後日談
「良かった。もう心配はいらないみたいですね」
「そうだな」
哀川SUNのデビュー配信をパソコンで閲覧しながらホッと森田刑事は安堵の溜息を吐いた。
藤原史郎を、日本を黄泉に叩き落とそうとした大罪人をそうと知らずに取り押さえて数日。やっと世界は時計の針を時間の流れ通りに刻み始めたのだ。
これまでの経緯を黄金の蜂蜜酒を極限にまで薄めた蜂蜜水を飲む事で朧気に思い出した森田刑事は、意図的に世界を破滅させようと動いた藤原史郎に戦慄して、止められて良かったと胸をなで下ろしたのだった。
あそこで山川陽子が死亡してしまったら、また日本の現神が動いたのは想像に難くない。それを藤原史郎も理解してただろうに、その上で襲い掛かっていたのだ。常人の胆力と行動ではない。あの男もまた、歴史に名を残すような異常な存在なのだ。
「それで、藤原史郎は確かに死んだんだな?」
「……間違いないはずです。牢屋の鉄格子だろうと埒外な腕力でへし曲げる彼を拘束する為に私もずっと付きっきりでしたから」
公安警察のスパイだと取り戻した記憶と本人の証言で明らかになった渡辺刑事は猟犬の目で森田を見た。
元部下だろうと安易に白だとは判断しない情報機関の構成員としてのかつての上司の姿を見て、森田は苦笑した。おやっさんの事を分かっているつもりで自分は何も分かってはいなかったのだ、と。
確かに渡辺は情に厚く不正や曲がった事が嫌いな熱血刑事だが決して無謀でも浅慮でもない。必要ならば自ら捨て駒として動けるだけの大局を見る目がある。
怪我で片腕が動かない中、拳銃も所持せずに人間大のクマのような存在と取っ組み合った無謀を形にしたような森田刑事とは違うのだ。
「嘘じゃないな。つまり、藤原史郎は陸上で溺れ死んだ訳か。しかも警察署の拘置所で」
「応急処置はしましたが横にした彼の口からは絶えず水が吐き出され続けていました。最後には一面水浸しで、彼の肉体の体積よりも吐き出した水の量の方が多かったくらいです」
「マトモな死に様じゃないな。俺達の常識じゃ理解できん。おい、八咫烏。説明しろ」
険しい顔の渡辺刑事は同じ部屋にいる八咫烏の構成員セイに視線を向けた。
アリス姫に説得されてエインヘリヤルの契約を結んだ八咫烏の七人ミサキ候補であった彼は今や一流の呪術師であり一流の霊能力者である。
国家の抱える正当な霊的防衛機関と化した八咫烏は、当然、過去改編前の歴史に大きな影響をもたらした藤原史郎の死因を調査しているのだ。
「藤原史郎の死因自体は不自然じゃない。ありゃ霊障だ。あの男に殺害された怨霊達が復讐したのさ。自業自得だな」
「そもそも藤原史郎は呼吸が出来なくなった程度では死にませんからね。溺死したのなら水そのものが、この世の物ではなかったのでしょう」
「ならば何故、もっと早く呪い殺されなかった」
セイと過去に藤原史郎と相対した事のあるユカリの説明に不可解そうに渡辺刑事は眉を潜めた。オカルトに関する知識はフィクションも多く、何が真実か外野からは今ひとつ理解できないのだ。
「呪われちゃいたろうさ。常人ならノイローゼになる頻度でラップ現象が起きたり、夢枕に立ったりしたんだろうが……」
「ポン太なら気にしなかっただろうな。それ以上は怨霊側の力不足で干渉できなかったんだろう。田中さんもそうだったんだよな?」
「う゛う゛。嫌な事、思い出させないで下さいよ先輩」
エプロンを着けてコーヒーを参加者に提供していた田中沙織はそうアリス姫に返事をした。
田中沙織はアリス姫が生前、前田孝であった頃の会社で自殺をした女性社員だ。自ら死んだ事で成仏できず現世を彷徨っていた時にアリス姫の精神世界に迷い込んでしまった過去がある。怨霊の癖にろくに生者を苦しめる事も出来ずに消滅しかかっていた所を八咫烏をエインヘリヤルに勧誘したアリス姫がついでのように誘いを掛けたのだった。
「あれだな。怨霊も下手に良識が残ってるとカニバリズムに抵抗があって魂の捕食をしないから大した事が出来ねえんだよ」
そういう良識が残った穢れの少ない魂だからこそ、エインヘリヤルに出来たんだけどとアリス姫が付け加えるのに、セイは弱り過ぎてて覚醒前じゃ絶対に見付けられなかったと愚痴をこぼした。
ワンダーランドの新しいマネージャーにしたいと契約を結んだ日から、八咫烏は田中沙織を発見する為に奔走していたのだ。
藤原史郎の死因を調査する依頼も同時に熟していた故に八咫烏はろくに眠れない程に多忙だったのだが、それでもセイは何処か満足そうであった。
「穢れがイコールで怨霊の力量って訳じゃないよ。その国の逸話に沿った業を積む必要があるからね」
八咫烏の七人ミサキの一人、アオがそうコーヒーを手に補足する。
エインヘリヤルではなくセイの呪術で式神と化したアオは未だに怨霊の域を脱していないが、近々、秘密裏に守り神として祭り上げられる予定だ。七人ミサキが亡霊の集団から正式な神の遣いとなる日も近く。儀式の成功はかの安倍晴明のお墨付きである。
「それじゃあ、藤原史郎が死んだのは凶悪な怨霊が誕生したからって事か?」
「普通に考えたらそうなんだろうけどな」
難しい顔でアリス姫は甥である前田拓巳を見た。アオの呪詛で弱った身体を癒やす為に田中沙織の捜索に前田拓巳は不参加と相成ったが、千里眼に関してならば八咫烏以上の精度の霊視能力を持っている。
無言で問いかけられた視線に静かに首を振って拓巳は否定の返事とした。
「何者かがポン太に取り憑く怨霊に力添えをした。その後、ポン太が存在した事実そのものを抹消した。そういうこった。それで良いんだよな、リデル」
「間違いないわ」
「そうでしょうね」
そう日本が世界から存在自体を忘れ去られたようにポン太、藤原史郎の記憶や記録を誰も憶えていないのだ。
なかった事になった訳ではないので、過去改編で世界が再構築された訳ではない。藤原史郎は確かにそこにいて歴史に影響をもたらし、それを誰にも認識できなくなった。一部の人間を除いて。
この中でアリス姫以上に現神に詳しい二人は確信を持って頷いた。情報収集のチートと化しているリデルだけではなく、穂村雫もまた大凡の成り行きを察していた。この会合に参加している者にはアリス姫がサンジェルマン伯爵に報償として貰った黄金の蜂蜜酒のワインを極限にまで薄めた蜂蜜水が振る舞われている。
それで皆、朧気な夢として実感のないまま再構築前の記憶を取り戻すのだが、穂村雫だけは魂に救世主としての人生が刻まれているせいで鮮明に記憶を取り戻してしまったのだ。
損な役割ですねと他人事のように肩を竦める穂村に眉を潜めながらもリデルは下手人の名を呟いた。
「遊戯の神ロキの仕業でしょうね」
「やっぱりな」
もう神々に翻弄されるのは真っ平だとアリス姫は溜息を吐いた。




