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偶像の叫び声9/八咫烏9

 八咫烏のセイに敗れた後、拓巳を救ったのは母親である前田祥子である。強化された鋭敏な五感は濃霧の中だろうと拓巳とセイの二人を発見することを可能としたのだった。二人を発見したのは拓巳が倒れるまさにその瞬間であり、間髪入れずに祥子は走り出していた。

 エナジードレインで増幅された身体能力でセイに一直線に突っ込んだ祥子はただ一度、拳を振るった。

 顎先に掠るだけで真面に当たりもしなかった攻撃に嘲るような笑顔を浮かべようとしたセイはカクンと真面に立てずに崩れ落ちた。


「脳を揺らした。寝ていろ」

「ぐっ……ガァッ。あ……お……」


 中国拳法の達人である祥子でもセイを中心に植物が軒並み枯れ落ちていく現象には対応できず、チッと舌打ちをして拓巳を担いで逃亡する事になった。

 これが拓巳の体験した八咫烏事件の全貌である。


 霊障で倒れた拓巳が以後の結末を知る術は普通に考えたらないだろうが、そこは歴史に名を残す可能性を持つ霊能力者。千里眼で意識がなくても知覚する事は十分可能であった。だから知っている。一人の少年が浚われた少女を見事に救出して脱出したことも、代償と言うかのように虚空に消えてしまったことも、八咫烏の少年少女が怪物に変貌していく様も、解放された魂が天に昇っていく様も、悲しそうに彼らを滅ぼしたアリス姫の事も。拓巳は知っているのだ。


 全て拓巳が勝利していれば覆せたはずの事態であった。

 拓巳が手を抜かなければ起こらなかった悲劇であった。


「お前のせいじゃない」


 拓巳を背負って走る祥子が独り言のように話した。現実ではなかった言葉だ。


「成るべくして成った。お前が背負う事じゃないさ」

「ですが」


 身体が自由に動くようになった事に気付いて拓巳は喋った。


「どうにか出来た。どうにか出来たんです」


 拓巳だけはそうだと知っている。どうしようもない悲劇ではなかったのだと知っている。

 既に八咫烏は手遅れな程に破綻していて、だけど必死だった。必死で足掻いて抗っていた。決してどうしようもない程の悪人でも、救いようがない愚かな人間でもなかった。

 そこには時代に翻弄された、ただの若者の姿があった。


「私なら、何とかなった」

「ああ。そうかもな」


 でもな、そう祥子は拓巳の自責の念を否定する。


「お前が苦しむ必要はないんだ。拓巳、逃げても良い。逃げても良いんだよ」


 その言葉は前田祥子の本心だ。例え現実でなかろうと夢のような世界の言葉だろうと、確かな熱意が籠もっていた。

 拓巳は母が心霊事件に関わることを内心では良く思ってない事を悟っていた。

 この世界は拓巳の記憶から構成された心象世界だ。拓巳の観測した人々が忠実に再現されている。


 夢の中の前田祥子はあまりにも拓巳の母を完璧に模していた。拓巳を苦しめる魂の牢獄とは現実そのままの姿をしていた。

 現実こそが拓巳にとっては悪夢そのものなのだ。


「女の子が泣いてるんです。気になってしまって、このままでは落ち着かない」

「そうか」

「はい」


 前田祥子は背中から何時の間にかいなくなっている拓巳に気付いて足を止めた。

 消えていく世界の中、ただ言葉だけが残った。


「少しくらい迷えよ……」


 それはあまりにも弱々しい声であった。

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