ディストピア世界4
コンコンっとドアをノックして佐藤浩介は妹の部屋へ声を掛けた。
何時ものように、返事は返ってこないだろうと予測しながら。
「江利香。ご飯、出来たぞ」
高騰した食材と同等の重さの金貨とすら交換できるスパイスをふんだんに使用して浩介が手作りしたカレーライス。この世界で最上級の料理。
生きるための食料こそが最高の贅沢であるディストピア世界において、これ以上の嗜好品は存在しない。一企業の社長クラスがようやく口に出来る上流階級の食べ物である。
匂いを嗅ぐ為になら殺人も厭わない。そんな世界で、崩壊前の社会で家庭料理を振る舞うような気楽さで浩介は手料理を作っていた。
「………………」
応えはない。何時ものように。
「ここ、置いとくな」
そっとカレーの入った食器をドアの前に置くと、浩介は江利香の部屋から離れた。
ドアを開けても視界に入らない位置で待機していると、ギィっと江利香の部屋のドアが開く音がして、浩介はホッと胸をなで下ろした。
大丈夫だ。ちゃんと食事は取っている。以前のように、気付いたら餓死していたなんて悪夢は起こっていない。
ドッドッドと五月蠅く鳴り響く心臓を押さえて浩介は安堵の溜息を吐いた。
食材も金もあるところにはある。意図的にギリギリの供給量となるようディストピア世界の政府にあたる王宮によって管理をされているが、現行秩序を維持する近衛の一員である浩介なら日々の食費くらいは問題とはならない。金はあるのだ。力のない民間人を弾圧して得た金が。
そう、かつて数多の魑魅魍魎を退治して人々の尊敬の目を一身に集めていた浩介が、今や無力な人々を虐げているのである。
浩介こそが最も多くのレジスタンスの異能者を殺害して表彰される未来が訪れようとは、きっと当時の人々には想像すら出来なかっただろう。
あまりの急落ぶりに浩介自身、渇いた笑いが止まらなかった。
最強のリンク能力者として名高い佐藤浩介はその力に相応しいだけの待遇を約束されている。特例として浩介がワンダーランドレジスタンスに与する人間を排除する限り、元ワンダーランドメンバーへは手を出さないとアリス姫直々に勧誘された程だ。絶対命令権では命令を曲解できる余地が残ってしまう。浩介自らの意思で体制側に与するよう唆されたのだ。
妹である江利香には飢えても良いから近衛を辞めるよう何度も何度も説得されたが、浩介が頷くことはなかった。
エインヘリヤルは通常の手段では死なない。クトゥルフクリーチャーの穢れ姫が浩介をその気にさせる為に何をしたのか等、妹に知らせたくはなかった。自分のせいで無関係な女の子が生きながら壊れていく様など、浩介自身、思い出したくもない。
だが、何の為に浩介が体制側に与したか等、説明されずとも江利香にだって分かる。元はワンダーランドレジスタンスのメンバーであった江利香が死と共に、組織の仲間と兄の尊厳を台無しにしてしまったのだと痛い程によく分かる。
だが、絶対命令権で穢れ姫に敵対する行動全般を封じられてしまった江利香には何も出来る事などはない。ただ日々を無為に過ごすだけの骸のような暮らしが江利香の精神を徐々に蝕んでいった。
日本社会が存続していた頃、拒食症と診断される精神疾患に気付いたら江利香は陥っていた。
江利香は栄養を取らなくても死なない自分が食料を消費してしまう事で、何処かの誰かが餓死するんじゃないかという妄想に常に取り憑かれていた。
そして、崩壊世界で江利香の危惧は決して単なる杞憂ではないのである。
「チクショウ」
泣きながら謝りながら食事を取る妹の声を聞いて浩介は唇を噛みしめた。
一度、本当に江利香が餓死をしてしまってから、浩介は江利香に無断で料理をするようになった。お前が食べなかったら、単に食料が無駄に捨てられるだけだぞと目の前でゴミ箱に料理を捨てる素振りも見せた。それで、やっと江利香は食べ物を口にするようになったのである。
そんな方法でしか浩介は江利香に食事を取らせる事も出来なかった。
血塗られた金で誰かの食事を奪い取って無益な一日を生きる。江利香の感じている現状を、浩介すらも否定できないのだ。
仲間も誇りも人間らしさも、何もかもを捨てて守ったはずの身内を傷つけて果たして自分は何の為に穢れ姫に与したのかと、浩介が今日何度目かの疑問を感じた時にポケットに入れたスマホが着信音を立てた。無造作に画面を見た浩介は引きつった笑みで顔を押さえた。
「ハハッ。勘弁してくれよ。何で俺の家の近くで見付かっちゃうんだよ」
スマホのメール画面には穂村の潜伏先がリークされていた。




