偶像の叫び声10
アリス姫にとっての魂の牢獄はとても分かりやすい形で目の前に現れた。
即ち前田孝の時代に働いていた職場だ。
鳴り響く固定電話の呼び出し音、固い机の感触、上司の怒鳴り声。全てが記憶の通りであった。
アリス姫はどうやら居眠りしていたという設定らしく、上司の罵る声がやかましく耳に響いていた。
現状はまるで今までの事が全て単なる夢でしかなかったというかのようで、これ以上の悪夢もないだろうなとアリス姫は納得したのだった。
「寝ぼけてんじゃねーぞカスが。居眠りするくらいなら、いっそ死ぬまで働いて永眠しろや」
「ハハッ」
男の姿に戻っている自分に気付いたアリス姫は笑って怒鳴りつける上司を殴り倒した。
夢だと分かりきっている。現実に影響はない。むしろストレス解消に良いかもなと呑気にアリス姫は構えていた。
「お、お前、自分が何をしてるのか、分かってんのか!」
「分かってるよ。もっと早くこうすりゃ良かった」
「このキチガイめ」
生前の上司を足蹴にして笑う。確かにその通りかもしれない。
客観的に見て笑いながら暴力を振るうアリス姫は正気には見えない。日本全国に蔓延している『囁くもの』に影響された被害者と同じ言動なのだ。
だが、アリス姫は死傷者も重傷者も出してはいない。
「死ぬまで追い詰める正気のお前と、我慢できずに殴りかかった発狂した俺。どっちがキチガイなんだか」
「俺の責任だとでも言う気か? 勝手に死んでおいて、俺が殺したとでも?」
「ありゃ自殺だったか。可哀想に」
そう言って同情的な目でアリス姫は生前の同僚を見た。自殺した女性社員を。
「ヒッ」
「顔がぼやけてるな。俺が覚えてないせいか。名前は分かるか?」
「分かりません。あの、少しは申し訳ないとか思わないんですか?」
「俺が? 何でだ?」
「何でって……」
既にアリス姫は魂の牢獄を掌握仕切っていた。過去のトラウマを再現したに過ぎない世界などアリス姫にとって大した脅威ではない。
そもそもアリス姫のトラウマは同調圧力に屈して加害者の一味に加わってしまったことであり、同僚の自殺を防げなかった事ではないのだ。一度も話した事のない人間へ罪悪感を覚える程、アリス姫は繊細ではなかった。
「俺は別に博愛主義者じゃねえしな。陽子に対する負い目と比べりゃ関わりのない同僚に今更、出てこられてもな。アンタも俺なんか覚えてないだろ」
「そ、そうですけど」
「ほら。恨むなら対象が違う。上司の所にでも行けよ。アンタ、実は本物の死霊だろ」
そう言ってアリス姫は現世を彷徨っていた同僚を見た。得体の知れない眼差しに女性は震え上がった。
「ガチの邪神と通じてる人間の許へ死んだからって気軽に化けて出るなよ。俺以外だったら、後悔してたぜ」
「ご、ごめんなさい」
慌てて消えた女性を見てアリス姫は嘆息した。
心の底から自分は人でなしなのだと理解したからである。
前田孝の時代からアリス姫はただ人らしいだけの化物であった。




