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ディストピア世界8

「これは」


 穂村は佐藤江利香のバーチャル能力『変身願望』の効果に息を呑んだ。

 『神秘溢れる日本』を『何の変哲もない国』へと変える。そんな事は単なる一介の異能者に過ぎない江利香には不可能だ。現神や眷属のクトゥルフクリーチャーはもとより人間モドキすら江利香の力では影響を及ぼす事は難しい。例え元百万登録者超えのVtuberであろうとも世界の有り様を一人では変えられない。効果範囲もせいぜい東京を包み込む程度。日本を対象になど出来ない。


 そんな事は江利香にも分かりきっていた。それでも尚、願わずにはいられなかったのだ。この絶望を覆して欲しいと。元の何でもない日々を返して欲しいと。

 かつて摩訶不思議な現象を目を輝かせて見ていた少女の心からの願いは―――民衆の潜在意識の願いと結び付き、一つの効果を発揮した。


「エインヘリヤルの契約が消えた?」


 死んで絶対命令権の指揮下に入った者が命令に逆らう事も自由になる事も不可能である。魂を売り渡すという契約は精神力で覆せる程、軽々しいものではない。だが、一度も死んだ事のない生きた人間が交わした死後の契約の無効化ならば、既に前例があるのだ。


 山川陽子。絶望によって彼女がアリス姫への臣従を拒否した事はあまりにも有名な事実である。


 それがディストピア社会の形成に繋がる破滅への一歩となるのだが。

 今回、江利香の願いはこの前例を踏襲したものとなったのだった。皮肉にもアリス姫を否定した事で崩壊した社会が、再びアリス姫を否定する事で変貌しようとしている。

 穂村はそういう時代の流れを鋭敏に感じ取っていた。


「だが、それで何が変わるんだ? 契約があろうとなかろうと死んでねえなら絶対命令権の対象にはならない。エインヘリヤルの契約を結んでいた穂村がレジスタンスの首魁として活動していたように他の奴らにだって自由意志があったはずだ。絶対命令権の指揮下にあるエインヘリヤルを自由に出来たのならともかく、単に死後の契約を無効化しただけじゃ穢れ姫の殺害ターゲットになるだけじゃねえ?」


 茜ヨモギがそう首を傾げて言った。確かにその通りだと村雨ヒバナも頷いたが、穂村はいえと否定して頭上を見た。


「どうやら、彼女はそう思わなかったようです」


 そこには能面のような顔をしたアリス姫が江利香を黙って見下ろす姿があった。




【やってくれたな】


 重々しい重低音の声が地響きを伴って江利香へと伝わった。息も出来ない程のプレッシャーに苦しそうに胸を押さえて、それでも江利香はアリス姫を見上げ続けた。

 江利香がアリス姫に絶対命令権で命じられた事は一つ。アリス姫にとって不利益な事はするなという命令のみ。

 最強のリンク能力者である佐藤浩介を懐柔する為、他に例がないほど緩い命令ではあったが、それでも江利香がレジスタンスの利益になる行為と思う事全般を封じるだけの力があった。その江利香が最もアリス姫の嫌がるエインヘリヤルの契約無効化を出来た理由は一つ。


 江利香がアリス姫をも救おうとしたからである。


 彼女が願ったのは社会が崩壊する前の世界を取り戻す事。そこにはワンダーランドで共にVtuberとして笑い合うアリス姫の姿があった。

 かつての穂村雫と同じように善意による無意識の敵対が絶対命令権の束縛を無効化したのである。穢れ姫に理解は出来ないが、アリス姫の敵はそういう動機の敵が殆どであった。


「エリ。お願い」


 アリス姫の姿を見て、江利香は涙を流して自分のバーチャルキャラクターに願った。


「私がどうなっても」


 赤衣エリカは主の言葉を一言一句も聞き漏らさないよう耳をそばだてた。


「アリス姫もちゃんと助けてあげてね」


 笑って江利香はそう最期の言葉を遺した。




「見上げた心意気だ」


 機嫌良く笑ったクィーンは江利香を苦しめず瞬く間に黄金の光で消し飛ばした。

 魂の欠片すら残さず抹消した事で江利香は穢れ姫の束縛から完全に自由となった。死によって絶対命令権で江利香の尊厳を汚される事をクィーンは防いだのである。


「さあ」


 クィーンはふてぶてしく、堂々とした態度で穂村雫と向かい合った。


「世界の命運を賭けた闘争を始めようか。救世主」


 黄金の光が世界を照らす。あまりにも膨大な光量は太陽の光を思わせた。


「暴虐の王はここに居るぞ」


 女王の名を冠された支配者としてのアリス姫の側面はニヤリと牙を剥きだした。

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