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Family Wars  作者: 悠鬼由宇
2/6

第一章 新たな命が世田谷区三軒茶屋に舞い降りた。

 一九九〇年。ワールドカップ・イタリア大会で西ドイツが三度目の優勝を飾り、その直後に東ドイツと統合した年。

 その七月三十日。

 三軒茶屋産婦人科病院に、新しい命が舞い降りた。


     *     *     *     *     *     *


「琴美、よく頑張ったねえ、うん、よく頑張った!」

 地元の石川不動産の若社長、石川孝は半年前に入籍した琴美に興奮気味に捲し立てた。

「あはは。琴美そっくりの女の子、だよ!」

 実際。生まれたばかりの赤子にしては見事に整った顔の新生児は、真っ白な顔で横たわる母親にそっくりである。

「これで、あんたも父親になったのね、これからはもっとしっかりしなくちゃダメだよ」

 孝の母親がぎこちない顔で呟く。


 余りに急で慌ただしい一年だった。

 今年の二月。三年前に父を亡くし、大企業に就職していた孝が不動産屋を継いで、ようやく落ち着いてきた頃。

「母さん、俺、結婚するから」

 そう言って若くて細くて腹の膨らんだ女子を家に連れてきた時には、本当に気を失いその場に崩れ込んだ。

 何でも行きつけのスナックのホステスで、中学を卒業後に各地を転々としながら去年この三軒茶屋に落ち着き、孝と出会ったらしい。

 そんな馬の骨と! 

 まあ普通の親なら当然の認識であろう。孝の母、良子も普通の親であった。

 意識が回復後、孝を別の部屋に呼び出し、

「アンタ。何考えてんのよ。どういうことなのよ? お腹に子供いるのかい? 冗談じゃないよ! 病院紹介するからさっさと流しておいで!」

 それまで親にそれほど反抗することもなく、ごくフツーに育ってきた息子の乱心に良子は完全にテンパっていた。

 そこから息子は、孝は、未だかつてない程に母親に食い掛かった。立ち向かった。涙をボロボロ流しながら、さながらラスボスを攻略するが如く、全身全霊をかけて母親、良子に食い下がった。

 如何に自分にあの子が、琴美が必要なのか。如何に石川不動産の今後にとって、そして石川家の今後にとって彼女が必要なのか。如何にこの新しい命が当社、及び当家にとって必要不可欠な存在であるか。

 良子はフツーの親である。フツーの親の子に対する最大の望みは、子の幸せだ。約二時間に及ぶ息子のプレゼンに、母は息子の幸せを優先させる決断を下さざるを得なくなった。


 改めて息子の連れてきた娘を精査する。

 ホステスと言っていたが、派手さはなく寧ろ地味だ。地味だが実に整った顔付きで、化粧をちゃんとすれば、美人になろう。

 話し方はぎこちなく、地方出身、俗に言う田舎者丸出しだ。だがそれが妙に心地が良い。

 性格は相当控えめで、目上に対する態度も最近の若者にしては上出来だ。マジで、とか何々じゃん、など口にせず、そこは大きなポイントであった。

 と言うか、無口だ。こちらの質問には淡々と答えるが、自分からは何も話しかけない。この無口さは良子にとってはポイントが高い。何故なら良子自身が相当お喋りだからだ。

 夕食に近所の中華料理店に連れていき、三人で卓を囲むことになる。箸の使い方は上々。しっかりとした親に育てられたのだろう。

「両親は子供の頃に亡くなり、祖父母に育てられました」

 良子は不覚にも目に涙が溜まる。誰にも言えないのだが良子はテレビアニメが大好きで、特にアルプスの少女ハイジはベータビデオに録画して擦り切れる程観ていた。故に、両親を亡くしたお爺さんっ子、お婆さんっ子には滅法弱い。

 ホステス仕込みの酒の勧め上手も加わり、その夜良子は気持ちよく酔っ払い、

「アンタは今日からウチの子だよ、今日からウチに来なさい、そんで丈夫な孫を産んでおくれ」

 翌朝。良子が目覚めると美味しそうな味噌汁の匂いが家中に漂っていた。


「で、名前は? 女の子よ。もう決めてるの? 何ならアタシがー」

「母さん、もう決めてあるよ。女の子なら、『真琴』。真実の真に、琴美の琴。どうかな?」

 実は孫の名前を決める気満々であった良子は威勢を削がれ、

「あ、そ。そうなの。もう決めてたの。ふん。」

 大人気ないお婆ちゃんである。

「さーて。無事に孫の顔も拝めたし。アタしゃ店に戻るからね。アンタもいい加減に切り上げて戻ってくんだよ!」

 不貞腐れて病室を出ていく母親に苦笑いする孝であった。

 ドアが閉まった後。そっと目を瞑っているベットの琴美に目を移す。そして、彼女と出会った日のことを思い出すー


 忘れもしない去年の一月。年号が平成に替わり、バタバタとした新年も落ち着いた頃。行きつけのスナックに新人の若い女の子が入った。その彼女を一目見た瞬間―

 孝は恋に落ちた。

 見た目は地味で特別綺麗だとか可愛いという感じではない。ただ整った顔立ち、真面目そうな性格、ほっそりとした容貌に何故か目が離せなくなった。

 口数は少なく穏やかで、あまりホステス向きではないな。サラリーマン時代からキャバクラ好きの孝にとって、彼女は本来ターゲットにすべき女子ではなかったのだがー

 気が付くと、週に三回は『スナック さとみ』に通っては彼女を口説きまくっていた。彼女は身持ちが固く、連絡先すら教えてくれなかった。ましてや食事の誘いもやんわりと断り続け、ああこの子には彼氏か旦那がいるんだな、そう思っていた。

「彼氏? いません。」

 ある夜、酔いに任せてしつこく聞くと、眉を顰めながら彼女はハッキリと言った。

 いつもの孝ならそんな夜の女の言葉など信じることはなかったが、

「そうなんだ。わかった、信じるね」

 その日以来、孝の彼女への想いはかつてない領域に舞い上がっていった。


 四月も半ばすぎ。いつものように仕事を終え食事を済ませ、『スナック さとみ』に行くと、彼女の様子がおかしい。元々暗い、のだが、その夜は輪をかけて暗い。

「どうしたの琴美ちゃん。何かあったの?」

 細々しい笑顔で首を横に振る。父性本能が首をもたげる。

「こんな俺でよければさ、なんでも相談してよ。力になるよ、琴美ちゃんのためなら」

 うわ… ダサい。普段ならこんなセリフは絶対口にしない。だけど、他に言葉が出てこない。

「お金のこと? 借金の返済とか?」

 彼女はハッキリと首を振る。

「じゃあ、変な男に言い寄られて困ってるとか?」

 彼女は一瞬孝を見つめ、プッと吹き出し優しく首を振る。なんだよ… 俺は変な男なのかよ…  孝は苦笑いしながら、

「ひょっとして、好きな男が出来た、とか?」

 彼女はじっと孝を見つめ、曖昧な笑顔を残して氷を換えに席を立つ。

 その日から、孝は人が変わった。

 システム手帳の住所録の女友達のページを破り捨てた。ホステスの名刺を全て廃棄した。メンズビギの服を処分し、タケオキクチで揃えた。朝シャンを始めた。センター街やディスコでのナンパ行為を停止した。

 翌週。満を期して彼女を食事に誘い、渋る彼女の首をなんとか縦に降らせた。初めてのデートはまあマニュアル通りだったのだが、意外な程彼女は喜んでくれた。

 それから毎週デートを重ね、関係は徐々に深まっていった。

 夏に稲村ヶ崎に海水浴に行くと、まるで初めて海を見たかの様子に胸がキュンとなった。『珊瑚礁』で美味しそうにカレーを食べる姿に胸が熱くなった。

 湘南平の電波塔からの夜景に息を呑んでいる姿に胸の鼓動が止まらなくなった。駐車場へ向かう真っ暗な道でそっと手を握った時、胸の高鳴りはマックスに達し、

「マジで、琴美ちゃんが、好きなんだ!」

 五分ほどして(実測値は十二秒)、そっと彼女が孝の胸にもたれかかった。


 九月。春分の日が土曜日で二連休、不動産屋はかき入れどきなのだが、なんとか母親を騙くらかして二人は初めて伊豆に一泊二日の旅行に出かけた。

 十月末、彼女から生理がこない旨を告げられ、発作的に彼女にプロポーズし、受諾された。

 そして今年の二月に母親に引き合わせ、なんとか承諾を得て、式は行わず二人で婚姻届を出しに行った。

 そしてー

 自分ほど幸せな人間がこの世にいるであろうか、いやいるはずがない。そんな英文和訳のような言葉を頭に反芻させ、孝はソッと病室を出て行った。


     *     *     *     *     *     *


 良子がブツブツ文句を言いながら病室を出た時。

 分娩室から新しい命の産声が聞こえてきた。

 すれ違う看護婦を捕まえて、

「あれま、ウチ以外に分娩があったのかい?」

 面倒くさそうに看護婦は、

「そうなんすよ、予定日よりだいぶ早くてちょっと大変になりそうなんすけど」

 良子はフーンと呟き、くるりと背を向けて病院の出口に歩き出した。


「金沢さーん、産まれましたよお、男の子ですよー」

 ゲッソリとやつれた金沢マミが辛うじて微笑む。

 予定日は来月中旬なのによお。んだよったく。ま、仕方ねーか。

「でね、ちょっと早く生まれてきちゃったからね、保育器に入れてるの。そうじゃないとすぐ死んじゃうから。」

おいっ 死ぬって!

 起き上がりかけて、激痛で沈み込む。

「んだよそれ。大丈夫なのかよ? テメー、もし死んじまったら、」

 看護婦はニヤリと笑い、

「大丈夫、大丈夫。何とかなるって。安心しな」

「マジかよ? おいサキ、もしウチの子死んだら、テメーも殺すぞコラ!」

「あーー、今の言葉、誠一クンに話しちゃおうかなあー」

「んぐっ それは、ダメだ… やめてくれ… アタシが、悪かった…」

「あはっ マミがはんせーしてるっ マジかよ(笑)」

「うるせーよ。しっかり頼んだぞ、ウチの子!」

「任せときって。あ、名前は『誠』でいいんだっけ?」

「そ。誠一クンの『誠』。いい名前だろ?」

「マジでいい名前じゃん。で、誠一クンは?」

「夜には来てくれるって」


 マミが誠一と出会ったのは、去年の初春。仕事が掃けた後に通っていたバーに新しい従業員が入り、一目見て、惚れた。生まれて初めて、一目惚れした。

 そんなマミは、三軒茶屋で生まれ育つ。父親は早くに失踪し、地元でスナックを営む母親に育てられた。

マミは地元で有名なツッパリだった。地元の中学ではオモテ番として名は馳せ、裏番のサキと共に近隣中学を潰しまくっていた。

 高校に入るも、入学式の日に先輩と大乱闘を起こし、相手方に大怪我を負わせ即日退学処分。みかねた母親が自分の店を手伝いさせ、はや六年が経った。

 小顔でハッキリした顔立ち、何も喋らなければ六本木辺りで人気のホステスになりそうな風貌であるが、そんな尖ったナイフのような性格上、ホステスなんて最も向いてないことは母親はよーく承知していたので、店の掃除や料理、カラオケの操作などをさせていた。


 そんなマミが、仕事を終えてかったるそうにバー黒船に入り、誠一を一目見た瞬間。

 一瞬、かつて経験したことのない恐怖に全身が硬直した。コイツは、フツーの男じゃない。何か途轍もない修羅場を潜ってきた匂いがする。

 そしてその直後。マミの体が、子宮がキュンとなった。まだ処女だったマミはその体の異変の意味するところが分からず、ただ戸惑った。

 誠一と目が合った。未だかつて見たことのない、奥深い瞳の色に、今度は心が雄叫びを上げた。頭がクラクラしてきた。

「どうか、しましたか?」

 誠一が近づいて声をかけた。

 その瞬間。処女のマミですらわかる程、イッてしまった。

 頭の中が真っ白になり、かつて味わったことのない快感が頭の中を反芻した。

 そのままカウンターに突っ伏して、軽く気を失ってしまい、意識が戻ると誠一の不思議そうな顔が目の前にあった。

 その夜以来、毎日仕事帰りにバー黒船に通っていた。

 誠一と話している時は、いつもと全く違う自分だった。何故だろう、理由は分からない。だがこの男には全てを捧げられる気分であった。

「それ、ヤバいんじゃん? まさか金とか貸してんの?」

 マミと違い、ちゃんと高校を卒業し看護婦学校を卒業したサキが眉を額に寄せてマミに問う。

「全然。て言うか、二人で出かけたこともねえし」

「んだそりゃ。乙女愛ってやつか、ぶはっ」

「笑うなって。でも、仕方ねーじゃん」

「ふーん。そいつに、真剣なんだ、マジなんだ。マブなのか。そっか。今度、会わせろよ」

 数日後、バー黒船にサキが訪れた。

「んーーーー。まあ、普通? 特別イケてる訳でなく、ブサイクでもなく。でも性格は優しそうじゃん? ま、いいじゃん、マミには」

 サキはそう呟いた後。

「でも。このタイプ、絶対に女いるぞ。なんかさ、ほっとけない感じ? 母性本能をくすぐる感じ? 同棲してんじゃん?」

「そ、そんなの、知らねえよ…」

「聞いてみ。絶対いるぜ」

「い、いやだよ、そんなの恥ずかしくて聞けねえー」

「ねー、金沢クン。キミ、付き合ってる人いるでしょ?」

 サキの想定外の速攻に言葉が出ないマミだった。

「いえ。いません。」

「ウッソー。絶対いるって。顔に書いてあるよっ」

 誠一はニッコリ笑いながら、

「本当に、いませんよ。」

 マミは心底安堵し、サキは少し落胆した。


 会えば会うほど、話せば話すほどマミは誠一に溺れていった。マミの性格上、自分からデートに誘うことなぞ考えられない。なので毎日、「今日は彼がデートに誘ってくれますように」と最近信じ始めた神様に祈るのだが、一向に叶うことはなく季節は春となった。

 ある夜。今夜が最後の夜桜の日かな、と思いつつバー黒船に入ると、誠一の表情が暗く硬いのにマミはすぐに気づいた。

「どうしたの、何かあったの?」

 と聞いても曖昧な笑顔ではぐらかされてしまう。春の陽気のせいもあり、マミの母性本能ブーストが一気に火を吹く。

「お金のこと? 借金の返済とか?」

 誠一はハッキリと首を振る。

「じゃあ、変な女に言い寄られて困ってるとか?」

 誠一は一瞬マミを見つめ、プッと吹き出し優しく首を振る。なんだよ… アタシは変な女なのかよ… マミは苦笑いしながら、

「ひょっとして、好きなオンナが出来た、とか?」

 誠一はじっとマミを見つめ、曖昧な笑顔を残して洗い物を始める。

 その日から、マミは人が変わった。


 昔からのツッパリ仲間からの誘いをキッパリ断るようになった。その結果、週末玉川通りを爆音を鳴らし疾走することも無くなった。茶色に脱色していた髪の毛を黒く染め直した。眉毛を細く剃るのをやめ、流行に従い太くした。ツナギや特攻服を木曜日の燃えるゴミの日に出し、109でメルローズやコムサデモードを買い揃えた。

 翌週。これが最初で最後、と自分に言い聞かせ、

「あのさ、明日休みなんだろ? バイクで、お台場に、行かない?」

 誠一の目を一瞬も離さず、気合を込めて囁いた。

 誠一はしばらく天井を見上げ、目をマミに戻し、そっと頷いた。

 それ以来、二人の店が定休日の日曜日毎にデートを重ねていった。時には電車やバス、時にはマミの運転するスズキG S X -R250、通称ジスペケでのツーリング。誠一はバイクに乗るのが初めてだったらしく、その加速感に思わず声を立てるのがマミのハートをキュンキュンさせていた。

 夏になると誠一が海に行きたいと言うので、鵠沼海岸にツーリングを兼ねて海水浴に行った。そこで初めて見る誠一の細身ながら引き締まった上半身にハートの鼓動が全開バリバリになる。海の家で美味しそうにかき氷を食べる誠一にマミのハートは萌えたぎる。夕暮れに染まるシーサイドでマミのハートは破裂寸前となり、ついに

「アンタなしでは、生きていけない。大好き…」

 十分ほどして(実測値は十三秒)、マミは誠一に優しく抱きしめられていた。


 九月。春分の日が土曜日で二連休、二人は初めて房総の館山に一泊で旅行に出かけた。

 十月末、生理がこない旨を告げ、発作的に誠一にプロポーズし、受諾された。

 そして今年の二月に母親に引き合わせ、あきれられつつも承諾を得て、式は行わず二人で婚姻届を出しに行った。

 そしてー

 自分よか幸せな人間がこの世にいるだろうか、いやいるはずねえ。そんな漫画のセリフのような言葉を頭に反芻させ、マミはソッと目を瞑った。


     *     *     *     *     *     *


「あんた。『スナック雅』んとこのマミちゃん、知ってるよねえ」

 冷徹な母の声に孝はブルっと震える。

「ああ、あのヤンキーだろ。知ってる知ってる」

 知ってるどころか。俺は知ってるぞ、ウチの親父がスナック雅の貴子ママに言い寄って、そんでアンタが店に怒鳴り込みに押し入って、警察呼ばれて大騒ぎになったじゃねえかよ…

 孝が深いため息を吐きながら、真琴を優しくあやす。

「マミちゃん、こないだ男の子産んだんだってさ、」

「へー。」

 そんなの知ったこっちゃねえわ。そんなことより真琴が可愛くて仕方ない。孝は幸せの絶頂にいる。

「だけどさ、旦那が赤ちゃん一目見てから、失踪したんだってさ。ざまあみろってんだ。」

「ふーん。」

「しかもさ、その赤ん坊が未熟児でさ、こないだやっと退院したんだってさ。人の夫に色目使うクソ女にやっとバチが当たったってか。出来損ないの娘に未熟児の孫って。」

 孝が良子に振り返り、

「未熟児って… なんか障害とかなきゃいいね。」

 五体満足、健康そのものの真琴を見つめ、孝が呟いた。

「知らないね。それよりさ、また警察来たよ、夕方。」

 ビクっと身体を動かした琴美に孝も良子も気づかない。

「ああ、またか。アレだろ、若い男女二人組、部屋借りてないかってやつだろ?」

「そうそう。一体それがなんだって言うんだろ。」

「聞いても教えてくれないんだろ?」

「そうなんだよ。ちょいと教えてくれてもいいのにさ。」

「俺、去年聞いたんだけどさ、」

 真琴を琴美に預け、孝は良子の前にやってきて、

「去年? 一昨年? あったじゃん、なんとか真理教が色々やらかして警察に突っ込まれたって事件」

「ああ、あったあった。日本のあちこちで毒ガスばら撒いたって事件ね。」

 琴美が真琴を守るように抱くのに、やはり二人は気付いていない。

「そのなんちゃら教団にさ、特殊部隊みたいなのがあって、そこの暗殺部隊みたいなのが色々事件起こしてたんだって。」

「それ週刊誌で読んだよ。でもそれホントなのかい? なんか高校生くらいの子供がやったとか書いてあったけどさ」

「若林組の虎が言ってたんだけどさ、」

「ああ、あのチンピラ。で?」

「そのヒットマン? って、若い男女二人組だったんだってさ」

 突如、真琴が大声で泣き出した。

 孝は慌てて椅子から立ち上がり、ソファーに座る琴美と真琴の元へ行き、

「どうちたの、真琴ちゃーん、あれ、オムツかな? おっぱいかな?」

 予想を遥かにぶっちぎる子煩悩ぶりに、良子は呆れつつも嬉しそうな笑顔で夕飯の支度にかかるのであった。


 この子が誠一との子であったなら

 真琴を産んで以来、琴美がそう思わない日は無かった。

 母としての本能により、真琴に対してそれなりの愛情を感じる琴美であるが、誠一の面影を全く感じさせない安らかな我が子の笑顔に、全ての愛を捧げることは到底できなかった。

 ただ、誠一と別れて以来、ポッカリと開いた心の穴は、真琴が塞いでくれていると感じている。これまで孝に対して繕いの笑顔しか見せなかったものだったが、真琴を産んで以来、心からの笑顔を孝に対して向けられるようになったからだ。

 誠一と離れ離れになり、一年半が過ぎた。誠一のいない生活にそれなりに慣れてきている。それでも未だに、誰もが寝静まった夜に目が覚めると、誠一の温かい胸が恋しくなり、その代わりに孝の胸にそっと顔を埋め深く目を閉じる。

 あとどれくらい、耐えられるだろうか。

 誠一のいない自分に、あとどれくらい我慢することができるのであろうか。

 今夜も眠れぬ夜と、なりそうだ。


「ねえ。琴美ちゃんさあ、ちょっと元気ないんじゃない、最近」

 秋も深まった、ある日。店の外の掃除を終えた良子がデスクで一太郎と苦闘している孝に問いかけた。

「あれかねえ、マタニティーブルーってやつなのかねえ。こないだも真琴抱きながら外見て涙流してたわよ」

「え、ホント? どうしちゃったのかなあ。俺全然気づかないわ」

 ハーと溜息を息子に吐きかけて、

「あんたは女心が全然わかっちゃないねえ。あれはさ、きっと死んだお母さんとお父さんのこと考えてるんだよ。自分の産んだ子供を見せたかったって。」

 そんなもんかねえ、と孝は呟く。彼自身は最近の琴美の笑顔が眩しくて堪らない。付き合いだした頃は少女のイメージだった琴美が出産を経て女性としての魅力を醸しだしてきていると感じている。

 産後という事もあり夜の生活は控えているが、ここ最近は琴美が欲しくて欲しくて堪らなくなっている。

 小心者の、まあ言い換えれば優しい孝は無理強いすることは出来ないので、もう少しすればきっと、とその夜が来るのが待ち遠しくて仕方ない。

 まあそんな苦悩を実の母親に話せる筈もなく、その夜『バー黒船』でチンピラの志賀虎男にそのストレスをぶつけるのであるー

「はーーー、やりてえー マジ、やりてえよ、虎ちゃん」

 虎男は呆れたように、

「バカかてめえ。そんなん、やりゃいいじゃねえか。テメーの女房なんだからよ」

「それがさあ、産後のなんだかんだで、ちょっと無理なんだってさ。そんなもんなのかねえ」

「知らねえよ。俺は花の独身だからな」

 孝がプッと吹き出す。


 孝と虎男は幼馴染。同じ小学校、同じ中学。孝は勉強がそこそこ出来て、どちらかと言えば優等生組だったが、虎男はバキバキのツッパリヤンキー。高校時代に地元のヤクザをボコボコにし、その後逆に拉致られてボコボコにされるも全く根を上げなかったのが高松という幹部に気に入られ、卒業後に幹部候補生として若林組に就職した。

 そんな虎男とは何故だか妙にウマが合い、この歳に至るまで付き合いは絶えることがない。

 そして。そんな孝は虎男の最大の秘密を知っているー それは、虎男は今で言うL G B T、すなわち性同一性障害、つまり『ホモ』なのである。

 初めてそれを打ち明けられたのは中学三年の時。孝は髪の毛が逆立つほど驚愕し、

「なあ、それって、ひょっとして、俺のこと…?」

「んーーー。お前はタイプじゃねえわ。もっと細くて、でもハリのある体で、色白で〜」

 胸を撫で下ろすと同時に、コイツとは一生一緒にいてやろう、そう決心したものだった。

 そんな虎男が去年恋に落ちたことを孝は知っている。虎男のドストライクな男がこの店に勤めていたからだ。

 名前は誠一くん。色白で顔が小さく、細身だけどしなやかな筋肉が腕に巻き込まれていた。でもその恋は去年の暮れに儚く散った。誠一くんが相手は知らないけど入籍したって聞いたからだ。

 虎男は男らしく? スッパリと誠一くんを諦め、祝儀袋を鯔背に放り渡し、

「おう誠一。キッチリ幸せになれや」

 そう言って、無意味に男をあげてしまったのだった。


「そう言えば、誠一のヤツ、連絡ないのかい?」

 虎男はマスターに言うと、

「全然つかないんだよ。実家で親御さんの看病、大変なんだろうね」

 誠一くんは夏に突然出勤してこなくなったらしい。マスターが夕方店に来ると、

『お世話になりました。親が倒れたので急ですが田舎に帰ります。どうぞお元気で』

 と書かれた手紙と店の鍵が入った袋が扉にかかっていたと言う。

「でさ、アイツが入籍した相手って、結局誰だったんだろうなあ」

 マスターは苦虫を噛み潰したような顔でカウンターの後ろのボトルを拭き始める。

「奥さんと一緒に実家帰ったのかな。まあ何にしろ、幸せにやってるならそれでいいか」

 やや俯いたマスターの背中を孝は溜息を吐き眺めていた。

「それよりよ、タカシ。オメー、マジで、溜まってんのか?」

 虎男が孝にニヤリと笑って呟いた。

「んー、うーむ。うん。」

「仕方ねえなあ。じゃ、一番の上玉、付けてやるかな」

 そう言って店の公衆電話をかけに席を立った。

 ゴメン! 琴美、ほんとゴメン! 今夜だけ、絶対今夜だけだから……


     *     *     *     *     *     *


「ほんっとにあなたは勝手なことばっかり。でも、これで十分懲りたでしょう。いいマミ。もうこれからはこの子の為に生きてくのよ。自分の勝手はもうおしまい。いい?」

『スナック雅』のママであり、マミのママである二宮貴子が赤子を抱いたマミを睨みつける。

「おばさん、もう大丈夫だって。男に騙されるのももうお終い。これからは誠の為に生きてくんだもんね、マミ?」

 三軒茶屋産婦人科病院の玄関で、看護婦のサキが挑発的な表情でマミを眺める。

 マミは愛おしそうに赤子を抱きながら、

「サキ。マジで世話になったな、この三ヶ月間。おかげでやっと誠と一緒に過ごせるわ」

「まーね、それは仕事だから。でも誠ちゃん、よく頑張ったよマジで。こんなに大きくなったし。やっとお家に帰れまちゅねえ、ばぶぶぶぶぶ」

 誠は何がおかしいのか、キャッキャ言ってサキに手を振っている。

「あは、今日からおばさん、ばあば、じゃん。頑張ってねー」

 貴子は大きく溜息をつきながら、

「ったく。いつかこんな日が来るかも、って思っていたらホントに来るし。ま、仕方ないわね。娘共々、面倒見るわよ。さ、マミ。行くわよっ」


 先月引っ越した中古のマンションの四階の部屋に着くと、部屋は驚く程暖かかった。十月も終わりに近づき街の風も少しずつ冷たくなってきているのだが、南向きの3L D Kの部屋は、暗く冷たい心のマミとは裏腹に、新しい命を歓迎するかのように陽気に満ち満ちている。

「それにしても。一体あの男は何だったのかしら。未熟児の息子を捨てていなくなったくせに、あんな大金をあなたに残していくなんて。」

 誠が生まれた七月三十日の夜―

 誠一が仄かな嬉しさを秘めた顔で病室のマミを訪れ、保育器の中の誠を見て、

「マミ。ありがとう」

 と穏やかに呟いた。

 それから誠一が病室を訪れることは無かった。

 マミが退院して部屋に戻ると、食卓の上に手紙と共に小さな段ボールが置かれていた。

『今までありがとう。このお金を誠のために使ってください。いつまでもお元気で』

 マミの頭の中が真っ白になった。

 段ボールの中には、札束が入っていた。数えると、五千万円近くあった。

 その話を貴子にすると、怒りで顔を真っ赤にしながら、

「そのお金でマンション買っちゃいなさい。そんな所で子供育てられないでしょう」

 誠一が借りていたアパートは育児には余りに狭く不都合だった。

「私も一緒に住もうかしら。家賃払うのもったいないし。それにあなた一人じゃ育てられないでしょうしね」

 それまで、特に好きでも嫌いでも無かった実母をこれ程心強く思ったことは無かった。


 貴子が客の知り合いに頼み、ササッと中古マンションを即決し、先月マミはアパートを引き払い、貴子も長年住んでいたアパートを引き払いって入居した。

 誠一の残した荷物は驚くほど少なく、衣類などは段ボール一箱分だけであった。電化製品も最小限しかなく、

「あなた、よくこんなトコで暮らしてきたわね。びっくりだわ」

 と貴子に呆れられるほどだった。

 だが、マミは誠一との暮らしの中で、何一つ不便を覚えたことは無かった。それ位、誠一と一緒にいることが幸せだったのだ。

 お腹の膨れたマミに誠一はとても優しかった。洗濯、掃除は全部誠一がやってくれた。料理もよく作ってくれた。

 特に、時間をかけてじっくりと煮込んだミートソース。どこのイタリアンで覚えたの? そう思うほど美味しかった。

 誠一が姿を消し、貴子と新居に入り、何となく作ってみたが味がちょっと違う。

 ああ、もう二度とあのミートソーススパゲティは食べられないんだ。

 誠に父親の味を食べさせることができないんだ。

 そう思うと涙が止まらなかった。


 祖母、娘、孫の三世代の新生活は、それぞれが抱いていたよりも遥かに充実していた。子供にあまり関心がなく、娘がグレようが捕まろうがまるで他人事だった貴子がまず誠を溺愛した。マミはその姿に唖然とし、

「ママ… あんた子供嫌いじゃ無かったっけ?」

 貴子は相好を崩しながら、

「嫌いよお。女の子、特にあなたは大っ嫌い。」

「んだよ… ムカつく。」

「だってあなた、私そっくりだし」

 貴子とマミはソックリだ。いや、オンナとしては若干貴子に軍配が上がるかも。

「でも。この子はオトコだし」

 貴子が顔を誠に擦り寄せながら、

「しかも。イケメンだし」

 誠一の面影を残した誠は確かに色白でほっそりとしていて、病院でも大人気であった。

『ふふふ。誠のファーストキスは、アタシが奪ってやったぜ!』

 と誇らしげに言ったサキの顔面に掌底をぶち込んでやったのを思い出す。

 それはさておき。こんなに慈愛に満ちた母の顔をマミは見た事がなかった。だがその逆に、貴子もマミの母性に密かに驚嘆していたのだ。

 何を言っても、「うるせー、ババア」としか言わなかった娘が、寝かしつけ方や入浴の仕方を教えると、

「さすがママ。ありがとー」

 と言って、未だかつて見たことのない笑顔で誠をあやすのだ。あの地元一のワルと言われた娘がまさか…


 だが貴子は同時に、未だかつて見たことのない娘の寂しそうな姿も捉えていた。

 育児のちょっとした合間、家事のほんの少しの合間に、マミが細く深く溜息を溢すのを貴子は何度も見ていた。そして深夜、誠の授乳の後、布団の中で啜り泣く声を幾度ともなく耳にした。

 正直、貴子はマミを捨てた男に対し、どうでも良いという感情である。マミと子供を捨てたのは許せないが、中古であれマンションをポンと買えるほどの金を残していたので、まあ差し引きゼロかな、という気持ちになっている。

 これからは家賃を払わなくてよく、仕事をすればそれが全て自分の元に残るのだ。むしろマミ良くやった感も否定できない。

 だがー

 冬になり、師走が過ぎ、平成三年になっても時折マミが見せる寂しげな表情に、母としてのやるせない気持ちが消せないのも事実なのだ。

 時間ぐすり。昔からよく言う、そしてよく効く薬。早く娘に効いてこないものか。孫ができるまでここまで娘を思ったことのない貴子は、この新しい感情に少し戸惑っている。


     *     *     *     *     *     *


 一九九一年。多国籍軍とイラクとの所謂『湾岸戦争』が勃発し、日本国民がかつてない疎外感に呆然とした年。

 その一月の末、石川孝と琴美は真琴を連れて、三軒茶屋産婦人科病院に生後六ヶ月検診に来ていた。

「えーと、石川―真琴ちゃーん、っすね、ちょいとお待ちを」

 看護婦にしてはがらっぱちな七尾、という看護師に手続きをしてもらっている間、琴美は真琴を抱いて静かにベンチに腰掛けていた。

 しばらくして入り口から一人の若い女性が男の子を抱いて入ってくるのを真琴は何気なく見ていた。

「おいーっす。おせーよマミ。きゃあー、誠ちゃーん、元気いー?」

 孝が咎めるような視線を看護婦に送るのを見た後、その誠という男の子を一眼見た瞬間―

 琴美の背骨に高圧電流が流れた。気がした。

 せい、いち……

 思わず腰を上げて、その男の子を食い入るように見つめた。

 目付きは悪いがちょっとこの辺りでは珍しい美人の女性が、

「?」

 という視線を琴美に投げつける。

 琴美はヨロヨロとマミに近寄り、

「男の子、ですか?」

 とか細い声で問いかける。その姿に孝は驚愕する、だって彼女が他人に馴れ馴れしく(でもないのだが。孝にはそう見えた)話しかける姿を初めて見たからだ。

「そーだけど。えっとー、どちらさんだっけ?」

「石川、と申します。この子は、真琴」

「へ? マコト? 女の子じゃん!」

「真実の真に、お琴の琴、でマコト…」

 その時マミの脳内変換では〜 新実の新にお事の事? 変な名前…?

「……お、おお、あ、ウチのも誠。ほら、あの、新撰組の旗にあんじゃん、あのマコト」

 新鮮組? ああ、あの新宿にあったコンビニ。でもその旗にマコト?

 二人の若い母親の頭上にハテナマークが揺れていると、

「よーし、おふたがた、一緒にどーぞ」

 とサキが元気よく二人に声掛けた。


 孝が持ってきた雑誌を廊下のベンチでパラパラ眺めている時、診察室で琴美とマミはぎこちない会話を続けていたー

「へー、この病院で産んだんだ。いついつ?」

「七月三十日生まれ、です」

 マミはえええっと大声を上げ、

「ウチと一緒じゃん! そっかあ、あの日に?」

 琴美は凍りつく。それよりも、そんなことよりも…

「あの、ご主人様は、今日は?」

 マミのテンションは急降下し、

「あ、えっと、まあ、その…」

 そんなマミの動揺をモノともせず、遂に琴美が

「あなた、お名前は?」

 何この女… 何故アタシにこんなグイグイと?

「え、あ、えっと、金沢…マミ」

 琴美の目が大きく開かれる。ああ、この人が誠一の言っていた、マミ! そして、あの子が誠一のー

「あれ、アンタとどっかで、会ってたっけ?」

「あいえ別に特にはこれと言ってそうでもないんじゃないかなって」

 動揺を隠せない琴美にマミが切り込んでいく。

「うーん、どっかで会ってたっけ? てか、アンタの旦那ってさ、あの石川不動産のバカ… じゃねえや、若社長じゃね?」

 実はさっきからサキがハラハラ… いや、ドキドキワクワクしながら二人を見守っていた。何この二人… お互い地雷をかわしながら、面白すぎるぜ!

「ま、まあ、そうです。石川孝、です。」

「あー、やっぱね。よくデルタ地帯で飲み歩いてるよね。あ、アタシは母親の店があの辺にあってさ。」

「わ、私、『スナック さとみ』でホステスやってて、そこで主人と…」

「おおおー、聞いた事あるぞっ 石川のバカ社長が若いホステスにとっ捕まったってよお」

 サキが持っていた聴診器をマミに投げ付けた。

「ってーな、んだよサキ」

 琴美は更に突っ込んで行く!

「ご主人様、今どちらに?」

 マミが硬直する。微動だにしなくなる。サキは笑いを堪えながら落ちた聴診器を拾い上げる。


 検診が終わり、琴美が真琴を連れて診察室を出て行くと、

「なんだあの女… 顔が、表情が、読めねえ…」

 サキがマミの肩をポンポンと叩きながら、

「あの人、ちょっと伝説なんだよね。お産の時に、声一つ立てなかったんだわ。それも表情一つ変えねえで。お前みたいに泣き叫んだりしなかったんだわ」

 マミは真っ赤になって、

「んだよそれ。てか、そっかアレがバカ社長とっ捕まえた、玉の輿オンナかあ。思ったより地味な女じゃね?」

「んー、元々スッピンで、化粧してんの見たことねーわ。あれ、結構ちゃんと化粧したら化けるぞお」

「知らねーわ。ふーん。マコトちゃん、かあ。ウチのもマコト。なんかおもしれーな、同じ日に生まれて同じ名前なんてよ」

「ほおー、そーいやそーだわ。おおお、これって運命の出会い、ってヤツじゃね?」

「ザケんな。ウチの誠はあんなちょろい女の娘なんて屁でもねえよ」

「? あ、次の子達来るから、帰れ。」

「ほーい。どーよ、今夜飲むべ?」

「ったく、この不良母が。いつもんとこな」

「へーい。」


「随分長かったな。何か真琴に問題あったのか?」

「いえ。すこぶる健康だそうです」

「それは良かった」

「ただ… 一緒になった子が、」

 孝は雑誌を病院のゴミ箱に放り投げて、

「ん? どうしたの、その子?」

「ウチの真琴と同じ日に生まれたんですって」

「ふーん。同じ誕生日か」

「しかも、同じ名前。男の子で、誠くんって言うんですって」

「へえー、それは珍しい。てかさ、あの母親って、二宮のマミじゃないか?」

「金沢、マミさんだそうです。」

「やっぱ、マミじゃん。あの不良娘。こないだお袋が言ってた、あの女だよ。アイツのお袋がさ、死んだ俺の親父に色目使って弄んだって。」

「それ、事実なのですか?」

「ああ。デルタ地帯じゃ有名な話でさ。親父は貴子ママをモノにしようと結構金使ったとか。車買わされたって噂もあるぜ。そんで一回一緒に旅行行ったら、あとは釣れないそぶりで親父はスッパリフラれたとか。アホな親父だよな、マジで」

 琴美が鋭く冷たい目で、

「その女、消しますか?」

 孝は聞き間違えたと思い、話を別の話題に変えた。


     *     *     *     *     *     *


「あの、女の、孫! 真琴と、同じ、名前?」

 良子が顔面蒼白で孝の話を聞いている。

「あんた、唾のひとつも吐いてやったんだろうね、畜生!」

 それはあまりに鬼畜な、と琴美はちょっと思う。マミと別れ間際、まあこれも何かの縁だからよお、と渡された連絡先の入ったバッグをそっと抱きしめる。

「でもなんか雰囲気変わったよ、マミちゃん。なんか不良っぽさがすっかり抜けてさ、お袋さんソックリの小股の切れ上がったちょっとした美人―」

「アンタまで! あんな女にちょっとでも入れ上げたらねえ、出て行ってもらうからね。勘当よ勘当!」

 久しぶりにブチギレしている母親に苦笑いしながら、

「んな訳ねーだろ。なあ琴美?」

 琴美は良子のそばに行き、耳元で

「そのマミさんの母親、お母様にとって許し難い人間なのですか?」

 ゾッとする程冷たい目。こんな表情するのを初めて見た良子は、

「まあ、いや、へ?」

 琴美は良子の耳元で呟く。

「消します、か?」

 未だかつて感じたことのない寒気に怯えながら、

「な、なーに言ってるのさ、琴美ちゃん。さ、夕飯の支度、手伝って頂戴よ」

 表情も無く、琴美がコクリと頷いた。


「悪い悪い、遅くなっちまって」

 サキがバー黒船に入ってきた時、マミは既にビールを一杯空けていた。

「誠ちゃんは婆ばんとこか?」

「家。お店は律さんに任せるって。」

「ったく… 仕事一筋のあの貴さんが。人間変われば変わるモンだなあ。」

「それより。アタシよく知んねえんだけど。ウチのママが石川不動産の先代とアレだったって、それホントなのか?」

 ビールジョッキを口にしていたサキが盛大に吹き出す。

「きったねえなあ。サキ、お前なんか知ってるか?」

 噎せに噎せたサキは呼吸を整えるのに数分を要する。

「それ。アンタの耳には入ってねーだろーな。聞かねえ方がいいんじゃねえ?」

「んーーー。ま、どっちでも。たださ、あの琴美って女? ちょっと気になるっつーか、何つーか」

 正直。マミは琴美が気になって気になって仕方なかった。

 理由。誠一に、似ているのだ、醸し出す雰囲気が。

 それが何かは知らないが、誠一と同じ匂いがする…

 まさかと思うが… ありえない話だとは思うが…

 琴美は誠一のことを知っているのでは? 知っていたのでは?

「それよりサキ、お前あの琴美って女、どー思う?」

 サキは二杯目はシンガポールスリングを頼んだようだ。

「んーー。大人しそうだけど、気合入った女。」

「それって、昼に言ってた、アレか?」

「そ。あの気合い入りまくりのアンタが泣き叫んだお産で、声ひとつたてねえで我慢するなんて、ハンパじゃねえよ。あれは相当気合入った女だよ」

「だよな。そうだよな。アタシもそう思う。なんか、色々話してーな、あの女と」

「それはちょっと… あ、なんでもねえ。おお、これメチャクチャうめえ!」

「で。何があったんだよ、ウチのママと石川の先代は?」


「…それって、完全ママ悪モンじゃんよ… 情けねえ…」

「ど、ドンマイ。てか仕方ねえべ、貴さん昔も今も、メチャクチャ綺麗だし。」

「それでもよ、ダメだろ、人の男、夫を取ったらよお。人の道に反するべ」

 カウンターの隣から、グラスがドンと置かれる音が響き、

「偉え。その通りだ。オメーは良くわかってる!」

 うげ… チンピラの虎じゃん…

 うわ… めんどくせー… 若林組の…

 二人が顔を顰めていると、

「マミにサキか。最近の若いヤツにお前らの爪の垢を煎じて飲ませてえわ。」

 気色わる… 二人はその状況を想像し、鳥肌が立つ。

「ったくウチの若えヤツらよお、……」

 それから丸一時間虎男の愚痴を聞かされ、ゲッソリとした二人だったが、

「おう、この姉ちゃんたちの分も、コレでな」

 と万札をカウンターに放り投げて帰っていく虎男に、

「あらまあ」

「ゴチソーさん」

 少し得した気分の二人だった。


「でもさ、アレのせいで最近マッポがうるさいって、なんかちょっと怖えよなあ」

 サキが五杯目にブラッディーマリーを注文しながら呟く。

「それそれ。なんだよ、その若い男女二人組のヒットマンって。カッコよすぎだろ(笑)」

 虎男は二人に、最近警察の監視が妙にキツく、その原因が新興宗教団体に所属していた十代の男女の特別工作員を追っているせいだと漏らしたのだ。

「なーー。マジでホントでマジなら、メチャクチャイカすよなあ。でさ、案外そーゆーのが、近くにいちゃったりしちゃったりしてなあ」

 酔いで呂律が回らなくなったサキが笑い飛ばす。

「な、全くそんな風に見えなくて、実は! とか、イカすよ……」

 不意にマミの言葉が凍る。背中に冷たい汗が一筋伝い、身震いが起きた。ビールジョッキを持つ手が何故か震えている。

 程よい酔い心地の脳裏に、表現しようのない暗く深い不安が満ちていくのを感じ、ジョッキに残っているビールを一気にあおったのだった。


     *     *     *     *     *     *


 それからマミと琴美は昼間の公園や夕方の買い物の際に時々すれ違い、一言二言交わす間柄となっていた。

 マミはこの性格上お母さん友達が多く、琴美もそんな中の一人であったが、琴美はその性格上誰と交わることもなく、マミがほぼ唯一の話し相手であった。

 そんな二人が会うと、どちらともなく相手の子供を抱く様になった、特に琴美が誠を抱くときには嬉しそうな笑顔が溢れるのをマミは微笑ましく眺め、

「ホントは男の子が欲しかったんじゃん?」

「ええ、まあ、いつかは」

「アタシもいつか女の子欲しいんだよね、ま、その前に相手いねえとだけど」

 悲しそうな笑顔を返す琴美である。

 真琴と誠、どちらもすくすくと育ち、まもなく一歳の誕生日を迎える頃。マミと琴美は家からやや離れた世田谷公園でお喋りをしていた。その日はどちらが誘う訳でもなく、梅雨明けの暑い日差しを避けたいと、木陰の多い公園に散歩に来たところバッタリと出くわしたのである。

「真琴ちゃん、マジでかわいいよね、アタシの周りの女の子の赤ちゃんの中ではダントツにかわいいよ。しかも良い服着せてんじゃん、いーなあ金持ち。」

 マミが真琴が着ている服をヒラヒラさせながら言うと、

「そんなことないわ。誠くんこそ、色白で、ハンサムじゃない」

 誠を愛おしそうに抱きながら琴美が呟く。

 大体二人の会話はマミが二喋って琴美が一呟く。もしくはマミが一方的に喋りまくるのを琴美が穏やかな笑顔で聞き入る、そんな感じだ。

 マミは数多いお母さん友達の中でも、琴美に一目置いている。それは病院の都市伝説のせいもあるが、彼女のちょっとした所作、特に子供に対する防衛本能に感服している。

 乳母車を押している時の目の動きが尋常じゃない。交差点、十字路、出入り口などでは何度も首振り確認をし、事実何度か目の前を通り過ぎる自転車との接触を避ける現場も目撃している。

 ビルの工事現場の下は決して歩かない。道路工事の側も必ず避ける。一方通行の道を何故か一方通行する。

「だって… 正面から車が突っ込んできたら、避けられない」

 凄い。なんて凄い女だろう。マミは琴美をちょっと尊敬している。街で見かけるとずっと目で追ってしまい、何なら後をつけてしまう。その結果琴美の防衛本能に気付いたのだった。

 ほぼストーキングである。で、実はその全てを琴美に気付かれていることは流石に知らない。


 琴美にしてみれば、実に厄介な相手である。つけられている! 緊張し周囲を警戒するとそこに必ずマミがいるのだから。

 初めは特に気にしなかったのだが、徐々に琴美の警戒心は上がっていく。自分の一挙手一投足を見られている! 現に、

「ねえ、琴美ちゃんてさあ、なんで一方通行の道路を逆に歩かないの? 歩行者じゃん、カンケーないじゃん?」

そんな事まで監視されている!

 この春以降、琴美の心のアラームはオレンジに点灯している。

 そして、今日。アラームはレッドに点滅する。

「琴美ちゃん、知ってる? あの何ちゃらっていう新興宗教団体の話」

 琴美の脳内に警報音が鳴り響く。

「さあ。興味ないから」

 慎重に言葉を発したつもりであったが、マミの表情が強ばり、顔面が徐々に蒼白になっていくのを見て、天を仰ぐ。

 もうダメかもしれない。これ以上このままで居たら、悟られてしまうー

 琴美は用事を思い出したといい、名残惜しそうに誠を眺め、真琴を連れて公園を立ち去った。


 マミは全身汗だくであった。

 別に他意はなく、他の友人と時事ネタを話す感じで話を振ったのだが。

 琴美の顔がまるで能面の様になり、ドス黒いオーラが全身を覆っているように感じたのだ。この感じ、どこかで……

 ベンチで頭を抱え、必死で思い出すー そうだ、あの時と同じ感触…

 初めて誠一に会った時の、あの感じ!

 まるで生気のない目。人をモノとして見ているような目。無機質な目。そして背中を覆っている何とも言えない圧倒的な真っ黒のオーラ。

 その時の誠一と、さっきの琴美は全く同一であった。マミは脇の下に掌を入れると、汗がベットリとこびりついているのを感じ、軽く悲鳴をあげる。

 今まで深く考えまい、と決めてきたのだが、心を改め真剣に考えてみる。

 誠一は今どこにいるのか。店の人には親戚がどうのこうのと言って店を辞めたらしいが、両親は死別し親戚はいない、とマミは聞かされていた。

 あの五千万円はどうやって手に入れたのだろうか。少なくとも二十歳前後の不幸な育ちの青年が所持できる金額では決してない。

 そもそも誠一はいつ三茶に来たんだっけ? 忘れもしない二年前の正月明け。じゃあそれまで何処にいたの? 本人曰く、池袋や新宿を転々としてた、と。

 どこで生まれたの? どんなふうに育ったの?

 …… 知らない。聞いたことはあるが、キチンとした答えをもらってない。

 マミの呼吸は荒くなり、滝のような汗が額に流れる。

 で? あの琴美? あの子、いつから三茶にいるんだっけ? 確か石川のバカ社長が新人の子に浮かれてるって噂が流れたのが… 二年前の…

『琴美ちゃん、三茶の前って、何処住んでたの?』『池袋とか新大久保……』

『琴美ちゃんのお父さんやお母さん、孫見るの楽しみなんじゃん?』『両親とは早くに死別しているから……』

『琴美ちゃんって実家どこ?』『生まれてすぐに施設を転々としたので…』


 マミは汗まみれで震えが止まらない手で誠を抱き締めながら、恐ろしい仮説に辿り着いてしまった自分を呪った。

 そんなはず、ないじゃん!

 まさか、誠一くんが…

 まさか、琴美ちゃんが…

 その恐ろしい考えを忘れようと、誠を乳母車に乗せ、ヨロヨロと公園を後にする。

 不意に先程の公園のベンチでのシーンが蘇る。我が子を抱く時の表情、そして誠を抱く時の…

 マミは玉川通りの三宿交差点の信号待ちで、思わずしゃがみ込んでしまった。

 バー黒船でサキと飲んでいた時に漠然と思い浮かべた予感― 琴美ちゃんは誠一くんを知っていたのでは?

 その予感は半分だけ正解だったのだ。

 琴美と誠一

 なんちゃらっていう新興宗教団体

 若い男女のヒットマン

 そのままマミは意識が遠のいていった。


     *     *     *     *     *     *


「まさか、オメーが運ばれてくるとはなあ。てか、マジビビったわ。」

 マミが薄っすらと目を開けると、そこは真っ白な天井だった。消毒液の匂いがし、サキの輪郭が徐々に顕になってきた。

「誠はっ? 誠はどうしてる?」

「大丈夫、大丈夫。さっき貴子おばちゃんが引き取りに来たわ。オメーは気付くまで寝せとけって言って帰ってったぜ」

 マミはホッとして大きく息を吐いた。

「熱中症。この点滴終わったら、帰ってよし。」

 サキが偉そうに言うとマミは苦笑いする。

「ったく。あたしゃもう帰るとこだったんだぜ。それが急患です、金沢マミ、二十二歳、意識消失、心拍正常、なんてよ。これ、貸しだかんな。」

「わかってる。今度奢るし」

「それより、なんかあったのかよ。なんかスゲーうなされてたぞ」

 ボーッとした頭が急に覚醒し、マミはカッと目を開き、

「サキっ!」

「な、なんだよ?」

 …… サキに言って、どうなるのか。もし自分の推測が正しければ、この先どうなるのか。この話をサツに話せば琴美は逃げるだろう。そして自分は復讐されるだろう。恐らく誠共々。

 サキに話せば、サキも消されるかも知れない。コイツには迷惑かけられない。

「…… 腹減った!」

「ハア? ったく… ほれ、点滴終了〜 よいっしょっと。ここ血止めとくから、家帰ったら外せよ。今日は風呂は入るなー、シャワーだけな。よし。帰って良し。てか、一緒帰るか!」

 今この瞬間ほど、コイツと出会えて良かったと思ったことは無い。マミは心の中でサキに頭を下げた。


 どうも今夜の誠は不機嫌だった。いつもなら九時には大人しく寝入るのに、今夜に限って遅くまでぐずついて中々寝付かなかった。

 夜中にまた誠がぐずりだしたので、布団から出て貴子を起こさないようにリビングで誠を抱いてあやしていた時。玄関でカサリ、という音が聞こえた気がした。

 その拍子に誠がワンワン泣き出したので、あやすのに十五分ほどかかる。誠がようやく落ち着き、マミはさっきの音が気になっていたので玄関に行くと、一通の手紙が落ちていた。


 金沢マミさんへ

 今まで仲良くしてくれてありがとうございます

 私にはマミさんだけが友だちでした

 私は今夜一人で家を出て遠くに行きます

 ぜったい探さないでください

 だれにも言わないでください

 真琴をどうかよろしくおねがいします

 お元気で

 石川琴美


 マミはその拙い手紙を何度も読み返した。そして、

 これ以上琴美のことについて考えたり人に話すのをやめよう

 真琴ちゃんのことはしっかりと見守っていこう

 この二つを胸に刻み込んだ。

 いつの間にか穏やかに寝ている誠の顔は、それでいいよ、と言っている気がした。


「聞いた聞いた? 石川さんとこの奥さん」

「夜逃げしたんだってね、子供置いて」

「信じらんないよね、考えらんない」

「せっかく玉の輿だったのにねえ」

「アレでしょ、バカ旦那の浮気がバレたんだっけ?」

「嫁姑の確執って聞いたわよ」

「アタシは旦那の暴力が酷かったって聞いたわ」

「あの奥さん、大人しそうだったもんねえ」

 いつもならノリノリで話に加わるマミが青褪め俯き、口を閉じているので、

「マミちゃん、あんた石川さんと仲良くなかった?」

「なんか知ってんじゃない?」

「教えて、教えて?」

  マミは顔を上げ、

「いや、知らない。だから、ちょっとショック…」

 お母さん友達は何度も深く頷き、マミを慰めるのだった。


「ほら、言ったことじゃない! こうなることはわかってたんだよ、あたしゃあ!」

 嘘つけ。孝は呆れ顔で母親を睨みつける。

「一体、何が不満だったのさ。まったく。それに、出ていくなら娘も連れてけってーの。どーすんのよこの子。結局面倒みんのアタシじゃないさ。もーーーーーーーーー」

 孝はうなだれる。確かに自分一人では絶対真琴の面倒は見れない。母に縋るしかない。

「アンタ、とっとと区役所行って、離婚届出しておいで。そんで、アタシがお嫁さん見つけてくるから。いい?」

 孝は大きく溜息を吐いて、頷くしか無かった。そして、三日前の朝にダイニングテーブルに置かれていた手紙を頭の中で思い返していたー


 孝さん お母様

 お世話になりました。

 私は一人で出て行きます。

 真琴はよろしくお願いします。

 どうぞお元気で。


 そして傍に置かれていた緑色の離婚届。

 あの日は一日、何をしたのか全く覚えていない。

 三日たった今日、ようやく自分が何をすべきなのか、母親に怒鳴られ諭され、理解する。

 一階の事務所から実印を持ってきて、ハンコを押す。

 孝はそれをセカンドバッグに折り畳んで入れて、店を出て茶沢通り沿いにある区役所の出張所に向かって歩きだした。


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