではありませんか?
あぁ、失礼
……大丈夫ですか?ええ、つまりですね、男には現実的な一方で猟奇的な顔がある
いいえ、違う人物だと言いたい訳じゃありません
同一人物です、確実に間違いなくそうです
と、言うよりも人に違う面があると言う事はある程度は別に普通のことなのです
性質が全く持って同じ人、の方が希少なのです
門外漢ではありますが私に言わせてもらえれば、人は誰しもサディストの気を持っています
いいえ、そうなのです
程度の差こそあれ、誰しもが加虐的思考を持っているのです
そうでなければ、ポーラ・マクサが一万回も殺される事は無かったでしょう?いつの年代もグロテスクで臓物を飛び散らせる作品を誰かしら書いているもしくは描いているものです、それは求める人がいるからです
友人に嫌がらせをした事はありませんか?蛇のおもちゃを投げつけた事は?子供は蟻塚を発見するとすぐに駆け寄ってはしゃいで足で踏みつけたり、水責めをしたりしますよね?可愛らしい幼児は母親が忙しい時ばかり狙って大泣きをします、自分の手で愛しい存在を困らせたいからです、そしてそれによって与えられる愛情を感受したいが為です
逆に、この性質が無ければ人間関係とはここまで複雑で多様性のある物にはなり得ず、もっと単調で代わり映えのない物だったでしょう
ですから、それ自体は悪いことではないのです
思考する事というのは止める事ができないのです、知性を与えられた我々人間にはーー先程、貴方が言っていたようにね
問題は、問題はですよ?
それを自分の内側に収めておくという事です
血に混ざり込んで染み渡り、蟲蟲の行進のように骨をなぞるその欲望達を肉塊の内に閉じ込めておける
それは、外に出した者達と大きく異なります
他の了承なしに身勝手に欲望を吐き出す獣達とは全くもって違うのです
彼らは、自身の性質を知ってか知らずかそれを内側に収めておくために、嗜虐な絵や文章に触れ、その欲求を満たすのです
人間であるが為に、人より強い感受性を抑えるのです
それ自体が、悪だと言うのなら、人という生物を途絶えさせて罪を償うほかありません
私が、こうも続けるのには理由があります
貴方に、この男の性質を許して頂きたいからです
この病的なまでに殺人に取り憑かれた男を」
「つまり」
男の声は震えていた
その唇は抑えられぬ感情に弱い痙攣を帯び、レンズ越しの瞳は瞳孔が開いて陳述をした男をその純朴そうな色に嫌悪と悲痛の感情を乗せて見つめていた
男は立ち上がった
「つまり、貴方はまだ犯罪を犯していないのだから見逃せと言うのですか?
これから、その男が手を汚すのを黙って見ていろと?」
「男は人を殺します
しかし、彼を裁く事は彼以外誰にも出来やしない」
その言葉に立ち上がった男は荒々しい手つきで鞄を取り上げ、足を出口へと向けた
それから男に渡した手帳の事を思い出し、くるりと振り返ると男の手の内にあったそれをひったくろうと手を伸ばした
が、それは敵わなかった
「返してください」
「嫌です、それに話は終わっていません」
「私はもう終わりました
それは、警察に届けます」
「これ程度では、警察も動きませんよ」
「あなたはっ!!」
椅子の背に体を預けて悠々とした男に彼はこれまでの礼儀正しい振る舞いを一転して語気を荒めた
そして、漸く自分達が周りの注目を集めていると知ると、微かに頬を恥ずかしさから赤らめた
「駄目です
ここで、帰られては貴方のような真面目な人がまた眠れない日々を送るし、僕は殺人鬼の味方だと早とちりされてもうこの喫茶店に来れなくなってしまう」
男の言葉通り、素知らぬ顔をしていた旦那衆からは淀んだ気配がドライアイスのように地を這ってここまで伝ってきていた
違う点は、それらが白ではなくドブ水のように黒く濁っている事だ
「早とちりですか?
事実そうではありませんか」
「貴方は「松本」さんを知りたくはないですか?
「江戸川」さんは?「AC」が何を指すのかは?」
「……もしかして、知り合いなのですか」
「いいえ、知り合いではありません
話したことさえないです
ですが、挨拶ぐらいしか交わさない隣人よりかは知っています
そして、恐らく貴方もそうです」
「はい?」
「貴方も知っていると思いますよ?
そして、それに気づいた時、男が何をしたいのか分かるはずです」
「何って…殺人でしょう?」
「殺人ですが、犯罪ではありません
この世で唯一、死刑人以外に人を殺して罪に問われないものと言えば分かるでしょう?」
男の言葉に八の字の眉を寄せていた彼の顔がまるで神の啓示でももたらされたかのようにはっと光った
まだ理解の追いつかない観客達はなんだなんだと堪えきれずに新聞の端から此方をちらちらと見つめている
「まさか…」
「因みに、9月30日と10月31日にはそれぞれ「鮎川」「横溝」と入るでしょうね」
男の言葉に肩に掛けられた鞄がずるりと垂れ下がった
その勢いで眼鏡までずり落ちそうではあったが、それは男の心情がそれにマッチしている為であって、実際には黒縁のそいつはしっかりと鼻の頭の上に鎮座していた
X
「なぜ、分かったのですか?」
男は椅子に座り直して、何処か疲弊した顔でストローに口をつけながら聞いた
細い管の中を琥珀色の液体が移動する
男の言葉にすっかり珈琲を飲み終え、そろそろ本に戻りたいなと思っていた男が照れたような人好きのする笑みを浮かべた
「いや、これは本当に言うほどの事ではなくてですね
先程、二重人格だと言ったでしょう?
事実、これから犯罪をしようと本気で思っている人間が態々人前でそういった嗜好の本を借りて、そして注意も払わずに誰が来るか分からない住宅街で計画の段取りをする
更には、証拠として提供されかねないこの手帳を落としていく
余りにも、杜撰すぎるでしょう
大概、正常な人間が犯罪を犯そうとする場合は、それを安全な住処や肉体の内に留めておくものです
一方で、じゃあ男は精神的病気なのかというと
確かにそう言った面もありますが、血痕を隠そうとしたり、「バレたらいけない」と口走ったりどうもそれでもない
じゃあ、本当に二重人格か?
いや、もしそうでもないもしたら?
…決め手となったのは、この手帳です
と言うよりも、この手帳を見た瞬間貴方が確信したように、私も確信しました
そして、ちょっとズルをしたような心地になりました
なぞなぞ、の答えを知っている癖に、知らないフリをして話を聞いているように思えたのです
だから、僕の事をあんまり持ち上げないでください
すいません、私は少し前にこの日付と名前を聞いています
それに、もっと簡単な事実も知っているんです」
此方を見つめる男の疲労は隠しきれないが、その表情はここ数日を苦しめた悩みから解放されて晴れ晴れとしている
今夜はきっと彼も熟睡出来ることだろう
男は、秘密を明かす子供のようにはにかみを浮かべた
「実はですねーー」
続く男の言葉は来店のドアベルと共にかき消された
1人の男がくたびれた格好でドアを開け、ふらついた足取りで此方へ向かってくる
その顔を見て、眼鏡の男は目を見開いた
「おい、いくらなんでも待たせすぎだぞ」
第二の闖入者に男は苛立ったような声を掛けた
いや、どうやらこの様子では元から約束をしていたようだから闖入とは言えないか
現れた男は、眼鏡の男性よりももっと酷い隈を抱え込んでおり、顔色は青白い
無精髭のせいで、見窄らしさに拍車が掛かっている
男はまるでもう1人の男の存在に気づいていないかのようにーーすぐ側にいるにも関わらずだ!ーーその隣に座り込むと、ーー慌てて持ち主がそこに置いてあったビジネスバックを引っ張り、男の下敷きになる事を逃れた
男は「もう、駄目だ」と呟いて、テーブルに身を投げ出した
「……」
「……何が駄目なのか聞かないのかい」
「察しはもう3時間前からついている」
「いいや、きっと違う
どうせ、君は僕がまた何も思いつかずに項垂れているのだと思っているのだろう?」
「違うのか?」
「ハズレだ
全く持って大外れだ
僕は今回、漸く趣味の領域から飛躍しようと、大真面目に取り組んだんだ
真面目に専門書を読んだし、真面目に勉強した
真面目に実験までしてみた
余りにも慣れないことをしすぎて、大事なアイデアが乗った手帳までも紛失した」
「ほら」
投げ出されたそれに男の虚な目に光が灯る
死んだ魚の目、という形容がこの世で最も似合うのは彼を置いて他にいないだろう
「き、きみ!一体いつの間に魔術師になったんだい?」
「拾得物を渡しただけでなれるとは、容易な職業だな」
男の呆れた表情に目もくれず、彼の友人はそれにしがみついた
「流石だ、それでこそ僕の友人だ」
「そんな事はどうでもいいんだ
それより、その大真面目に取り組んでたそれは終わったのかい?」
その問いを逸らすように男は返答する
「実は、君に会う約束をしていたのには理由があってだな」
彼は何やら妙な顔つきで目の前の友人を見つめる
その様子を置いてけぼりにされた眼鏡の男も横から見ていた
「素晴らしいアイデアが浮かんだんだ
男が夜道、気まぐれに道を歩いていると死体に遭遇する」
「どこかで聞いたことがありそうだな」
「そして、慌てて近くの民家に駆け込むと、戻ってきた頃には死体もそれを覆っていた大量の血液も全てがまるで夏夜の夢のように消え去っている
男はホラ吹きと後ろ指を差されるが、そこに探偵が現れて、男の名誉の回復を頼まれ事件を発覚させ、そこから殺人組織の悍ましい計画へと巻き込まれていく
と、まぁこんな具合なんだがね
うん、まぁ…察してくれるかな、肝心のトリックがなぁ」
男は彼の意図ある一瞥に顔を思い切り顰めさせた
続く言葉を知っていたからである
「流石にあと一月しかないのにその状態じゃ無理だろう」
友人に掛けられたこの言葉は辛辣さを含んで重く湿っていたが、彼は最早そのような些細な問題に目を向けられないかのようだった
彼は口を開く
「あぁ、本命の小説推理新人賞は諦めた
だから、3ヶ月先のアガサ・クリスティー賞に僕は賭けたいっ!!
どうか君の頭脳で僕に死体消失トリックを授けてくれ!!」
一気に捲し立てた男はその厚顔無恥さに唖然としている見知らぬ男の視線もなんのその、恩寵に縋ろうとする信者の如く、己の信仰心を捧げた
垂れた項より高い位置に両手を合わせた男を他所に、彼の神様はふんと鼻を鳴らすと、友人もその隣の男も放っておいて、黒と白の世界へと戻っていった
最後まで読んで頂いてありがとうございます
何だよ、これがミステリーかよ
と思う方がいましたら、誠にすいません
精進します
また、ミステリー?に手を出したくなったら挑戦しようと思います
もしも、このシリーズで4作品全て読んでくださった方がいらっしゃいましたら、本当にありがとうございます