森田刑事の業務日誌3
「痛ってて」
引きつるような刺し傷の痛みに呻きながらも森田は帰宅の途についていた。
既に時間帯は遅く日は沈みきっている。いっその事、入院すべきだったかと森田は思いながらコンビニで購入した弁当を片手に暗い夜道を歩いた。
遠く離れたビルの明かりが返って夜の薄暗さを強調していてデッドスポットと化している。外灯がないと危険だなと脳内手帳に重点警戒地点と現在地を記入して、森田は苦笑した。
負傷して溜まった有給休暇を消費しようとする矢先にも関わらず仕事の事を考えている。ワーカーホリックになってるなと首をコキッとならして森田は伸びをした。
「うわっ」
「っ! ごめん、なさい……」
ドンと暗がりから走ってきた女性とぶつかって森田はふらついた。一瞬キッと睨み付けてきた女性は森田が怪我をしてる事に気が付くと、申し訳なさそうな顔で謝罪をして走り去っていった。その後ろ姿を、森田は険しい顔で見た。
自分でもナーバスになってるのが分かる。普通なら気にならないような事が無性に気になってしまう。
今すれ違った、泣き腫らした目の女性は裸足ではなかったか。何故か、そんな細かい事が気になって仕方ない。
「自棄になってる。だから、何なんだよ」
彼氏と喧嘩して家を飛び出しでもしたんだろうと森田は推測しながら、自宅とは真逆の方向へと足を運んだ。
不可視の風が吹き荒れコンクリートを抉り、人間が空を飛ぶ。
怪我をした森田が女性の消えた方向で発見したのはそんな非日常であった。
「俺、夢でも見てるのか?」
頬を抓っても現実は変わらない。世界は彼が思っているより何倍も不可思議でデタラメなのだ。
人間のちょっとした意思で世界は在り方を変える。そういう法則が世界には敷かれている。
「ァァァアアアアッッ!!」
だから高空から叩き付けられた人間が血達磨になっても死ななかったりするのだ。
ビシャと飛び散った血が森田の頬に付着した。その暖かい血を指で拭って、これは紛れもない現実なのだと森田は自覚した。
助かる可能性は低いだろうが落下した怪我人の様子を確かめ救急車を呼ぼうと森田は駆け出そうとして、腕の痛みと異様な光景に声が出せなくなった。
笑っている。身体を欠損させながらも落下した人影は嗤っていたのだ。
「アッハハ。やりゃ出来るじゃん」
逆再生するかのように肉体を復元させながら立ち上がった人影に、森田は咄嗟に物陰に隠れた。
マズい。何故かは分からないが見付かっては駄目なのだと刑事としての直感が囁く。
「レベル上げ、いや、一時的な逃避行。うーん」
風が吹いた。急な突風に空を飛行する人物が体勢を僅かに崩し。
何かを悩んでいた人影は上空を見上げてニヤリと笑った。
「奇襲だな」
「ねぇ。何で死体がないの……?」
「どうしてだろう」
空を飛行していた人間は森田が追っていた裸足の少女と小学生くらいの少年だった。
両手に女性を抱えながら傍らに妖精を引き連れている事から、少年の方が風を操ったり飛行したりと不可思議な現象を起こしているのだろうと森田は予測した。
(……警告すべきだろうか? 敵が物陰に潜んでいるぞ、と。だが暴風でコンクリートが抉れる程の攻撃をしていたのはあっちだ。あの青年には嫌な予感がするが、高空から落下した怪我を癒やしただけで何もしていない)
これまでの経緯が分からない森田にはどちらに加勢すべきか判断できなかった。
出揃った情報を纏めると社会の裏で対立している異能者の抗争に見える。警察官としては死者が出そうな争いを止めるよう促すべきだろうが、正直、森田には荷が重い。今は銃も所持していないし怪我で片腕が使えない。空を飛行し風を操る異能者と重傷が一瞬で癒える異能者の戦闘に分け入って無事で済むとは思えなかった。
(関わるべきじゃないよな。刑事とはいえ荷が勝ちすぎている。この情報を知っただけでマズい可能性すらある)
上層部から睨まれて警察手帳を返却した渡辺の姿が森田の脳裏に過ぎった。
人知れず暗躍するカルト団体を追って刑事の身分すら捨てた尊敬できる上司の姿が。
(でも、おやっさん。刑事ですらない、ただの民間人が捜査を続行したくらいで何が変わるんですか)
相手は警察組織の上層部にすら伝手を持つ巨大組織だ。人知れず行方不明になるオチに終わるのではないか。
森田は渡辺刑事の不屈の精神を尊敬しながらも、融通の利かない頑固さに目眩がする思いだった。
あんな事件で失って良いような刑事じゃなかった。もっともっと多くの事件が毎日、東京都内ですら起こり続けているのだ。
(そうですよ。いっそ、見なかった事にしちまえば良かったんだ。個人で抗えるような相手じゃなかった)
かつての自分が如何に身の程知らずだったのか理解して森田は苦笑した。
迷信に過ぎないと思っていたオカルトは実際に現実のものとして存在する。森田はそれをハッキリと目にした。
ならば警察の上層部にすら影響力を持つカルト団体のような異様な存在も納得できる。単なる頭のおかしい人間の集団ではないのだ。
(一般人が触れてはならない領域が存在する。だからオカルト派閥は外部協力者を頼りに……)
禁忌案件。怪談のように署内で噂をされる言葉を思い出し、森田はスマホを手に取った。
(この場を離れて山さんに連絡をして任せた方が良い。俺の手には余る)
そう判断して踵を返そうとした森田を呼び止める声が……したような気がした。
【それで良いの?】
脳裏に過ぎる声に森田の足が止まった。
そう、ここで彼が逃げてしまったら死者が出る可能性があった。悠長に電話をしていたら応援が来る前に事態は動いてしまうだろう。
異能者同士の抗争なら部外者が口を出すような事じゃないと森田は言い訳をして、少年の姿が目に入ってしまった。
幼い。あまりにも幼い。まだ小学校も卒業していないだろう。
腕には泣き腫らした女性が抱えられている。裸足で真夜中の街を追い詰められた顔で走っていた女性だ。彼女を追いかけて彼は非日常に足を踏み入れた。
【貴方は何で警察官になりたかったの?】
何故。するりと森田の脳にその言葉は入り込んだ。
囁き声に森田のこれまでの記憶が走馬灯のように過ぎり、過去の自分を見た。
『俺さヒーローになりたいんだ。どうやったら、なれるかな?』
『そうさなぁ。日本でヒーローと言ったら警察官や消防士や医者あたりになるか?』
『夢がないわねぇ。もうちょっと良い答えはなかったの』
『だってな。誠司。お前、本気でヒーローになりたいんだろう?』
なら、頑張らなきゃな。そう声が聞こえて森田は小さく笑った。
そうなのだ。こんな小学生にもならない頃に交わした他愛のない会話が彼が警察官になった動機なのだ。
「何時までもガキみたいな夢を追いかけて。何やってんだか」
顔を上げた森田の目に少年達に襲い掛かる暴漢の姿が映って、彼は自然と駆け出していた。
一歩、二歩、三歩。足を踏み出す度に動作は速くなり、気が付けば人間では出せない速度で森田は少年達の前に飛び出していた。
「いっ!? 誰だよアンタ」
リンク能力者を超える身体能力を持つポン太が体当たりで弾かれた事に驚愕して森田を見た。
世界が再構築される前の記憶でも見た事のない顔であった。
「俺? 俺は……」
刑事の身分を明かすには状況が不透明だと判断した森田は。
「ただの、通りすがりの」
いっそ開き直ってやろうと、堂々と大きな声で宣言した。
「ヒーローだ!!」
森田の自分だけの現実が宣言に相応しい能力を形作り。
何時か何処かの世界で生まれた『囁くもの』が、新しい仲間の産声に微笑んだ。




