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そうとも、世界は美しい。

作者: 華錐

短編小説以下のSSをまとめたものです。




 好きな人ができたんだとか、お前のことはちゃんと好きだったとか、お前は一人で大丈夫だとか、これからは友人としてよろしくだとか。

(もうたくさんだ!)

 なんて身勝手なあの野郎! 私は自分のコンパスの短さを呪いながら駆け出した。風を切り人とすれ違い、食いしばった奥歯で苦い苦い感情をこれでもかと噛み潰してもなお消えぬ胸の不快感を、手足をより速く動かすための原動力に換えて走り出した。はためく襟が頬を叩いては落ち着けよと宥めてくるのがただただ鬱陶しくてたまらない。さっきまで大人しく私の首元に収まっていたくせに、こうなった途端慰めに回るだなどと手のひら返しも良いものだ。私が選んだ私の服の襟なのだから、私ではない人間の頬を叩いてみせてほしいのに。吐いた息の熱さに腹の底がドウと唸る。消化された昼食が胃の中ででんぐり返しをしては食道へ出戻りそうなのを唾を飲み込んで押し流してやった。

 ああ、なんと憎らしい! いっそチーターにでもなってやりたい! そうすれば風より速く時より刹那にこの雑踏とした都会から抜け出せるというのに! 隣にいた存在の名残ばかりに満ちた世界から抜け出せるのに!

「──じゃあな。幸せになれよ」

 くそったれ! こんな世界で死んじまえ!




 空を食べたい。その衝動はふつふつと私の胸を湧かせて止まない。

 空を食べたい。青く澄み渡る晴天にパチリと泡が弾ける雲を一緒に喉へと流し込んで、爽やかに弾ける夏を味わって舌先に残る痺れに微笑みたい。

 空を食べたい。少しだけ苦くて少しだけ切ない味のする夕焼けの赤い空を舌ですくって、歯の一本一本にさえ味あわせるかの如く口内で溶かしてとろけさせて、そうしてだんだんと味をなくしていくのに寂しさを覚えながら飲み込むのだ。

 空を食べたい。黒々とした夜空の大人の味に背伸びをして、金平糖のような舌触りの星星を奥歯で噛み砕きながら、時折月光のシロップを唇に塗ってはそれを舐めながら飲み干して。

 空を食べたい。そうして人間でも動物でも生き物でも、何でもないものになってしまって、私はあの人の瞳の光彩になるのだ。空を眺めるのが好きなあの人の目に。




 さあさあどうした、吟味吟味! 古今東西より収集せし数々の逸品たちさ! 見るもよし飾るもよし食べるもよし焼べるもよし! 購入者のお気の済むままお気に召すまま、お好きなように可愛がってやってくださいよ!

 前列に並ぶは東洋の品、右から「鬼の欠伸」、「狐の頬紅」、「天狗の扇」、「天女の涙」! どれも恐山印の霊験あらたかな逸品だよ!

 おっとよく見て触れてくれるかい、その奥に鎮座したるは西洋の商品だからね! 左から「龍の息吹」、「世界樹の種」、「人魚の口紅」、「エルフの宝珠」! もちろん、その蓋は家に帰ってから開けてくれよ? 何が起こるかはお楽しみだ!

 一番奥に置かれているのは、今日一番の目玉商品! 汗水に血を垂らし苦労に苦労を重ねて手に入れた、この世に二つとない大変貴重な絶品だ!

 ──そこの君、そう君! その幕をとっぱらってみちゃくれないかい。それがお代さ。金でも物でもなんでもない。君にはそれが相応しい。さあどうだい、ちょいと布を剥ぎ取るだけさ。安心しな、突然剣が降ってきたりとか火を吐いたりなんてしないから。ただ少しだけ乱暴で、少しだけ子供なんだ。生き物なのかって? ああ、ある意味そうである意味違うな。半分正解で半分当たりってところだろう。君にはそれがなんだかわかっているはずだ。恐れることはない。布を引けば終わるのさ。怖がることはないよ──そう、覚悟をお決め。これでようやく、君は空白を埋めるんだ。ずっと探していたんだろう、ずっと求めていたんだろう。君が喉から手を出して出しすぎたせいでもんどり打って飛び出た欲望はそれに張り付いて離さないはずだ。さあ、さあ、とくと御覧じて、さあ、さあ──ああ!

「ありがとう。そしておはよう」

 胸に残った寂しさ一つ。お代はちゃあんと、頂いておくよ。




「私は、私はね、あなたに従事する僕ではなく、あなたの靴を揃えて玄関先で馬車を持って待っている紳士でもないのだよ」

 男がそう言うと、女は痛ましげな顔をした。それがフリだけと男は知っているから、むしろその表情を革靴の先で蹴り飛ばすように声音から温度を引いていく。冷たく冷たく引いていく。限界まで冷たくさせて、その温度で自分の心までをも凍らせるのだ。

「あなたは私を愛していると言ったね、これ以上ないほど愛していると言っていた。だが私は知っているのだ。あなたは牛の胃のようにいくつも心を持っている。そのうちのたった一つぽっちで私を愛しているに過ぎなかったのだろう。他の胃では私の知らない好物をどろどろに溶かしているのだろうね」

「そんな、そんな」

「ああご婦人、あなたは罪深く身勝手で残酷で理不尽なお人だ。だからこそ私はあなたを愛さずにはいられない。強すぎる光は己の毒と知りながら、それでも寄り添い緩やかに死を迎える害虫のように」

 伸ばされた手を叩いて振り払うと、とうとう女は泣き崩れた。そこでようやく男も幾分と悪いことをした気にはなって、だが振り払った手で肩を支え拒絶した口で慰めを告げることも躊躇われて、まだ若い顔のまま疲れきった老人のような溜息をほうと吐き出した。

「然様ならば、仕方がないのだ」

 ああいっそ殺して、と女は言った。だから男はその肩に己の上着を着せて、冷たくも出来うる限りの優しい言葉を吐き捨てて、目の前で靴音を立てて扉を潜り去っていった。そして男の愛した女は死んだ。男の残したすべてを棺桶にして、女は醜く死んでいったのだ。




 あいつときたら、まったく腹立たしいもので、いつどこで何をしていようと声をかけては、おおい、おおいと邪魔をするのだ。思考も行動も言葉も、そのせいでいつも一拍遅れる。このやろう、邪魔をしてくれるなと頭を振り首を振れどそこから出て行く様子はない。永住でもする気か、金を取るぞと言えば金欠なのだとへらへら笑う。だが時折じっと押し黙っては何故か不安にさせるのだ。だからといって何でもいいから喋ろと言うと、これまた口喧しく喋り倒すのだからたまったものではない。笑っているのだ。頭をかきむしってベッドでもんどり打って悶絶して、何度空白の時間があろうとも最後の最後にはあいつを思い出さずにはいられない私を。朗らかに爽やかに笑っているのだ。記憶の中の自分に翻弄される私を。

 ああまったく、鬱陶しくてたまらない。本当に。ああ、本当だとも。

「これが恋だと誰が呼んだか!」




「ショパンが好きかね。結構なことだ」

 古めかしいレコードがノイズ混じりに吐き出す独奏曲に合わせて彼はしきりに指を振っていた。しかし指揮者というよりはやはり学者っぽさが抜けないのは、どうしても僕の中では彼と指揮者とがイコールで繋がらないからだろう。あとはその指先がインクで黒ずんでいるからだ。時折レコードを並ばせた棚を一瞥しては鼻を鳴らすなどする碧眼を見て問う。

「先生はお嫌いですか」

 ほう、と彼は言った。怪訝な表情で片眉がひょいと上がる。昔から彼はよく表情筋の動く人だった。学会では密かに百面相と噂されているのはまだ彼は知らない。

「そう訊ねられたのは初めてだよ、ミスタ。どうしてそう思う?」

「なんとなくです」

「なんとなく、なんとなくか、そうか」

 彼は口の中で何事かを呟いて、好きでも嫌いでもない料理が食卓に出されたときのような顔をした。綺麗に整えられた眉が忙しなく上下している。逸らされた視線はやはりレコードに注がれていた。

「私は、そう、一等の芸術は、論議だと思っているのでね。音楽だ、ましてや、ショパンだなどとは」

 まるで言い訳じみている。

「なるほど。結構なことです」

 彼の口癖を真似て言うと、拗ねた顔をして珈琲カップに手を伸ばした。空になった中身とこちらとを見比べる様がおかしくて、ようやく僕は笑顔を作った。




 「月が綺麗ですね」と私が言うと、彼女は照れくさそうに微笑んではきゅうと竦めたまあるい肩を私の肩にそっと合わせた。彼女はどこもかしこも丸いけれど、そうされた肩は愛しいほどにまた丸い。

「月など、先生としか見上げた試しはありませぬ」

 ああなんといじらしい。ほっそりとした項まで紅をつけたように赤くする彼女にたまらなくなって抱き寄せた。女の匂いというのはどうしてこう心を甘く穏やかにさせるものだろう。首筋に埋めた鼻筋を通る優しい香りは、淡い月光の下ではとても貴く美しいものに思える。事実彼女は美しかった。私が知るこの世の何よりも美しかった。

「では、次にお会いした日の月が美しかったならば、あなたを迎えに行きましょう」

「ええ、ええ、先生。月を見て、お待ちしております」

「それまでは、まだ、届かぬ月でいてくれませんか」

「ええ。今宵までは、月が沈むまでは」



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