バッドエンドの向こう側2
一人の子供が静かな声で宣言すると、二人の子供が向かい合って両手を繋いだ。
そしてある童歌を全員で歌い出す。
「通りゃんせ、通りゃんせ。ここはどこの細道じゃ」
かつてマヤちゃん、物部摩耶は通りゃんせで遊んでいる最中に天神様の細道に迷い込んでしまった事がある。
そこを前田拓巳が千里眼で案内して現世に舞い戻ったのだが、もし本当に天神様の許へ辿り着けるというのなら、天神様の細道とはいったい何処に繋がっているのだろうか。
現在、天神様で有名なのは菅原道真が死後に祭られた天満大自在天神だが、天神様とは本来は天津神という高天原にいる神々の総称である。
「天神さまの細道じゃ」
故に普通に考えるのなら天神様の細道が繋がっているのは神々の世界である高天原だ。
だが、日本の神々には仏教の御仏の仮の姿に過ぎないという本地垂迹説がある。故に神の世界に繋がっているならば御仏の世界に繋がっていると捉える事も出来なくはない。では御仏の世界とは何処か。輪廻を繰り返す仏教において世界は六道に分けられる。地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界だ。
御仏は天上界にいるだろうから天上界、もしくは6つの世界に繋がっている。と、判断するのは早計だ。この六道から解脱して涅槃に至ったものが御仏なのだ。天上界は輪廻に囚われた天人の住まいに過ぎない。
そう、つまり天神様の細道は世界の外側へと繋がっている可能性がある。
「ちっと通して下しゃんせ」
「御用のないもの通しゃせぬ」
また、仏教には一人の仏が教化を担当する世界として三千大千世界という概念がある。
上で語った六道を一世界とし、一世界が千個集まったものを小千世界とし、小千世界が千個集まったものを中千世界とし、中千世界が千個集まったものを大千世界とする。そこまで数多の世界をたった一人の仏が担当しているのだ。
厳密に10億の世界を担当しているのではなく、数多の数え切れない世界を三千大千世界は表現しているのだが、重要なのはそこではない。
三千大千世界は一人の仏が担当している事から1仏国土とも呼ばれていて、無数の仏が世界を教化しているとされる。三千大千世界は仏の数だけ無数に存在するのだ。そして仏教では、その三千大千世界の一つ一つに名前が付いている。
阿弥陀如来が教化している西方極楽浄土、薬師如来の東方浄瑠璃世界。我々のいる三千大千世界とは異なる三千大千世界の名である。
当然、我々のいる三千大千世界にも名前が付いている。釈迦如来が教化をしている娑婆。これがこの世の名だ。
つまり、世界の外側に出た後で、舞い戻らなければならない世界の名前が分かっているのだ。
安倍晴明が提唱した時間遡行の大儀式とは、天神様の細道に意図的に迷い込み、世界の外を経由する事で時間を渡り現世に舞い戻る大秘術なのである。
「この子の七つのお祝いに、お札を納めにまいります」
だが、果たしてそんな事が本当に人間に可能だろうか。確かに世界は一度、再構築されている。現実味のある話に思える。
しかし忘れてはいけない。それを行ったのは現神だということを。本地垂迹説で菩薩や仏陀の仮の姿として権現とも呼ばれるのが神なのだ。
「行きはよいよい、帰りはこわい」
そういえば前田拓巳は推測してはいなかっただろうか。
通りゃんせとは子供の口減らしを意味する生贄の儀式なのではないのかと。
「こわいながらも通りゃんせ、通りゃんせ」
かつてのように、一人、通りゃんせで遊ぶ子供が消えた。




