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Family Wars  作者: 悠鬼由宇
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第二章 子供におそいかかる魔の手になす術もない大人達。だが……

 一九九三年、平成五年。

 バブル景気も終焉を迎え、皇太子のご成婚がかろうじて日本人の心に明るい光を灯した年。

 その七月三十日。石川家では真琴の三歳の誕生日パーティーが開かれていた。

「真琴ちゃん、お誕生日おめでとう。もうすぐお姉さんになるのだから、なんでも一人でできるようになるのよ」

 三歳児にそんな無茶振りをする妻のミカに孝は苦笑いする。

 琴美が出て行った半年後、母の良子が探しに探し、なんとか発掘してきた女性と見合いをし、即決し、去年の六月結婚式を挙げた。

 相手のミカは成城大学を卒業しO Lをしていたが寿退社をし、今は石川不動産を手伝っている二十六歳。親は代沢に住み渋谷にビルを幾つか持つ資産家であり、良子とは不動産関係での知り合いである。

 当初はバツイチコブ付きの孝に相当難色を示していたそうだが、良子の納豆顔負けの粘りに最後は屈し、後妻の座に座ることとなった。

 かなり無理して嫁入りしてもらったので、良子はミカを立てること並々でなく、ミカの言うことはなんでも聞く有様。まあそれも無理はない。花の丸の内O L生活を満喫していた所を親の頼みで町の不動産屋の後妻に、しかも変な曰く付きの娘の母親になってしまったのだから。

 まあ元々お嬢様育ちでワガママ放題、我慢のガの字もよく知らない若い女子が、三茶の場末に住んでネクラな乳幼児を育てろ、と言う方が可哀想っちゃ可哀想だ。

 嫁いで一時間で己の選択ミスに呆然としたミカだったが、この秋にようやく本物の母親になれる、それだけが今生きている上での希望の光なのである。

「さ、食べ終わったら、自分でお皿を流しに運びなさい。それからお風呂に入りなさい」

 ヨロヨロとお皿を持ってキッチンに行く途中で、フォークを落としてしまう。

「ダメでしょ! ちゃんと運びなさいっ!」

 ビクッとした真琴は思わず皿を落としてしまいー

「もー、あなたは何をやってもグズでマヌケで。自分で片付けなさいっ!」

 割れた皿の破片で指を切ってしまう。

「何やってんの! 怪我なんてしちゃダメでしょ!」

 孝も良子も、何も言わず、何も言えず、ただ見守るしかなかった。


「今日、晴れて良かったね。誠くん晴れ男かしら?」

 マミの母親友達が空を見上げながら呟く。

「うちの子、昨日から『あしたはマコトちゃんのたんじょうかいだから、はれますように』っててるてる坊主作ってたんだよ」

「うわー、ありがとお健くん。健くんママも、今日はありがとね」

「いいのいいの。来年からはおんなじ幼稚園だしね。」

 世田谷公園で開かれた誠の誕生会には大勢の子供と母親、若干の父親が集まっていた。各々持ち寄ったお弁当を突き合い、お菓子作りが得意なお母さんが作ってくれたケーキを食べ、みんなでハッピーバースデーの歌を歌い。

 ふとマミは、三年前のこの日に同じく生を受けた女の子はどうしているか、気になった。

「ねえ、石川不動産とこの真琴ちゃん、どうしてるか知ってる?」

 皆は首を横に振るが、情報通として知られる仁美ちゃんママが、

「去年後妻もらって、この秋に赤ちゃん生まれるって。」

 皆はそこまでは知っているらしい、マミもそこまでは知っていた。

「その後妻と真琴ちゃん、上手くやってるのかなあ?」

 マミが呟くと、仁美ちゃんママは、

「それがねえ、うまくいってないらしいよ。店の奥からよく怒鳴り声聞こえてくるって。」

「うわ… それリアル白雪姫じゃん…」

「渋谷のデパートで、ビンタされてるの見たって誰か言ってたわ」

「幼児教室の前でメチャクチャ怒鳴られてたって…」

「こないだ道で挨拶したら、ガン無視された。ムカつく。」

「あー、私も。マジいけすかない女だよね」

 公園端会議のテンションが一気に跳ね上がるも、マミは一人不安顔でうな垂れる。

 琴美との約束。

 真琴をどうかよろしくお願いします

 あの、小学生のような文字で書かれた手紙は、今も大事にとってある。


 数日後の夜。バー黒船でサキと待ち合わせをしたマミは、一人でカウンターでビールを飲んでいた。カランカラン、と扉の開く音が、遅えよ、と言いかけて口をつぐむ。

 一人の中年の男が俯きながら入ってきて、カウンターの端に腰掛ける。誰だろ、一見さんかな。こんな場末のバーに常連以外の客は珍しい。

 しょぼくれた中年男チェックをしていると、元気よくサキが店に入ってくる。

「お待たー。マスター、生ちょうだい!」

 ヨイショとマミの隣に腰かけ、今日の仕事の愚痴を話し始める。

「ったく。あの女、何様だっつーの。こんな小汚い病院で産むつもりはありません、とか言っちゃって。マジでプロスタグランジンぶち込んでやりてーわ」

「何それ? ヤバいヤク?」

 カウンター端の中年男がピクリと動いた。

「陣痛促進剤。」

 中年男がプッと吹き出した。

「マスター、アタシいつもの。そんでさ、その女、誰だと思う?」

「へ? 知らんわ」

「アレよ。石川不動産の、後妻。ミカとかいう女。」

 マミは残り二十CCのビールをカウンターにぶちまけた。

「お、落ち着けマミ! アタシだってビックリしたわ、マジで」

「マスター、焼酎ロックで。で、サキ、そのピロフタガイコクジンとか言うの、ぶち込んでやったんだろーな?」

「は? 何のクスリだよ? 飲むと英語ペラペラになる薬かよ(笑)」

 中年男が口を手で抑え、笑いを堪えている。

「それより。サキてめー、誠の誕プレ、何呉れちゃってんだよ!」

「ハア? な、何だよ、問題あっかよ?」

「三歳児が、ガンプラなんて無理だろ! アホかてめーは!」

「バーカ、誠ならイケるって。アイツメチャ賢いじゃん、テメーと違ってよお」

「てか、何でガンキャノンなんだよ! せめてシャーザグにしろやボケ」

「あたしゃカイ命なんだから仕方ねーだろ。で、アタシはミハル。二人の弟妹を育てるためにホワイトベースに侵入し〜」

「てか。なんでカイなん? あたしゃ、スレッダー一択さ。『まだまだー』って言いながらの特攻よ! ハー、痺れるわー」

 酔いの回ったサキがこともあろうに、端に座る中年男に、

「おじさんは誰派?」

 ちょっと、サキやめとけって…… サキの服を引っ張るとー

「マチルダ、さん。」

 マミは含んでいた焼酎を涎のように下に垂らす。


「そっかあー、おっちゃん若林署の刑事さんかあ。ふーん。名前なんつーの?」

 その刑事は輪島と名乗った。なんでも神奈川県警に勤めていたのだが、今は警視庁との合同捜査があり、こちらに住んでいるという。

「家族は神奈川に?」

 数年前に妻とは離婚し、高校生になったであろう息子とも音信不通だという。

「で、何の捜査やってんの?」

 輪島は微笑みながらゆっくりと首を振った。そしてカウンターに一万円札をおき、彼女達の分も、と言って店を去っていった。

「きゃーーーーーーー 超タイプ! 渋いー!」

 サキが悶絶している。

「そー言えば、あんたデカ好きだったわな。昔も交通課の何とかっていう白バイ乗りに入れ上げちゃってよお」

「あの、大人の余裕? 渋いよ、カッコいい! 輪島さんかあ、ちょっとマミ。アタシが唾付けたんだからね。手出すなや!」

「出さねーし。アタシは男は一生に一人、だし。」

 サキがハッとして、

「お、おう。そうだな、うん。オメーは偉い。マジで偉い!」

 すると、いつの間にか隣に腰かけていた若林組の舎弟頭の虎男が、

「そうだ! マミはエライ! 女の中のオンナよ!」

 二人は唖然として、

「ハア…… アンタ、なにその話し方、いつから?」

 虎男はちょっと俯き気味で、

「流行りのカミングアウトってやつよ。何、男好きじゃいけないの?」

 実はマミもサキもそういった差別を心底嫌う、バリバリの人権派だったので、割と呆気なく虎男を受け入れたようだ。

「って、人の話聞いてんじゃねえよ、このブス!」

 虎男は目をひん剥いて、

「ちょっと! 何がブスよ! 失礼しちゃう。ぶっ殺すわよ!」


「それより虎子、アンタいい人いないの?」

 ベロンベロンに酔っ払ったサキが虎男の肩をバシバシ叩きながら言うと、

「いないわよ。いるもんですか、あんないい男より他に! ねーー、マミ!」

「だべ? 虎子、オメーならわかるよな、あんないい男、いねーよな。うん。うん。うっうう… うえーーん」

「泣きなさい、マミ、アタシも泣くから。ひえーーーん」

 虎男とマミが肩を組みながら号泣しているのを見て、サキは

「それにしても、虎子がおかまちゃんだって、組の子達は知ってんの?」

「知るわけないじゃない。ここでしか出さないわよお、もーーー。ひえーーーん」

「マスター、いつからここゲーバーになっちゃったのよ……」

 マスターが肩をすくめ、お代わりをサキに差し出す。

「それより。誠一くんから連絡来ない?」

 マスターは悲しげに首を振る。

「そっか。もうあれから、三年経つんだ。三年、かあ…」

 サキはヒーヒー泣いているマミを眺めながら、そっとマミの頭を撫でてやる。

「アンタ。よく、頑張ってるよ。男に捨てられ、母親を引き取って。そんで、誠をしっかりと育てて。マジで良い子に育ってんじゃん。病院でも評判だぜ。ちゃんとありがとうって相手の目を見て言える三歳児、いねーって。転んだ赤ん坊を真っ先に助け起こす三歳児なんて、いねーって。僕、ママのこと愛してる、だって僕を産んで… くれたから… なんて、笑顔で言える三歳児… なんて… ぜってーいねえから… オイ、聞いてんのか、マミ… くっ……」

 例えマミちゃんが酔い潰れずに聞いていたとしても、こんな涙まじりの話は聞き取れなかったろうな。

 マスターはカウンターに背を向け、一人涙を拭った。


     *     *     *     *     *     *


 誠はとっても聡い子である。


 三歳になったばっかりなのに、ひらがな、カタカナが読めてしまう。何なら簡単な漢字も読めるのだ。これはサキの力によるものが大きい。勤めている病院のママさん看護婦や女医に聞いた育児法をマミにアドバイスし、それがいわゆる絵本の読み聞かせであった。

 自分のこと、親のこと、ましてや他人のことを面倒くさがるマミは、誠に対してだけは己の全てを捧げ尽くしまくってきた。読み聞かせもサキから聞いた時には、

「んなことすっかよ。面倒くせー」

 と吐き捨てたのだが、サキにその効用をくどくど聞かされているうちに、

「やるわ。マジで、やる。ぜってー毎日、やる!」

 その宣言通り、この一年半に渡り毎晩寝る前の絵本読み聞かせは書かしたことが、ない。

 …… たまに、サキと飲み過ぎて深夜の帰宅時には翌朝必ずその補填を行なった…

 …… ごくたまに、夜の誠の面倒を母親に全任せした時も、必ず電話を入れ、読み聞かせしてやったか、確認した。母親の貴子は、

「読んだわよ、ちゃんと。じゃあね」

 翌朝。誠におばあちゃんに何読んでもらったのと聞くと、

「おばあちゃんはとてもねむいのでよんでくれなかったの」

 孫に嘘ついてサボるとは何事だ、とブチ切れ、正論に正論を重ね貴子を論破し反省させた。

 翌月、また誠を貴子に任せる時に、よおく念を押して出かけ、翌朝誠に何の絵本を読んでもらったか聞くと、

「けいばのとも、ってゆうおうまさんのおはなし。とってもおもしろかったの」

 頼むから、ギャンブル系だけは勘弁してくれ、と泣きながら懇願するマミだった。

 まあ、絵本ばっかじゃ面白くねえか、なんてマミは軽く考えてそれをサキに話すと、サキはマミの携帯を奪い、貴子に直電を入れ、如何に幼少期の柔らかい脳に健全な物語を聞かせるのが大事なのかを泣きながら説明し、それ以降むしろ貴子の方が本気の絵本読み聞かせにハマって行ったのだった。

 そんなこんなのお陰で、春ぐらいから誠は絵だけでなく文字を追うようになり、気がつくと絵本に出てくるひらがなカタカナは完全にマスターしたのだった。そして去年の誕生日にお母さん友達から譲り受けたお古の動物図鑑を一人で眺め始め、そのうちスラスラ読めるようになっちゃったのだった。

 その話を聞いたサキはブックオフに行き、子供の図鑑セットを買い求め三歳の誕生日プレゼントとして送った。そのおまけにガンプラを付けといたのだった。

 誠は大好きなサキ姐さんからもらったガンプラには目を白黒させ困惑したものの、図鑑集には狂喜乱舞し、冬までには全て読破し、特に気に入った『子供の科学図鑑』は何度も何度も読み返していた。


 そんな誠の成長に顔のニヤケが止まらないサキだったのだが。

「ちょっと、聞いてくれよマミっ」

 秋も深まってきた十一月のある夜。サキはバー黒船に入ってくるなり激怒した様子でマミに食ってかかった。

「あの石川不動産とこの真琴ちゃん。先週、骨折したんだってよ!」

 マミは先に一杯やっており、ほろ酔い気分だったのだが、一瞬で吹っ飛んだ。

「ウチと提携してる、池尻大橋病院ってあんじゃん、そこの整形外科のナースと知り合いなんだけどよ、そいつが言ってたんだわ。左手をポッキリ折っちゃったって!」

「マジかよ… 原因は? 交通事故か?」

「それが、よ。どうやら、親の虐待らしいんだわ」

 ぎゃくたい… その言葉の意味が把握できないマミが首を傾げていると、

「親が子供に暴力を振るうこと。もし本当なら警察沙汰よ」

 いつの間にかカウンターで飲んでいる若林組の虎男がつぶやいた。

 マミは言葉を失い、

「それって、その後妻ってヤツが?」

「恐らくね。あのバカ社長は子供に手あげる程キチガイじゃないと思う」

 石川孝バカ社長と幼馴染の虎男は頷きながら、

「小さい子に手を上げるなんて、タカちゃんは絶対しない。クソババアもそんなことしない。だから、きっと…」

 サキがプンプン怒りながらおかわりを注文する横で、マミは頭を抱えた。

 守れなかった… 琴美との約束を、守れなかった…

「その、ぎゃくたいってえのさ、間違いないのか?」

 サキはおかわりのグラスを一気に飲み干し、更なるおかわりを頼みながら、

「ああ。背中とか腕、お尻とかに、アザがいっぱいあったらしい。」

 マミは一瞬気が遠くなった。

 琴美と約束したのに、真琴ちゃんがそんな酷い目にあっていたなんて…

「なあ、それってやめさせるにはどうしたらいいのかなあ」

 サキはうーんと唸り、

「そのキチガイ女呼び出して、焼き入れて反省させる?」

 マミと虎男は首を振る。

「タカちゃんにアタシから話しておこうか?」

 マミとサキは首を振る。

「あのバカ社長がうまくやめさせられると思う?」

 虎男は虚しく首を振る。

「サキ、あんたそのダチにもっと詳しく話聞いてきておくれよ。それから対策考えようぜ」

 サキは首を縦に振った。


 真琴はとっても聡い子である。


 だが、真琴は義母から酷い仕打ちを受けている。

 その義母、ミカが石川家にきた経緯は承前だ。去年の六月から石川邸―石川不動産の上階の住居部分、に住み始めてすぐ、ミカは真琴が気に入らなかった。

 まず目付き。二歳児のくせに人を見下すような冷たい目(では決してないことは夫、義母の良子、母親友達は知っている)。ちっとも笑顔を見せない傲慢な能面のような表情(ではないことは彼らは重々承知している)。

 初めて紹介された時のことは忘れない。

「真琴ちゃん、初めまして。今度お母さんになる、ミカよ」

 夫となる孝の後ろから顔だけのぞかせ、じっと自分を睨みつけていた。その目はまるで、アンタなんか母親として認めない、という目付き(では断じてなかった、と孝と良子は確信している)であった。

 話しかけても、無視。頭を撫でようとしたら避けられる。これでは流石にこの子を可愛い、とは到底思えまい。

 この子を捨てた母親の話は大まかに聞いていた。何でも生まれ育ちがよく分からない、所謂『馬の骨』だった(と良子がベラベラ喋るのを孝は何も否定できなかった)そうだ。

 そんな馬の骨の子供をどうして私が可愛がらねばならないのか? うんまあ、その気持ちも分からんくもない(と数名の事情知りは同情する)のだが。

 まずミカは、その存在を無視することにした。自分に子供がいるという事実を否定した。よって、真琴を遊びに連れて行く、真琴の好きなものを作る、真琴のために苦労する、といった行為を一才拒絶した。

 従って、真琴の食事や衣服の着替えなどの身の回りの世話は良子が、遊びに連れ出したり風呂に入れたり寝かしつけたりするのは孝が主に担当した。まあごく偶に、渋谷のデパートに自分の買い物に出かける時に仕方なく連れて行くことはあったが。


 ミカは妊娠すると真琴に対する興味は更に薄れ、口をきかない日もあるほどだった。腹が膨れ、順調に胎児が成長してくると、ミカは真琴が邪魔に感じるようになってきた。そして胎児がどうやら男の子らしいと分かると、ハッキリと真琴に対し、敵意を示すようになった。

 まず怒鳴るようになった。何かちょっと失敗しただけで、髪の毛を逆立てて怒鳴り散らすようになった。

 やがて、手が出るようになった。彼女自身は親から手を挙げられたことなぞ一度もなかったのだが、ある日ミカが大事にしているエルメスのバッグを真琴が爪で引っ掻いているのを見た瞬間、目の前が真っ赤に染まり気がつくと真琴を張り倒していた。

 真琴は泣き叫ぶこともせず、謝ることもせず祖母の元へ逃げていった。

 ミカは震える右手を眺めながら、己の所作に恐怖を覚えた。

 人を、それも小さな子を殴るなんて

 その夜は流石に寝付くことが出来なかった。己に潜んでいた暴力性に恐れ慄いた。

 翌週、今度はミカが三番目に気に入っていた赤のパンプスを真琴が履いて楽しそうに踊っている姿を見て、また目の前が赤く染まっていった。自分の右足が真琴を蹴ろうとしているのがスローモーションのように感じられた。最早止めることは出来なかった、いや止めようとしなかった、むしろより強く蹴り入れようと太ももに力を入れた。

 そんな事が続く内に、真琴を痛めつける行為に怯えることがなくなり、やがてそれが普通になり、最近ではストレスの捌け口として重要な事と思うようになってきた。

 孝と良子は初めから止める事はなかった。特に良子は

「躾なんだから、でも怪我させちゃダメだよ」

 なんて言う始末。孝に至っては見てみぬフリどころか、その行為自体をこの家には存在しない、と自分に言い聞かせ目を閉じ耳に蓋をしている。


 そして遂に先週。ミカが独身時代から大事に使っていたマイセンのコーヒーカップを真琴が落っことしてマイ センになった時、ミカは鬼の形相で

「この、クソ餓鬼があーー」

 と怒鳴りながら真琴の髪の毛を掴み、床に叩きつけた。その時真琴の左手がボキッという音とがし、みるみる腫れ上がっていったのを見て良子は気絶した。

 流石にやり過ぎた、ミカは深く後悔しかけたのだが。

 真琴は何と、泣きもせずに腫れ上がった腕を押さえながらミカを睨み付けたのだった。

 ミカは背筋が冷たくなり、慌てて事務所に駆け込み孝に真琴の腕が折れた旨を伝えた。孝は真っ青になり二階のダイニングに駆け込み、真琴を抱え上げつつ救急車を呼んだ。


 搬送された病院の医師は呆れつつも驚愕した。

「この腕、どうしたの?」

 真琴の答えは、

「コップをおとしたのをひろおうとして、いすからころびました」

 そんなことでは絶対に折れることはない。何か外的な力が働かない限り、この子程の自重でこんな事態には絶対至らない。

 反対側の腕に治りかけのアザがあったので全身を調べたところ、明らかに虐待を受けている傷を多数認め、

「誰に乱暴されているのかな?」

「わたしはおっちょこちょいなので、じぶんでけがしました」

 医師は孝を呼び、

「お子さんが誰かを庇って嘘をついています。あの怪我は誰が負わせたのですか。場合によっては警察にー」

 孝は慌てて、

「す、すいません、警察にだけは! もう二度とさせませんから!」

 させませんから、と言うことは母親が? 医師は孝に、

「こういった事はどんどんエスカレートしていきますよ。この子の命の危険性に関わる事です。よく注意してください、いいですね?」

 現代なら即通報ものなのだが。

「わかりました。以後気をつけます!」

「ギブスで固定します。しばらく不自由になりますので」

 孝は何度もカクカクと頭を下げた。

 真琴はそのやりとりをじっと見ていた。

 帰宅途中。孝が、

「真琴。なんで先生にウソついたんだい?」

「だってほんとうのことをいったら、パパとおばあちゃんがこまるでしょ」

 孝はゴクリと唾を呑み込み、呆然と娘を見つめたものだった。


     *     *     *     *     *     *


「マミ、あなた知ってる? 今日お客さんから聞いたんだけど、石川不動産とこの後妻が子供産んだって」

 絵本を読み聞かせてから誠を寝かしつけ、カラカラの喉を癒すべく冷たいビールをごくごく飲んでいるマミは思わず咽せ返る。

「マジか? そんで、真琴ちゃんは?」

「マコトちゃん?」

「あれだよ、逃げた嫁との子だよ。ウチの誠と同い年の。」

「知らないわよそこまでは。ああ、あなた前になんか言ってたわよね、同じ病院で生まれたとかー」

「そーそー。それがさ、その後妻にいじめられててこないだなんて手の骨折ったって。マジで酷くね?」

「ホント? まあ気持ちは分からなくないけどねえ」

「ハア? はー、アンタらしいわ。でも、このままじゃ益々真琴ちゃん酷いことされそーじゃん?」

「そーねえ。自分の産んだ子じゃないしねえ。その内キュッと首絞めたりして」

「…… アタシ誠とこの家出て行こうかな…」

「嫌! 出て行くならあなただけにして! まこちゃんは置いていって!」

「あはは。誠はこんなに愛されてんのに… 真琴ちゃん、マジ可哀想だわ…」

 貴子はタバコを手に取りマミに首でくいっと合図する。二人はベランダに出て貴子はタバコに火を付ける。マミははにかんだ笑顔で、

「ホント、誠は幸せだよ。ママ、あんがとな」

 貴子は煙をマミに吹き付け、

「それより。あなたの言う通りよ。このままじゃ真琴ちゃん、命落とすかもしれないわよ」

 と真顔でマミに呟く。マミはゴクリと唾を呑み込み、

「どうしたらいいかな… アタシに何が出来るかな?」

 真剣な面持ちで母親に問いかける。

「警察に相談、かな。」

 煙をすっかり冷えた寒空に吹いてから一言。

 マミはコクリと頷いた。


 師走。誰もが忙しく慌ただしい月。石川不動産も例外でなく、孝と良子は事務所に貼り付き、ミカは生まれたばかりの孝一の世話に夢中である。ただ一人、真琴だけは食事以外はほぼ放置され、暇である。

 新たにできた弟はとても可愛いのだが、家にいても辛いことばかりなので、最近はもっぱら昼ご飯後は外に出ることにしている。天気が悪い日は近くの児童館で絵本を眺めたり。そして今日のように天気の良い日は近所の公園で落ち葉を拾ったり、地面に絵を描いて遊んでいる。

 左手のギブスが邪魔で思うように遊べないのが不満だが、それでもあの鬱々とした家にいるよりは遥かに気が楽で、何より自分の思った通りに遊べるのが嬉しい。

 拾った落ち葉を手に真琴はベンチに腰掛けた。そして落ち葉を太陽に透かして眺めたりしていたがその内に飽きた。

 ふと砂場の脇にしゃがんでいる男の子が目に入った。自分と同い年くらいかなあ。他の子供が友達と遊んでいるのに、あの子は私と同じで一人で遊んでいる。

 その男の子が不意に真琴に振り返る。しばらく真琴の顔を眺め、そして左手のギブスに目が行きその眼が大きく見開かれる。

 真琴は落ち葉をベンチにそっと置き、その男の子の方へ歩いていった。


 男の子の目の前で真琴は立ち往生となる。そう言えば、私は同じ年くらいの子に話しかけた記憶がない。どうすればいいのだろう…

 砂場の脇で蟻の巣を観察していた誠は左手に白い物を巻いた女の子が近付いてきて立ち止まったのを呆然と眺めている。誰だろう。前に会ったことあったかなあ。不思議と初めて会う気はしなかった、むしろ懐かしさが込み上げてきた。

「そのて、どうしたの?」

 母親仕込みのコミュ力で誠は普通に真琴に話しかける。

「こっせつ。」

 誠は骨折という単語と定義を知らない。

「こっせつって、なあに?」

「ほねがおれたの」

 誠はおばあちゃんが作ってくれる手羽先をイメージし、骨を折る感触を思い出し、震えあがる。

「えええ、いたかったでしょ? だいじょうぶなの?」

 誠は心底心配する。そしてそれが真琴に伝わる。

 どうしてこの子は知らない子の怪我を心配するのだろう。家族から全然心配されていない、むしろ邪魔者扱いされている真琴は、誠の心配が理解できなかった。

「なんでそんなこというの?」

 誠はちょっと考え込んでから、

「だって。ほねがおれたらいたいでしょ。ぼくいたいのきらいだから。きみもとってもいたかったでしょ?」

 真琴は他人の痛みを想像したことがない。目の前の子は自分の痛みを想像し、同情してくれている。こんな事は初めてだ。自分を理解してくれている。自分を認めてくれている!

 気がつくと目から大粒の涙がポロポロ溢れ出した。立っていられなくなりしゃがみ込んで嗚咽した。母親に投げ飛ばされほねが折れた時も、病院で治療された時も痛みを我慢し涙一つ溢さなかったのだが。

 そんなしゃくりあげる真琴の頭に誠は手をそっと乗せ、優しく撫でてあげた。

 ああ、この感じ。この感触。知っている! 覚えている!


 ひとしきり泣いた後、真琴は

「なにしているの?」

「クロヤマアリのせいたいをかんさつしてるの」

 くろ、やま、アリ? セイタイ? 真琴は聞いたことのない単語にちょっと動揺する。男の子の足元には蟻の巣がある。

「それはありでしょ?」

「うん。クロヤマアリ。」

「ちがうよ。あり。」

「うん。クロヤマアリ」

「あり!」

「クロヤマアリ!」

 誠は気が付く。この子は蟻はこの世に一種類しか存在しないと勘違いしている、と。

「このアリは、クロヤマアリっていうしゅるいのアリなの。ほかにもいろんなアリがいるんだよ。」

 真琴は驚愕する。何それ、信じられない…

「じゃあ、おとうさんにもくろおとうさんとかやまおとうさんとか、いるわけ?」

 誠は驚嘆する。え、そうなの? でもアリに種類があるのだから…

「うちのおかあさんは、クロほそおかあさん」

 真琴も負けじと、

「うちのおとうさんは、ちゃいろぼんやりおとうさん」

 互いにその親を想像し、やがて顔を見合わせ吹き出す。

「ぼく、かなざわまこと。きみはだあれ?」

「わたし、いしかわまこと。」

「「???」」

 顔を見合わせ、それこそ鼻と鼻がくっつきそうなくらい近付き、

「まこと?」

「まこと。まこと?」

「うん、まこと。」

「「ああ、おんなじだあ」」

 真琴は自分と同じ名前の人がいることがとても嬉しい気持ちになり、思わず誠に抱きついてしまう。左手のギブスが誠の後頭部に当たり、

「いてっ」

「あ、ごめん」

「いいよ」

「うん」


 誠はこの世で母親が一番、おばあちゃんが二番目に美しいと思っていた。だが間近の真琴を眺め、一番がこの子、二番目に母親とおばあちゃん、と序列を変更することにした。

 それ位、信じられないくらい、この子は可愛かった。特に笑った時の目とほっぺたは見たことないほど可愛く思った。

 そして思わず、

「ねえ。けっこんしない?」

 とナチュラルにプロポーズしてしまった!

 真琴は他人を好きになるという感情を持っていない。また他人から好かれた経験も意味もわからなかった。愛が枯渇している状態だった。

 目の前の男の子が自分の骨折を心配してくれたのが驚きだった。自分の知らないことをよく知っているのがビックリだった。名前が同じなのには腰を抜かしそうになった。そしてー何故か、この子が懐かしかった。

 なので、思わず、

「うん。いいよ」

 と受諾してしまった!

 平成五年、十二月。三歳四ヶ月。婚約は、成立した。


 そしてこれからの生活について話し合おうとしたその瞬間。

「おーーーい、マコトおーー」

 二人は同時に振り返った。

 マミは買い物袋を下に落としてしまった。

 愛する息子が女と遊んでいる、しかもメチャクチャくっついている! アドレナリンが爆発し、スタスタと二人の元に歩いて行き、

「テメー、人の息子になに手出してんだコラ!」

 と怒鳴ろうとした間際、その女の子の左手のギブスが目に入った。アドレナリンは瞬間蒸発し、

「あなた、石川真琴ちゃん?」

 真琴は知らない怖そうなおばさんに怯みながらも、コクリと頷いた。

「あなたが… 真琴ちゃん…」

 そう言うと、突然マミは真琴を抱きしめた。

 真琴はこの事態が理解不能となり、硬直するしかなかった。それでも、甘く香る母親の匂いは真琴の心に染み入り、気が付くと自分もおばさんに手を回していた。

 遠い記憶に残る母の抱擁。真琴は目を閉じ、それを一生懸命思い出そうとしていた。


     *     *     *     *     *     *


 それから。毎日、真琴と誠は…… 遊んだ? もっと大人ならば、デート、逢引き、表現の仕様があるのだが、三歳児同士がデート? やっぱ、遊んだ。でしょ!

 そんな二人を愛おしそうにマミは眺めている。

 なんかあの二人、メチャクチャ似合ってんじゃん。いいじゃん。

 と同時に、マミの心は沈んでいく。

 どうすればあの子を母親の家庭内暴力から救えるだろうか。アタシに何が出来るのだろうか。己の非力をこれほど呪ったことは嘗てない。

 母の、貴子の言う通り、警察に頼るのがいいのかも知れない。だがどうやって?

 何度か真琴に、

「ねえ、お母さんのこと好き?」

 と聞いてみたのだが、真琴は能面のような表情で、

「うん。すき」

 としか言わない。

 これでは警察は動いてくれまい。

 そもそも、真琴は母親の暴行を肯定している節がある。骨折についても、

「わたしがわるいこだからしかたないの」

「おかあさんはわるくない」

「おとうさん、おばあちゃんをこまらせちゃいけない」

 などと口走る有様なのだ。

 ある日、いつもの公園に誠を迎えに行くと、真琴の頬にアザがついていた。

「真琴ちゃん、ほっぺた、どうしたの!」

 マミは心を錐で刺されたような気分になり尋ねた。

「これはね、わたしがわるいの。わたしがね、こういちのほっぺたをさわっちゃったからなの。おかあさんにあれほどさわっちゃだめっていわれてたのに。でも、こういちがとってもかわいくて、ちょっとさわっちゃったの。だからわたしがわるいの」

 最近、真琴はマミに対し、よく話すようになってきた。初対面の時には硬直されたのだが、それでも徐々に心を開いてくれてきている。

 そんな真琴の悲痛な叫びに驚き、だが何もどうする事もできない自分の非力さにマミの心は引き裂かれる思いだった。


 その夜。バー黒船にサキを呼び出す。

「ったくクソ忙しいのに呼び出しやがって。今夜はテメーの奢りだかんな」

「あの子が、真琴ちゃんが、ヤバい。」

 サキは態度を一変させ、

「どうした?」

「今日、頬にアザが出来てた」

「マジか! 骨折してる子供を、殴ったのか?」

「でもあの子は自分が悪いから、と母親を庇おうとしている」

「何だよ、それ……」

 サキはカウンターに頭をぶつけ、動かなくなる。

「サキ、あたしゃどうすればいいんだよ! このままじゃ、あの子マジで……」

 突如マミがボロボロと涙を溢し始める。

「誠がさ、最近あの子と連んでんだわ。「ぼくたち、けっこんするんだよ」なんて言いやがって… もしよ、誠がそんな事知ったらどーするよ。それとよ、もしクソ女が誠の事知ったら、あの子どーなるよ。マジで、ヤられるよ。ヤベーよ。サキ、どうしよう。怖いよ…」

 サキは拳を握りしめ、それをカウンターに叩きつけた。あのマミが、天下無敵、喧嘩上等のマミが怯えている!

 何とかしなくちゃいけない。何としてもその子を守らなきゃいけない。でないと、マミが壊れてしまう!

 マミを、守らなきゃいけない!

 店のドアが開く音がする。こちらに歩いてくる靴音がする。

「今晩は。マミさんと、サキさん、だっけ?」

 輪島刑事がやや疲れた表情で二人に優しく微笑みかけた。


 泣きじゃくるマミの代わりに、サキが冷静に状況を輪島に説明した。輪島は刑事らしくサキの話を上手に聞いている。時折上手く話を引き出す質問をし、サキが話し終えた時にはほぼ全ての状況を輪島は把握していた。

「知ってるよね、警察の民事不介入、って言葉。」

 二人はコクリと頷く。

「今聞いた話ではね、警察はどうする事もできない。」

 大きな溜息が二つ。絶望と失望。二人の心は深く沈んでいく。

「一番良いのは、弁護士に相談すること。そして児童相談所に連絡をとって対処してもらう。」

 マミがグラスをカウンターにドンとぶつけ、

「んな金ねーし。それにそんな生ぬるいことしてる内に、ヤラレちまうって。」

「だよな。父親もババアも容認してるんだし。弁護士の言うことなんて聞かねえよ絶対」

 輪島はグラスを口に含み、

「警察ができることは、暴行の現行犯逮捕。すなわち、母親がその子を痛めつけている時に逮捕する。それしか出来ない。」

「そんなん、家の中で殴られてんの、警察入ってこれねーだろ。そんじゃ意味ねーだろ。オメーら警察、舐めてんのかコラ! 税金払ってんだぞ。本当にヤバい事件に手出せないって、何なんだよオメーら。」

 輪島は一言、

「すまない。」

 そう言って、大きく溜息をつく。

「マミ。やっぱどっかで弁護士探してさ、」

 サキがそう言いかけた時。店の扉が乱暴に開かれ、

「ちーっす… おっとっと。じゃあまたな」

 輪島を一目見て店を出ようとする虎男に、

「ちょ、待て虎!」

 サキが怒鳴ると虎男はヒーっと言って、硬直する。


「な、なんでお前らデカと飲んでんだよ」

 刑事の前では男前な虎男なのである。

「それより。アンタ、石川のバカ社長、呼び出せ。今すぐ。ここに!」

 マミはガバッと顔を上げ、

「それ! それだよそれ!」

 ようやくマミの顔に笑みが溢れる。

「あれか、後妻の暴行の件でか。そんで、このデカさんにキツく締め上げてもらうってか?」

「んな感じ。いいから早く呼べ! 早く!」

 こんな怖いサキっていつ以来だろ。マミはぼんやりとサキを見つめながら思った。

 虎男は赤電話で孝に電話すると、

「はあ? 忙しい? いいから顔出せって。でないと、デカがお前んち行くってよ」

 輪島が片目を釣り上げると、虎男は御免なさいと片手を縦にする。

「そう。そうだよ。いいのか、オメーの可愛いカミさんがパクられても。そうだ。それでいい。バー黒船な。待ってるぜ。え? 話し方? き、気にすんな。じゃあな」

 受話器をガチャンと下ろし、大きく息を吐き、

「これでいいか、サキちゃん」

 サキは上から目線で頷く。看護婦にパシられる暴力団幹部… 輪島が軽く吹き出したのに誰も気づかなかった。


 マミは輪島が苦手だった。輪島ら捜索本部が追っている若い二人の男女、が自分の元夫、そして真琴の母親に違いない、そう確信していたからである。なので輪島とはあまり繋がらないようにしている。この店で一緒に飲む時も極力目を合わせないようにする程に。

 そんなマミに、サキは

「なーにアタシに気使っちゃって! てか、アタシ、マジで行っちゃうよ、輪島さんに!」

 なんて勘違いしてくれているので、それで良いと放置している。

 輪島はまさか自分が長年追っている犯人の元妻がマミであるとは露とも思わず、仕事で疲れた夜に一杯飲みにいくバーの知り合いのシングルマザーとしか認知していない。サキに対しての感情は現在のところ不明である。

 孝が怯えながら店に入ってくると、視線が一斉に孝に集まった。

「す、す、すみません! 申し訳ありませぬ!」

 サキは嘗てないほどメンチ切りながら、

「そこ、座れや」

「ひゃい!」

 孝は震えながらカウンターに腰掛けた。


「お前、何とか女房説得できねえのかよ。二度と暴力ふるいませんってよ」

 虎男がいつもと違う男口調で話しているのを不思議に思う孝だったが、そんなことよりヤクザ、刑事、元ヤンママ、元ヤンナースにグルリと囲まれ睨まれ、そんなことは二の次だった。

「あいつにはさ、ほんと無理してウチに来てもらったから、何も言えないんだよ。お袋も一緒。それにさ、真琴もよくないんだよ」

 サキが孝の襟首をねじ上げると同時に輪島がその手を優しく払う。サキはちょっとドキッとする。

「ぜえ、ぜえ… 真琴も全然ミカに懐かなくって。ミカが叱ると睨みつけるし。」

「それはテメーが躾りゃいいだろうがコラ!」

 サキが孝の首を腕で締め上げると同時に輪島がサキを後ろから羽交い締めにする。サキはメッチャ、ドキドキしてしまう。

「ハアー ハアー だから僕にはどうすることも出来ないよ。」

「でも、このままじゃどんどんエスカレートしていって、いつか真琴ちゃん殺されちゃうわ… ぜよ。」

 危なくお姉言葉になりかけた虎男がチラッと輪島を見るが、輪島は一瞥もしない。ちょっとホッとする。

 サキを羽交い締めしながら、輪島が

「母親が子供を殺す時って、遊びに連れ出すケースが多いいんだ。海とか山とか。そして人目の無いところで突き落とす。」

 サキがきゃーと叫び、何故か輪島にしがみつく。それを無視してマミは全身の毛が逆立つ。

「ところで、おいちょっと離れてくれよ、君の妻は真琴ちゃんを良く遊びに連れて行くのかい?」

「いいえ。全く」

 孝が即答する。

「それなら、耳を舐めるな!、彼女が真琴ちゃんを遊びに連れ出す時。要注意だ。」

 サキ以外の皆が深く頷く。

「じゃあタカちゃん、バカ女が真琴ちゃんを連れ出そうとしたら、アタシのポケベル鳴らして頂戴。そうね、ヤバい、から、881。いい?」

 輪島がギョッとして虎男の顔を覗き込む。虎男はハッとして、

「ほら、サキちゃん、今夜がチャンスよ、もっと大胆に襲っちゃいなさい!」

 サキが輪島の首筋を舐め始めた頃、孝は深く肩を落とし帰って行った。


     *     *     *     *     *     *


 結局その晩、輪島がサキにお持ち帰りされたという噂がデルタ地帯に広まったお陰で、真琴ちゃんを救う会が秘密裏に結成されたことは誰も知らなかった。

 もしミカが真琴ちゃんを連れ出そうとしたら、まず孝が虎男のポケベルを鳴らす。虎男はマミに連絡する。マミは何とか尾行して、現場を取り押さえる。

 そんなに上手くいく筈はない。実は誰もがそう思っていた。だが、何かをしなければ、何かを決めておかねばマミとサキは気が済まなかった。気が晴れなかった。そして、そんなポケベルがずっと鳴りませんように。そう祈るしかなかった。

 最近チャラついた奴らが持っている携帯電話が心底欲しいとマミは思い、虎男に

「お前んとこで使ってんだろ、一つ回せ」

 言っとくけど。虎男、関東鉄力会若林組 舎弟頭 志賀虎男である。三十一歳である。構成員二十名ほどの組の中堅管理職である。

「む、無茶言わないでよ! ウチでも持ってるの幹部だけよ」

「あれ、オメーまだ幹部じゃねーの。ダサ」

「ウキーーー! 見てなさい、マミ。そのうちアンタに新品の携帯、叩きつけてやるんだから!」

 まさか翌年それが実現するとは、両人とも思っていなかったようで。


 クソ忙しい師走も何とか乗り切り、平成六年の年が明けた。

 三ヶ日が過ぎ、いよいよ日本経済は衰退の兆しを見せ始めていたが、虎男のポケベルが鳴ることはなかった。

 やれやれ。流石にあの女もそこまではしないか。そんな風に思い始めていた一月中旬のとある水曜日。

 虎男のポケベルが鳴り、

『881』

 が表示された。


 表示時刻は十時十七分。虎男はすぐにマミの家に電話をかけたのだが、不在だった。

 虎男は部下を集め、

「マミを見つけてこい。一時間以内に見つかんなかったら、全員指落とせ」

 そう。組内ではかなりイケイケで過激な恐ろしいアニキな虎男なのだった。組員は顔を青褪め、一斉に町に走り出す。

 マミはその時いつもの近所の公園で誠のお母さん友達とお喋りに夢中だった。何故ならこの四月からいよいよ幼稚園生活が始まるからだ。その準備に何が必要かをあーでもない、こーでもないと延々と話し続けていたのだ。

 そこに、一団の黒ずくめの厳つい男たちが雪崩れ込んでくる。公園の時間はピタリと止まり、お母さんたちは全員硬直した。

「マミさん、ご無沙汰っす、虎男さんとこの武志です!」

 なんか見覚えあんなコイツ… ああ、中学の頃のいっこ下の!

「おお、タケ坊じゃねーか。なんだテメー、虎んとこに入ったんか。懐かしいなあおい」

 まあ噂的には皆マミが元ヤンと知っていたが。それを目の当たりにし、恐ろしいとか怯えちゃうよりも、実はカッケー、頼もしいーの方が勝るママさん達なのだった。

「で。どーした。」

「ヘイ。実はアニキのポケベルが鳴りました。今すぐ組まで来ていただけますか?」

 マミはトートーバッグをいなせに背負い、

「ごめん、圭くんママ。誠のこと任せていい? 夜には戻ると思う」

 圭くんママは実はVシネマが大好きで、もう目を輝かせながら、

「うんうん、マミちゃん、行っといで。いいかい、必ず生きて帰るんだよ」

「アタボウよ。誠が待ってんだぜ。じゃあな」

 そう言い捨ててマミが歩き出すと組員達が後を追った。

 お母さん方はうっとりとした目付きで、

「あれぞ、伝説のマミ、ちゃんなのね」

「そう。この辺りでは天下無敵の、絶対女王」

「ウチの旦那、今度浮気したら焼き入れてもらおうかしら」

「ウチの旦那、どっかに沈めてくれないかなあ」


 組の事務所に入ると、

「おうマミ。二十分前だ。孝からポケベ入った。」

「わかった。石川不動産行って、どこ行ったか聞いてくる。バイク貸してくれ」

「バイク? 車じゃなくてか?」

「尾行すんなら、バイクだろ」

「ほう。わかってんじゃねーか。おいタケ、ジスペケの鍵。」

「おおお、あんのかよ?」

「あるよお。八九年仕様のが!」

「おおおおお、あのカッケーのかよ!」

 なんか違う方にテンションが上がるマミなのであった。そんなマミに、

「おい、寒いからこれ着てけや」

 と革ジャンを放り投げ、マミはそれをさっとはおい、表に出されたレーサー仕様のスズキG S X−R250Rに飛び乗り、一発でエンジンを決め、石川不動産へ爆音を放ちながら走っていった。


 世田谷通りを三軒茶屋交差点に向かう途中、石川バカ社長が乗っている黒のメルセデスが前に見えた。どうやら国道二四六号線を瀬田方面に向かうようだ。

 マミはメルセデスを見逃さないよう、慎重に尾行を開始した。開始してすぐ、自問自答する。尾行って、どーやんだよ!

 真後ろについたら即バレ。一台後ろについてもバレバレ。じゃあ二台後ろ、と思うや信号待ちに引っ掛かり、危うく見逃してしまうところだった。

 それでも何とか二〜三台後方に位置しながら追跡し、第三京浜に入る。

 一体どこへ? このルートだと、三浦半島?

 ついいつもの癖でアクセルを回してしまうのを自重する。それでも二度ほど我を忘れメルセデスを追い抜いちゃったりもしたが、幸いバカ女に気づかれた様子はない。

 メルセデスは第三京浜から国道一号線に入り、原宿交差点を左折し、鎌倉方面に向かった。更に鎌倉を抜け、国道百三十四号線を左折し、逗子葉山方面に向かった。

 行き先は山、ではなさそうだ。だとしたら海? 右手に広がる由比ヶ浜海岸を見ながらマミは必死に考えた。海、この季節なら海水浴ではない。子供を海に突き落とす、それなら海水浴場のような場所ではダメだ。港も人が多すぎる。人気が少なく、突き落とすには絶好の岩壁がある海〜

 城ヶ島、ではないか? 女の直感がそう叫んだ瞬間。

 ボスっ ボスっ ボスっ 

 エンジンが停止した。

 ガスが無い! 完全にガス欠だ。

 ザケんな虎! ガス入れてねえバイク出しやがって!

 確か、さっきガスガソリンスタンドを通り越した気がする、マミは迷うことなくバイクを反転させ、五分ほど前に通り過ぎた(気がする)ガソリンスタンドへとバイクを押し始めた。


 五分とは、時速六〇キロで走っていると、五キロの距離である。それ程大柄でないマミが二五〇C Cのバイクを五キロ押す、死ぬ気で押して、単純計算で一時間半はかかるであろう。

 そんな計算も出来ず、ひたすらバイクを押し続けるマミであった。

 わかってはいる、このままではヤバい。もう自分一人ではどうしようもない。ではどうするか。ふとマミの目に公衆電話ボックスが目に入った。一瞬立ち止まり、いやそれでも、と思いなおし、電話ボックスに入り、緊急ボタンを押す。

「どうかされましたか?」

「あの、警視庁、若林署の輪島っていうデカに伝えて欲しいんだけど」

「何か事件ですか?」

「殺人」

「詳しくどうぞ」

「その、輪島ってデカに、三浦の城ヶ島、って伝えてくんねえかな。こっちはガス欠でこれ以上追えねえんだわ。でもこのままじゃ真琴ちゃんが…… ヤベえんだよ… 頼むよ…」

「警視庁、若林署、輪島刑事に三浦半島の城ヶ島でマコトさん絡みの事件発生、でよろしいですか?」

「ああ、その通りだ」

「お名前は?」

「マミ。金沢、マミ。じゃ、よろしく」

 受話器を置き、気合を入れ直してマミはバイクを押し始めた。


 キッチリ一時間後。気温四度の寒空の中、全身汗だくのマミはようやくガソリンスタンドに辿り着いた。急いで給油し、エンジンをかけ城ヶ島方面に走り始めた。

 頼むから城ヶ島であってくれ

 油壺はやめてくれ、毘沙門天辺りも勘弁だ。

 城ヶ島一本でどうかこの通り!

 心の中で神様に手を合わせ、マミはバイクを走らせる。もし城ヶ島が目的地ならば、バカ女はとっくに到着している。この時期だからそんなに人はいない。だから、ヤバい。

 何度も暴走―もとい、ツーリングした道である、標識を確認しなくても景色で何となく自分の位置はわかる。あと二十分。どうか突き落とさずに待っていてくれ、できればアタシらの大勘違いであってくれ、可愛い娘と息子に海を見せたい優しい母親であってくれ!


 そのマミの願いはどうやら叶いそうもなさそうだ。


     *     *     *     *     *     *



 車の中でも真琴は一言も喋らず、能面顔でじっと車窓の景色を眺めていた。時折ぐずるベビーシートの孝一をのぞきこむときだけは、優しい笑顔であった。

「真琴さん。これからドライブに出かけましょう。孝一に海を見せたいから」

 突然今朝、母親が真琴に言った。

 真琴は海を見たことがない。ので、正直海は見てみたい。

 だが。どうしたのだろう、急に海に連れていってくれるとは。

 訝しむ真琴ではあったが、初めて見れる海、大好きな弟とのドライブに心惹かれ、いそいそと車に乗り込んだのだった。

 母親はいつにも増して厳しい表情だった。いつも買い物に行く時は音楽をかけて自分も歌いながら運転するのだが、今日は一切口を開かず、口をへの字型に曲げたままハンドルを握っている。

 車窓の景色は今まで見たことのない景色ばかりとなり、海が見えた時には思わず真琴は声をあげていた。

 車はやがて大きな橋を渡り、広い駐車場に停まった。

 案外長いドライブだったので真琴はトイレに行きたかったのをずっと我慢しており、車を降りた瞬間

「トイレにいってきます」

 と言ってすぐ近くの公衆トイレに駆け込んだ。するとおかしなことに、

「待ちなさいっ!」

 と母親が鬼の形相で追いかけてくるではないか。思わず真琴は立ち止まると母親は真琴の手を握り、自らトイレに連れて行ってくれた。母親の手はびっくりする程冷たかった。

 トイレを済ませると母親と車に戻り、ぐっすり寝ている孝一に母親はそっとおんぶ紐を通し、背中に背負った。

「さあ、こっちよ」

 母親が歩き始めたので真琴も歩き出した。もしまた手を差し出されたらどうしよう、恐怖と期待の矛盾した気持ちにモヤモヤしながら真琴は必死に母親の後ろを追った。


 ミカの心に迷いは無かった。

 自分の腹を痛めて産んだ(実際には無痛分娩だったのだが)息子が愛おしくて仕方がない。そして赤の他人である娘がわずらわしくて仕方がない。

 床に叩きつけて骨折させた時も、己の暴虐性に恐れ慄いたものの、娘に同情や憐憫の思いは無かった、むしろ医師に自分を守るような証言をしたことに対し、自分が下に見られている気がして却って立腹した。

 息子が育つにつれ娘を厭う気持ちは抑えきれなくなり、同時に娘への暴行はエスカレートしていった。

 そして、遂に。ミカは決心した。このままでは自分の心は壊れてしまう。この暴虐性が膨らんでいけば、息子の育児にも影響が出てしまう。

 用意は簡単であった。お弁当とバスタオル。あとは天気だ。風のない快晴の日が良い。でないと息子が風邪を引いてしまうから。

 条件に合致した日の朝。ミカはおむすびをいくつか握り、真琴に声をかけて家を出た。場所は決めてある、数年前に彼氏に連れて行ってもらった、三浦半島先端の城ヶ島。この季節なら人も少なく、冷たい潮に流されればものの数分で真琴の魂は安らかに昇天するであろう。

 何度か道に迷いつつ、城ヶ島に到着する。お弁当を用意したのは、空腹で死ねばこの世に未練を残し化けて出るかもしれない、そんな軽い気持ちであった。

 真琴は初めて見る海に気を取られて、実に楽しそうだ。自分の計画は簡単に実行出来そうだ。島のなだらかな道をしばらく行くと、相模湾と東京湾を一望できる眺めの良い場所があったので、ここでお弁当を食べさせることにする。

 真琴は初めて母親の作る弁当を美味しそうに貪り、それを見てミカはこれでこの子もちゃんと成仏できるだろう、とほくそ笑みながら息子に授乳するのであった。

 食事を終え、そろそろ計画を実行しようか、と立ち上がり、もう少し海の近くまで行ってみようと真琴に言うと、嬉しそうに頷き軽快に歩き出した。

 突き落とすには好都合の崖っぷちを見つけ、

「真琴さん。寒いから首にバスタオルを巻いてあげるからいらっしゃい」

 と言うと真琴はテケテケとミカの元に寄ってくる。

「さ、海の方を見なさい」

 と言って背中を向けさせる。そしてゆっくりとバスタオルを真琴の首に巻き付ける。海に見惚れて全く抵抗のないことにニヤリと笑い、首に二重巻きにする。

 そして、何の躊躇いもなく、悪魔の形相でバスタオルを握ったまま、真琴の背中を体で崖下に押し出した。


 首吊り状態にし動かなくなったらそのまま海に落とす。

 首吊り状態、までは予定通りだった。だが、真琴が思いのほか抵抗が激しく、危うく自分も崖下に落ちそうになるのを必死で堪えているうちに、徐々に真琴の動きが鈍くなってくる。

「あと、少し。あと、一息!」

 自然と顔がにやけてくる。あと少しで、邪魔のない家庭生活が手に入る!

 その瞬間。

 何かの爆発音が聞こえたのと同時に、急にタオルが破れて真琴が崖下の海に落下した。思わず後ろのめりになって尻から地面に転けてしまう。背中の孝一を守るために必死で両手を伸ばし、何とか背中から倒れるのを防いだ。

 どうして急にタオルが千切れたのだろう、放り出したタオルを見ると破れたところが焦げているようだ。

そんなことより! 海に落ちた真琴はちゃんと流されたか? 這いつくばって崖の淵に行き、磯場の海を見下ろす。

いない。下に沈んだのだろうか?

 その時ミカの目に、ありえない光景が入ってくるー 全裸の男性が海から真琴を抱えて磯場に上がっているのだ!

 何と言うことだ… 自分の計画が…

 その瞬間。首筋に冷たい金属が当たるのを感じた。

「もし真琴が死んでいたら、お前と息子を殺し、海に落とす。」

 ミカは息が止まった。まるで地獄からの呟きのような低く重い声がミカの耳に木霊する。

 全裸の男性がこちらを見上げ、指でオーケーする。真琴は無事だった……

 悔しい気持ちとホッとする気持ちが交錯し、軽く溜息を吐く。

「あたし達はいつもお前と真琴を見ている。」

 金属、間違いなくナイフであろう、が首に押し当てられ、ミカは悲鳴を上げる。

「もし今度真琴を傷つけようとしたら、」

 後ろ髪を引っ張られ、喉が迫り出す格好になる。ナイフは容赦無く当てられ、ミカは恐怖で震え出す。

「この背中の息子を殺し、それからお前を殺す。」

 ミカは全身の力が抜け、意識が飛びそうになる。

「わかったな?」

 何度も、何十回も首をガクガクとふる。

「忘れるな。いつもお前達を監視している。忘れるな」

 はい、はい、と言いながら首をふり続ける。

 気がつくと喉に当てられた金属はなくなり、ただそっと触れてみると薄っすらと血がついていた。恐る恐る後ろを振り返る。誰もいない。海を見下ろす。誰もいない。

 背中の孝一が泣き出した。

 ミカは放り出したバスタオルの切れ端を拾い、額の大量の汗をそっと拭った。


 神奈川県警の協力を得た輪島が城ヶ崎に到着したのは十三時二十七分。マミから通報を受け、一時間半近く経ってしまった。

 島の駐車場には石川不動産名義の黒のメルセデスが駐車してあり、輪島は一秒でも早く石川夫人らを発見せねば大変なことが起こる、と確信し、急いで覆面パトカーを降り、島の周遊道路を駆け出した。

 県警の応援隊員らが輪島を追い、輪島は人気のない島を目を皿の様にして夫人の姿を追った。石川孝の怯えた様子、金沢マミの興奮した言動。間違いなく石川真琴の身の上に危機が迫っている。輪島の足は知らずに全速力となっていた。

 途中、釣竿を背中に女の子を抱えた若い親子連れとすれ違い、

「母親と娘、息子の親子連れを見ませんでしたか?」

 と問うと、

「ああ、この先の見晴らしのいい崖の所にいましたよ」

 と女性が言ったので、輪島は礼も言わずに

「おい、こっちだ!」

 と応援隊を催し駆け出した。

 数分後。

 呆けた様子で相模湾を眺めている母親を発見した。娘が、真琴がいない! しまった、一歩遅かったのか!

「石川、ミカさんですか?」

 輪島が息を切らせながら聞くと、コクリと頷いた。

「娘さんは? 真琴さんはどこです?」

 母親は呆けた顔で、首をふる。

「この下に、海に落ちたんですね?」

 ミカがカクカク首を振る。その首の喉仏のあたりに薄っすらと赤い筋が付いていた。

 県警の応援隊が崖下に降りて行こうとすると、

「でも… 男性に助けられて… もういませんよ。」

 輪島は凍りつく。

 やはり女は真琴を海に突き落とした。そして誰かが真琴を救いあげた?

「それは本当ですか? 誰が助けたんですか?」

 ミカは首を振りながら、

「知りません。でも服を脱いだ男の人が、海から真琴を、救い出して、それで女の人が、ここに来て、連れて行くから、って言って」

 脱衣した男? 女? どうやら母親は混乱しているようだ。話が意味不明である。やはり真琴は突き落とされそのまま…

「取り敢えず署まで来てください。おい、やはりこの辺を一斉捜査。船も出してもらえ」


 三時間後。三浦岬署で事情聴取していた輪島の元に、真琴が自宅に戻った、と連絡が入った。


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