第四章 市街地再開発戦争勃発!最後に笑うのは再開発派か反対派か?
一九九六年、平成八年。
O157の病原菌が全国で猛威を振るい、ペルーの日本大使館が占拠された年。
この年の秋。世田谷区三軒茶屋に過去最大級の出来事が起こった。世田谷線三軒茶屋駅近くに、キャロットタワーが完成したのだ。高さ124メートル。ネーミングは区内の中学生によるもので、「ビタミンたっぷりで元気の出る名前」と評された。
「いやあ、これでこの辺りもすっかり有名になっちまうなあ」
「だけどよ、なんだよ『にんじん塔』って(笑)小っ恥ずかしいったりゃありゃしねえよ」
「そお? かわいい名前じゃん。それに遠くからもよく目立つし。」
「だよな、これで迷子にならずに三茶に来れるわ(笑)」
まあ、地元の評判もそこそこと言ったところか。
あおぞら幼稚園の年長生、金沢誠も『にんじん塔』を見上げ、
「いつかあそこにすみたいなあ」
なんて思っているのだが、生憎キャロットタワーはオフィスビルなので居住スペースがないことは数年後に知るのであった。
カモシカ保育園の五歳児クラスに在籍する石川真琴が、寺の住職から教わっている合気道の技をなぞりながら誠に、
「さいきんずっと、キャロットタワー見てるじゃん?」
「あのてっぺんにのぼってみたくない?」
「うーん、高いところにがてだし。それにせんしゅうからあそこにパパの会社がいてんしたから。だからあそこはきらい。」
石川不動産は茶沢通りの現店舗をたたみ、キャロットタワーの三階部分に移転したのだ。誠は何となく同情する様子で真琴を眺めると、真琴が鋭い正面打ちを誠に放つ。
「ちょ、やめてよ、当たったらどうすんの」
誠は思わず眉を顰める。すると二人の後ろから、
「ほれほれ。そろそろ日が暮れるわい。もう家に帰りなさい」
と禿頭白髭のこの寺の住職である能美玄慧が声をかける。
この一、二年、二人はそれぞれ幼稚園、保育園を終えると公園ではなくこの三勝寺で遊ぶようになっている。
幼稚園、保育園の最年長となった二人である。誠は母のマミを説得し、週に二回図書館に行って本を借りるようになり、いよいよ知識虫の様相を呈している。
真琴は相変わらず家庭では祖母、母から存在を無視され、保育園と夕方の誠との交流が心の拠り所だったが、夏休みから玄慧が主催する寺の合気道教室の末席に座るようになり、それが今楽しくて仕方ない様子だ。
「一日一生。誠、どういう意味じゃの?」
誠はうーんと唸り、首を振る。
「一日が一生であり、明日はまた新しい人生が始まるから、一日を大切に過ごせ、ちゅう意味じゃ。よいか。一日一生じゃぞ。カッカッカッ」
誠はちょっと呆れ顔で住職に頭を下げる。何言ってんだろ、毎日毎日、意味不明なこと言って。でもマコちゃんが尊敬してやまないおじいさんだから、まいっかあ。
二人は手を繋ぎ、イチョウが黄色く美しい三勝寺の境内を後にした。
「おねえちゃん、おかえり」
先月三歳になった孝一が辺りを伺いながら、満面の笑顔で真琴を迎える。
「ただいま、こうちゃん。お母さんは?」
「えっと、いまおばあちゃんとおはなししてるよ、だからだいじょうぶ」
そう言って孝一はウインクする。真琴はニヤリとして、
「ただいまあーーーこうちゃんこうちゃんーー」
思い切りハグする。孝一も嬉しそうに真琴にしがみつく。
「真琴―、帰ったのかあ」
父親の孝がキッチンから顔を覗かせる。
「うん。夕ごはんなに?」
「俺が作れるのは、カレーだけだって…」
「ハアー。少しはレパートレー、ふやしなよ」
「それ言うなら、レパートリー、な」
「ウザ。手あらってくる。いこ、こうちゃん」
肩を竦める孝なのである。
それにしても、祖母と母親の徹底した隔離戦術にも関わらず、なんと仲の良い姉弟なのだろう。母親が姉と喋ることを禁じれば禁ずる程に弟は姉に擦り寄っていく。すっかり物心ついた弟にとって、禁じられた姉との交流がスリルなのだろうか?
そんな薄っぺらな思考に囚われつつ、孝は仕上げのカレールーを鍋に放り込んだ。
「全く。あのデルタ地帯の頭固い連中、なんとかならないかねえ。」
不味そうにカレーを食べながら祖母の石川良子が呟く。
「まだ三分の一くらいでしたっけ? 再開発賛成派は」
もっと不味そうにカレーを弄りながら、石川ミカが良子に伺う。
「そう。キャロットタワーが出来て、駅のこっち側は再開発進んでいるのに。あっち側のデルタ地帯は、全然ダメね」
「孝さん。もっと真剣に話を進めてくれないと。このままではいつまでたっても再開発出来ませんわ。あんな薄汚れた所、早く綺麗にしなくちゃ。」
石川不動産社長の石川孝は苦笑いを返す、
『冗談じゃないよ、あすこが再開発されちゃったら、バー黒船無くなるじゃん。スナックさとみは? 絶対反対。ムリムリ』
と言う心の叫びは置いといて。
「本当よ孝。アンタが上手く切り崩していけば、東九不動産から五億って金がウチに入るんだからね、頑張んなさいよ!」
『カネの話は子供の前でしないでよ母さん』
「孝さん。年度末の来年三月までには後三分の一の賛成を取らないと。頼みますよ」
『お前、何様のつもりだよ。俺は夫だぞ、社長だぞ』
「「わかってるの?」」
「ははは、わかってるって。任せとけって。」
娘も息子もすくすく育っているのに、昔となーんも変わらない孝なのである。
「そんな訳なんだ、タカさん。なんとかならないかなあ」
スナック雅のオーナー、二宮貴子がタバコの煙を孝に吹きかけながら、
「石川の若旦那。自分が何を言ってるのかわかってるの?」
カウンターの奥では、貴子の一人娘の金沢マミがビール瓶を磨きながら孝を睨んでいる。
「この一帯を全部取り壊して、タワーマンション建てるなんて。あなた正気?」
ビール瓶で肩叩きしながら、マミがカウンターから出てきて孝の背後に回る。
「そんで、お前んとこの会社には大金ガッポガポってか? 殺すぞテメー」
ゴクリと唾を飲み込みながら、孝は
「だから、居住区の下の階に店出せるし、地権者は優先的に角部屋提供するって……」
「タワーマンションなんて住みたくないわ。それにマンションの下にスナックなんて出店できるのかしら?」
「それは… これから話し合いで…」
「ムリムリ。聞いたことねえし。マンションの下にスナック街ってか。バカじゃねオメー。死ねハゲ」
「禿げてねえし。ねえタカさん。自治会会長のタカさんが賛成してくれたら、最上階の角部屋提供するよ、でさ、住みたくないならそれを転売すれば、何億って手に入るんだぜ」
マミがゴクリと唾を飲み込む。それを一瞥した貴子は、
「無理よ若社長。あなただってわかっているでしょう、この辺りのお店は戦前からずっとやってきているの。そんな簡単にハイそうですか、なんていかないわ。」
「わかっているよタカさん。でもさ、駅の辺りは皆で話し合って再開発決めてさ、あんな凄いタワー立ったじゃん。それでみんな何億も貰ってさ。ねタカさん、ウインウインで行こうよ」
「は? 何それ、Wii Wii?」
それはあと十年後だなマミ。時代を先取りし過ぎだぞ。
「と言うか。あなたの話は全部、あの女の話だろう? なんであの女が来て話さないの?」
貴子がニヤリと笑いながら言う。
「それは… ねえ、まあ、その…」
かつて孝の亡き父親が貴子に熱を上げ、孝の母の良子が刃物を持ち出す事件が起きたものだった……
「何度あなたが来てもダメよ。そうお母さんに伝えて頂戴。律ちゃん、こちらお会計ねー」
「うーーーん… 正直ウチの組は大儲けしたわよお、再開発で。だから、ウチのオヤジもこの辺の再開発でもう一儲けって考えてるわ。困ったもんよお」
バー黒船の古びたカウンターで指定暴力団関東鉄力会系若林組舎弟頭の志賀虎男は頭を抱える。
「それでいいのかよ。ここ無くなっちまうんだぞ。え?」
マミが虎男に食ってかかる。
「マスター、何とか言ってよ。このままじゃさ、金に目が眩んだやつが賛成派に回っちゃうんじゃね?」
そんなマスターは首を振りながらグラスを磨き続ける。
「アンタのおっかさん、なんて言ってるのよ?」
「メチャクチャ反対してるわ。何億って言われてもね」
「ふーん。アンタ、ちょっとよろめいたんじゃねえのマミ?」
「ば、馬鹿野郎。そ、そんな端金で、なあ…」
マスターと虎男に白い目で見られたマミはジョッキを一気に空ける。
「それにしてもあんたのおっかさんと石川のババア、本当に犬猿の仲よねえ、昔から。」
「それそれ。ま、アタシのママがあのババアの旦那にちょっかい出したのがアレだけどな」
「それが今や、この城南地区に君臨する不動産屋と地元の自治会会長でありデルタ飲食業協会会長ですもんね。戦争ね、これ」
「オメーんとこの組はどっちに味方すんだよコラ!」
「そーなのよ。オヤジはカネにうるさい人だからババア派かしら。でもカシラ(若頭)は地元愛の強い人だからタカさん派かしら。」
「で。テメーはどっちなんだコラ!」
虎男はキッとなって、
「アタシだって地元のオンナよ。タカさん派に決まってんじゃない。」
「ふーん。なら良し。ってか、オメーんとこの組も、ちょっときな臭くなんなあ」
虎男が大きく溜息をつきながら、
「そーなのよ。組が真っ二つに割れて、大変なのよ今……」
マミは虎男の肩をポンポンと叩いてやった。
* * * * * *
「と言う訳でこれで捜査もひと段落だな。今年いっぱいでこの合同捜査本部も解散だ。後はひたすら書類仕事だな。一踏ん張り頼むぞ」
若林署に設置されていたふじ真理教団合同捜査本部長が重い肩の荷を下すが如く皆に告げた。
一九九一年に設置された合同捜査本部は、教団幹部の自供、教団本部の捜査が進み、ある一点を残しその役目を終えようとしていたー それが、
「で、『少女A』は幾つになったんだ?」
「二十六ですかね。『少年A』もですが」
彼らの間で少年A、少女Aと呼ばれていた、教団が関わった暗殺事件の実行犯だけが、未だに行方知れずなのである。
彼らに関しては教団幹部にも知っているものはなく、暗殺部隊の責任者である最高幹部の一人は黙秘を貫いている。
「ワジさん、県警戻るんっすよね?」
神奈川県警から派遣されている輪島はフッと微笑みながら、
「結構、長かったよな」
「そっすね、かれこれ八年ですもんね。てか、もうこっちにすっかり馴染んじゃったとか?」
輪島は目を細め、宙を見つめる。
「ワジは、去年出来た転籍制度を利用するんだってな」
輪島は小さく頷く。
「そっか。県警から警視庁に。でも階級とか給料とか下がっちゃうんでしょ?」
「まあな。でも、もうあっちには俺の居場所はないし。こっちに友達も多く出来たし」
「それ言うなら、彼女、でしょ! あの看護婦の色っぽい!」
柄にもなく顔を赤らめる輪島に、室内で笑い声が上がる。
「配属は決まったの?」
「多分、花園署になると思う」
「ああ、あの爆破事件の」
「うん。あそこはまだ帳場立ってるからね。そこに入れられると思う。」
「でもさ。ワジさん、少年と少女A、今どこで何してると思う?」
「それは…… どうかな……」
輪島は確信していた。
三年前の三浦半島城ヶ島で起きたあの事件。義理の娘を絞め殺そうとした石川ミカを狙撃した犯人。
間違いなく、あの二人だ。
何故あの二人が石川ミカを狙撃したのか。たまたまそこにいくわしたのか。否。
彼らは、その義理の娘を救ったのだ。その義理の娘とは。
石川真琴。
石川孝、そして前妻の石川琴美との一粒種。
輪島はこの数年、ずっとこの石川琴美を洗ってきた。しかし彼女の戸籍が正式でないことがすぐにわかり、そこから彼女の過去が全くわからなかった。
バー黒船に石川孝が通うことを突き止め、自分も常連になりそれとなく孝に琴美の過去を聞き出したが、どうやら彼も彼女の本当の過去を全く知らないようだった。
その石川琴美とあの城ヶ島ですれ違った! しかも言葉も交わしていた!
輪島は未だにあの瞬間を悔やんでいる。真琴の危機を救うために島の駐車場から急いでいたので、すれ違った親子連れへの注意関心が殆どなかったのだ。道を尋ねるために言葉も交わしたのだが、声音一つ覚えていない。顔も帽子とマスクで隠されていたのでわからない。
しかし。これは刑事の直感だが。
あの女は石川琴美に間違いない。そしてその隣の男は、少年Aに間違いない。
少年A。彼に関しては全く情報が無い。
だが。輪島は、何の根拠も証拠もないのだが。
少年Aは、金沢マミの失踪した元夫、金沢誠一ではないか
そう考えている。
この事は本部には報告しておらず、あくまで彼の脳裏で組み立てられた推理であった。今自分は金沢マミの側にいる。石川孝も身近にいる。この環境を変えたくなかった。ひょっとしたらこの先二人に何らかの連絡を入れるかもしれない、その時こそ……
それが輪島が県警から転籍を希望した、最大の理由であった。
「あの、ね…… できちゃった、みたい……」
サキが声を震わせ恐る恐る輪島に告げた。
「そうか。なら、籍入れるか?」
ポカンとした顔でサキは口を開ける。
「あ、アタシみたいので、いいの?」
「それを言うなら、こんなバツイチの五十間近のデカのオッサンで、いいのかい?」
輪島は口を歪めながら呟く。
「いいに決まってんじゃん! 輪島さんが、いい。輪島さんじゃなきゃ、ダメ!」
サキと輪島しかまだいないバー黒船にサキの歓喜の絶叫が響き渡る。
マスターはニッコリ笑いながら、
「おめでとうございます。店からのお祝いです。」
と言ってシャンパンの入ったグラスを二つカウンターにそっと置いた。
これが輪島が県警から転籍を希望した、最高の理由であった。
「いやあ、出来ちゃった結婚、とはな。なかなかナウいじゃん。やるな、サキ」
嬉しそうに、それでも茶化しながらマミがサキの背中をドンドン叩く。
「痛えって。まあ、その、なんだ…… ま、そーゆーことなんで」
「で、式はどーすんだ? 何ならアタシが仕切ってやるぞ。いや、アタシが仕切る。」
サキは首を振りながら、
「輪島さんは二回目だし。アタシもそーゆーの柄じゃねーし。式はしねーよ。」
マミは残念そうに、
「そ、そうなのか? マジか、残念……」
「それにもし式やったら、参列者の半分がデカだぜ。ヤバくね?(笑)」
「ムリムリムリ(笑)絶対行かねえ。虎も来れねえわな」
虎男は大声で、
「絶対ムリよ! お願い、式なんてやめて頂戴! その代わりにさ、ここでサクッとやるって言うのは?」
マミとサキはおおお、と感嘆しながら、
「たまにはいいこと言うじゃねえか、虎。よし。お前仕切れ。」
何度も何度も言うが、虎男はサキとマミの六歳年上、かつ指定暴力団若林組舎弟頭である。
「よおーし。仕切るわよおー、一世一代のパーティーにしてあげるわ!」
意味不明の言葉を絶叫しながら盛り上がる虎男なのである……
「そんでそんで? いつ入籍すんの? いつから一緒に住むの?」
「入籍は、今度の大安の日。だから、三十日の土曜日。あ、マミ。今度さ、ハンコ持ってきてくんねえかな……」
「あ。アレか。婚姻届の、アレな。よーし。アタシん時はアンタに書いてもらったから、今度はアタシの番だな。よっしゃあ、気合入ってきたわ」
「気合はいいって。あと、輪島さんが今年いっぱいで神奈川県警を辞めんだ」
「「へ?」」
マミと虎男の目が点になる。
「そんで年明けから、警視庁に入るんだって」
マミは嬉しそうに、虎男は嫌そうな顔になる。
「だから、こっちの公務員宿舎に二人で入ろうかって。」
「ああ、上馬にあるヤツか。あそこならオメーの病院もちけーし。ここもタクればすぐだな」
サキは頷きながら、
「ま、色々手伝いしてもらうかも。そんときゃヨロシク!」
「「あいよっ」」
マミと虎男は元気よくハモったものだった。
* * * * * *
この二人は、他の子と何かが違う。
三勝寺住職能美玄慧が境内で遊んでいる真琴と誠を初めて見た時、直感した。あれは二年前になるだろうか。暑い夏が過ぎ、九月の終わりになっても汗の止まらないとある夕方。見たことのない男の子と女の子が境内の隅でこっそりと遊んでいるのを見かけ、
「まだまだ暑いのう。どこから来たんじゃ?」
と声をかけた。
二人は振り返り、玄慧の目を真っ直ぐに見つめた。その視線の、なんと鋭く熱いこと!
男の子は知的な面持ちで物静かな雰囲気を、女の子は内面に溜まっている生気を必死で押し隠している雰囲気を醸し出していた。
「そろそろ日が沈む。お家に帰りなさい」
二人は顔を合わせ頷き、何も言わずに去っていった。
「また、遊びに来るんじゃぞ」
二人は立ち止まり、玄慧を舐め尽くすように眺めた後、軽く頷いて去っていった。
次の日から。ほぼ一日も欠かさず、二人は寺にやってきた。玄慧が声掛けしてもそれに応えるようになったのは、一ヶ月も経った頃だろうか。
男の子は飽きもせずに境内の虫や草などの生き物の観察に没頭し、女の子はそれに付き合いつつ、辺りを走り回ったり木に登ったりしていた。
ある日玄慧は、
「どうじゃ。こっちに来なさい」
と二人を自らが主催している合気道の道場に誘った。二人は大勢の門下生の熱心な稽古に圧倒されて、だが女の子の目は煌々と輝きだした。
「どれ、ちょっとやってみるかの?」
男の子は首を横に振り、女の子は首を縦に振る。その日が真琴の合気道と出会った日であった。真琴はすぐに稽古に熱中し、週三回の稽古を以来一日も欠かしたことがない。
誠は真琴が稽古の日はそれをぼんやりと眺めている。半年も経ったある日。真琴がどうしても出来ない技があった。何度繰り返しても上手くできず、自分に苛立ちを感じていると、
「それ、こうやるんじゃないかな?」
誠が靴と靴下を脱いで道場に上がり込み、その技を一発でやってみせた。
玄慧は真琴に熱い情熱を、誠に冷静な情熱を見、以後真琴には発散を、誠には凝縮を与えるように心がけている。
「ありがとうございました」
稽古が終わり、子供の挨拶の声が寺中に響き渡る。その声に揺られ、境内のイチョウの黄色い葉が何枚か散っていく。
汗まみれの真琴が見学していた誠の所にトテトテと歩いて行き、
「たまにはマコもやればいいのに」
「見てる方がたのしいんだ」
「なにそれ。やあー」
と突然誠に攻撃を仕掛けるが、誠はなんなくそれをいなし、
「きがえてきなよ。あせがひえるとかぜをひいちゃうよ」
「はあーいよっと。」
そう言うと、くるりと背を向けて道場へ戻っていく。
その背中を眩しそうに見つめる誠であった。
「うち、もうすぐひっこしをするんだって。パパが言ってた」
寺からの帰り道。不意に真琴が口ずさむ。
「どこに?」
「おばあちゃんのいえのちかく。代沢。」
「そっか。それだと小学校はべつべつになっちゃうね」
誠は寂しそうに呟く。
「え…… そうなの? なんで?」
「小学校はがっくせいなんだ。ぼくのじゅうしょだと三軒小で、代沢なら大沢小かな」
「そう、なんだ…… またべつべつになっちゃう、ね…」
「なにかとくべつなりゆうがあれば、えっきょうできるらしいけどね」
「えっきょうって?」
「じゅうしょにかんけいなく、すきな学校に行けること。」
真琴は目を輝かせて、
「それならわたし、三軒小に行きたい! マコといっしょが、いい!」
「それは、ぼくも、マコちゃんといっしょがいいけど」
「ああ、なんとかならないかなあ。うちはお母さんがぜったいダメって言うだろうな。」
「お父さんは?」
「パパはたぶんへいき。ねえマコ、何かいいかんがえ、ないの?」
「わ、わかった、かんがえてみるよ」
「はやく。今年中だよ。」
「わ、わかった……」
日も暮れかけて木枯らしも吹く中、誠は額に汗を滲ませ、この難題にどう対処すべきかを考え始めるのだった。
「えええ? 三軒小に越境入学したい? 大沢小の方がいいんだぜ。って、俺も三軒小だったけどな。てか、お前よく知ってるなそんなこと」
「いいから。パパ、何とかして。ぜったい。」
「ええーーーー、俺かよー、マジで?」
「うん。マジ。お母さんじゃぜったいダメって言うから」
「だよな、そんな面倒くさいこと、嫌がるだろうな」
「だから。パパ、何とかして。でないとー」
孝はゴクリと唾を飲み込んで、
「で、ないと?」
「私。このいえ、出る。マコのいえの子になる」
「おいおいおいおい、それはあかん。それだけは、マジでヤバいって。俺まで追い出されちまうよ!」
「じゃあ、何とかして!」
「うえーーーーー」
大袈裟に叫ぶ父親を放置して、真琴は自室に戻る。まずはこんなもんかな。誠に道中指示された事、
「まずはね、お父さんをみかたにすること。そしてごういんにまかせちゃうこと。ダメって言うなら、ボクの家の子になるって言うこと。」
「あ。それなら今すぐなりたいかも」
「……、と、とにかく。今日かえったら、お父さんにそれ言うんだぜ」
真琴はギロリと誠を睨んで、
「なに? 私といっしょに住むのいやなの?」
「い、いや、ウチはせまいから」
「きょねんもことしも、なつにおとまりしたのに?」
「それは、そうだけど、いっしょに住むには、せまいよ」
「ま、いいわ。かえったらパパに言っとくわ。」
案外上手くいくかもしれない、そんな淡い期待に胸を膨らませる真琴であった。
「へ? そんなの大沢小がいいに決まってんじゃん。三軒小なんて、アタシらみたいなのの吹き溜まりなんだから。大沢小は代沢のお坊ちゃんお嬢ちゃん達が多いから、あそこん家なら三軒小よりいいんじゃね?」
「いやだよ。ボクマコちゃんと同じ小学校がいいよ」
「お、おお。そっか。ま、惚れたオンナと同じ学校に行くってか。キャハ、中々カッケーじゃん、誠!」
「ボクが行くんじゃなくて。マコちゃんが来るんだって!」
「お、おお。そっかそっか。…… はあ? で、アタシに何しろってか?」
「マコちゃんのお父さんをせっとくしてよ。」
「お、おお。説得、な。ま、会ったら、言っとくわ」
たよりないなあ。おばあちゃんにも言っておこうかな……
「お・こ・と・わ・り。」
貴子はキッパリとお断りする。
「あそこの家とは、関わりたくないの。わかるでしょ?」
いやボク、イマイチわからないよ。どうしておばあちゃんと石川けがなかわるいのか。
「真琴ちゃんはね、可愛そうだし。あのキチガイ嫁の犠牲者だし。あなたが仲良くするのは吝かじゃないよ。でも。あのイカれババアとキチガイ嫁と関わるのは真っ平御免ですからね。」
「それって、おしごとにかんけいしてるから?」
「そうよ、そうなの。聞いてよ誠、一昨日自治会の会合にイカれババアがやって来てさ、みなさんもうお気持ちは固まりましたか、タワーマンションの地権者枠は申込順ですよ、早く決めて頂くほど高層階を提供出来ますよ、転売するときには高層階の方が高く売れますのよ、ほっほっほ、だって。冗談じゃないわ。もう話が転売ありき、なのよ。ねえ誠、どう思う?」
「…… みなさんのはんのうは?」
「もう、半分位の人があっちに傾いちゃってるのさ。このままじゃ賛成派が三分の二を越えちゃうわよ! ねえ誠、どうしたらいい?」
マミが貴子を睨みながら、
「ちょ、なんで幼稚園児に意見求めてんのよ。誠にそんなことわかる訳ないじゃん」
貴子はマミを睨み返して、
「アンタよりずっとマシですから。」
「んぐっ …… で、誠、どー思うよ?」
「はあー。まずはさんせいしそうな人たちのお話をちゃんときいてみたら? お金にこまっているじゃないかな、その人たち。」
「そう、よね。ええ、そうだわ。吉田さんも高木さんも。あと鈴木さんもみんな借金だらけだわ。ねえ、どうすれば彼らをこっちに引き入れられるかしら?」
「お金、かしてあげれば、おばあちゃんが。」
「そんなお金、ないわよっ。銀行も今は貸し渋りの時代だし。」
「それなら、国か都からかりれば? けいきたいさくでそういうしくみができるって、子供しんぶんにかいてあったよ」
「国? 東京都? お金を貸してくれるって?」
「うん。区民センターに行ってきいてみなよ。」
「ふーん。そんなのあるんだ。ま、ダメ元で当たってみるかねえ。」
「だからおばあちゃん、マコちゃんのえっきょうの話なんだk……」
「ダメ。絶対ムリ。」
この頑固さにボクはこれから相当手を焼くだろうな、ま、それも楽しそうだけど。半分膨れっ面で半分嬉しそうな顔で、誠は風呂場に入って行った。
* * * * * *
「はあ? 新制度を使う? どう言う事なのよ!」
良子が脳味噌を沸騰させながら吼える。
「いやそれがさ、不況対策でこないだ国会で可決された地方自治体の小規模企業向け融資に応募して、間もなく審査に合格するだろうって自治会で言ったんだって。で、それなら再開発する必要ないんじゃねえの? ってさ。」
孝が恐る恐る良子に告げる。
「その手があったのね。どうしてそんな制度をあんな無知無学の女が思い付いたのかしら。誰かいいブレーンがいるの?」
孝の妻、ミカが首を傾げるが、まさかそれが幼稚園児とは露ほども思わず。
「ハアー。銀行が不良債権でてんてこ舞いで、絶対融資なんて有り得ない、ってたかを括っていたのが失敗だったわ。まさかアイツらが自治体の融資に目を向けるとはね。」
「お母様、どうしましょう、このままじゃ賛成派が三分の二を占めるのは難しくなりましたよ」
良子はミカに、
「仕方ないね。こうなったら、昭和なやり方で行くしかないわね」
ミカはキラリと目を光らせて、
「アイツら、ですか?」
良子は毒林檎を持った老婆の表情で、
「そう。アイツら、さ。」
孝は一人身震いをした。
関東鉄力会若林組。戦後間もない一九四六年に設立された老舗である。現在三代目組長、古賀一徹。若頭は高松貫太。若頭補佐に田中、鈴木、そして舎弟頭兼本部長の志賀虎男。以上が幹部である。構成員は二十四名。昨今のバブル崩壊後の不景気のせいで、就職の問い合わせが多く、徐々に所帯数が増える勢いである。
組長の古賀は金に汚い守銭奴、と業界では有名であり、駅前開発では所謂裏仕事を一手に引き受け、莫大な利益をあげたものだった。ただ部下には気前が良く、そこそこ好かれている。
一方、組ナンバーツーの高松は地元出身で仁義に厚く、地域住民から絶大な支持を受けているのだが、部下にはキツく厳しく、かなり疎まれている。
ので、組は甘いニンジンの組長派と仁義バキバキ若頭派の真っ二つに割れ、そこそこにギスギス感が醸し出されている今日この頃である。
そんな中、先日石川不動産のラスボスの石川良子から組長の古賀にビジネスの依頼が舞い込んだのだ。
「デルタ地帯の再開発の件や。賛成派を三分の二まで増やして欲しいそうや。」
組長派の田中が、
「オヤジ、あと何人で三分の二になるんですか?」
「そやな、えーと、全体で五十軒ちょいでな、今賛成が十九軒やって。」
「てことは、あと十七、八ってとこですかね」
ヤクザの幹部クラスは、暗算がメチャクチャ得意である。
「ま、大事とって、二十やな。おい高松。お前どう思う?」
反組長派の若頭、高松は眉を顰めて、
「オヤジ。俺は反対ですよ。あの一帯は戦前からの古い街でしょ。そこにドンとタワマン建てるなんて。ショバ代全部チャラになっちまうんですよ。いいんすかそれで?」
古賀は大きく溜息を吐き、
「そないなチンケなショバ代なんていらんわ。石川は一軒に付き、一千万出す言うてるで。」
組長派がおおお、と声を上げる。
「そんな端金、すぐに無くなっちまいますって。それよりも地域を大事にして互いに寄り添って行く方が確かでしょう。それがウチのやり方じゃあねえんですか?」
関西から来た地元出身でない古賀は口をへの字に曲げ、
「コラ貫太。おんどりゃあ、親の言うことに意見するんか?」
「そうですよアニキ。オヤジも俺ら組員の事を考えて、おっしゃってんっすよ」
「田中テメエは黙っとれボケがあ。オヤジ、これだけは言わしてもらいますよ。俺はこの件はタッチしませんので。どうぞオヤジがやってください。そんじゃあこれで。おい行くぞ鈴木っ」
そう一方的に言い捨てると高松は鈴木を従えて部屋から出て行ってしまう。
「なあ虎。アイツなんとかならんか。この件はウチが総出でやらにゃあ間に合わん案件やで。そやろ?」
組内では中立派の虎男だが、この件に関しては高松に分があると考えている。てか、バリバリ地元の虎男がこんな再開発に乗るわけがない!
のを知っている組長による、いわば踏み絵なのである。
「虎よお、本部長の肩書き付けてやったん、忘れたんとちゃうか。」
そう。年明けから、虎男は舎弟頭兼任の本部長に就任するのだ。この世界の本部長とは一般企業なら総務部長と言ったところか。まあ何でも屋さん、である。
だがこの肩書きにより、同業他社に対して箔が付くことが期待される。若林組の本部長。なんかカッコいい。
「へえ。取り敢えずカシラとはじっくり話してみたいと思ってます。」
「おう頼むで虎。この件で活躍したら、いよいよテメエも若頭補佐、やな。なんなら一気にカシラでもええよ?」
なんだかんだで人心把握の上手な組長である。虎男は頭をペコリと下げて、部屋を出て行った。
「おう、懐かしいなこの店。昔はよく通ったもんだったわ」
バー黒船に高松を誘い、虎男は自分のボトルを用意させた。
「ハハハ、焼酎か。今流行ってんだって? 流石、若林二中のお洒落番長だなオイ」
高松は虎男の八つ先輩である。虎男もそこそこ有名な不良だったが、高松は地元の伝説の不良であった。
なんなら、あの冷静沈着なこの店のマスターの顔が引き攣る程に。
「大丈夫っすよマスター。もうあの頃とはチゲーますから。もう一見の酔っ払いの耳ちょん切ったりしませんって」
それがショックで、以来餃子を食えなくなったマスターがカクカク首を振る。
「ったく。頼みますよ貫太さん。大人しくしてくださいよ、この店では」
高松はニヤリと笑いながら、
「この店では、じゃねーだろう。え?」
虎男は焼酎ロックを作りながら、
「ったく。わかっててオヤジに楯突いてんすか?」
「そうじゃねえよ。俺だってちょっとはオヤジを敬うわ。ちょっとは。」
「まあ、オヤジと貫太さん、水と油みてえなもんすからねえ。」
「わかってんじゃねえか。流石本部長! いよっ」
半分呆れながら虎男は俯く。
「貫太さん。本気でオヤジの話、乗らないんすか? 再開発の話、シカトするんすか?」
「シカト、じゃねえよ。」
「は?」
「ぶっ潰す!」
「え?」
「トラ。テメエ、この店なくなっちまうんだぞ。いいのか?」
「それは…… ちょっと…」
「だろ。なら俺につけ。悪いようにはしねえ。」
「それって、組を割るって事すか?」
虎男は高松を睨みつける。虎男は地元を愛するが如く、若林組そのものを愛しているのだ。
「仕方ねえだろ。このままだとあの関西のオッサンに俺たちの地元を滅茶苦茶にされちまうんだぜ。」
「それなら他に方法が、もっとちゃんと話し合って…」
「はあ? あのオヤジが聞くわけねえだろ、大金がかかってんだからよ。仁義もへったくれもねえ、あの守銭奴がよ」
ハアー 虎男は大きな溜息をついてから焼酎ロックを一気に飲み干した。このままでは組が割れてしまう。最悪、高松のアニキは弾かれてデルタ地帯に醜悪なタワマンが建っちまう。どうしたらいいんだ、どうすればいいんだ。必死に頭を巡らす虎男であった。
その一週間後。
若林組の幹部会上で、組長の古賀が紙袋を皆の前に置き、
「石川不動産からの手付金や。おい田中。この金で上野や新宿でガイジン雇って来いや。」
「へい。何人位?」
「そやな。百人もいればええやろな。」
「わかりました。」
古賀は高松を見下しながら、
「高松。デルタ一帯のみかじめ、全部解除してこい」
高松は憤怒の顔で、
「どういう事ですか?」
「もう、みかじめ料はいらん。あとは勝手にさらせ、っちゅうことや。」
「そんなの、いけません。無理ですっ!」
古賀は鬼の形相となり、
「親の言うこと聞けん奴は、破門や。」
一同が青くなる。組長が破門状を同業他社に回せば、その者は二度とヤクザ社会では生きていけなくなる。古賀は高松をヤクザ社会から放逐する、と脅したのだ。
虎男はダンと立ち上がり、
「オヤジ、それはあまりにも、」
「なんや虎。ワレも高松の味方するんか? いいかお前ら。高松につく奴は皆赤字やで。もうこの世界では生きていけんで。」
虎男は真っ青になりヘナヘナと座り込む。折角老舗の本部長まで上り詰めたのに。もしそんな破門状を回されたら、ただのチンピラ以下となってしまう。
関東鉄力会、という広域暴力団の看板があるからこそ、高松も虎男もそれなりのヤクザとして世間に認められているのだ。だがそれを外されたなら……
「親の言う事を聞かん。これ、立派な不義理やで。そないな不義理な奴、この世界ではどこも相手にせえへんで。高松、虎。お前らそれで、ええんか? ああ?」
皆が見守る中、高松は絞り出すような声で、
「わかりました」
と溢すしかなかった。
* * * * * *
「ねえ石川さん。もう師走ですよ。年度内と言ったら三月末。あと三ヶ月ですよ。大丈夫なんですか?」
東九不動産の開発部の山田が眉を顰めて良子に迫る。
「年度末までに賛成多数。再開発同意書にハンコ。それがなきゃ、この計画は中止になっちゃうんですよ。いいんですかそれで?」
良子は全力で首を振る。東九からの五億円が入らなければ、自腹で若林組に払った手付金の二千万円はドブに捨てたこととなってしまう。
それにタワマン売却時の手数料収入も見込めなくなってしまう!
「ウチも大分厳しくなってきて。もう来期以降、この辺で大型事業なんて不可能になるんですよ。これがこの辺での最後の大事業なんです。もし三月末までに同意書取れなかったら、弊社としてはこの事業計画を打ち切らざるを得ません。」
良子は山田に縋るように、
「大丈夫です。なんとかなります。もうすぐに動きますから。あと三ヶ月、どうかお待ちください!」
山田は見下した目で良子を眺め、いい報告をお待ちしていますと言って石川不動産を出て行った。
良子は携帯電話を取り出し、メモリー機能や通話履歴を無視して若林組の古賀組長の携帯番号を一つ一つプッシュする。
「ああ、古賀さん? 石川ですけど。例の件、どうなってるのかしら。先方から催促されてるんだけど。おたくちゃんとやってるのかい? え? 年明けから動く? それじゃ遅いんじゃないの? 今日から動きなさいよ。一体いくら渡したと思ってんのよ。もっとチャチャッとやんなさいよ、ったく。じゃあ。」
携帯電話を新品のデスクに放り出し、
「孝! アンタも少しはアイツらを手伝ってやんなよ。ほら、虎にもっとプッシュして。いいかい、情けなんていらないんだからね。どうせいなくなる奴らなんだから。」
いてててて。最近孝は胃が痛む。母親からの圧力。妻からの圧力。そして娘からの圧力。その圧力から少しでも解放されるべく、孝は虎男の携帯番号がメモリーされた3を押し、通話ボタンをプッシュするのであった。
十二月三十日。バー黒船には孝、虎男、マミ、サキといった非常に濃いメンバーが顔を揃えている。孝は焼酎のボトルをテーブルの真ん中にドンと置き、水割りを四つ作っている。
「おいトラ。テメエどういう事なんだよ。みかじめもう要りませんよって。ああ?」
マミが虎男を睨め付け低い声で唸る。
「仕方ないのよ。オヤジの命令なんだから。歯向かったらコレよこれ」
手で自分の首をスパッと切る仕草をしてみせる。
「それって、もうみかじめは取らない代わりに、店で何があっても助けてあげません、って事なんだろ?」
サキが膨れの目立ち始めた腹を摩りながら虎男を睨みつける。
「うん…… そういう、こと。」
「テメエら、なに企んでやがんだよコラ! まさか反対派の店にダンプ突っ込ませんじゃねえだろうな?」
「まさか、そんなことしないわよ。ただ……」
「「ただ?」」
マミとサキがハモる。
「もおーーーー、どうしたらいいのよ、アタシ!」
虎男が逆ギレして叫ぶ。
「アタシだってこんなの間違ってるって思ってるわよ。でもオヤジのいう事は絶対なの。もし逆らったら、ヤクザ社会から弾かれちゃうの。アタシや貫太さんからヤクザ取ったら、何が残るっていうのよ! 学歴もステータスも無い、ただのチンピラよ。どうやって生きて行けって言うのよお!」
「知るかボケ。そんな事より、うちの店、この店、ぜーーんぶ無くなっちまうんだぞ。いいのか? 地元だろ地元! 地元がどーなってもいいのかよ。それがオメーの地元愛かよ。そんな程度で地元のいい顔役してたのかよ! ざけんなコラ!」
マミがグラスの中身を虎男にぶっかける。泣く子も黙る関東鉄力会若林組の本部長の顔から焼酎が滴り落ちる。
「アンタも、何か言いなよ。元はと言えば、アンタんとこのクソババアのせいだろ。ええ? 地元の絆をぶっ壊して幾ら手にすんだ、ああ? ざけんなコラ!」
サキがグラスの中身を孝にぶっかける。今や飛ぶ鳥落とす勢いの石川不動産代表取締役社長の顔から焼酎が滴り落ちる。
「オメーら二人して…… どーなってもいいのかよ、この辺が無くなっちまっても。アタシゃ、やだよ。ママの店無くなるの、やだよ。ここが無くなんの、やだよ」
マミの瞳から大粒の涙がポロポロ零れ落ちる。
「なんつーかさ。完徹仕事終わってヘロヘロでさ、そんでここで飲む一杯ってーのが、どんだけ美味いか知ってっか? 甘露だよ甘露。この酒飲むために仕事してんじゃねーかって位、うめえんだよ。それを、おめえら、アタシから取っちまうのかよ。そんな権利、おめえらにあんのかよ。」
サキの瞳から大粒の涙がボロボロ零れ落ちる。
孝は深く頭を落とし、微動だに出来なくなる。虎男もしばらく動けずにいたが、意を決したかのように顔を上げ、
「これから言う事。誰にも言わないで頂戴。」
四人が顔を集め、虎男の話を聞き、そして戦慄した。
「ガイジンって、嘘でしょ?」
「そいつらが、店で大暴れして…」
「そ、そんなのサツが黙ってねえだろ!」
「ま、まさか家族にまで手を出すとか?」
大きく溜息を吐いた虎男が、
「お金の為ならその位平気でやっちゃう。それがオヤジなのよ」
マミとサキは冷水をぶっかけられたような気持ちであった。
「じゃ、じゃあこの店、も…… ?」
「そ、そんなこと、させないわ、よ……」
と叫ぶ虎男の語尾が寂しく萎む。マスターはグラスを磨きながら小さく溜息をつく。
「なんとかしなきゃ。ねえ、カシラはなんて言ってんのよ?」
「そうよ、高松さんがそんなこと許すはずねえだろ!」
虎男は首を振りながら、
「破門状。それをチラつかされたら、カシラもどうしようもない……」
そんな、マミとサキは呟いた。
「アタシたちは親に逆らえないの。逆らったら弾き出されてお終い。そんな世界なの。」
どうすることも出来ない。それだけが理解できたマミとサキだった。
「なあバカ旦那、何とか、何とかなんないの?」
孝は二人を申し訳なさそうに眺めながら、
「俺にはどうすることも、できないさ。」
「テメエの親だろ、なんとか……」
力無く首を振る孝を呆然と見つめるしかなかった。
「開発元の、東九不動産が決めたことなんだ。政治家も大銀行も多く動いてるって言うし。もう町の一塊の不動産屋じゃどうしようもないんだよ。ただ……」
マミ、サキ、そして虎男が孝の顔を食い入るように見る。
「来年の三月末。ここまでにデルタ飲食店協会の同意書が取れなければ、計画は白紙になるんだ。」
三人は目を見開き、口を大きく開け、
「「「それを、早く言えやボケ!」」」
と同時に怒鳴ったものだった。
年が明け、三ヶ日も過ぎた頃。高松が自腹で借りているマンションの一室に高松派の組員達が年賀の挨拶に来ていた。
「それで、田中のヤロウは百人、集めたのか?」
若頭補佐の鈴木は大きく首を振り、
「いいえ。あの野郎、ひとり頭十万で百人集めるところを八十人だけにして、二十人分抜いてますよ。ざっと二百、っすね」
高松は大きく溜息を吐き、
「どいつもこいつも、カネ金カネ金。渡世の仁義は一体どこ行っちまったんだよ、ええ?」
虎男は同意の証に深く頷く。
「で。虎、お前の話は間違えねえんだな。三月末までに同意書取れなきゃ、計画は白紙だって。」
「ハイ。石川の社長に聞いたんで間違いありません」
「ああ、そっか。オメエとあのボンクラ、幼馴染だったっけか」
「そう、なりますかね。」
虎男は軽くムッとする。
「よし。徹底的に邪魔すんぞ。まずはガイジン部隊の話、サツにタレ込め。各店に情報流せ。そんで何とかして三月まで我慢するよう説き伏せろ。わかったか?」
高松派の社員、もとい組員達が一斉にヘイっと声を上げ、部屋を出て行った。
「虎。正直、オメーがこっちついてくれて、助かったぜ。必ず報いるからよ。」
虎男は軽く微笑み、デルタ地帯へ向かうべく高松の部屋を後にした。
* * * * * *
「新年になって、やっとボンクラどもが動き始めたみたいよ。これで話が進むってもんさ」
得意げに良子が顔を歪ませる。
「それにしても、アウトソーシング、それも国外、とは中々組長さん、やりますねお母様」
生ぬるい! そう心の中で叫びながらミカが良子を持ち上げる。
「後は、話が変なとこに行かないように、口を閉じなきゃ、だね。分かってんのかい! アンタに言ってんだよ孝!」
か弱き息子はひっと身体を丸めた。
「それと。真琴の事だけど、孝さん。あの子、あそこの子と仲良くするのやめさせてくださいな。どこから話が漏れるかわからないし。冬休み明けからは保育園終わったら家に直帰させてくださいな。」
か細き夫はペコペコ頭を下げた。
トラ達、大丈夫か? 上手く妨害できるのか? 三月まで、奴らの攻勢を阻止できるのか?
腹の中で彼らを心配しつつ、孝は一人事務所を抜け出し、三勝寺に向かう。真琴と誠くんは一体何が面白くて寺なんかで遊ぶようになったのか。真琴が何か寺でやっている武道にハマっているのは洗濯物から窺い知れるが、深く詮索したことはない。あ、石川家における洗濯とは孝の貴重な存在意義である。
「おおい、真琴。それに誠くん。ちょっと話があるんだ」
二人が初詣の邪魔にならないように寺の裏側で遊んでいるのを見つけて孝は近づいた。
「これからしばらく、真琴は保育園終わったら家に直接帰れって。お母さんがそう言った。」
真琴は眉をへの字型にして、
「どうして? それじゃ合気道行けないじゃん。イヤだし。」
誰に似たんだか、最近口調が生意気である。
「仕方ないよ、お婆ちゃんもそうしろって言ってんだよ。」
「イヤだ。」
「頼むよ、真琴〜 なんでも買ってやるからさあ」
「イヤなものはイヤ。それよりマコと同じ小学校行く話、どうなってんの?」
んっぐ、孝は喉を詰まらせる、餅食ってる訳でもないのに。
「そ、それなんだけど。ちょっと、しばらくの間、誠くんと会うの、やめなさいって、お母さんとお婆ちゃんが。」
あくまで人のせいにする孝。それをなんなく察知する二人のマコト。
「どういうことだろ。会っちゃいけないなんて……」
「たぶん、ぼくのおばあちゃんとマコちゃんのおばあちゃんの何かのかくしつだと思う。」
「カクシツ? 何それ?」
「ケンカしているじょうたい。それがさらにあっかしているようだね」
孝は誠の聡明さに感心してしまう。
「それって、パパのかいしゃがタワマンたてる話?」
孝はギョッとなる。正確には建てるのではなく立ち退かす、のだが。一体どこから真琴はこの話を嗅ぎつけたのだろう。
「それにタカさんがはんたいしてるって話?」
孝は渋々首を縦に振る。
「でもそんなのアタシら子どもにはかんけいないじゃん! なんでマコとあそんじゃダメなのよ! おかしいじゃん、そんなの!」
正論だ。正に正鵠を得ている。だがな真琴、世の中は正論だけじゃ生きていけないんだわ……
「あは、ロミオとジュリエットみたいになってきたね、ぼくたち」
誠がニヤリと笑いながら孝を睨みつける。怖っ 状況を分かっていながら、それに流されまいとする決然とした眼差し。いい男だなあ、まだ若いけど。
「そんな訳で。当分二人は会えなくなるから。さ、真琴、帰るよ。誠くん、元気でな。」
暴れる真琴の手を引きながら寺を後にする孝であった。
「上等じゃねえか。いよいよ全面戦争ってやつか、コラ!」
マミが異様にハイテンションとなる。戦争って、まさかそんな。誠はそんなことにはならないよ、と母を宥めるのだが。
「そうね。当分真琴ちゃんと会うのはやめなさい。アイツらのことだから、マコちゃんのこと攫うくらいするかも。」
マミは真っ青になり、誠は呆れ顔で首を振る。
「そんなことする訳ないよ。そんなことしたらあの会社つぶれちゃうって」
マミが震えながら、
「チゲーよ、そーだよ、誠、お前危ねえわ。ママ、当分誠一人で外出さないで!」
貴子が不審そうにマミを見るとマミは軽く顎を上に動かす。貴子は溜息をつきながら、ベランダでタバコ吸おうっと、と言ってソファーから立ち上がる。
「なんですって! アイツら、若林組動かして、そんなことを?」
貴子は咥えていたタバコをあっさり下に落としてしまった。小さな赤い火がみるみる小さくなり、一階のベランダに落ちた時に一瞬明るくなり、すぐに闇に紛れた。
「カシラは大反対してんだよ、もちろんトラの奴も。でも多勢に無勢ってか、中々上手くいかねえみたい」
娘がちょっとしたことわざを絡めてきたのを驚きながら、
「それじゃあ今組は二つに割れてるのね。道理で最近組の人ちっとも店に顔出さなくなった筈だわ。それで、古賀さん、どこまで本気なの?」
「いや、今回はガチで来るよ。下手したら怪我人、いや死人が出るよ、仁義不問のガイジンだからな」
娘が新語を創作するとは。この歳になって変わりゆく娘に目を細めつつ、
「あたし達、どうしたら一番いいのかな。」
マミが低く呟くように、
「兎に角。三月末まで、堪えること。なんなら一時休業して実家帰るとか。」
あらまあ、兎に角ですって! 驚きを通り越して感嘆しつつ、
「そうね。みんなに相談してみるわ」
「てかアンタ、さっきから人の話ちゃんと聞いてた?」
貴子はぺろりと舌を出して、もう一本煙草に火を点けた。
* * * * * *
一月も半ば。ガイジン部隊は未だ、一軒も襲撃出来ずにいる。
輪島は既に若林署を去り、警視庁の研修施設で研修期間に入っている。だが輪島は虎の情報を若林署の副署長に伝え、若林署は史上空前の厳戒態勢を整えたのである。
「一体どうなっとんじゃコラあ! 田中! 立ち退き全然進んでないやないか!」
組長派の田中は額から汗を流しながら、
「それがサツがあの辺にうじゃうじゃいやがって…… 朝から晩まで、なんなら深夜も…」
古賀は椅子から立ち上がり、田中を蹴り飛ばしながら、
「そんなん知っちょるわダボ! 正面から行ってもアカン事ぐらい、わからんのかボケ!」
転がった田中を踏みつけながら、
「それよか、高松たちは何しちょんじゃ? ここんとこ組に顔出さへんやないか。裏でこそこそやっとんちゃうか? おう田中、お前知っとんのやろ?」
割と踏みつけられるのが嫌いじゃない田中は、
「へえ、虎や地元出身の連中となんかコソコソやってますわ。」
「サツにチクったの、アイツらやないか?」
「まさか、そこまで……」
「いや、そうに違いないわ。アイツら絶対許さんわ。おい田中。絶縁状の支度せい!」
組長派とは言え、流石に組の勢力の半分がいなくなるのはマズイと思い、
「それ、本部に話通さんとマズイのでは?」
古賀はチッと舌打ちし、
「来月の定例会まで待てへんわ。さあ、どうしたろか」
古賀は窓から茶沢通りの人の流れを見下ろす。ふと小さい子供連れが目に入り、
「これや。おい田中。反対派の自治会の会長、スナック雅のババアやったな?」
もうちょっと踏んでくれても、なんて思いつつ田中が
「ハイ。二宮貴子ってババアっす。歳の割にはイケてますわ、美魔女っつう奴ですわ」
「知っちょる。石川の先代がのめり込んだのもしゃあないわな」
と言いつつ、自分も一昨年あっさり袖にされたことを思い出し、
「あのババア、拐うか?」
田中はあまり熟女好きではなく、
「いや、それはちょっとキッツイっす…」
「そか。そ言えば、あのババアに孫がおったな、確か幼稚園児の」
「へえ。マミちゃんの息子の誠っちゅうガキです。」
田中は密かにマミ推しであった。
「よし。それ拐ってこいや。ええな」
田中は一瞬で立ち上がり、
「ちょ、ちょっと待ってください、それはなんでも、ウギャア!」
田中の急所を蹴り上げ、古賀は悪代官の表情で、
「これで一気にかたがつくやないか。明日にでも拐ってこいや。」
古賀は満足そうな表情で部屋から出て行った。
「そういう訳だ。明日、その誠ってガキを拐って来るんだ。いいな?」
そう言っている田中が心底イヤそうな顔をしている。聞いていた田中の配下も大きな溜息を吐きながら、
「それ、オヤジの命令っすか? 俺には出来ませんよ、マミさんの息子拐うなんて…」
田中は大きく頷きながら、
「わかる。俺もオヤジに反対したんだ。愛する息子を拐われたらどんなにマミさん傷つくかってな……」
「「「「「いやいやいや」」」」」
配下は一斉に首を横に振り、
「あの人怒らせたらこの町で生きていけませんって」
「俺ら全員ぶっ殺されますよ」
「キレたら何すっかわからないっすよ、あの人昔から」
「川崎のレディース、一人でぶっ潰したんだろ? 日本刀背負ってよ」
「え? 拳銃ぶっ放したんじゃなかったっけ、虎さんからパクったやつ」
田中は埼玉出身でこの町の過去をよく知らない。
「え、マミさんってそんなヤバいの?」
「「「「「マジでヤバいっす」」」」」
「で、でもオヤジの命令だぞ、なんとかガキ拐ってー」
「「「「「ムリっす。そんじゃあ。」」」」」
あーあ。全員怒りと怯えで出て行っちゃった。
オヤジの命令は絶対だ。白いモノでも黒と思わねばならない。田中はこうなったら自分がやるしかない、そう決心し一人金沢誠くんの情報を集め始めた。
翌日。田中は一人おおぞら幼稚園の正門を監視し、誠の下校を待ち続けていた。いつもの服装では一発で周囲に怪しまれるのでお迎えのお父さん風なファッションに身を包み、今にも雪が降ってきそうな寒空の中誠が出てくるのを待っていた。
やがて誠が出てくると、田中は近づいていき、
「誠くん、お母さんが交通事故にあったんだ。」
誠の顔が真っ青になる。
「今病院に担ぎ込まれた。僕がその病院に連れて行ってあげる。さ、おいで」
今でもVシネマに憧れている田中は中々の演技で誠をあっさり騙し、幼稚園の裏手に停めておいた車に乗せたのだった。
エンジンをかけて予め抑えておいた倉庫に走り出そうとした時。
ドキューン、という音が二回鳴った気がした。同時に車の車体が前方に傾き、田中は前輪がパンクしたのを察知した。
よりによってこんな時にパンクとは、誠に一声かけてドアを開け、前輪の様子を見るためにしゃがみ込んだ時。
後ろから腕が首に絡み、田中は一瞬で気が遠くなった。
「これで全員やな。田中はどした? まだ連絡つかんのか?」
その日の夜。古賀は全組員に集合をかけて組事務所は田中以外の全員が古賀の前に立っていた。
「へい、夕方から何度も携帯に連絡してるんですが。一度電話に出て、作戦は上手くいったとオヤジに伝えろ、って言ってました。」
古賀はニヤリとして、
「ほなええわ。よっしゃ、これからお前らに話すことがある。高松、虎。前に出んかい」
高松と虎が古賀を睨みつけながら前に出る。
「お前ら二人、破門や。後でこの破門状、本部にファックスするで」
そう言って二人に破門状を渡した。
「新しいカシラ(若頭)には田中。本部長には鈴木。舎弟頭は今回の山で活躍したモンが座ることになるで、お前ら気張りや!」
おおお、やってやるぜ! という歓声を期待していた古賀の予想は外れ、水を打ったような静けさが事務所を覆っている。
「これは、組長のワシの決断や。文句ある奴は破門や。もうこの世界では生きていけんど、それでええんかワレら?」
古賀は破門状を二人からひったくり、
「脅しやないで。今からこれ本部にファックスしたる!」
「そ、それは……」
「オヤジ、ちょっと待ってくださいっ」
「本部に説明したんですか?」
古賀は皆に振り返り、
「じゃかあしんじゃボケ! 親のやること黙って見とけ!」
古賀はファックスに破門状を差し込み、関東鉄力会事務局のファックス番号を押し、
「ワシに逆らう奴はこうやで。」
醜悪な表情で人差し指を送信ボタンに乗せる。
「親に逆らう親不孝モノめ。これで最後じゃあ!」
送信ボタンを押そうとした、その瞬間。
窓が割れる音と古賀の頭がバラバラに吹っ飛ぶ光景が重なった。
組員は突然の出来事に一瞬立ちすくみ、すぐに全員床に伏した。そして前頭葉が丸見えの前組長の割れた柘榴のような姿に戦慄しつつ、心の中でガッツポーズを取っていた。
流石に組事務所にて組長が狙撃されたと公表すると体面が悪いので、高松が指揮を取り古賀一徹組長は交通事故で即死、犯人は逃走中という内容を鉄力会本部に知らせた。勿論警察には通報せず、高松は組員に事実の隠匿を要請し、皆首を縦に振った。
翌早朝、意識朦朧となった田中が事務所に戻り、金沢誠の誘拐に失敗したどころか自分が拉致監禁され、先程なんとか逃げ出してきたと高松に報告した。
古賀が狙撃された事実に田中は震え上がり、
「俺を拉致った奴らだよ。間違いねえ。俺の車のタイヤも弾かれたんだ。一体誰なんだよ、絶対プロの仕業だろ?」
田中はフラフラしながら、
「なあ、まさか反対派の奴らが雇ったプロ、なのか?」
一同は首を傾げ、
「だとしてもオヤジの首取るか? そこまでやんねえだろう。」
「だよな。町の自治会ごときが関東鉄力会相手に喧嘩売らねえだろ、流石によ」
「発想が素人じゃねえよ。あのババアがここまで考えたりしねえよ」
高松が大きく伸びをしながら、
「確かに。田中に対しても、オヤジの弾き方にしても。間違いなくプロの仕業、それも超一流の、な。極道の世界でもこんなキレイな仕事するヤツ見たことねえ。」
皆は同意し頷く。
「だから、これ以上詮索しねえ方がいいんじゃねえか。下手に突くと、俺たちも脳味噌ばら撒くことになっちまうぜ。チゲーか?」
もうこれ以上生の脳味噌を見たくもないし見せたくもない皆は激しく同意する。ただ一人、虎男を除いて。
こんなことが前にもあった。
あれは真琴ちゃんが殺されそうになった時。危機一髪で真琴ちゃんは助かった。
そして。
昨日、誠くんが拉致られかけた時。危機一髪で誠くんは助かった。
これって、偶然?
それとも、必然?
徹夜明けの虎男の脳味噌はそれ以上の詮索を許さず、やがて虎男は事務所のソファーに倒れ込み一瞬で気を失った。
* * * * * *
関東鉄力会系若林組は急逝した古賀一徹の跡目に同若頭の高松貫太が四代目として襲名し、それが本部に認可された。
若頭には鈴木、虎男は若頭補佐に昇格した。
四代目高松組長は就任早々に石川不動産に連絡をし、三軒茶屋デルタ地帯再開発事業から一切手を引くことを通達した。
それにより石川不動産の進める再開発事業は反対派住民の意趣替えを催すことが困難になり、三月末日に開発主体の東九不動産より再開発事業の中止が発表された。
同月吉日。バー黒船において、輪島剛志(四九)と七尾咲(二九)の結婚記念パーティーが厳かに盛大に執り行われ、店は復旧に一週間を要した。