八咫烏4
「クポポッ」
「わ、駄目だってコティン。しー」
「ラァユゥ……」
橘翔太は廃墟となった豪邸の中を密かに箒に跨がって飛翔していた。浚われたマヤちゃんという幼い女の子を捜索中なのだ。
誘拐したのは幽霊や怪異なんかの超常存在ではなく生きた人間らしいが、相手はどうやらオカルト能力者で警察に通報しても対処は難しいだろうという話だった。そこで偶然、稲荷の会に遊びに来ていた橘兄弟が協力することにしたのだ。
濃霧の中で寒いだろうと兄から被せて貰った焦げ茶色のコートのポケットの中に入っているコティンも一緒に。
霊能結社である稲荷の会に遊びに行く前、橘兄弟はワンダーランドのバーチャル界に妖精を見に行った。そこで翔太は妖精達と仲良くなったのだが、幼い妖精であるコティンが付いてきてしまったのだ。気が付いたのはお腹が減ったとコティンが翔太の鞄の中で暴れてからだった。
その時にはもうマヤちゃんを捜索しに車に乗り込んだ後であり、透お姉さんが持っていたオヤツを与えて大人しくさせる事しか出来なかった。
兄である冬木はバーチャル界からバーチャル力を消費せずに外へ出たコティンに難しい顔をしていたが、今は気にしている場合じゃないと何も言わなかった。
「でも、意外と気付かれないね。この濃霧もアイツらが出してるらしいのに」
人は前後左右には気を配るが真下や真上は死角になりやすい。
溶岩を撮影していたカメラマンが気が付けば足を焼かれていたり、鍾乳洞を探索中に水滴が旅行客の首筋に落ちてきただけで過剰に驚いたりするようなものだ。
八咫烏もまた悪霊を使役しているとはいえ人間の感覚で警戒網を敷いている。廃墟の天井スレスレを飛行移動する存在など想定してはいなかった。
故に翔太は八咫烏の意識の隙を突き、浚われた少女を見つける事が出来たのだ。
「君がマヤちゃん?」
「だあれ」
泣いていたのか真っ赤に腫らした目尻を服で拭いて少女は顔を上げた。
そこには彼女の読んだ絵本に登場するような箒に乗った少年と妖精の女の子がいた。
「只の魔法使いさ。君を助けに来た」
眩しい笑顔に少女はもう一度、涙腺が緩んだ。
ここできっと物語ならばハッピーエンドで幕が下りただろう。だが、そう上手くは行かなかった。
八咫烏は少女の膨大な潜在能力と過去の栄光を思い起こさせる強力な御守りを無策で放置している程、優しくも愚かでもなかった。
オウムの動物霊を警報装置として少女の体内に忍ばせていたのだ。
最下級の浮遊霊であり、何の効果も及ぼすことは出来ず、後遺症も特にないような無害な霊だ。
その希薄過ぎて霊視能力者でも気付かないような動物霊は翔太達が部屋を出ると想定通りの効果を発揮した。
【キミヲタスケニキタ! キミヲタスケニキタ!】
「急いで逃げてっ。気付かれてる!」
「え、何で」
「いいから早く!」
「分かった。飛ばすから、しがみついていてね」
廃墟の中に響く八咫烏の足音に翔太は最高速度で箒を飛ばした。
彼の要請に周囲にいる風の精霊が軒並み集まっていく。
途中の邪魔な窓を暴風で吹き飛ばして、バルコニーから翔太は少女を連れ去り空を飛翔した。
逃亡が失敗したのは運が悪かったとしか言いようがない。
拓巳との戦闘で消耗したセイが拠点に帰還するルートと翔太が逃亡するルートが偶然にも交差してしまったのだ。
高速で飛行する翔太を遠方に発見したセイは空中に使役する悪霊を配置して即席の罠を作り上げた。
その罠は霊視の出来ない人間には不可視の網として効果を発揮し、翔太にも高速飛行に怖がって目をつぶっていた少女にも発見は出来なかった。
「あっぶねえな。霊能力が欠片も無い少年に出し抜かれるとこだったぜ。空中飛行とかどんな原理なんだよ」
何かに足を捕まれた翔太はぼやくセイを睨み少女だけでも助からないかと周囲を見回して、遠方にこちらに走り寄ってきている前田祥子を発見した。
「マヤちゃんをお願い!」
拘束されているのは自分だけだと理解した翔太は自ら箒から滑り落ちると風の精霊に少女を遠方の女性にまで届けるよう頼んだ。
移動ルートを任された風の精霊達は目の前に広がる悪霊の網を潜り抜けて少女を運んでいった。精霊は自然の化身であり、遙か彼方から人間と共存している。人間の成れの果てである悪霊を精霊は人間の親戚くらいにしか思っていない。
鮮明に見えすぎて人間との区別が付かないレベルで精霊には幽霊の姿が見えているのだ。
「あ、くっそ。やられた」
出し抜かれたセイは遠方に見えた女性を睨むと携帯を取り出して仲間と情報共有し始めた。
ここでセイが翔太に追撃をしなかったのは子供だと侮ったのか、霊能力を持たない人間を無意識に軽んじたのかは分からない。
だが、翔太へ思考できるだけの猶予が与えられた事実に変わりはなかった。
ここで箒に乗った少女を運ぶ為に付近の精霊が軒並み動員されていなければ未来は変わったのかもしれない。
そんなIFを思わずにはいられない程、これからの少年の未来は波乱に満ちていた。
「シャガウ」
「っ! コティン、君は確か転移が出来たよね!?」
「ズィヤーゼ?」
「お願い。ここから僕を遠くに連れて行って!」
前田祥子の元に少女が辿り着いたのを確認すると、そう少年はSCP-007-AW-時空妖精に頼んでしまったのだ。
「クポポペウパラスズィーヤーゼ!」
時空妖精コティンは笑顔で少年を遠く離れた世界に飛ばしたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
「妖精と思われる十センチ程の人型実体を発見しました! 時空歪曲の原因かと思われます!」
【カバーストーリー『ガス漏れ事故』は適応されています。周囲の人払いは完了していますから慎重に対応を。そのオブジェクトを見てどんな感情を抱きましたか?】
「可愛いとは思いますが危害を加えられない程ではありません」
「まて、少年と一緒にいる。被害者が既にっ」
「落ち着け。少年も含めての異常存在かもしれん」
見知らぬ地にて完全武装をした兵隊に囲まれた翔太はコティンを守る為に魔法を使用した。
その姿を見て、彼らSCP財団は翔太を現実改変者だと見做した。
殺害されることこそなかったが、翔太は記憶処理を施され別人として生きていくことになる。
これが後にKクラスシナリオを覆した男の始まりの記録である。その傍らには今も一人の妖精が共にいるという。
ノイズで少年が妖精を何と呼んでいたのか報告書とテープレコーダーからは正確には分からなかったが、男は時空妖精をティンカーベルと名付けて可愛がった。兄に渡された萌葱色に変色したコートを羽織り、男は今も世界を守っている。




