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とんとんっと講義で使った紙を机で揃える。
教本と一緒にブックバンドで纏めた私は、ゆっくりと席を立った。
残念地味令嬢エリシア。
陰でそう呼ばれる私は、エリシア・グランフィールド。
グランフィールド伯爵家の一人娘だ。
アイスブルーのくせっ毛を二つに分けて三つ編みにして、酒瓶の底かと思うくらいぶ厚い眼鏡を掛けている。
近眼が酷すぎて、眼鏡がないとなにも見えないのだ。
瞳の色は世にも珍しいピンクのグラデーション。
水の女神と呼ばれ、世界中の男性が取り合ったと言われるお母様譲りだ。
残念地味令嬢と呼ばれるのは、お母様から受け継いだ髪も瞳もまったく活かせないから。
宝の持ち腐れとは、まさにこのこと。
ちなみに、着飾ればそれなりにはなるらしい。メイドのリタはいつも私の髪を梳かしながら「勿体ない、勿体ない」と言う。
私は、着飾ることに興味がない。そんな時間があるなら惰眠を貪っていたい。
講義が終わったばかりの教室はざわざわと騒がしい。
特に騒がしい一角。
そちらには意識して目線を向けないようにした私は、そそくさと教室を出る。
「はあ。気が散って仕方ない」
廊下で小さく呟いて溜飲を下げる。
授業中だったと言うのに、とにかく五月蠅い。
何が五月蠅いって、あの男に群がる令嬢たちだ。
きゃあきゃあと黄色い悲鳴を上げている暇があれば、もう少し教養を身に付けたらどうなのか。
ぐぐっと力が入る手をぶらぶら振って緩める。ぎゅっと地面を睨みつけた私は、ふうっと息を吐いて、歩き始めた。
あの男とは、ルーディック・アレキサンドライト。
ひとつ上の、一応幼馴染。だが、よく遊んだのは6歳くらいまでの話だ。
彼は7歳から15歳まで他国に留学していた。
帰国して再会してみれば、まるで別人。
とんでもない軟派野郎になっていた。
留学先は隣の国。隣の国と聞いたとき、幼いながら不安になった。
隣の国は、この国にはない文化があるのだ。
それは『すべてを愛する』という思想だ。
博愛主義と言えば聞こえはいいかもしれないが、とんでもない。
今の彼は、求められれば男も女も関係ない。見境なく誰とでも寝るのだ。
貴族の遊びとはよく言ったものだ、このやろう。私の淡い初恋を返せ!
そう憤慨したところで、どんっと背中に衝撃が走った。「きゃあ!」と悲鳴が聞こえたので、女生徒とぶつかってしまったようだ。
「ごめんなさいっ」
べしゃりと床に転んだ私は、慌てて転がってしまった眼鏡を探す。見つけて掛けると、そこにはうんざりする顔があった。
ルーディック……。
「エリシア、大丈夫かい?」
右手は私、左手は誰だかわからないご令嬢に伸ばした彼は、優しく微笑む。
その手をパンっと払いのけた私は、「大丈夫です、失礼しました」と言って立ち去ろうとした。が、あろうことかルーディックは私を抱き上げた。
「相変わらず軽いね。ちゃんと食べてるの?」
そう言って首を傾げると、ついっと眼鏡の中を覗き込むように視線を合わせてくる。
「エリシア、眼鏡の調節をしなきゃだめ。すぐに転ぶんだから、無くしちゃうよ?」
「離してください」
「だーめ。離さない。エリシア、一緒にご飯を食べよう。今日はエリシアの大好きなローストビーフのサンドウィッチだよ。うん。決めた。一緒にご飯を食べよう!」
「えっ、ちょっとルーディック」
「じゃあ、皆、僕はエリシアとご飯を食べるから。またね」
私を抱き上げたまま颯爽と歩き始めるルーディック。
その背中を追うように、令嬢たちの声が廊下に響いた。
連れてこられたのは薔薇園のテラス。彼は昔から薔薇が大好きだ。
私の瞳を見ては新種の薔薇みたいだと微笑んだ幼い頃の彼はもう、いない。はあ。
「エリシア、美味しいね?」
確かに大好物。ローストビーフのサンドウィッチ。美味しいことは美味しい。
彼が昔のままならきっともっと美味しい……。
優しく微笑むルーディックの笑顔は幼い頃となにも変わらない雰囲気を持っている。夜空のような藍色の瞳を柔らかく細め、美しい唇を綻ばせる。
大好きだったルーディック。
どうしてこんな軟派野郎に成り下がってしまいやがったのだ。
彼は昔から愛され体質と言っていいほど、モテる。
老若男女問わず、赤ちゃんからしわしわのおじいちゃん、おばあちゃんまでモテモテだ。
さらには、動物からもモテる。
馬車を引く馬も、野良猫も、空を飛ぶ小鳥も、家畜にまでモテる。
そして今の彼はそのすべてに愛を返すのだ。
ぱたぱたと飛んできた小鳥が彼の肩に止まれば、千切ったパンを掌にのせ、頬を指で擽る。
美しい令嬢が彼に凭れれば、その髪を撫で、好きだと言えば、一夜の夢を。
さらに!
彼女を取られた男子生徒が決闘を申し込めば愛で解決するのだ、意味がわからん。
なんで決闘を申し込んだのに終わってみればメロメロなんだ、本当に意味がわからん。
だんだん腹が立ってきた私は、ローストビーフサンドを取り出して空っぽにしたバスケットをルーディックに向かって投げつけたのだった。