第三章 母親に迫る魔の手に地域で対応する様を含み笑いする二人がいる。
その一件以降、ミカの家庭内暴力は一切無くなった。
その日以来ミカは常に何かに怯えている様子で、その日までの我の強い傲慢さは微塵も無くなった。
真琴に対しては、暴力を振るわなくなった代わりに、全く無視する様になった。声もかけない、服を着せない、買い物にも同行させない、一緒に寝ない。
まるで真琴が存在しないか、のように振る舞うようになっていた。
マミ、サキ、虎男は輪島から経緯を聞き、胸を撫で下ろすと同時に、一つの疑問に頭を悩ませてしまうー
「現場に落ちていたバスタオルなんだが。銃で撃たれた痕跡があったんだ。」
「銃って… また、なんで…?」
「わからない。でもその銃撃がなければ、真琴ちゃんは窒息死していただろう。銃撃によってバスタオルが千切れ、まだ意識がある状態で海に落ちたんだ。」
虎男はムムム、と唸り、
「銃弾は発見出来なかったの?」
おかま言葉に慣れない輪島は若干引きながら、
「見つからなかった。薬莢も発見出来なかった。使用されたのはお前らが隠し持ってるチャカでなく、恐らく…」
全員がゴクリと唾を飲み込み、
「狙撃銃、ではないか、と鑑識は言っている。」
ホー、という溜息がバー黒船を満たす。
「で、真琴ちゃんを海から拾い上げたのは、一体誰なの?」
「それが二つ目の謎。まるでその場所に真琴ちゃんが落ちるのを予見していたかの行動なんだ。」
「じゃあ、キチガイ女(クソ女から昇格済み)に話しかけたっていう女は、そいつの仲間ってことなの?」
サキが頭がこんがらがった様子で輪島に尋ねる。
「ああ。恐らくミカを銃撃したのも、その女かもしれない。」
うーーーむ。全員が深く唸る。
「男は真琴ちゃんを引き上げ、女と合流し……」
輪島はハッとした。
あの日、駐車場から現場に向かう途中。そう言えば家族連れとすれ違った…… 男性は子供を背負い、女性は釣竿ケースを肩からかけていた。
まさか、あの男女が真琴ちゃんを救った?
背負った子供は、真琴ちゃんだった?
若い、男女? 狙撃銃?
まさか、そんな……
輪島は一人首を振り、グラスに残っていたスコッチを一気に喉に流し込んだ。
それから時は流れ。
一九九四年。アメリカワールドカップでブラジルが四度目の優勝を遂げた年。バブル景気は完全に崩壊し、就職難が起き始めた年。
金沢誠はおおぞら幼稚園に入園し、石川真琴はカモシカ保育園に入園した。
おおぞら幼稚園は『のびのびとした元気な子供』を育てるのが園の目標であり、近所に最近流行りの所謂お受験幼稚園とは一線を画した、自然と触れ合い友達といっぱい遊べる幼稚園であった。
誠は入園してすぐに気に入り、毎日の登園が待ち遠しくて仕方なかった。
マミは元々のお母さん友達も少なからずいたし、新たに知り合ったお母さんも大勢出来、誠以上に幼稚園ライフをエンジョイしていた。
何しろ遊ぶのが授業、みたいな感じなので登園してから退園するまでが誠にとってはあっという間で、家に帰ると早く明日が来ますようにと神頼みの日々だった。
だが、幼稚園生活に入って残念な状態が一つあった。それは、真琴と遊ぶことが出来なくなったことだ。
誠は本当に真琴が大好きだった。誠は読書による豊富な知識を持ち合わせており、だがそれはいつも一緒に遊ぶ子達には中々通用せず、知識の捌け口のなさによる若干のストレスに悩まされていた。それを解消してくれていたのが真琴だった。誠が図鑑で調べてきたことを話すと、いつも真琴はじっと聞き感心してくれた。
そんな真琴と同じ幼稚園に行くものだとてっきり思っていた誠だったのだがー
カモシカ保育園は徹底した躾と教養を子供に叩き込む、お受験ママにとってはパラダイスな保育園である。挨拶、話し方、お箸の持ち方、正しいお昼寝、簡単な足し算引き算、お受験ママが涎を垂らしそうな保育内容であり、真琴は全くもってうんざりだった。
幼稚園でなく保育園に入れられたのは、母親のミカが親が関わる行事がより少ない方針に従って選ばれたに過ぎない。なので、真琴をお受験させるつもりもなく、全力で愛する息子の育児に向かい合う為の選択であった。
あの日以来、真琴は母親と口をきくことも目を合わすことも無くなった。父親とは普通に話すが、おばあちゃんともかなり距離が空いた。
なので、保育園にいる時が真琴にとって心の安らぎであるのだが、保育士達のウザいほどの躾の厳しさには閉口気味であった。
しかし、時折やる足し算引き算、自然観察会は実に楽しかった。そして何よりー保育園の図書室が真琴の大のお気に入りの場所となった。
そこには誠が読んでいるであろう子供図鑑が豊富に取り揃えてあり、他にも童話、絵本も充実しており、いつからか保育園に行くのが待ち遠しくなっていた。
マミはお母さん友達との交友に夢中で、誠に例えば本を買い与えるなどの知識の付与を大分怠っていた。それにより誠は自然に親しみ、友人と駆け回って遊び、知識は増えずに日毎に健康で元気な肉体を醸成していった。
それでも時折。見たことのない虫や鳥、草花を見かけると、不意に真琴のことを思い出す。一時期は毎日のように会っていたのに。あれだけ一緒にお話ししたり遊んだのに。どうして一緒の幼稚園にいないのだろう。
ある日誠はミカに聞いてみた。
「まことちゃんは、どうしておおぞらようちえんにいないのかなあ」
ミカはベンチで読んでいた雑誌を落としてしまった。
「それは、ねえ、お家の人がそう決めたからだよ。」
「じゃあまことちゃんは、どこのようちえんにいってるの?」
実は最近、お母さん友達の情報によって、
「カモシカ保育園ってとこに行ってるらしいよ」
「ふーん。え? カモシカようちえん、でしょ?」
「うんにゃ。保育園っつーのがあんだよ。幼稚園とはちょっとチゲーんだわ。」
それにしてもこの母親の言葉遣いが子供に伝染しない理由は何なのだろうか…
「へー。どうちがうの?」
「んっぐ… アレだ、保育園は働いてるお母さんが、子供を入れるトコ、じゃねーかな?」
「まことちゃんのおかあさんははたらいているの?」
「んーー… 働いてねーんじゃね?」
「じゃあなんで、まことちゃんはようちえんにいかなかったの?」
助けを求め辺りを見回すが、夕方の公園に知識豊富な母親の姿は皆無だった。
「ほいくえんにいくと、どうしてここにこれなくなるの? ねえママ、ぼくまことちゃんにあいたいよ……」
誠が悲しそうにする姿はほとんど見たことがない。それだけにこの子の心の叫びに何とか応えてやりたいのだが…
保育園の図書室のお陰で、真琴の知識は日毎に飛躍していった。入園当初は平仮名もカタカナも朧げだったのだが、周りの子達が教えてくれたし先生も上手に教えてくれたので、今では簡単な漢字もスラスラ読める様になっている。
何しろ意識の高い園児だらけなので、あっという間に足し算引き算の概念を理解し、更には友達から掛け算割り算とは何かを教えてもらい、これは誠もまだ知らないだろう、とほくそ笑むのだった、が。
誠に、会えない。
真琴は誠もこの保育園に当然いるものと思っていた。だが入園式にもいなかったし園が始まっても誠の姿を見つけることが出来なかった。
ある日、父親に
「かなざわまことくんはどうしてほいくえんにいないの?」
と聞くと父親はギョッとした顔になり、真琴の耳元で、
「今の、絶対お母さんとお婆ちゃんに言うなよ」
真琴は勿論そのつもりで頷くと、
「今度聞いてくるよ。ちょっと待ってなさい」
数日後。いつもの様に一人で寝ていると父親がそっと部屋に入ってきて、
「あおぞら幼稚園に行ってるってさ」
と言って、さっさと部屋を出ていった。
あおぞら? 幼稚園?
幼稚園って、何? どうして誠は幼稚園に?
だがそれ以上の疑問を解決する手段を真琴は持ち合わせていなかった。
* * * * * *
「それじゃあ孝、お盆はそう言うことでよろしくね」
かつてない程の上機嫌で母の良子が孝に微笑む。
「お母様、私も久しぶりのハワイ、楽しみですわ。それに孝一にとって初めての海外。ああなんて楽しみなんでしょう」
去年の事件以来、久しぶりの妻の笑顔。
一人浮かない顔の孝は大きく溜息を吐き出す。どうせなら真琴も連れていってくれよ、心ではそう叫んでいるのだが、間違っても口には出せない。
夏に入って、真琴が妻と母とちゃんと話をしているのを見たことがない。生きていく上で仕方なく、起きなさい、ご飯ですよ、お風呂に入りなさい、もう寝なさい、なんて声は聞くのだが、それ以上の所謂会話をしているのを見たことがない。
だいぶ前、事件の直後くらいに虎男から聞いた話―
ミカが真琴の首を絞め海に突き落としたー
恐れてはいたが、まさか本当にそんなことをするなんて… いくら血が通っていないとはいえ、三歳の子供の首を締めて、海に突き落とすとは…
自分一人では消化できなく、その話を母にすると、
「あら残念。そのまま死んじゃえばよかったのに。」
と平然と言う母に恐れ慄いた。
真琴は俺の血が半分入った、実の娘なんだ!
そう怒鳴ろうとして、思い止まった。
何を言ってもこの母には無駄だ。俺よりもミカの方を信用し信頼している。
あの日も玄関のチャイムが鳴り、慌てて出ていくと真琴が一人ポツンと立っていて、どうしたのか聞くと海に落ちて男の人に助けてもらって、ここまで送ってくれた、と話す真琴に、
「ちょっと、お母さんはどうしたの? コウちゃんはどうしたの?」
とそっちの心配をする始末。
真琴を幼稚園でなく保育園に入れるのも母親と妻が決め、入園以降一切の行事関連は孝に押し付けている。
「ああ、いいよ。楽しんでおいでよ」
心にもない事を言い、
「虎と呑んでくるよ」
と言って家を出た。
ああ、本当に真琴も連れていってくれたなら、毎日虎と飲み歩けるのに。毎日違う女を紹介してもらって、よろしくヤレるのに。
だが、間違って真琴を一緒に連れていったらー今度こそハワイで真琴は行方不明となるだろう。孝はブルっと体が震え、首をふってその考えを否定した。
親子水入らずってか、まあどこかディズニーランドにでも連れて行ってやるかな。
久しぶりにバー黒船の暖簾を潜ると、いつもの呑んだくれ娘のマミとサキがいた。
「その後、キチガイ女の具合はどお? 真琴ちゃんは変なことされてないわよね?」
サキが孝を殺しそうな視線で問い詰める。
「ああ、今度お袋とハワイに行くってさ。真琴は俺とお留守番だ。」
マミが恐る恐る、
「真琴ちゃん、幼稚園どこ行ってんの?」
「あ、ウチは保育園。カモシカ保育園。」
「うわっ あの北朝鮮保育園!」
それからサキが散々保育園の悪口をかました後、
「で、キチガイ女働いてねーのに、なんで保育園なんだよ?」
孝は首を振りながら、
「保育園なら朝から晩まで世話してくれるだろ。だからじゃないかな。」
マミはフーと息を吐き出しながら、
「ウチの誠がさ。真琴ちゃんに会いたがってんだよ。保育園じゃ夜までいんだろ? だから最近公園で全然会えねえんだよな。なあ、何とかならんかバカ社長?」
伝説の元ヤン女に迫られ、ちょっとビビった孝だが、
「お盆の時期、アイツらハワイ行く時期なら、大丈夫だよ」
マミはダンと立ち上がり、
「マジで? うわあ、誠喜ぶわー」
ここで孝の悪知恵が作動する。ん、これって上手く行けば…
「そう言えば真琴も誠くんと会いたがっていたよ。良かったらお泊まり保育してくれない? なんちゃって〜」
「おおお、それいいじゃん! いいぜいいぜ、真琴ちゃんお泊まりしに来いよ! ただし、キチガイ女とクソババア には内緒で、な!」
あああ、俺って天才? 神様、ありがとう! これで虎と! イケイケ女子と!
「ハア? 何それ。ま、私はいいけど。あなたちゃんと責任持ってやんなさいよ。それと、絶対あの後妻と母親にバレないように。家から外に出すんじゃないよ、いい?」
貴子が面倒くさそうに吐き捨てる。でも拒否はしない、なんだかんだで真琴に同情しているのだろう。
「マコちゃんには黙っておきなさいよ。でないともしダメになったら、マコちゃんショックで立ち直れなくなるわよ」
やはり孫第一なんだなアンタって。
マミは軽く吹き出しながら、あいよっと返事をする。
…ああ、成る程。誠が母譲りの汚い言葉を話さないのは、祖母のちゃんとした口調を真似ているからなのだ!
「それにしてもマコちゃんは毎日毎日真っ黒になるまで遊んで。ちょっとはお勉強とかさせなさいよ、でないとあなたみたいになっちゃうわよ」
マミは誠が自分の様に特攻服を着て国道二四六を爆走する姿を想像し、恐怖した。
「いやっ それは… ダメだ、絶対、ダメ!」
「でしょ。あなた最近読み聞かせもしてないし。このままだと運動バカか、アンタみたいなヤンキーバカになっちゃうわよ。」
「や、やば… どーしよ…」
貴子はハーと大きく溜息をついて、
「今度、いい幼児教室の話、お客さんに聞いといてあげる。あなたの周りのバカ主婦友達じゃそんな話でないでしょうから。」
すみません、その通りっす… マミは母に頭を下げた。
「で。真琴ちゃん来た時はあなたが夕飯作りなさいよ、こっちの仕事来なくていいから」
なんだかんだでよおく考えると、この母も何気に娘に甘々ではないだろうか。まあそれはさておき、母がそう言ってくれたので頭を下げ感謝の意を表し、マミは孝から聞いた真琴の好物である唐揚げの味付けがウチと違わないか、ちょっと心配になった。
「うーーーん、やっぱ携帯電話、欲しいなあー」
マミがバー黒船でのたうち回る。
今夜は珍しくマミは一人。相手は虎男と孝だ。
「携帯あればさ、ババアやキチガイ女通さずにすぐにアンタに連絡取れんじゃん、アンタ携帯もう一個持ってないの?」
マミが無茶振りをするも孝は、
「俺はこれ一台だって。妻も持ってないよ。マミちゃんも買いなよ。ホント便利だぜ」
マミは孝の頭をパシリとはたきながら、
「んな金、ねーって。幾らすんだよ全く。なあ虎!」
虎男は苦笑いしながら、
「この夏にキャンペーンがあったから、ウチの組は全員に一人一台持たせたわ。ホント便利よお。マミも買っちゃいなさいよ!」
「だーかーらー。金がねえんだって。幼稚園って金かかんだって!」
「あれー。アタシが聞いたところだと。アンタ毎日毎日イタリアンとかフレンチとか、ランチしまくってるって聞いたわよお。」
「んぐっ だ、誰に聞いたんだテメー」
「ヤクザの情報網を舐めないで頂戴! プンっ」
マミは大きく息を吐き出し、調子こいて食べまくったお洒落なランチを呪った。
「てか、貴子さんに買ってもらいなさいよ。結構儲けてるって評判よあの人」
「あんなケチババアが買ってくれる筈ねーだろ。クソがっ」
ウチの母親に比べたらアレだけど、と孝は軽く吹き出す。
「どっかに携帯ホイってくれる、羽振りのいい奴いねえかなあ…」
マミがボソッと呟く。
「あっても、アンタなんかにはあげないわよ。こんなヤンキーママになんか。ぷんっ」
虎男がマミを睨みつける。すると、マミがハッとした顔になり、
「そー言えば、おい虎、テメー、アンタにでっかい貸しあんの忘れてたわ!」
「ハア? アンタおかしい頭が更にイカれちゃったんじゃない? こないだん時もバイク貸してあげたし革ジャン貸したの一体誰よ? アンタ革ジャン返しなさいよ!」
「バーカ、あれは借りたんじゃなく貰ったんだヨ。それよか。あん時テメー、ガスちょっとしか入れてなかったバイク貸しやがって。」
虎男は首を傾げ、
「そ、そんなの知らないわよ。」
「お陰でガス欠になって、キチガイ女見逃しちまったじゃねーかよ」
「ガス欠になる前に、ガス屋で入れれば良かったんじゃない?」
「アタシが間に合ってたら、真琴は海に落とされなかった… チゲーか?」
虎男はゴクリと唾を飲み込む。
「そしたらキチガイ女は心入れ替えて、真琴もハワイに連れて行ったにチゲーねー。だよな、バカ社長?」
思わず孝が頷いてしまう。
「どう落とし前つけんだ虎。テメーのせいで真琴ちゃんは海に落っこちて、そんでハワイに行けなくなったんだぞ。ああ?」
マスターがそっと首を振る。ああ、この子が男でなくて本当に良かった。もし男だったら間違いなく若林組の若頭になってこの街のショバ代は倍にされていただろう…
「テメーはアタシと、親友の娘を傷つけたんだぞコラ。どうすんだ、ああ?」
虎男のこめかみに太い汗が一筋流れる。いつ以来だろう、こんなに追い込まれるのは。『三茶のトラ』の名は、渋谷辺りでも十分有名人として通っているのだ。そんなアタシがどうしてこんなヤンキー娘に…
「そーいやテメー、去年さあ、アタシの顔に新品の携帯、叩きつけてやるっ、て言ったよな?」
これではどんな優秀な弁護士がついても、ダメかもしれないね。マスターはそう心で呟いた。
一週間後。新品のドコモの携帯の使い方を真剣に教わるマミの姿がバー黒船にあった…
* * * * * *
携帯のおかげで、真琴お泊まり計画が着々と進んでいた頃。ちょっとした事件が起きた。
誠が夕方公園で遊んでいると、知らない男に声をかけられ車に拉致られそうになったのだ。現場にいたお母さん友達の話では、
「何人かの子供に声かけて、誠ちゃんにも声かけて。そしたらいきなり誠ちゃんの手を掴んで、車に乗せようとして。あの、カナちゃんパパ? さんが止めなかったら、連れていかれてたよ」
その日誠を公園に迎えに行く前に、女の子連れた男が誠を背負って家に来たのだ。話を聞いてマミは頭が真っ白になり、犯人を捕まえに公園に走りかけて男に止められ、
「警察には僕から言っておきますから、今は誠君のそばにいてあげてください」
と言われ、誠を抱きしめて泣き崩れた。
貴子からは、子供の頃以来のゲンコツを食らった。
その日以来警察がマメに巡回してくれたおかげか、似た事案は一切発生しなかった。
数日後、公園に誠を救ってくれた男が娘と遊びにやって来た。
「あの時は、マジ… ホントにありがとうございました」
マミが深々と頭を下げる。男はいえいえ、と手を振りながら、
「誠くんを助けられて本当に良かったです。もしウチのカナだったら、と思うとゾッとします」
マミは顔を上げ、男を見上げる。なんて爽やかな男だろう。ふさふさの髪。二つの目。一つの鼻。白い歯(一体何を見てんだか……)
「えっと、金沢さん、でしたっけ。僕は徳田って言います。この子は徳田カナ。カモシカ保育園に通っています。よろしくお願いします。」
五年ぶりに心臓が高鳴った。
なんて素敵な紳士。こんな立派な男の人、初めてかも。こんな人の奥さん、羨ましいなあ。もしこの人が独身だったら… はは、そんなのある訳ないって。
「では、また。誠くん、カナと仲良くしてやってね。」
そう言い残して徳田はカナを鉄棒の方に連れて行った。それからマミの目は徳田の一挙手一投足に釘付けになり、次第につく溜息の深さが大きくなっていった。
「へえー。アンタがそんなに気にいるなんて。一度見てみたいわ」
サキがツマミのピーナッツを齧りながら、実はどーでもいい風に呟いた。
「彼、ウチの保育園でも有名なんだよ。すごく人当たりが良くて。ママの間でも大人気なんだよね。ウチの真琴とカナちゃん結構仲良いから、僕も徳田さんとよく話すんだ。真面目でいい人だよね」
と不真面目な孝が言うものだから、マミは思わず孝を叩いてしまう。
「それでシングルファーザーなものだからさ。シングルママは皆本気で狙ってるよ」
マミは思わずグラスを倒してしまう。
「マジで?」
「うん、マジで。」
「ちょっと、マミ。それってアンタ、運命の出会い、なんじゃね?(笑)」
「ば、馬鹿野郎。あの人が、こんなアタシになんて… なあバカ社長」
思わず頷いた孝の頭を再度叩いてから、
「もーいーわ。それより。真琴ちゃんは何味の唐揚げが好きなんだっけ?」
ところがそれ以降の会話の記憶を全て喪失してしまうマミなのであった。
不思議なことに、その数日内にマミと徳田がいい仲である、という噂話があっという間に町中に広まった。
「あなた、保育園のイケメンパパに言い寄ってるんだって?」
貴子が仕事から帰るなりマミを非難の目で睨みながら言った。
「ハア? 言い寄ってねえし。ちょっと公園でサツアイしただけだし」
「三葉商事の課長さんらしいじゃない。あなた、夢見るのも大概にするのよ」
ウッソ、超エリートじゃん。スッゲー。でも、
「アハ。そんな上の人、興味ねーし。てか、全然釣り合わねーし。」
貴子がジロリと睨んで、
「ホントよ。アンタには逃げた旦那みたいなのが合ってるわ。」
「だろ。そんなことよりさ、唐揚げ作るときニンニク味ってどう出すんだっけ?」
「真琴ちゃんのね。明日お店でやってみせるからちゃんと見てなさいよ」
「はいっ」
「じゃあ行ってくるから。戸締りとか火の元、ちゃんとしなさいよ」
良子が心あらずの表情でおざなりに言う。
「後はお願いしますね。お土産はウイスキーでしたね。」
ミカが車庫から車を出し、ベビーシートに孝一を乗せ、三人は成田空港へ旅立っていった。
この日が来るのを孝はどれ程心待ちにしていただろう。携帯を取り出し、マミにかけるとすぐに出て、
「行ったか?」
「うん。今出て行った。どうすればいい?」
「ウチわかるよな?」
「ああ。サンライトハイツだよな。」
「四〇一な。待ってるぜ」
「ああ。じゃあ後で」
時計を見ると、十七時過ぎ。確か飛行機の時間が二十時半とか。自由だ、もうすぐ自由がやってくる!
孝はリビングに上がり、真琴のお泊まりの支度をささっと済ませ、保育園に飛び出した。走って行ったのでゼエゼエ息を切らしていると、徳田が凛々しいスーツ姿でお迎えに来ていた。
「今夜、ウチの真琴は金沢誠くんのウチでお泊まりなんです、あ、これみんなには内緒にしておいてくださいね」
「あらら、それはカナがショック受けますね。あの子誠くんのファンなんですから」
「へええ、誠くんのママが聞いたら喜びそうだな」
「あはは。是非次回はウチのカナも、とお伝え願えますか?」
ニッコリと爽快な笑顔で言われ、深く頷く孝であった。
真琴を引き取り徳田に挨拶して歩き出すと、
「ウチはあっちだよ。どこにいくの?」
と真琴が手を引く。マミとの取り決めで、旅行中止とかになったらショックを受けてしまうだろうから、当日決行が確定するまで真琴にこの計画は話さないでおいた。
「ちょっとね。お父さんの知り合いのところに行くから、ついておいで。マミの好きな唐揚げがあるそうだよ」
唐揚げ、と呟くも怪訝な顔の真琴を引っ張り、サンライトハイツに向かう孝だった。
孝からの連絡を受けたマミは、
「誠―、もうすぐお客さんが来るから片付けしなさーい」
「はーい。だれがくるの?」
「ママのお友達だよ。唐揚げが大好きなんだって。」
「ふうん。」
誠は納得いかない顔で、それでもキビキビと動き出し、リビングを片付けた。
「あと、自分のお部屋もちゃんときれいにしなさいよ」
「はーい」
今度はちょっと面倒くさそうに返事をするのが可愛くて、クスリとしてしまう。
真琴が玄関に入ってきたら、どんな顔をするだろう。大喜びで踊り出すかもしれない。いやいや、凍りついてアタシのお尻に隠れてしまうかも。
どちらにしても、誠の反応を見るのが待ち遠しいと同時に、久しぶりに会う真琴がどんな状態かとても心配なマミであった。
孝からもうすぐマンションに着く、と連絡が来て、唐揚げのペースを早める。なんか予定より三十分ほど早くね? まいっか、とマミは料理の仕上げに全力で取り掛かる。
ピンポーン
孝と真琴だ。一階のドアを解錠し、
「誠、そろそろ来るよー」
と言って火を止める。
ピンポーン、ピンポーンと二回鳴り、誠の手を引き玄関に向かう。
ママは何を隠しているんだろ。誠にはバレバレであった。ただそれが何であるかは流石に人生経験の浅い誠には想像ができなかった。
唐揚げの匂いがするママの手に引かれ、玄関に向かう。
ママが鍵を開けて扉を開く。
そこには、男の人と手を繋いだ、真琴が立っていた!
誠は生まれて初めて頭の中が真っ白になり、呆然と立ち尽くすしかなかった。
話したいことはいっぱいあるのだけど、喉から声が全く出なかった。
それは真琴も同じようだ、誠を見るなり目と口を大きく開き、人差し指を誠に向けたまま硬直しているのだ。
ママと男の人は何事か話をしているが、全く耳に入ってこない。やがて男の人は真琴の頭を撫でてから、一人去って行った。
ママがニヤニヤ笑いながら誠の頭を叩くと、ようやく誠は喉から声が出るようになった。
「ママ、まことちゃんだよ! まことちゃんがうちにきたよ!」
「だろ。どーだ嬉しいか? ええ?」
誠はカクカク頷く。
「へへっ さ、真琴ちゃん、いらっしゃい。こっちおいで」
真琴は未だに夢現状態なのか、唖然としたまま玄関で靴を脱いだ。
* * * * * *
仕事を終えたサキが病院を出たのは九時過ぎだった。今夜はマミは真琴ちゃんのお泊まり会。虎男達は羽根伸ばし会。仕方ねえ、一杯引っ掛けて帰るか、といつものデルタ地帯のバー黒船に向かう。
「ちーっす、マスター、な……」
生一丁、と言おうとして言葉が停止する。カウンターで一人飲んでいる若林署の輪島を発見したからだ。
輪島はサキに振り返り、こんばんは、と一言言って優しく微笑んだ。サキは誘蛾灯にフラフラ向かう蛾の如く、輪島の隣に歩いて行く。
「そうなんだ、今夜は一人ぼっちなんだね」
「そーなんっすよ。あれ、輪島さんは、一人、っすよね、いつも」
緊張しているサキはいつもの調子が出ないようだ。
「いつも、みんなとは、飲まないんっすか?」
「一日中一緒に捜査してるから。仕事明けぐらい、一人で飲みたいんだ」
「あー、じゃあ、アタシ邪魔っす、よね?」
「仕事の話をしたくないだけさ。サキさんと飲むなら大歓迎さ」
ドキュン。サキの胸にピンク色の銃弾が打ち込まれた。
それから二人はどーでもいい話で盛り上がり、て言うか、今日まで互いの事をほぼ知らなかったのがサキには驚きだった。
「そーなんすか、借り上げのアパートに、一人で。ふーん。てか、奥さんとかお子さん、元気に暮らしてんすか?」
「それがさ。数年前に離婚して。それからずっと一人なんだ」
それは前にも聞いたはずなのに。それでもサキはマジで椅子から十センチ飛び上がり、
「マジ、っすか?」
「うん。」
この瞬間から、サキの輪島への気持ちは憧れから恋にシフトチェンジする。
「そうなんだ、サキちゃんとマミちゃんはそんな昔から一緒なんだね。」
「そーなんです。腐れ縁ってヤツですわ。」
「ハハ、でも女の幸せはマミちゃんに先越されちゃったんだ。」
「デスよ。でも、それも半分ですけどね。」
「と言うのは?」
「あれ、知らなかったっすか? マミはバツイチなんっすよ。」
「え、そうなの?」
「ええ。まあデカ… 刑事さんなら調べりゃ即わかると思うんすけど。誠が生まれた直後に旦那がいなくなっちゃったんですよ。それ以来、マミも一人っす」
「…… そうなんだ、それは大変だったね」
「ま、もうとっくに吹っ切れてるみたいで。そろそろ次の男探すモードみたいっすよ。あ、輪島サン、マミなんかどーですか? アイツ大人しくしてたらちょっと美人じゃないすか?」
「うーん、俺、なんかあの子には避けられてる気がするんだよな。目を見て話してくれないし。それに誠くんの父親にはなれないかなあ。」
「そーすか。アイツ実はいいヤツですよ」
「それならサキちゃんだって、友達思いのいい子じゃない。」
「え……」
「それに、誠くんのこと、実の甥っ子みたいに可愛がってるじゃない。」
「ハア…… え、アタシ叔母ちゃん?」
「アハハ、ごめんごめん。それにさ、マミちゃんも綺麗だけど、サキちゃんだって美人だと思うよ、俺は。もし俺が病気か怪我で入院するなら、看護婦はサキちゃんがいいなあ」
サキは何も言わずに焼酎のロックを一気飲みし、
「いつでも入院してくださいっ きっちり面倒みさせていただきやすっ」
マスターは軽く吹き出しながら、サキのグラスにお代わりの焼酎を継ぎ足す。
デルタ地帯で淡い恋の予感がしている頃。マミの家でも幼い恋の花が咲いていた。
「だから、ほいくえんのとしょしつ、すごくいいんだよ。こんどまことくんきなよ」
夕食を終えてから、真琴は喋りっぱなしである。
「へー、うちのようちえんにはそんなにほんはないよ。いってみたいなあ」
「じゃあおいでよ。いっしょにほんよもうよ。こんどせんせいにきいてみるからさ。」
父親の孝が見たら仰天するだろう、それ程真琴は喋っている。
「よーし。みんなで一緒にお風呂入ろうか。」
マミがそう言うと二人はハーイと返事をし、徐に服を脱ぎ出す。その様子にマミはドギマギするが、二人には羞恥心がまだないようで。
風呂場でマミは入念に真琴の体を洗ってやると同時に、変なアザや傷がないかチェックした。うん、特に無し。キチガイ女はあれから大人しくしてんだな。よしよし。
しかしながら。背中を擦ると、アホみたいに垢が出ること出ること… それにさっきから気になっていたのだが、頭がギトギトして臭かったので、
「ねえ、ちゃんと髪の毛洗ってもらってるか?」
真琴はキョトンとして、
「ううん。いつもひとりではいるからじぶんであらってる」
「頭は、シャンプー使ってるか?」
「ううん。おゆでながすだけ。」
「いやいやいや! 女の子はなあ、髪が命なんだぞ。だから、これからはシャンプー使え。風呂場にあんだろ?」
「あるけどそれはおかあさんのだからつかってはいけないの」
よーし。後でバカ社長に電話して真琴用のシャンプーとリンスを用意させよう。そう決意し、今夜は自分用のシャンプーとリンスで頭を洗ってあげた。
風呂から出て体を拭いてやり、
「さ、もう遅いから二人とも寝な。真琴ちゃんは今夜はアタシの布団使いな。」
そう言って二人を寝室に放り込み、電気を消して、
「早く寝るんだよ。おやすみな」
と言って部屋の扉を閉めた。
満腹かつ湯上がりで二人は睡魔に飲み込まれそうになる。
「ねえ。て、つないでいい?」
「うん。つなご」
話したいことは一杯あるのに。でも互いの手から伝わる暖かさと優しさに、二人は口を開くこともせず、幸せの睡魔に身を委ねるのだった。
そして。一番見苦しい男が一人。
「いやー、今夜はサイコー。店終わったらさ、飲み行こーよ。あ、それより焼肉食べ行く?」
「きゃー、行く行く! 叙々苑いきたーい」
「よおーし、行くぞ叙々苑!」
虎男がうんざりした顔で、
「アタシ行かないわよ。アンタら二人で行きなさいよ」
孝はギャハハと笑いながら、
「二人で行くに決まってんだろー。あ、ここ払っとくから、もう帰っていいぜ」
虎男は呆れ顔で、
「じゃ、アタシ行くわ。せいぜい楽しみなさいな」
孝は自分にもたれているホステスの胸元を見て、唾を飲み込む。よおし、今夜は大爆発だあ。
数時間後、叙々苑で会計している間にサッと帰られてしまい、しょんぼりと一人自宅に帰る孝の姿があったらしい。
子供の朝は早い。七時に真琴が目が覚めせた時、ここが何処かしばらく分からなかった。だが隣で口を開けて寝ている誠を見た時、未だかつてない幸せな気持ちに包まれた。
指で鼻を突いてみる。起きない。ほっぺを突いてみる。起きない。鼻を摘んでみる。んがんが言うだけで、起きない。
誰に教わったわけでも、何かで知った訳でもなく、本能のまま、真琴は誠の頬にキスをする。幸せ感が脳天を突き抜け、何故か涙が溢れる。
誠がゆっくりと目を開く。真琴は慌てて誠から離れ、おはよ、と言う。誠は何故ここに真琴がいるのか、とギョッとした顔になり、やがて嬉しそうな顔で、おはよ、と言った。
それから二人は寝転がりながら、色々なことを話した。真琴は誠に、如何に弟の孝一が可愛いか、だが母親が決して触れさせないのが切ない、そして家にいること自体が苦痛で堪らない、と言ったことを話した。
誠は真琴に、如何に自分の母親がだらしないか、でも好きで堪らない、それはさておき幼稚園は楽しいが真琴に会えなくなったのが切ない、と訴えた。
八時を過ぎると、二人のお腹が同時にキュルルと鳴り、マミを起こしに行こうと言うことになり、二人で布団を畳みマミと貴子の寝室にそっと入る。すると真琴が
「ああ、いいにおい。これが、おかあさんのにおいだね」
と言って嬉しそうな、羨ましそうな顔をして呟いた。
誠には真琴が母親を厭う気持ちが全く分からず、
「ねえ、どうしてまことちゃんはおかあさんのことがきらいなの?」
と思わず聞いてみた。
「ちがうの、おかあさんがわたしをきらいなの。だからわたしも……」
と寂しそうに呟いた。
朝食を終え、誠と真琴が3ちゃんねるを観ている時、マミは携帯を持ってベランダに出て、孝に電話を入れる。十コールほどでようやく孝が応答する。
「で。どうする? 何時に迎えに来るよ?」
孝は昨夜の惨敗のショックに打ちひしがれており、できれば今夜、リベンジしたい気持ちでいっぱいだった。
「マミちゃん、ものは相談なんだけどさ、」
「ああ? まさか送り届けろってか?」
「じゃなくて。今夜も、お泊まりさせてくれないかな?」
「へ?」
想定外の申し出に一瞬固まる。
チラリとリビングを覗くと、まるで夫婦のように寄り添ってテレビを見ている二人がいる。
「ま、まあ、ウチは構わねえけど。」
「ホント? ラッキー。明日、ちゃんと食事代渡すから。よろしくお願いしますっ」
「ふむ。その心がけやよし。では明日。」
携帯を切り、既にクソ暑いベランダから涼しいリビングに戻り、
「ねえ真琴ちゃん。お父さんがね、もう一泊してっていいよ、って言ってんだけど。どうs…」
やったあーーーーーーー
二人は抱き合って喜んでいる。
マミも釣られてニッコリ微笑む。
寝室からゾンビのような貴子が顔を出し、マミを睨みつけて舌を出し、またドアを閉めた。
* * * * * *
と言っても、ディズニーランドに連れて行ったり、ホテルのプールに連れて行く訳でもなく、三人はいつもの世田谷公園にお弁当を持って歩いて行くのだった。
お盆に入ったせいか、公園にはいつものお母さん友達は姿を見せず、数組の若いカップルや見たことのない親子が多数いた。
真琴と誠は二人で自然の森の方へ行き、マミは一人木陰のベンチで持ってきたバイクの雑誌をパラパラと眺めていた。
「あの、金沢さん?」
マミがハッと顔をあげると、なんとそこにはカモシカ保育園の爽やかパパ、徳田が娘と一緒に立っていた!
マミの心拍数は突如倍に跳ね上がり、
「アヒャ、こ、こんにつわ」
と思いきり噛んだ。
徳田はそんなことを気にもせず、このクソ暑いのに超爽やかに、
「こんにちは。今日も暑いですね」
と頭を下げて挨拶されてしまったものだから、マミの脈拍は一気に倍に跳ね上がった。
「あの、お盆、実家とかに、帰らんのデスカ?」
半分白くなった脳みそを駆使して、なんとか丁寧に話そうと努力した。
「ええ。僕の両親は既に他界していて。(高い? ああ、都心のタワマン住みな!)亡くなった妻の実家も昨年義母が亡くなって。なので、今年からお盆はカナとこの辺でのんびり、です。」
徳田の説明を半分だけ理解し、フムフムと頷く。
「あ、えっと、カナちゃんだっけ? 真琴ちゃんとウチの誠があっちの森の方にいるよ。一緒に遊んでおいでよ」
カナは真琴をひと睨みし、ふんと顎をあげ、その森の方へ歩いて行った。
「すみません、人見知りが凄くて。僕の躾がなってなくて…」
マミは全力で首を振る。その拍子に汗が吹き飛んだ。
「あの、隣に座ってよろしいですか?」
一瞬の硬直後、全身全霊で首を振る。失礼します、と呟いて徳田が隣に腰掛ける。爽やかな香水の匂いがマミの鼻をくすぐり、マミはイキそうになった。
「そう言えば金沢さん、噂話の件、ほんと申し訳ありませんでした。」
と言って徳田が徐に頭を下げる。噂の件? 何だっけ?
「僕と、金沢さんがお付き合いしている、みたいな変な噂話が出回っちゃって。」
ああ、クソババアが言ってた、アタシが徳田さんに言い寄ってるって話な!
「いやいや、こちらこそ迷惑かけちゃって。すみませんマジで。よりによってこんな女と噂になっちゃって、徳田さんいい迷惑でしたよね」
半分マジ。でも半分はウッソー。心の中で舌をペロリと出すマミだった。
「何言ってんですか! こちらこそ、金沢さんに迷惑かけちゃって。こんな若くて綺麗な女性に僕みたいな男が言い寄っているなんて、失礼な噂が流れてしまって…」
ハイ。マミの脳とハートのヒューズはすっ飛びました。
「いやいやいや! こんな超イケメン、超エリートがこんな場末の女に引っかかる訳ねーでしょ、あはははは」
自分が壊れていくのを幽体離脱して高くから眺めている感じだった。アタシなに言ってんだろ。
「保育園でモテモテだそーじゃないっすか。アレじゃないっすか? 若い保母さんに言い寄られたりなんかしちゃって! いよっ このモテ男! 阿部ちゃんか徳田さんか、ってか!」
あああ。アタシもう喋るな。バカとアホがバレる。いや、もうバレた。これ以上恥晒すなアタシ! お願いもう止めてえーーー
「で? 実際彼女両手っすか? 人妻だけじゃなく、女子大生とかいたりしてっ いやー、カッケー 生まれ変わったら徳田さんになりてえ〜 ってか。」
もうダメ。終了―。アタシの恋、即終了―。だよね?
「ハハハっ そんな訳あるわけないでしょ。僕にはカナを育てなければならないのだから。そんな時間ありませんよ」
うわ… 理論的(論理的?)に説明された… スゲー説得力…
「でもでも、いいなっていう女性は、いるんでしょ?」
「うーん… でも相手が僕をどう思っているか… それより。金沢さんこそ。聞きましたよ噂、なんでも別れた旦那さんしか男として見られないって。」
「へ? (ま、まあ、それな。そうかも。そうだったな。)はあ。」
「何人もの男性が言い寄っても、その場でお断りするって。保育園のお母さんたちが感心していましたよ」
なんじゃそれ。誠一がいなくなって以来、男に言い寄られたことなんて、あったか?
「旦那さん一筋、そして誠くんを大事に育て上げている。なんて素敵な女性だろうって思っていたんですよ」
い、今、なんて? なんて言った? ステキ?
「そんな女性と是非仲良くしたいな、なんて思っていたのです。あ、すみません、調子に乗ってペラペラと…」
徳田が真っ赤な顔で頭を掻いた。その仕草にマミのハートはあの夕暮れのシーサイド以来、久しぶりにバックバクになった。
「あ、アタシも… 徳田さんと、仲良く、なりたい…」
この女。ずるい。アレだけガサツに喚いていたのが突如こんな風に乙女になる。流石に徳田もこの攻撃はかわせまい…
「連絡先、教えてもらえませんか?」
マミは目に涙を浮かべて、
「ハイ」
…… 夏は、恋の季節、なのだ…
「まことくんのまま、どうしたのかな。すごくごきげんだね」
誠は溜息をつきながら(四歳…)、
「きっといいことがあったんだよ。」
「いいことって?」
「すきなひとができたんじゃない?」
「え、そうなの?」
「たぶんね」
恐るべき息子である。普通、男の子は母親をここまでよく見ていない。まあそれだけ母親を愛しているのだろう。
「ふーん。でも、こんやもおとまりできて、うれしいな」
誠も嬉しそうな笑顔で、
「いっぱいおはなししようね」
真琴は思わず自分から誠の手を握ってみた。誠もしっかりと握り返してくれた。そんな恋人握りで前を歩く幼いカップルが全く目に入らず、一人妄想世界に身を悶えるマミであった。
丁度買い物を終えてマンションに着いた頃、マミの携帯が鳴った。見ると、さっき教え合った徳田からだった!
「今日はお会いできて楽しかったです。また近々公園とかで会えるといいですね」
「は、はい! また会いましょう。楽しみに、してます!」
「僕もです。それではまた。」
マミは電話を切るのも忘れ、呆然と立ち尽くし、喜びに身を焦がすのだった。
翌日の昼過ぎ。ようやく孝が真琴を迎えに来て、二泊三日のお泊まり会はお開きとなった。まだまだ一緒にいたそうな二人に、
「あの公園で二人で遊べばいいじゃん」
「そうだね。これからまいにちあそぼ」
「うん。おかあさんがかえってくるまで、まいにちあそぼ」
よしよし、それで良い。そして、その公園に、徳田さんが来てくれたら… なんて子供を出汁にして邪なことを考えるマミなのである。
そしてその夜。震える指で徳田の電話番号を押すと、留守電だった。明日からウチの誠と真琴ちゃんが公園で遅くまで遊ぶから、カナちゃんもどうですか、私は夕方から公園にいます、とメッセージを残した。
十分後、マミの携帯が鳴る。
「今晩は、今日も暑かったですね」
マミは震えながら首をカクカク振る。
「メッセージ聞きました。カナも是非一緒にお願いします、そして定時に仕事終えて、僕も公園に行きますね」
マミの瞳が潤む。
「あは、これで毎日、お会いできます、ね」
生きてて、良かった。マミは神様に感謝しつつ、電話を切った。
* * * * * *
三人にとってこれほど幸せかつ充実した夏休みは初めてである。
誠と真琴は朝ご飯を食べるとすぐに公園。お昼はマミの家で昼ご飯。そして夕方暗くなるまでまた公園。四歳児の辞書には『マンネリ』と言う言葉は無いらしい。ただ、ちょいちょいカナが薄暗く後をついて回るのが若干ウザかったが。
マミは誠に朝ご飯を食べさせると全力で家事。昼ご飯の準備を終えた頃に誠と真琴がやってきて、食べさせる。その後ちょいと冷えたビアを引っかけて三時頃までうたた寝した後、スーパーへ買い物、帰宅して夕飯の準備。外が暗くなった頃に公園へ行くと、しばらくしてスーツ姿のカッコいい徳田さんがやって来る! 三十分も喋ると外は真っ暗、また明日と言って公園を後にする。
翌週、真琴の母親と祖母が帰国し、これで当分公園に来なくなる、と思いきや、完全に真琴は石川家では放置状態となり、毎日公園で元気に遊んでいる。
誠と真琴の仲はカナが微妙に絡むことも幸いし、より深いものとなっているようだ。そしてマミと徳田も……
夏休みも後少しで終わろうとしている八月の末。
「マミさん、実は僕明日の日帰り出張がキャンセルになり、会社休めそうなんですよ」
「はあ。」
「どうですか、たまには子供抜きで、僕と二人でドライブにでも行きませんか?」
「イキたいっす!」
即返だ。マミの目と鼻の穴は大きく見開かれ、口から涎が垂れている……
「よかった。では十時頃にお宅に伺いますね。楽しみにしてますよ」
それからマミは夕飯を終えた後渋谷にスクーターを走らせ、五年ぶりくらいの勝負下着を買い揃えた。
家に戻りウキウキしていると、
「おかあさん。あんまりのめりこまないでよ」
なんて誠に言われ、アンタに何がわかるのよ、こっちだって寂しいんだよ、と四歳児にマジに訴えかけ、それならお好きにどうぞ、と呆れられてしまう二十六歳児であった。
翌朝。一睡もできなかったマミはそれでも朝シャンしてビシッと化粧して、時を待つ。時計の進みがいつもより遅い! イライラして待つも未だ九時。呆れ果てた誠が
「ぼくこうえんいくから。ゆうがたまでにはかえってきてよ」
一体どっちが保護者なのか……
九時三十分には堪らず部屋を出てマンションの前で仁王立ち。今日も三十度を超えるらしい、そんなギラギラ陽射しをモノともせず、マミは待ち続ける。
十時を五分ほど過ぎた時、目の前に真っ白のB M Wが止まり、
「すみません、遅くなりました」
とかつてない爽やかさで徳田が運転席から顔を出す。マミは嬉しすぎて涙が出てしまう。
ドライブはマミのリクエストで湘南と言うことになった。徳田はあまり土地勘がないらしく、途中マミが指図していると、
「マミさんは本当に頼もしい。頼りになります」
と褒められて軽くイッた。
いつも公園で長くても三十分ほどしか話さなかったので、互いの生まれ育ちを知ったのはこれが初めてだった。徳田は東京生まれ文京区育ち、超名門私大卒業後商社に入り、学生時代から付き合っていた彼女と結婚。カナが生まれて三年後、つまり去年ガンで死去。
マミもこれまでの人生をありのままに話し、大体お互いを知った頃に湘南の海が光って見えてきた。
かけていたサングラスを外すと、目不足の目も相まっていつもよりもずっとキラキラ光っている気がする。ああ、こんな海を見ながらランチでも出来たらなあ、と思っていると、
「鎌倉の海沿いのレストランを予約してるんですけど、そこでいいかな?」
まるでマミの心を読んでいるかの徳田の言葉にまたしてもイッてしまう。
「そう言えばこれだけ長くいるのに、二人で食事するの初めてですよね」
長くは、ないぞ。一月ちょっとだぞ、と突っ込みたいのを我慢しマミは頷く。それより、もっと前からこうしたかった。目の前の真っ青な海を見ながらシャンパンのグラスを傾けるマミは夢見心地でそう思った。
正直、料理を味わうほどの心のゆとりは全くなく、ひたすら徳田との会話とグラスを重ねていき、食事が終わる頃にはすっかり酔っ払っていた。それもサキと飲む時とは違い、大人のオンナの酔っ払いだった。
「マミさん、大丈夫? 足もつれてれる…」
「だ、大丈夫、かな? てへ」
大人のオンナ? そうか?
「ただ、ちょっと飲み過ぎたかも。少し横になりたいな…」
ほお。大人のオンナですな。ふむふむ。
「良かったら部屋を取るから少しシエスタして行きますか?」
「シエスタとは?」
「スペイン語で、昼寝、です」
「じゃあ、そのシエスタ、プリーズ」
オトナ……
豪快にイビキをかいて寝ているマミをベッドに残し、徳田はバスローブを着けてベランダに出てタバコに火を付ける。
まあ、二十六歳にしてはまあまあの身体だったな。徳田はマミの裸体を思い出しながら煙を真っ青な空に吹き上げる。それに読み通り、遊んでそうで全然だなこの女。ふふ、いつものようにこれからじっくりと調教していくか。あの女教師やC Aみたいに。
そして、身も心も自分のモノのになった時、さっさと取るモノとって…… この女の母親は相当溜め込んでるみたいだからな。あのマンションを現金で一括払いしたそうだし。ひょっとしたら今までで一番かもな。
札束を夢想していると、徳田は発情してきた。タバコの火を消し部屋に入り、素っ裸で寝ているマミに再びのしかかって行った。
「え、マジで? 遂にそのオトコと?」
「エヘヘ。」
「何処で? どんな感じ? で、どーだった?」
流石にこんな話は行きつけの店では出来なくて、三軒茶屋交差点近くのファミレスでヒソヒソとマミは赤裸々にサキに報告したのだった。
「…… その男、どーなん? ホント大丈夫か?」
「へ? なんで?」
「いや、なんつーか。」
マミが身体で男に溺れているのを初めて間近にしたサキは、軽いショックを受けていた。昔からガチガチの硬派で、所謂セックスに殆ど興味を示さなかったマミが、今更ながら男の身体にハマってしまったらしい。
湘南のお洒落ホテルで午後だけで三発? どんな種馬だよそいつ。マミとの下ネタ話に慣れていないサキは慎重に相手の男を見計らう。
マジで惚れてるオンナに、んなことするか? いきなり最初で身体溺れさすか? もちっと惚れたオンナを大事にしねえか?
ムンムンと女ホルモンを身体中から湧き上がらせているマミを眺め、不安に感じるサキであった。
流石に今夜は帰るわと言うマミと別れサキは一人バー黒船に向かう。扉を開けると、若林署の輪島と若林組の虎男と言う危険な組み合わせが席一席空けて飲んでいた。
国家権力と反社会組織。なんつー飲み屋だよ、と笑いつつその真ん中にヨイショと身体を滑らせた。
因みに。サキの憧れ、いや恋心はなんの進展もなく、てか生来臆病者のサキにはその先の一歩が踏み出せず、未だに仲の良い飲み友達関係である。
この二人なら相談しても問題ない。サキはマミと男のことがどうしても腑に落ちなく、一人で抱えるよりは人生の先立に相談しようと決心する。
約一時間、そしてグラス三杯かけて二人にマミの今日の出来事を語り終えると、二人の正反対の存在の男達は同時に大きく息を吐き出す。
「サキちゃん。そいつ、多分アレよ。ね、デカさん」
「うん。多分、な。それも相当タチの悪い、アレだろう」
サキは頭を傾げ、
「アレって何よ、アレって?」
両側の男達が同時にそっと囁く。サキの両耳に同時に声が入ってくる。サラウンド効果ってヤツかよ、サキは思いつつそのアレがなんだかを理解すると同時に戦慄した。
「ねえ、どうしようどうしよう…… このままじゃマミがお金取られた上にまた捨てられちゃうよ!」
輪島が厳しい表情で、
「この結婚詐欺ってやつはさ、本人に被害意識が全くないんだよ。だから周りが何を言っても全然聞いてくれない。捨てられた頃に初めて状況に気付くんだよ。」
「だから、今マミちゃんに何言っても、ダメよ。聞いちゃくれないわ。」
「じゃあ、どうすればっ ねえ、輪島さん、虎ちゃん、助けてよ、マミのこと助けてよお!」
サキは自覚していないのだが。詐欺、特に結婚詐欺事件の解決に最も適した環境がここにある、即ち、非合法的に相手の内情を調べ、その情報を元に合法的に被疑者を逮捕する。
それから三人は閉店時刻まで綿密に打ち合わせをし、マミが泥沼にハマる前に救い出す作戦が始動されたー
* * * * * *
その僅か三日後の朝刊の社会面。
『結婚詐欺師逮捕 警視庁若林署は先日、結婚詐欺の疑いで世田谷区三軒茶屋に住む徳田信二(36)を逮捕した。徳田はこれまでに五名の女性に結婚を持ちかけ、その準備費用と称し多額の現金を横領した疑いがあり、おおむね事実を認めている。被害者には教師やスチュワーデスもおり、他に余罪がないか追求している。』
「ちょっと新聞見た? あのカナちゃんパパ!」
「見た見た、大ショック…」
「信じられないよ… 詐欺師だったなんてさ」
「しかも、三十六歳? どう見ても二十代だったじゃん」
「三葉商事もウソ? あああ、憧れてたのに… ショック…」
「カナちゃんも、実の子じゃなかったんだって?」
「そうそう。親戚の子かなんかで、実の子じゃなかったんだって」
「それで、カナちゃんは施設に引き取られたんでしょ?」
「いやー、輪島さん、虎ちゃん。マジでありがと。それにしても、早かったねえ」
サキは焼酎のボトルを二人の前にドンっと置き、二人に水割りを作ってやっている。
「おおお、サキちゃんが酒作ってくれるなんて。こんなの初めてじゃない」
「あったぼうよ、こんくらいさせて貰わねーと。それよか徳田の奴、案外チョロかったなあ」
「何言ってんのよ。アタシが舎弟達のケツ蹴り飛ばして情報集めさせたのよ。」
輪島が呆れ顔で、
「まあ、よくこんな情報仕入れてきたなあ、って捜査二課の連中ビックリしていたよ」
「でしょ、でしょ。チンケな情報だったら指詰めさせるつもりだったから。うふ」
「…… 虎ちゃん、案外出世するんじゃね?」
「そうよっ 若林組五代目組長目指してるわよっ」
「其れはさておき。よく被害者の娘達、見つけ出したわねえ。」
「蛇の道は蛇、よ。うふふ。」
「そっか。よし、今日はこれ全部空けちゃって! アタシの奢りよお」
でも結局は…… なーんて思いながらグラスを拭くマスターなのである。
「ほんっとうに、あなた、馬鹿。大馬鹿。」
貴子の前で正座しながら暗くどんよりしているマミである。
「また男に騙されて。どうしてあなたは経験から学べないのかしら。大馬鹿。」
鼻を啜る音がリビングに響く。誠はとっくに寝室で寝ている。
「誠が誘拐されかけたのも、あの男の手配だったんだって? なんで見抜けないのかしらそんな事! 大馬鹿。」
うっうっという唸り声が部屋に響く。
「危うく私が稼いだお金、持ってかれるところだったのよ。ま、私は絶対あなたなんかに貸さなかったけどね。この大馬鹿。」
涙と鼻水がリビングのフローリングに水溜りをつくる。
「なあにが、アタシ旦那と娘が同時に出来ちゃうかも、よ。歳ばっかり無駄に重ねて。大馬鹿。」
ヒーーン。馬のいななきのような鳴き声が家全体に響く。
「サキちゃん達がいなかったら、あなたどうなってたと思うの? この大馬鹿。」
言い放ってから貴子は大きく溜息をつく。
「誠の育児が忙しくなったからって、店の仕事うっちゃってたけど。明日からは昼間はちゃんと働くこと。お母さん友達とランチだなんだって浮かれてるから、こうなるのよ。人間しっかり働きなさい! 特にあなたみたいな人間は、馬車馬のように働きなさいっ!」
寝室では誠がドアに耳をつけながらニヤリと笑っていた。