バッドエンドの向こう側8
「あれ陽子さんじゃないっすか」
「だれ?」
泣きはらしていた陽子は急に掛けられた声に慌てて目頭を拭った。背後の声に対応する為にスマホで聞いていた穂村と江利香の配信を止めて振り返る。
そこには革ジャンを着たワンダーランドのマネージャーである藤原史郎、通称ポンコツのポン太が佇んでいた。
「レッスンにも顔を出さないし皆、心配してたっすよ。何があったんです?」
「うん……」
あっけらかんとしたポン太の態度に、陽子はこれまでの経緯を話すことにした。
そう陽子はまだ絶望しきってはいなかったのだ。ワンダーランドという陽子にとっての最後の聖域がまだ残っていた。ワンダーランドの皆なら、自分を受け入れてくれるんじゃないかという希望を抱いていた。だからこそ、ポン太にアイドルマインドのチートを含めて全ての事情を話してしまったのだった。
「うわ、マジっすか」
ポン太は不可解なものを見るような目で陽子を見ていた。
そこには純粋な疑問の感情しかない。心の底から陽子を理解出来ないでいるのだ。
「変な拘りでチート能力に制限を掛けて行き詰まってたんじゃ意味ないでしょーに。ストーカーとやらも警察を操りゃ簡単に撃退できたし、謹慎することもなかった。分かってます? アンタ相当恵まれているんすよ。そもそもチート能力を持ってる奴すら貴重なのに、その中でも破格な影響力を発揮するチートを死蔵するって……」
「うっ。そうだけど。でも私だって頑張って」
「こりゃ駄目だな。努力と来たか。最後には自己弁護」
ゴミを見るような目でポン太は陽子を見た。お前には何の価値もないと心の底からポン太が思っているのが陽子にはダイレクトに伝わって来た。
「アイドルマインドっていう専用のチートの底上げがあってもアイドルとしては三流。才能がないのにチートに頼るのは嫌だって我儘でチートを死蔵。外敵から身を守る事も出来ず簡単に追い詰められて引き籠もる。やっとチートを意図的に使用したかと思えばチームメイトに無理矢理に頭を下げさせて終わる。ここで俺に経緯を話したのも慰めて欲しかったからっすよね? で、ワンダーランドに泣きついて移籍させて貰おうとしてたと。くっそゴミ屑じゃねえか」
ジワジワと追い詰められていくような恐怖が、今、目の前に人の形をして鎮座していた。自分というものに陽子は何一つとして価値はないように思えてきて、ひゅーひゅーと陽子の喉から奇妙な呼吸音が響いた。過度な不安と緊張に過呼吸の症状が現れ始めているのだ。
「ここまで言われてチートを使用しようとも考えないんすか。ああ、もういいや」
「え?」
ふわっとした浮遊感に陽子は疑問の声を上げた。
身体が空中に浮いていた。いや、浮いているような錯覚をしただけだ。
陽子は廃ビルの屋上から落下していたのだ。ポン太に蹴り飛ばされて。
「足が滑った」
飄々(ひょうひょう)とポン太は人をビルの屋上から蹴り飛ばしておきながら、そんな言葉を放った。人を殺害したことに何の感慨も抱いてはいない。
「ここ数日間の張り込み成果はちょっとした情報の収集で終わりかー。やってらんねー。はー、ラーメンでも食いに行くかな」
彼にとってこの事件は、その程度のイベントだった。翌日になれば綺麗に忘れてしまうような、その程度の。
日本を黄泉に叩き落とした絶望の日々はたった一人の異常者の行動が切っ掛けだったのだ。
その事を今はまだ誰も知らない。何故ならば。
「ふざけんな」
風が吹いた。荒れ狂う激しい風がビルの屋上に吹いていた。
「女の子には優しくしろって教わんなかったのかよ!」
一人の少年が両腕で女性を抱きかかえたまま空中に浮かんでいた。
この小さい少年が落下していく山川陽子を救助していたのだ。世界は再構築された。
橘翔太。八咫烏事件の後、彼が転移で現れたのはSCP世界ではなく、現神世界で山川陽子が殺害される、まさにその瞬間であった。
「マジかよ」
ポン太の頬が驚愕と興奮で歪に吊り上がった。
「シャガウ」
少年の隣でポン太を威嚇するSCP-007-AW-時空妖精ティンカーベルが意図してこの世界のこの時代に彼を導いたのかは分からない。
だが、今回の過去改編には誰の意思も介在しておらず、全てが時空妖精の行動に端を発しているのは確かだ。
その事がSCP世界を犠牲にせずに現神世界を救うというミラクルを起こしていた。
本来なら橘翔太がSCP世界に転移しなかった以上、SCP世界は滅亡していてもおかしくはない。だが、確固たる事実としてSCP世界は存続し続けている。
SCP世界に包帯男は存在している。つまり橘翔太はSCP世界にも転移しているのだ。
全くの同一人物が二つの世界に転移した。転移を切っ掛けに橘翔太は二人に増えている事になる。
原因はSCP-007-AW-時空妖精ティンカーベルがSCP世界で包帯男と過ごしていた過去があるからであった。地続きの未来でティンカーベルが過去の橘翔太を連れて現神世界に転移をしても時空妖精の特性として矛盾は無視される。世界のルールを外れた異常存在は世界の法則に縛られない。
時空妖精コティンとティンカーベルの入れ替わって驚かせてやろうという些細な悪戯が、二つの世界を救ったのだった。
「何が、起こってるの……?」
急に廃ビルの屋上から突き落とされたと思ったら空を飛ぶ少年に救出されていた山川陽子は目を回していた。次々と変化していく状況に頭が追いつかない。
落下してはいけないと硬直している身体があまりもの緊張に無意識に震え、指が握りしめていたままだったスマホのボタンを押した。
『ゲリラコラボを実行して注目を集める事で間接的にメッセージを伝える事にしたんです』
止まっていた配信が動き出し、穂村雫と佐藤江利香の声が流れる。
『アリス姫も心配してる。もう見る目のないアイドル事務所じゃなくて、うちに所属しないかって言ってるの』
それは山川陽子に対するワンダーランドの仲間のメッセージだ。
ずっとずっと届かなかったメッセージがやっと長い時を超えて彼女に届いたのだった。
『新しい仲間となってくれる事を願っています』
陽子はネット越しに伝わってくる暖かい感情にボロボロとこぼれ落ちる涙を止める事が出来なかった。
こうして、ようやく、世界は時計の針を正しく刻み始めたのである。




