普通の日曜日はコーヒーカップが砕けて終わる
冷静にカップを置いたつもりが、コーヒーソーサーの内円からずれてしまい、陶器のぶつかる音が、ちいさく響いた。
それほど僕は浮足立っていた。
春半ばの日曜。雲ひとつない快晴。
つい最近まで昼夜問わず寒風が吹いていたのが嘘みたいに暖かい。こうして外に出るには、もってこいといった日だろう。
柔らかな日差しの差し込む、昼下がりの小さな喫茶店。
入ったことのない店だけど、小さくかかる音楽に、先ほど口に含んだコーヒーの仄かな酸味をはらんだ後味でさえ、この陽気にあてられているようだった。
別に春が来たから、浮足立っているわけではない。
目の前にいる女性に対して、爆発しそうな羞恥や高揚やその他諸々を抑え込もうとして、結果として抑え込めなかった動揺が、僕の体を支配しているのだ。
この女性、名前は「斯波 ミドリ」さん。家の隣に住んでいる2つ年上の幼馴染。彼女の弟「斯波 アオシ」は僕と同い年で、小さい頃から遊んでいる。
家族ぐるみの付き合いがあるとはいえ、どちらかというと、アオシの方ばかりとつるんでいて、ミドリさんはなんというか、僕たちがバカやっているのを、遠くで優しく見守る、年の離れたお姉さんというイメージだった。
整った顔立ちに、外へ向けてやや下がった優しい瞳には、右目じりあたりに小さく黒子が伺える。全体に漂うやわらかい雰囲気。柔らかいと言えば、服を前面に窮屈そうに押し出している、破壊力のある胸……いや、違うそうじゃない。
そう、母性。
母性を感じさせる人柄だ。
僕は性的な目線で彼女を見ているわけではないのだ、決して。
「あらあら、大丈夫? 零れてない?」
ミドリさんは心配そうに鞄からハンカチを取り出し、僕に差し出した。
「あ、いえ大丈夫です! あの……ありがとうございます」
僕は動揺を隠せぬまま、それを断った。
「緊張してるの? もう、お隣同士でずっと昔から知ってる仲じゃない」
彼女はハンカチを戻しながら、優しく笑う。
「き、緊張というか……してないと言えばウソというか」
「ふふっ。もう、この先ずっと緊張しっぱなしだと、疲れちゃうよ」
そういうと彼女は左手を伸ばし、カップを持ったままの僕の右手に添えた。
少しひやりとした、けれど柔らかい彼女の手の感触が、僕の心拍数をぐっと上げる。
「君は私の彼氏だけど、今まで通りに接してくれてもいいんだよ? 物部 ナオキ君」
そう、僕と彼女――ミドリさんは、幼馴染の枠を超え、最近付き合い始めたのだ。
きっかけは、彼女の弟・アオシだ。
ある占い師によると、アオシは『数奇な運命を引き寄せる力が強い』のだそうで、小さい頃からアオシの周りでは不思議な出来事が絶えなかった。僕は毎回、何かにつけてそれに巻き込まれている。親友でなければ、とっくに彼から逃げていただろう。
そんなアオシに寄って来るトラブルの中でも、僕たち2人のターニングポイントになったのは、数か月前の冬だ。アオシとクラスメイト数名が持ち込んだ『とある事件』に巻き込まれて死にかけていたミドリさんを僕が助けたことから、この交際関係が始まった。
まったく、人生というのはどう転ぶか分からない。
多分あの事件がなければ、こんな美人で優しいお姉さんと付き合うなんてなかっただろう。そういった意味では、アオシに感謝しなければならない。
ミドリさんは本当に憧れなのだ。
彼女はなんでもできる。
斯波家は両親が共働きで、学者のおじさんと、商社勤めで世界をまたに飛び回るおばさんは、家にいない事が多い。だから家の一切は、小さい頃からミドリさんが仕切っている。
通っている高校は、僕とアオシの通う学校よりもレベルが高く、その中で生徒会に所属している。部活には入っていないが、普段の雰囲気から考えられないくらい運動神経が良いミドリさんは、いくつもの部活から要請をうけ、加勢にでかけている。
性格的なものなのか、町内会の手伝いもどんどんこなしているためか、その辺の主婦よりもご近所ネットワークに精通している。
何もしていない一介の高校生の僕にしてみれば、彼女はスーパーマンなのだ。
しかし、それが僕たちの関係に災いしている。
「でも、今日は急にごめんね。買い物につき合わせちゃって。予定とかなかった?」
彼女がふと添えていた左手を僕の手を撫でるように引き、自らの手元に戻した。
僕はミドリさんの温度が離れた事に、少しだけ名残惜しさを感じていた。
「い、いえ全然暇でした! というか、こうして2人だけで会うのって、なんだかちょっと久しぶりというか……」
「そうねぇ……本当、ごめんね。この前は町内会の運動会だったし、その前は弓道部の県予選だったし、その前は……。そうね、なかなかこうしてゆっくり会えないよね」
「こっちこそ、時間を作ってもらって感謝しかなくって。今日はほら、お互い予定がなくて――」
「それなんだけど、ごめんね。実は今、ちょっとお手伝い中で」
そう、彼女はいつも、何処かの誰かの手伝いをしてしまう。
断れない性格もあるのか、頼まれるとひとまず手を付けてしまう。そして完璧にこなすものだから、彼女への依頼は後を絶たない。事情を知っているとはいえ、付き合い始めて2人きりで会うのはこれで4回目。ちょっとは控えて欲しいと思うこともある。
随分前。色々な事を押し付けられるように頼まれるのは嫌じゃないのかと、聞いたことがあった。けれど彼女は
「そうねぇ。選びはするけど、皆困ってるし、役に立ってるなって考えたり、ありがとうって言われると楽しくなるから」
といつものように笑って答えた。
彼女のやりたい事だから干渉するのもどうかと思い、僕はそこから何も言えずにいた。
で、今日も何かを手伝っていると。
「ああ、そう……なんだ」
僕は笑ってごまかす。けれどきっと、目は笑っていないだろうなと思った。
「今日だったのを忘れちゃってて……先方にはお断りしたんだけど、当日のキャンセルは受け付けないって言われて」
「えー、頼んでおいてそれはないですよ! そんな、の無視しちゃいましょうよ! なんていうかその……ミドリさんが良いと思ったことだから、今まで言いませんでしたけど、ちょっとそれは……個人的にはナイです」
僕はやや語気を荒げた。
「そうよねぇ……でも、もう始まっちゃっているし」
彼女の眉毛がすこし八の字に傾く。
少し言い過ぎたと思いながら、僕は引っかかった単語を口にした。
「始まっている? 手伝いが? あの、ミドリさん。今日ってなんの手伝いをしているんですか?」
「えーっと、何だったかしら。なんだかすごく説明が長かったんだけど……サバげー? だったかしら……」
「サバゲ―……サバイバルゲーム? あの銃で撃ちあう――」
次の単語を言いかけた時、僕の右側から破裂音が響き、殆ど同時に、僕が手にしようとしていた目の前のコーヒーカップが割れた。いや砕け散った。
何が起きたのか、理解ができぬまま、僕は白い束縛から解き放たれた琥珀色の液体が飛散する様を呆然と見ていた。
「伏せて!」
ミドリさんの言葉に僕は我に返ると、臙脂色をしたソファーに身を倒した。
それと同時に、破裂音は2発、3発とたて続けに聞こえ、鈍い音が同時に同じ数だけ耳に届いた。
店内は大混乱。悲鳴が飛び交い、僕ら以外の客も身を伏せ、入口から近い人たちは店から飛び出していった。店員もカウンターの下に隠れたらしく、姿が見えない。
なんだ……何が起こっている。
そうだ、自分の事より……。
僕はミドリさんを探す。
「ミドリさん、大丈夫ですかっ!」
「あらあら、困ったわねぇ。こんな感じなのね」
ミドリさんは困った顔をしながら体勢を低くし、テーブルの下に落とした鞄をまさぐっている。
「あ、あああの、ミドリさん……これ」
ミドリさんが僕の腕をつかんで引き寄せる。テーブルという障壁がなくなり、僕たちの距離は今までにない位近くなっていた。彼女の吐息だけでなく、鼓動も聞こえそうな距離。こんな状況なのに、いや、こんな状況だからか、ものすごく性的な興奮が……。
彼女は僕の頭を撫で、僕の耳元に口を近づけて言った。
「ごめんね、ナオ君。なんだか『ちょっと』私が思っていたのと、違うみたい。危ないから、テーブルの下で大人しく待っててね」