出会い
習作につき誤字脱字かなりあるやもしれません。
時代や舞台もふんわり知識なんで、ゆるゆる読んでいただければ幸いです。
なんでも大丈夫という方は、よろしければお楽しみください。
1
1962年、11月21日。
その写真の裏に日付が記してあった。
今では一枚しか残っていない母の写真だ。終戦後、日本に駐在していた米兵の父と小料理屋の娘だった日本人の母との間に出来た子供、つまり私の母は、生まれたときから波乱の人生を予言されていたかのように1946年7月4日、フィリピン共和国成立とともに産声を上げた。
この写真では、16歳の母が女学校の制服を着て慎ましく立って居る。
お下げは明るい茶色、まっすぐレンズを見据える大きな青い目、隣に立つ青年の肩まで伸びきった背。父親に似たその容姿は、アメリカ人の父が帰国した後、災いの元とされた。
とにかく周囲の人間は彼女を無視することに決めたそうだ。混乱のさなか祖父宅に預けられた彼女は十五の歳まで一日三言以上話したことがなかった。母の実家は、その排他主義で持って永く乱世を切り抜けてきた。そして、それは母に対しても同じだった。異国の男との間に出来た外国人のような姿の子供は彼らにとって不必要な存在だった。一族中の偏見と無視という暴力の渦中にあって、彼女は自分を預けたきり戻ってこない母親を待ちつづけた。
そんな中、一族の中で母に唯一関心を向けたのは、母の従兄だった。彼は彼女の美しさに心を奪われ、周囲の反対をものともせず、彼女を許婚に決めた。彼女の意思も聞かずに、一方的に決めてしまった。彼女は彼に心から感謝していたが、愛情は抱けなかった。彼女は傲慢で相手のことを省みない彼の性格を恐れていた。
そんな時、カメラに夢中なある青年が彼女の目に現れた。カメラ青年は彼女の美しさに一目惚れしてしまった。人生を通じての被写体は彼女しか居ないと、すぐさま彼女に伝えに行った。彼女は、始めは自分の嫌いな容姿を好きなカメラ青年を嫌っていたが、彼はその優しい心で彼女の頑なな心を溶かして包み込んだ。彼女はいつのまにか、カメラ青年と恋に落ちた。
その写真を撮った翌日、彼女とカメラ青年は駆け落ちした。
仏前に母の好きだったカステラを供え、みちるは手を合わせた。母が亡くなってから今年で五年になる。32歳のあまりに短かった彼女の生涯は、まさに波乱としか言いようがなかった。
後にみちるの父となったカメラ青年との蜜月は、あまりにもわずかだった。
父は、深く母を愛していたのだろう、彼女の死後に人の写真を撮ることは無くなった。家中に飾られていた彼女の写真も、総て無くなった。責め立てるみちるに彼は一言、「見るのが辛くて、燃やしてしまった」とだけ呟いた。
母が亡くなったとき、みちるは10歳だった。記憶の中で美しい彼女がどんどん色あせていくのをみちるは恐れた。毎晩のように見ていた母の夢も、中学に上がる頃にはすっかり見なくなっていた。
しかし、みちるは鏡を見れば母を思い出すことが出来た。
明るい栗色の長い髪、瞳は黒にも見える深い青、背丈は高く足が長かった。母ゆずりの容姿は、かえって父を遠ざける結果になり、母が父に出会った歳に近づくにつれ、父はみちるを見なくなった。代わりに酒と深い眠りの中に愛する人との思い出を求めていた。
みちるの通う女子高は、時代の残した女学校のスタイルを保っていた。裁縫も然り、必須教科だった。
「みちる、ダサイわ。その割烹着」
「割烹着にダサいもナウいもあるもんですか」
みちるは息を吐いてクラスメイトに向き直った。この加恵は、みちるの遠い親戚にあたるのだが、みちるの容姿を嫌ってか衝突する場面が目立っていた。
「何ですって、駆け落ちした女の子供のクセに、生意気よ」
「それと何の関係があるのか、はっきり説明してごらんなさいよ」
まさに加恵とみちるがつかみかかったとき、オールドミスの教師がつかつかと足音を鳴らして来た。
「まぁまぁまぁっ、黒田さん、呉川さんっ、なんてはしたない!」
加恵とみちるは、そのまま廊下に立たされた。両手のバケツが、重い。
「どうして、私まで、こんなことしなくちゃ、ならないのよっ!」
またお嬢様育ちの加恵の口上が始まった。みちるは耳をふさぎたい衝動に駆られたが、両手に水の入ったバケツを持っていては、それも無理な話だった。
「いい?出自の知れない貴女とは違って、黒田家の嫡流である私は育ちが違うの。貴女が主婦の店で売ってる安物のメロンだとすると、私は桐の箱に入った高級メロンなの!」
「味にあんまり変わりないわよ」
「黒田家を甘く見ないでちょうだい、古くは甲斐源氏の流れを汲むといわれ、数々の時代の奔流にも勝ち残った武将の血が流れているのよ、どこぞのお国の血が混じっている貴女とは違うの!」
最後の一言で、ついにみちるの堪忍袋の緒が切れた。右手に持っていたバケツを振り上げ、残さず加恵にひっかけた。
自慢の黒髪が濡れて顔に張り付き、海から上がってきたような様子の加恵は、何が起こったのか分かっていなかったようだったが、しばらくして事態が飲み込めると自分のバケツをみちるに投げつけた。
バケツはよけたものの、やはりみちるも水浸しになり、二人の争いはもう一つのバケツを掛け合ったあと、手洗い場まで向かい白熱した。
「と、いうわけでお兄様。来て頂けるかしら?」
そう言って加恵が家に電話をかけてきたのは、今月に入って二回目だった。まだ五月は六日しか経っていない。今日は何かの用意に忙しく、女中が全員外出していて、家に残っているのは兄の龍一郎だけだったからだ。
龍一郎は自宅の外車を女子高の前につけて、ため息をついた。
どうして加恵はこうも問題を起こすのが得意なのだろう。よりによって、毎回同じ相手ときてる。
親父の憎む呉川の一人娘。また、親父の生涯唯一愛した「黒田沙羅」の娘、呉川みちる。
この前に会ったのは五年前、彼女の母親の葬儀だった。小さな両手で母親の遺影を握っていた。青い瞳の奥には決意の涙が滲んでいた。耳元で親父が「あの娘は将来、器量良しになるぞ」と、呟いていたのを覚えている。彼女の頭上では薄紅色のハナミズキが満開に咲き誇っていた。
「黒田です」
龍一郎が職員室を開けたとたん、加恵が泣きながら飛び込んできた。数十秒前までは涙の一粒もこぼしてはいなかったので、みちると女教師は冷めた目でその場面を見ていた。
「お兄様、ひどいのよ、みちるったら私にバケツの水をひっかけたのよ」
そう言って自分の髪を主張して見せる加恵は体操服に着替えて、髪も少し濡れていたものの、殆ど乾いていた。
そのまま視線を真横に移すと、そこにみちるがいた。
替えがなかったのか、教師らが加恵を優先したのか、みちるはまだ濡れた制服のままで、裾から雫が滴り落ちていた。茶色の髪を編んだ三つあみからも雫は零れて、おちる。
しばらく雫の辿ってきた道筋を見つめていた龍一郎には、あの時と同じ、深い青の目に決意の光が見えた。それだけで、彼女から謝罪は無いことが理解できた。あれは、自分が悪いとは微塵も思っていない目だ。
「呉川、みちる?」
「ええ、そうです。」
ぶっきらぼうにみちるが言い放った。それだけ言うと、次の言葉を待たずそっぽを向いたみちるに、龍一郎はにわかに興味を持った。今まで黒田の家のせいで、龍一郎にそのような不遜な態度を見せた女はいなかったのだ。大抵は見つめられるとはにかんで微笑むか、視線を合わせられずにうつむいてしまう。
この僅かな間に気付いた事は、みちるは龍一郎を全く恐れていないということだった。
「妹が、君に何かしたのか?」
「少し、口論しただけです」
「口論で濡れたりしないだろう」
「加恵…さんの言葉に、腹が立って水を引っかけたことは認めます。でも、私は加恵さんが私に謝ってくれるまで、謝りませんから」
これには龍一郎より、周りの教師陣が青ざめた。黒田家の代表に対して、見事なまでの啖呵をきったみちるは、命知らずとしか言い様が無かった。
「加恵が何を言ったか、聞かせてもらおうか」
「それは加恵さんに聞いてください」
「君がいいたまえ」
龍一郎とみちるの口論が始まり、周囲の誰もが固唾を飲んで見守るよりほかなくなった。
「なぜですか?」
「どうせ、その髪か青い目のことを言われたんだろう」
みちるはとっさに反応した。
鋭い平手打ちの音がこだました。
「あ、あなっ、あなった…呉川さん、何てことを」
戦時を生きたオールドミスの教師にとって、黒田の人間に手を上げることはあってはならない行動であった。教師がみちるの無事を望み、神に祈りだした。
「兄様!!!」
加恵が飛びつくように龍一郎に張り付いた。龍一郎は全く動かず、表情一つ変えていない。みちるは、何故か敗北を感じた。
「私、謝りませんから」
その言葉に、少しだけ龍一郎が眉を上げたのを見逃さなかった。
「期待しておく」
何を?
みちるが胸中で呟いているうちに、龍一郎は加恵に引っ張られるようにして出て行った。
黒田龍一郎。名家と名高い黒田の嫡男。十九代目当主黒田誠二郎の自慢の息子。表向き今は医学生だが、現在では殆ど黒田を裏で牛耳っている男。
みちるは、黒田の家とは縁を切られているが、血がつながっている。母、沙羅が黒田の娘だったからだ。誠二郎は沙羅の従兄にあたる。そして、婚約者だった。
誠二郎との結婚を嫌い、沙羅が貧乏なカメラ青年の呉川と駆け落ちしたのは一族中の嘲笑を買ったらしく、誠二郎はひどく呉川を憎み、沙羅を黒田と切り離したが、今でも彼女の命日には墓に参っていることを、みちるは知っている。
だからこそ、みちるは黒田が苦手だった。
「ただいま戻りました」
みちるが家に帰った途端、引越しの準備が整えられていた。箱の中に見慣れた服や本が詰め込まれている。お気に入りのぬいぐるみも入っている。
それも、すべてみちるの荷物だけだった。
「お、お父さん、これは…」
庭でパイプをくゆらす父親を見つけると、みちるはへたりこんだ。
もう私の顔が見れなくなって、とうとう追い出されてしまうのだろうか。
「お前と黒田の結婚が決まった」
父親はにべもなく言うと、またパイプを咥えた。
「く、黒田…?」
「知ってるだろう、黒田、母さんの実家だ。そこの長男、黒田龍一郎との結婚だ」
みちるは意識を失いそうになった。が、ここで失神するのは得策ではないと判断し、なんとか持ち直したが、頭の中が回っていた。
「い、いつ、決まったの?」
息も絶え絶えにみちるは言葉を吐き出した。例え、父親がすることでも、これはひどすぎる。
「今朝、黒田誠二郎が息子の龍一郎を引き連れてやって来た。」
「どうして受けたの?」
「黒田に嫁げば、沙羅の名誉が回復するだとよ」
「ねぇ、どうして受けてしまったの?」
「勝手にしろ、どうせどこかに嫁に行く身だと、言った」
みちるは足が動くままに走って、家を飛び出した。
「お前を見ると、もう、沙羅が居ないことを思い出して、辛いんだ」
無心に走るみちるに、父親のすすり泣きは届かなかった。
しばらく走ってから、行く当てもないことを思い出して、みちるは足を止めた。
黒田龍一郎、今日初めて会った、あの鼻持ちならない、傲慢な男。あんな男と結婚するくらいなら尼になったほうがいい。
このお寺は尼さん専用なんだろうか、別に男用でも構わない。
みちるはぼそりと一人ごちると、勝手に寺の中に入っていった。立派な門構えとはうらはらに、石畳の奥に小さな本堂がぽつりと置かれていた。人の気配は無い。
「ここは、出家できないみたいね」
にわかに自分の考えがおかしくなり、みちるは空を見上げて笑った。空のほうが今にも泣き出しそうな鈍色だったが、みちるはまだ笑っていた。
「あの、何か御用ですか?」
しまった、お寺の人だ。
みちるは、おそるおそる振り返る。さすがに、出家したくて勝手に入ったとは言いづらい気がしたので、とっさにウソをつこうと決めた。
「か、観光で?」
そのまま、みちるは向かい合った人間から目が離せなくなった。
顔中に微笑を浮かべている、その人は、みちるよりもはるかに背が高く、頭のてっぺんが朝日のような色の髪に、薄い茶色の目をしていた。
「ここ、外国の方専用のお寺?」
別に外国人は珍しくないが、寺で見たとなると話は別だ。まさか住職希望の外国人がいるなんて思わなかった。
相手が大笑いしたので、みちるは怪訝そうに眉を寄せるしかなかった。
「違う、違うよ。」
彼が身振りで服を指したので、見てみると、確かに袈裟は着ていない。
「寺の者じゃなくて、ここで下宿させてもらっています。」
「下宿?」
「大学に通う間、住むんですね」
「それは分かります。どこの大学?」
「すぐそこの。医学部です。」
黒田龍一郎と同じ大学、学部だった。みちるはにわかに胃痛を感じた。
「日本語お上手ですね」
「ありがとう、貴女も」
みちるはこの一言も聞き逃さなかった。自分の容姿で判断されるのは、みちるのプライドを根幹から揺さぶられるのと同じことだったからだ。ただし、そこで自分の自尊心を守るために必要以上に攻撃的になることにも気付いてはいたが、どうしようもなかった。
「私、日本人です」
厳しい口調で言い放ったが、相手は少し目を丸くしただけで気にしてはいない様子だった。
「それは失礼、日本のお嬢さんで僕と目が合う人はいなかったから」
「友達、いないの?」
みちるはまだ少し怒っていたので、横柄な口調になってしまった。
「国に帰ればいますよ、たくさん」
「でも、この辺は保守的だから大変でしょう?」
排他主義の黒田が古くから治めていたこの土地に住みにくいことは、みちるが肌でもって感じていたことだった。自分たち以外の人間がこの地に入ってくることを穢れとして、ひどく忌み嫌っている。それは他の国となれば尚更のことだ。
「あはは、大丈夫ですよー」
また満面の笑みを浮かべて、彼が笑った。不思議と、彼がそう言うと本当に大丈夫そうに聞こえてきた。
「ところで、お嬢さん、迷ったの?お家までお送りしましょうか?」
みちるは目の前で手を振った。年齢に合わない子供扱いは、彼女の最も嫌うところだった。
「結構です、それに私、家に帰れなくなったんじゃないわ」
「どうしたの?」
鼈甲のような明るい茶色の目は、不思議とみちるを安心させた。何でも話してしまいそうな気分になって、彼女はため息まじりに言った。
「親に勝手に結婚を決められたから、もう家には帰らないのよ」
「あらまぁ」
相変わらず相手の反応は軽い。
「『あらまぁ』どころじゃないわよ!しかも相手はすごく嫌な感じで、そんな人と結婚するくらいなら…」
「結婚、するくらいなら?」
「尼になったほうがマシよ」
また彼が笑い始めた。悦に入ったのか、笑い止むまでしばらくかかった。
「それでこの寺に来たんですか?面白いな、あなた」
「馬鹿にしてるの?」
みちるは不機嫌をそのまま顔に出して、両手を腰において仁王立ちした。この男の前では、常にこうして自分を大きくしておかないと、飲み込まれてしまいそうだった。
「いいえ、あなたの勇気、素晴らしいものです、でも」
「でも?」
「でも、それほどの勇気があるなら、婚約者の気を変えてしまえばいいのでは?」
「で?」
「そうですねー、たとえば貴女が結婚向きでないことを示すんですよ、相手に」
「結婚に向いてない?」
いつしかみちるは相手のペースに引き込まれていた。
「とにかく相手を失望させて、婚約を解消してもらったらいいかがです?もしも、次に結婚する相手が見つからなくても、仕事さえ持つなら、生きるは易いです」
「つまり、生きていけるってことよね。」
みちるはその場で考え込んだ。黒田の気を変えてしまえばいい?そんな簡単に言っても、どうして黒田が私を選んだのかもよく分からないし…。
そうだった。
目が覚めたようにみちるの視界が晴れていった。
「そうか、そうよね!」
みちるは手を合わせて男を見た。
「ありがとう、お坊さん」
「お坊さんじゃないですよー」
「私、どうして私だったのかも知らなかったわ、ちゃんと聞いて、お断りしてこなきゃいけないわよね。案外大した理由じゃないかも知れないし!」
言うが早いか、みちるは足早に寺を去っていった。
「タイフーンみたいだなぁ」
男は微笑みながらその後姿を見送った。
さらりとのびた茶色の髪の毛がかわいいお下げになって背中で揺れている。くるくる表情が変わるすみれ色の瞳。白い肌。顔立ちは少し東洋が混じっているようだが、彼はまるで同郷の人間に会うような懐かしさを覚えた。自分の肩まであった背も気にいった。
「さて、どこの子だろう」
彼はそういうと本堂にお参りをした。実は敬虔なクリスチャンであることは、この寺の住職には内緒にしている。
婚約者と話し合いがついて、また彼女に会えますように。
拍手を打ってから、彼は「しまった…」と呟いた。
そのまま家には戻らず、みちるは走りながらどこまでも続くような壁沿いに黒田家の門を目指した。母が亡くなってから、黒田の家には一度も訪れたことはない。とはいっても、その時でさえ父とみちるは黒田家の敷居を跨ぐことを許されなかった。
記憶にある門構えは、小さなみちるを圧倒させるに十分だった。
そして今、みちるはその門の前に立っている。
「どちら様ですか?」
じっと立ち尽くすみちるに、門番の男が聞いた。黒田の家には昔ながらの書生が二人居て、交代に門番など雑役を務めている。この男も若く、まだ大学で研究を続けている風で、あまり門番として威圧を与えるには不向きな容貌だった。
今なら引き返せる。みちるは自分に聞いてみた。私は、どうしたいのか。
心を決めたあと、大きく息を吸ってみちるは門番に告げた。
「黒田龍一郎に伝えて、呉川みちるが会いに来たって。」
それが伝わり、中に入るように言われるまで待つつもりだったが、名前を告げた瞬間門番の顔色が変わった。
「呉川、みちる様ですね!!!お待ちいたしておりました、中にお入りください。」
どうやら来る事が分かっていたらしい。みちるは真っ直ぐ家の中に案内された。玄関で既に息苦しいほどの歴史と風格を感じ、みちるは何処をどう進んだのか覚えていない。
奥の座敷に案内された。
だだ広い畳の居間に黒田龍一郎が一人で座して待っていた。ただ座っているだけなのに、その存在感はみちるを圧倒させた。
「遅かったな」
まだ襖の外側に立っていたみちるにそう言うと、手で人払いをした。
ああ、この人は生まれながらに「命令する側」にいる人なんだ。そう思うと急に対抗心が芽生え、龍一郎に対峙するように座った。
「どうして」
不自然な体勢では負けるかもしれないと、座りなおしてからみちるは言った。
「どうして来ると分かっていたの」
禅問答のような位置に、この質問。
わざと考え込む振りをして、龍一郎はみちるを観察した。
髪は乾かす為にほどいたのか、真っ直ぐな髪が背中に垂れている。そうしていると15には見えない。顔立ちも手伝って、既に成人した女にも見える。しかし、額に張り付いた前髪がほんの少し幼さを演出していた。赤い唇。どこをどうやっても誘う側に生まれついた女だ。それも知らずのうちに。
制服は乾いたようで良かった。あのままでは門番も動揺しただろう。
「普通、自分に婚約者が居ると知らされたら、会いにくるだろう?」
みちるはこの返答を気に入った様子ではなかった。
「父から聞きました。今日、家に挨拶に来たそうですね。では何故、午後にお会いしたときに何も仰らなかったのですか?」
この女は、苦手だ。一瞬で本能がそう判断した。
「あの場で言われるほうが良かったと?部外者も妹もいる前で」
これは詭弁に他ならない。そう判るとみちるはこの男に憎悪すら感じた。
「どうして、今日?」
「今日じゃない、黒田の方では以前からそう決めていた。君の父上とは何度も話し合っていた」
みちるは地面と龍一郎が揺れたように見えた。こんな場所で気を失うわけにはいかない。例え眩暈を感じるほど、生まれて始めての激情が湧き上がったとしても。
「おい、大丈夫か?」
「貴方に心配されなくても結構です」
「ならいい。」
みちるを婚約者にしろ、と言い出したのは父だった。
みちるの母の葬儀に参列した帰り、タクシーの中で黒田誠二郎は息子に耳打ちした。
「龍一郎、あの子はどうだ?」
「あの子とは誰ですか?」
父の手前、こう言ったものの茶色い髪の女子が頭に浮かんだ。目に滲む涙と引き結んだ唇が赤かった。
「沙羅の娘だ。遺影を抱いていたあの子。みちる、といったかな」
「亡くなった呉川の奥方に似ているそうですね」
参列者の話が嫌でも耳に入ってきた。自分の父親の話題でもあったからだ。こういう時だけは、自分の表情の乏しさに安堵する。周囲のあられもない噂話が全て理解できるのに一体どういう顔をすればいいというのか。
それとも、こういうことを考えているから「子供らしくない」と言われてしまうのだろうか。
「あの子は将来、器量良しになるぞ」
それは、外人の子だからじゃ…と言いかけて、当時の龍一郎は驚愕した。隣の父が慈愛とも自嘲とも似つかぬ笑みを浮かべ、煙草を燻らせていた。
「あの子はきっと将来、器量良しになる…」
そう繰り返す父の顔は、狂気そのものだった。
実際に計画が回り始めたのは一年前。みちるの父、呉川が話を持ちかけてきたのだった。亡き妻に生き写しのみちるを家に置いておくのは辛いので、黒田の家に引き取って育てて貰えないだろうか、と。父は快く承諾した。
ただし、嫡男、龍一郎の許嫁として。
予想外のことに呉川は当初は反対した。まだ若すぎることと、俗な疑惑が浮かんだせいもあったが、それは誠二郎には口が裂けても言えることではなかった。
渋る呉川に、「既に縁を切った沙羅の娘は黒田の娘としては育てられない、ならば息子と結婚させたほうがみちるの為になるし、黒田での沙羅の名誉を挽回できる」と説得し、三月経った後に両方の親が認めることになった。
その直後、父に呼び出された龍一郎はみちるとの婚約を知らされた。黒田の嫡男として生まれた時から、自由な生活は望めない事は分かっていたが14の娘と婚約しろと言われるとは思ってもみなかった。
「それで、相手は?」
「呉川みちる、一度会ったことがあるだろう。今は加恵の同級生だ」
妹の同級生と婚約。あまりにも幼さ過ぎる。
「加恵と比べないようにした方がいい。沙羅は14で既に私の背に追いついていた」
父の唯一愛していた女性の娘。自分は結局、黒田という地図の上の駒でしかないのだろうか。
「今は、結婚も婚約もする気はありません」
「お前の気持ちは分かる。まだ自由の身でいたいのだろう。」
自分の肩を掴んだ父の力はまだ健在であることを示していた。
「しかし、女性が大学に行ける時代になったからといって、そのような勉強をしている女との浮名を流させるわけにはいかん」
いつから自分は伊達男になったのだろうか。全く女性と接触が無いわけではないし、むしろ遊びは理解しているつもりで対応していた。ここでも、黒田の嫡男としての意識が先に働き、後々面倒になる相手は避けて通っていた。
「何か悪い噂でも?」
念のため父親に尋ねた。もしかすると親戚の中に耳ざとい者がいるのかも知れない。
「無いうちに型に嵌めておこうと思ってな」
その表情は読めない。龍一郎は観念し、うなだれた。
「せめて、相手が15になったら婚約しましょう」
まったく、厄介な問題を押し付けられたものだ。
「なんですって?」
確かに、目を見開いていても、彼女は加恵と比べ物にならないほど大人びていた。父が異常なまでに執着するのも理解の範疇にある。
ただし、外見が美しいからといって内面が美しくなければ意味が無い。
「だから、今日から婚約者としての作法などを身につけてもらう。ひいてはここから学校に通うように」
確かに美しいかもしれないが、彼女は女性として大きく足りないものがある。
「つまり、私は、今日から…」
「ここで暮すということだ」
「ふざけるなーーーーーーっ」
それは、彼が婚約者に求める第一条件だ。
「まず、君には礼儀正しい振舞いを身に付けてもらおう。近日中に。」
できるものなら、と龍一郎は胸中で付け加えた。
2
「始めまして、みちるさん。作法は私、黒田紀代が、基本的なものではありますけど、お教えいたします。みちるさんが黒田の一員となる時には、外でも恥ずかしくない位の礼儀作法は身につけて頂く必要がございますものね。それではまず、お作法の授業の前に、黒田の家について簡単にご説明差し上げますわ」
加恵の叔母にあたるその女性が朗らかな笑顔で語り始めた。その笑顔の裏にある感情が聞こえてきそうで、みちるは居たたまれず着物の裾を引っ張った。黒田の人間に、家出娘の娘が歓迎されるはずがないのに、それを押し隠して表面上優しくされるのは辛かった。慣れない正座で先ほどから足先の感覚が無い。作法の先生である加恵の叔母の目を盗み、みちるは足の親指を押して痺れを取ることに集中した。
「まず、黒田の始祖は古く甲斐源氏まで遡りますの。つまり、かの武田信玄とも先祖は同じだということですわ。」
こんな狭い国の中、突き詰めれば誰だって祖先は同じでしょう。そう言いたいのを堪え、また足の痺れに集中した。
「最近の話ですと、誠二郎さんの父にあたる黒田宗一郎さまが明治天皇の崩御の際に尽力されました。たいそう立派な方だったそうですわ」
黒田は明治以降、代々医師として身分の高い人々に仕えてきたそうだ。先の大戦で軍医として皇太子に付いた誠二郎の父同様、誠二郎も公家の専門医として往診し、龍一郎も医師を目指している。
「聞いていらっしゃいますかしら、みちるさん?」
これ以上、下らない黒田の話は聞きたくない。みちるは足も構わず立ち上がった。
「みちるさん?」
「足が痺れたので、休憩したいのですが」
感覚の無い足を引きずっているみちるに、加恵の叔母はあくまで朗らかな笑みを浮かべながら言った。
「あらそう、じゃあ五分後にもう一度座り方から始めましょうね」
「ええ。」
もう戻るつもりはないけれど。
座敷から逃げ出し、邸の中を歩き回ったみちるは、案の定帰り道が分からなくなった。人工池の鯉が何疋居るか数えていたら、池の広さと長さのため、自分の位置ですら分からなくなってしまっていたのだ。気が付くと、母屋からずいぶん遠くに来ていたらしい。林の中で何も出来ず佇むことになってしまった。せめて着物を三人がかりで着せられた部屋に戻りたかったが、それも不可能のようだ。さっきまで夕焼けだったのに、既に日が落ち、暗闇が忍び寄ってきた。
みちるは暗闇が嫌いだった。
こんなに暗くては、嫌なことを思い出してしまう。
遠くの暗雲から耳慣れない重低音が響いたときには、足が勝手に動いていた。みちるは何も考えず、とにかく一番近くにあった離れの部屋に飛び込んだ。
黒田の本邸には母屋のほか、茶室が一つ、離れが二つある。明治時代の主が愛妾二人のために作った離れだったそうだ。(そう聞いた時、とても元気だったのだろうなと思った)一つの邸には曰くがついている。
それまで本妻と妾一人、度量の大きな主人に平等に愛されていたが、ある日邸宅に迎え入れられた二人目の妾に、主人はすっかり溺れてしまった。生まれて始めての恋のように毎日その妾のところにばかり入り浸るようになり、仕事も何も放りだしてしまった。全く省みられなくなった本妻と妾は、ことごとく主人の愛妾を排除しようとしたが、主人の聡明さに打ち砕かれた。結局、嫉妬に狂った本妻が、妾の一人を薙刀で殺したそうだ。一目見ただけでは人と判別できないほど、残虐に。
それを加恵に聞いた時には笑い飛ばしていた。古い邸にはありがちな話だと、そう思ったからだった。
まさか、そっちのほうの離れじゃないわよね…。
みちるは胸中でひとりごちると、血まみれの美しい妾を想像した。きっと無念だっただろうと、後に人々が考え込みすぎたから、誰かが見た気になっただけだろう。努めて冷静に考えようとその場で立ち止まった。
光を採るために少しだけ開けていた障子が、閉まった。闇が広がる。
みちるは何もしていない。
背中が急に粟立つのを感じた。脳裏に血まみれの女がよぎる。私は愛人じゃないし、そちら側にも行きたくはない。みちるの叫びは声にはならなかった。
背後に何かの気配がする。
きっと彼女は血に塗れた手でみちるの肩をつかみ、暗い闇の中へと引きずり込んで復讐を誓わせるのだ。
濡れた手で肩を掴まれたとき、みちるは冥土を垣間見た。
「おい」
「…………っ………っっっ」
緊張の糸が切れた。家で飼っていた金魚のようにみちるは口を開閉していた。話したくとも声が出てこなかった。
「みちる!」
張りつめた声は、黒田龍一郎だった。額にかかる黒髪からいくつも雫が落ちていた。
「…………く、くくく」
「何、笑ってる」
「黒田龍一郎っ」
「婚約者を呼び捨てか、お前らしいが。」
見てみると、龍一郎はずぶ濡れだった。雨に濡れた体を見て、みちるは初めて若い男の体を意識した。
たったいま、黒田龍一郎と自分が違うことに気が付いたのだ。
「なんで濡れてるんですか?」
「雨だ」
どうやら雨宿りに来たらしいことはみちるにも分かる。普段誰にも使われていない離れに来るのは龍一郎にとっても珍しいことだったらしい。しばらく周囲を点検しながら、目当てのタオルを探し出すとみちるの隣に座った。
「お前はなぜ、ここに来たんだ?」
お稽古をサボったとは言いがたいので、探検しているうちに迷った事を簡単に説明した。意外にも龍一郎はみちるの話を黙って聞いていた。畳の上に腰を落ち着けて胡座をかいていると、平凡な普通の大学生にしか見えない。いつものように怒っても見下してもいない顔に、読み取れない深い感情が見えた。少しだけ評価のし直しが必要かもしれないとみちるは心の隅で検討した。
「ここは十年ほど誰も使っていない。普段は疎ましがられて使用人も近づかないから、探されるのを期待してここに入ったのなら、それは失敗だろうな」
さっきの検討は間違いだったと、みちるは半眼で龍一郎を見つめた。
「まるで私が心配して欲しくて騒ぎを起こす子供みたいじゃないですか」
反論するみちるに龍一郎が顔を近づけた。おもむろに揺れる前髪から落ちる雫がいくつも掌に落ちて、また緊張が張りつめてきた。耳に息がかかる。理由もなく頭の中が熱くなった。
「違うのか?ここに来た日はダダをこねる子供以下に見えたがな。」
わざと囁いたその声は聞いたことも無いような優しげな口調だった。だからこそ、この上ない嫌味が成立するのだと思うと、みちるは龍一郎の端正な横顔をはたきたくなった。
婚約を解消してもらいに、黒田を訪れてから五日が経っている。
龍一郎と対面した後、自分が婚約を解消したい旨を誠二郎に述べたが、勿論みちる個人の意見が受け入れられる筈もなく、来る一年と半年の後、みちるが16の誕生日を過ぎた日に婚姻を『成立』させることを告げられた。
その日から三日、みちるはハンストを行った。
全く食事に手をつけず、部屋から出てこないみちるに困惑したのは使用人のみで、黒田の人間はみちるの利己的な性格を笑い、婚約を考え直すよう誠二郎に進言した。
彼らの忌み嫌っていた沙羅の娘であるみちるを黒田家に迎え入れることは、もともと無理のある計画だったのだ。誠二郎、龍一郎を除く他の黒田の人間にとってはみちるは望まれもしない外人との子、沙羅そのものであり、排除すべき存在であったからだ。
さらにみちるの容姿が沙羅に生き写しだったことが悪影響し、一部の人間は美しいみちるの姿に沙羅を思い出し、誠二郎の執着の理由を歪曲に想像したりもした。
誠二郎はそれら全てを撥ね付け、龍一郎にこの場を収めるように命令した。
命令に従い渋々やって来た龍一郎をみちるが部屋に入れるはずも無く、返事もせずに閉めだした。襖の間に木の棒を立てかけると、置けるだけの荷物を塞ぐように置いた。みちるは誰でも空けるつもりはなく、それが黒田龍一郎とあれば尚更の話だった。
生まれてこのかた人に閉めだされる等と言う屈辱を受けたことの無い龍一郎は、胸よりももっと深い体の奥底から炎が湧きあがるのを感じた。
「最後にもう一度だけ言う。ここを開けろ」
取り乱さないことが最善だと、体に染み付いた黒田の教えによって最後まで龍一郎は声を荒げる事はなかった。
「嫌です。貴方の妻になるくらいなら、尼になったほうがマシです」
自分について全く知らない小娘に、自分についての評価を下された瞬間、初めて理性を失った。
このとき、部屋の隅で膝をかかえていたみちるには龍一郎がどうやって入ってきたのか判らなかったが、大きな音がしたと思って顔を上げたときには般若の顔をした龍一郎が仁王立ちしていた。襖は、何処に行ったのだろう。
尋常ではない物音に周囲もざわめき、使用人たちがみちるの部屋の前に集まってきていたが、龍一郎が振り向き一瞥すると、蜘蛛の子を散らすように誰一人居なくなった。
今まで見たことの無い怒りに、みちるは体温が下がっていくのを感じた。
苦しみにゆがむような龍一郎の顔から目が離せない。逃げ出したい衝動に駆られ、頭の中では絶えず警鐘が響いているのにその場から動けない。小さな岩になったように固まり、嵐が過ぎ去るのを待とうとしている。こんな感情の名を知っている。
恐怖だ。
「俺は言ったはずだ『最後にもう一度だけ言う』と」
「私も嫌だと言った筈です」
恐怖を感じた自分を嫌悪する。こんな風に力で相手に向かうことは、脅迫以外の何ものでもない。そんな人に怯えるのは、敗北を意味する。
「何故、そういう態度をとるんだ?」
不思議と怒りが混じっていない声が聞こえた。どうやら今は疑問がかっているようで、みちるが話し出すのを待っている。
「腹が減って声が出せないのか」
「そんな事は!………ありません」
確かにハンストも限界に近づいていて、明日頃には生き仏になるに違いないと決心していた。しかしここは医者が密集しているし、簡単には死なせてくれないだろう。
「では、何故だ」
「なぜって、それは……」
鋭い目に疑問の光を称える龍一郎が、一瞬、少年のように見えた。どうやら、この人は見た目よりも精神が育っているかというと、そうでは無いらしい。そう思ったら、みちるは恐怖が溶けて無くなっていくのを感じた。
「普通、自分に婚約者が居るなんて分かったら、吃驚して、結婚なんてしたくないって思うものではないんですか?」
「じゃあ、お前は俺に恋人の一人でも居て、お前と結婚したいと寸分も思っていないにも関わらず、一族の決定によって婚約を突きつけられた不幸な男が相手かも知れない、とは考えなかったのか」
「恋人がいるんですか?」
「恋人が居ると仮定して、お前は自分だけが傷ついたように振舞い、周囲に迷惑をかけるのか?」
「…………それじゃ、まるで私が」
「まるで、自分が?」
「浅慮な子供だと言いたいんですか?この婚約が意に染まないのは同じだって言いたいなら、破棄したらいかがです」
「浅慮とは言っていない。それから、お前は黒田の家を分かっていない。当主でもない一個人の意見など無いに等しい」
「じゃあ、私は、いったいどうすればよろしいのですか」
「分かっている。お前と俺は、かなりの確率でお互いを伴侶としたくない。」
真顔ではっきりそう言われて、みちるは自分の中に女性としての自尊心が芽生えるのを痛みとして感じた。
「………………ええ、まぁ。」
気にせず話を続けているところを見ると、龍一郎には複雑な心の機微が理解できないようだ。
「だったら大人しく受けた振りをしろ」
「どういう意味ですか?」
言いくるめられているのでは無いか、という疑心が広がり、じっと龍一郎の目を見たが、そこには何も読みとれなかった。
「考える力も足りないようだな」
「貴方には人を思いやる能力が欠けていますが」
「俺は近い将来、黒田の当主になる。唯一の決定権を得ると言うことだ。婚約だろうが破棄だろうが好きなように出来る、それに…」
ふとした瞬間の龍一郎の遠い目に、何かしらみちるは興味を引かれた。
「それに?」
「いや、何でも。それで、あと二年もすれば代替わりが済む。」
「結婚は一年後じゃないですか」
口を挟んだみちるに不機嫌な顔をした龍一郎は、それでも話すのを止めなかった。
「人の話は最後まで聞くんだな。婚約期間を延ばすんだ、18になるまでとか。その間に俺は当主になって婚約を破棄するようにする」
「そんなに上手くいくかしら」
「俺とどうしても結婚したいのか?」
そう凄まれては、ほかに返事の仕様もなかった。
「協力します」
「じゃあ、まず飯を食うんだ」
「止まないな、雨」
「そうですね」
視線を合わせると、不思議な考えが沸いてきた。私とこの人は、世間的には婚約者同士で、今は幸せの渦中に居るはずなのだろう。もしも離れで二人きり、このまま雨が上がらなければ……。想像の中の龍一郎(何故か和服をしどけなく着ている)が蒲団の上で囁いた。
「このまま泊まるしかないな」
この想像は精神衛生上良くないので、そこで立ち消えになった。
つまり、そういうことになれば、翌朝には周囲はそういうように思っていて、最近週刊誌の見出しに出たような婚約中に交渉を成立させたアベック45%の内の一組として考えられるのだろうか。
「おい」
いや、それでも黒田の考えは古いし、婦人月報のように昭和の無軌道な性を憂うような人間は居ない筈だ。多分。恐らくは……。
「聞いてるのか、おい」
目の前で手を叩かれて、すぐに目の前の相手に集中するようにした。
「はっははははっはは、はい」
「何故笑う」
眉間に皺を寄せた顔は、もう既に見慣れていた。沈黙を避けるように、みちるはこの二日間気になっていたことを聞くことにした。
「本当に、恋人が居るんですか?」
「……誰に何を聞いてそういう結論にたどり着いた?」
呆れた顔で龍一郎が言い放った。
質問に質問を返されて、みちるは少しむっとした。
「居るのか、居ないのか、ハッキリしていただけます?」
命令になれていない龍一郎は、この一言にむっとした。つい、言うはずのなかった台詞を出してしまう。今まで人を遠ざけるように生活していたせいで、彼は上手く会話を続けるのに適したボキャブラリーを持ち併せていなかった。
「何故お前にそんなことを言わなくちゃならない」
「恋人がいるなら、その人と結婚すればいいじゃないですか、そしたらすぐに婚約解消できますよ」
つられてみちるも勢いで言ってしまった。
「全ての恋人同士が結婚できるわけじゃない。それに、全ての婚約者同士が恋人同士だったわけでもない」
つまり、結局、居るのだろうか……?
台詞の深い意味も理解できず、胸の中に堅いしこりが残ったように、みちるは気分が悪くなった。人の心の中を覗こうとしたせいか、黒田龍一郎みたいな男にも恋人が居たせいなのか、分からなかった。
「お前は?好いた男でも居るのか?」
好きな人というフレーズとともに、あのヘンな外人が頭に浮かんだ。あれ以来、全く会っていないので気になってはいたが、それだけだった。どうして今ごろ思い出したのだろう。
「今まで人を好きになったことがありませんから、よく分かりません」
「そうか」
龍一郎が障子を開けた。どうやら雨は止んだらしい。
薄い布のような雲が開けると、満天の星空が広がっていた。
「綺麗、凄い、綺麗!」
目を輝かせて走るみちるの横で、龍一郎はその姿を見ていた。構わずみちるが外に出ようとすると、敷居を踏んだ拍子に躓いてしまった。
着物のせいでいつものように立て直すこともできず、倒れると思った時には、龍一郎に抱きとめられていた。
「どうして?」
疑問を向けたのは、助けてくれたことに対してか、いつまでも腕を放さないことに対してなのか、分からなかった。
「分からない」
龍一郎はそのまま顔を近づけた。抗う間も無くみちるの唇は塞がれていた。
よく言うように、花のような、とか、滑るような、とか…そういう感じでは全く無かった。あまりにも生々しすぎる肉がそこにあった。
そして、どういったタイミングで息をすればいいのかも、分からなかった。
よくよく考えてみると、どうして私は黒田龍一郎と接吻をしているのだろう。
そうだ、どうしてこんなことをしているのだろう。
次の瞬間には突き飛ばそうと手を伸ばしたが、適う相手ではなかった。みちるは背が高いが、龍一郎はみちるよりもまだ高く、体躯もしっかりしていた。
「どうしてっ」
やっと離された後、口から出た言葉は、予期せず三分前と同じ台詞だった。
まだ感触が残っている。頭の中が熱くなった。
「分からない」
わざと、だろうか。こちらも同じ返答をした龍一郎は目を覚ますように顔をこすった。
「ああ、驚いた」
その声ではあまり驚いた様子は無い。
「私はその十倍、吃驚しました」
状況が判ってくると、みちるは言いがたい違和感を覚えた。そして今まで男性に触れられたことが無かったことが分かると、そのせいだと思った。違和感はやがて背筋に伝う冷気になり、みちるは体を震わせた。
恐怖に似たこの状態をひどく嫌悪した。
「嫌だな、何か………」
考え込むように、しかしゆっくりと指を唇の下に持っていった龍一郎は呟いた。
「だから、私はその二十倍嫌だったんですから!!」
「何か別の力を感じる」
「?」
「なんでもない、帰るぞ」
二人は母屋に着くと、無言でみちるの部屋の前まで来ると、何もなかったかのように頷き、分かれた。龍一郎は自分の部屋の前まで来たが、にわかに踵を返し、母屋に連なる道場に向かった。気持ちが落ち着くまで体を動かすつもりだったが、素振りをするうち、余計に疑問が浮かんでは消えていった。
あの時、自分は欲望も好意も感じなかった。まさに衝動といっていいだろう。どうしてあんな行動に出たのだろう。
考えても結論に辿り着かない。情報が足りないのだ。
一晩、素振りして出した仮の提案は、あまりみちるに近づかない事だ。
何か、良くないものを感じる。
自分が自分でなくなるような……。
みちるは布団の中で、今日のことを考えていた。思い出して興奮しているわけではない。冷静に状況と結果を分析するはずだったが、何故あんなふうになったのか、全く分からなかった。
すると、急に寺にいたあの外人の顔が浮かんだ。笑っている。
視界が揺らいだ。目の淵から水が零れる。
自分が泣いていることに気がついたのは、それからしばらく経った後だった。
悲しいのか、悔しいのか、分からなかったけれど、嬉し泣きでないことだけはハッキリしていた。
朝は無情にもすぐに訪れた。
「みちる、昨夜は一体何処に居たの?」
朝餉は白米、味噌汁、焼魚、海苔がお膳に並んでいる。みちるは誠二郎の次に龍一郎の茶碗に白米をついでいるところだった。危うく大きな茶碗を取り落とすところだった。
「に、庭に…」
それ以上どう言っていいか分からず、みちるは口ごもった。横目で一瞬、龍一郎を見つめたが、やはりそっぽを向いていた。
「朝からべらべら喋るもんじゃない、加恵」
珍しく龍一郎に窘められて、加恵は急に喋るのを止め居住まいを正した。一緒に暮らしてみて、改めて驚かされたことは、この級友の尋常ではない兄への執着と従順さだった。まさに鶴の一声とはこのことか。
「昨夜はお前も部屋に居なかったようだが。」
誠二郎がはっきりと告げた。しかし叱責の類は聞き取れず、声音に誇らしげな風も混じっていた。使用人を端として、周囲がざわめくのが分かる。
ついに恐れていた事態が起こってしまった。
「昨夜はずっと道場にいましたが、何か?」
それ以上の追随を許さない口調に、父親でさえ黙り込むしかなかった。黒田家における沈黙の朝食の時間は、みちるの食欲を減退させるのに十分すぎた。
まず龍一郎が大学に、そして加恵とみちるが高校に出かけていく。
この五日ほど、あまり加恵とは話をしていなかった。学校では未来の義妹としていつも一緒に居させられているのだが。
「昨日、兄様と一緒に居たの?」
だしぬけに加恵が聞いてきたのは、昼休みになってからだった。
「別に……」
みちるは急に加恵の顔が見られなくなった。この兄妹はあまりにも似ていない。だからこそ加恵は龍一郎に対して執着するのだろうけれども、全くみちるには理解が出来ない。
「とぼけないでよ、使用人が見ていたのよ。昨夜遅くに二人が離れから出てくるところを。婚約者だからって、いかがわしい!!!」
「ちょっと、最後の一言は取り消しなさいよ」
「どうせ貴女が兄様を連れ込んで、誑かしたんでしょう!この阿婆擦れ女!」
加恵の妄想も留まるところを知らないようだった。思春期における少女においては仕方の無い事態だと言えよう。しかし、みちるは興奮しているからといって加恵の失言を許すような心の広さは持ち合わせていなかった。
「あ、あっ、あばずれって!第一『あなたの兄様』は女に連れ込まれて誑かされるような大馬鹿者じゃないでしょう!?」
この一言には言った本人が驚いた。自分の中で黒田龍一郎への評価がすっかり更新されていたからだ。
「兄様はそんな方じゃないわ!」
「だったら信じなさいよ」
「でも…楽しそうだったから……」
「何の話なの?」
「兄様、最近みちると一緒に居て楽しそうだったから」
そんな筈は無い。黒田龍一郎と自分ときたら顔を突き合わせては諍いを起こしているのに、それが加恵にとっては談笑に見えるらしい。
「あり得ないわ、それに黒田龍一…あわわ、龍一郎さんには恋人がいらっしゃるようですし?」
「どこに?」
加恵があまりにも信じられない、といった顔をするので、みちるはこれが想像の域を越えない仮説だとは言えなくなってしまった。
「本当に、兄様に恋人が居るの?」
加恵は真実を聞くまでは離さないように、みちるのお下げを掴んだ。頭皮に著しい圧力を感じながらみちるは頷いた。
「た、たぶん……」
「どこに、どんな、どうやって?私の知らないところで、そんな女が居たなんて…」
まるで加恵のほうが龍一郎の婚約者のように狼狽していた。みちるは弁当を片付けながらかすかに震えている加恵の背をなでた。
「貴女の知らない世界じゃない?大学でも外でも色々あるでしょうね」
まして黒田の御曹司なら、と胸中で付け加えた。何故か黒田龍一郎が女性に囲まれているところを想像すると胸が悪くなったが、加恵があまりにも騒いだ為だろうとすぐに納得した。
「……加恵?」
加恵が授業の用意でさえ片付けているのを見て、みちるは驚いた。まさか(兄に恋人が居ると聞いて)気分が悪くなったので早退しますとでも言い出すのか。
「何やってるの?行くわよ!」
「行くって、どこに?」
「兄様の大学!」
「なぜ?」
「この目で確かめるのよ、どこの馬の骨かも分からない女に兄様を取られるなんて耐えられないわ!」
みちるにとっては実に不幸な事に、龍一郎の通う大学は徒歩で行ける圏内だった。
3
「ありがとう、お坊さん」
「お坊さんじゃないですよー」
「私、どうして私だったのかも知らなかったわ、ちゃんと聞いて、お断りしてこなきゃいけないわよね。案外大した理由じゃないかも知れないし!」
そう言うが早いか足早に去っていく彼女の後姿。
記憶に残る彼女の最後のシーンだった。
作業の途中で、また鉛筆を落とした。その拍子に加熱していた実験器具がドミノのように順に倒れていく。これでは実験にならない。
「おい、どうした?」
本日三回目の友人の言葉に、エリオ・ヴェッキオは自ら顔をはたいた。ここ数日ずっと同じことを考えている。というより、同じ女性のことを。
自分の下宿している寺に迷い込んだ少女が自分の心の中にまで迷い込んだとは、ありがちな心情だが、エリオはそれを快く受け入れた。
自分よりもかなり若いとはいえ、彼女はあまりにも美しかったからだ。
それに、人生を楽しむには恋も時には必要だ。
「女性のことを考えていたんだ。」
絶句して冷たい視線を向ける友人には向き合わず、思い出す限りの彼女を考えた。熱いため息が零れて、おちる。
少し勝気な瞳、かなり攻撃的な性格、細い足…。
「あ、女っていえば」
友人が周囲を見渡し、ざわめく人だかりを指した。この学部で一番の有名人の噂は半日で彼の耳に届いていた。
「我が学部の御曹司、黒田龍一郎サマ御婚約らしいぜー。やっぱ、旧家ってのはタイヘンなんだなぁ」
そんな事を聞いても、さしたる興味は生まれない。黒田龍一郎は、実験の班が一度同じになっただけで、話をしたことも無かった。醒めた目の男だとしか覚えていない。
「へぇー…。」
興味の無さは返事の声にそのまま表れた。
「まぁ、それだけじゃ俺も気にしなかったけど、その婚約者がさ、高校生らしいんだって!しかもハーフかクォーターの美少女だって」
ハーフの美少女?脳裏に先日の少女が浮かんで、エリオは作業していた手を止めた。
「………茶髪に青い目?」
「そこまで知るかよ」
友人は肩をすくめると、別の講義室に向かっていった。
確か、あのとき彼女は意に添わぬ婚約を突きつけられて寺に来ていた。それが、黒田との婚約だとすると、時間も場所も全てつじつまが合う。
「そうか、だから断りきれなかったのか」
あの後、なぜか彼女が戻ってくる確信に満ちていたエリオは待ちつづけた。
二日経って、少し諦めかけた。住職にも何をしているのかと訝しげに問われたので、おおっぴらに表に出ることはしなかったが、それでも彼女がいつ来てもいいように自分の部屋の窓は開けておいた。自分でも少し馬鹿馬鹿しいと思ったが、あのときの真剣な表情が頭に焼き付いて離れなかった。
そんな彼女を救うためなら、少しばかり気が触れたと思われても構わなかった。長く祖国を離れてはいても、自分の中の騎士道精神は失われていないことにエリオは実に満足していた。
それにしても、とエリオは呟き目を閉じた。
もしも本当に黒田龍一郎の婚約者が彼女だったとして、いったい自分はどうするつもりなのだろう。昔から人のものに手を出す趣味は無いと言い続けてきたが、今回ばかりは勝手が違うわけであるし、今は諦める以前の状態である。
自分の鉛筆を指先で回しながら、人だかりから抜けた黒田龍一郎を見つめた。
背が高い。エリオが考える日本人の平均身長をはるかに超えている。とはいえ、細い柳のような体ではなく、そこそこ引き締まっていて、動物のそれを思い出させた。
顔が、彼に恋する女性でも無く、また彼の友人でもないエリオが評価するならば、その目つきと嫌味に歪む唇さえなければ、ほぼ整った顔立ちと言って差し支えないだろう。
貴族的にすっと伸びた鼻筋、それに続き深い彫りを導き出す形のいい濃い眉。エリオにとっては目が細いような気もするが、それは日本人ゆえに致し方の無いことだろう。
医学部という特殊な環境の中で、内外問わず女学生から非常に人気が高いことは、友人から聞いて知っていた。
先述の容姿もさることながら、大学に首席で合格した以来もずっとトップに座し続けている能力も魅力のうちなのだろう。容姿端麗、品行方正、これで文武両道なら少々性格が捻じ曲がったところで女性は文句のひとつも出てこないだろう。
まさか、彼女もそう心変わりして今では慎ましい婚約者になっているのだろうか。
そう思うと、心の中の彼女の姿が色を失った。
「おい」
気づけば、黒田龍一郎がエリオの目の前で腕を組んで立っていた。
「く、黒田龍一郎」
思わずフルネームで呼び捨てにしてから、それが無礼だったと気づき慌てて英語で謝罪した。日本語があまりできないフリに徹することにしたのだ。
「どいつもこいつも…」
と、黒田が呟いた台詞の意味は理解できなかったが、ここまで近くに来たことと気さくに話していることにエリオは驚いた。留学生が徐々に増えつつあるとはいえ、保守派が根強いこの土地では、あまり外国人は歓迎されなかったからだ。それが原因で二ヶ月前アパートを追い出され、あてもなく彷徨っているところを寺の住職に拾ってもらい、雑役をしながら住まわせてもらっている。
生来、祖国の血からか楽天的な思考が備わっているため、別段落ち込みはしなかった。
「勘違いだったら悪いが、何か見てなったか?用事があるなら言ってくれ」
そう言われると、先程から彼の分析を行うために凝視していたのは紛れも無い事実だった。スポーツマンだと聞いているからきっと視線に気づき、気にしていたのだろうか。
「婚約したそうですね、おめでとうございます」
とりあえず日本語は話せないことをアピールするため、英語で祝辞を述べた。
「…ありがとう。たしか君は五年日本にいるらしいが、話せないのは少し不自然だな」
これもまた、流暢な英語で黒田が応えた。にわかに反駁心が芽生えたエリオは徹底的に日本語を使わないことにした。
「いえいえ、自分はまだ勉強不足でしてね。ところで、相手のお嬢さんはまだ高校生だとか。この近くの女子高の方ですか?」
「それが君に何の関係が?」
婚約者というフレーズが出た途端、相手の空気が鋭い刃のように研ぎ澄まされたことが分かると、エリオはそこまでで口をつぐんだ。これは、自分を守ろうとしているのか、それとも婚約者を守ろうとしているのか。どちらにせよ、頬を緩めて惚気るタイプの人間でないことだけは確かだ。
「失礼、興味の域でしたので気になさらないでください」
黒田に向かい、微笑むエリオは唇の端が引きつっていないか心配になった。どんな相手でもいつでも笑みを絶やさないエリオにとって、これは生まれて初めてのことだった。
自分よりいくつか年下のこの男に対して恐怖を覚えたわけではなかった。というのも、耐え難い恐怖など今まで感じたことが無いからである。
つまり、認めたくはなかったが、エリオは黒田龍一郎に対して、嫌悪を感じていた。
「何をしているの?早くいらっしゃいな、みちる」
加恵は急ぎ足で大学の門をくぐった。大学では女子高のセーラー服は目立つので、上から大きめのセーターを着ている。これも学校指定とはいえ、無いよりはマシだった。実際、上着も何も持っていなかったみちるはカバンを前に抱きかかえて制服を隠すくらいしかできなかったのだから。
気が進まない。
もし、こんな所を黒田龍一郎に見つかったとしたら、加恵はともかく私までもが黒田龍一郎に対して執着しているように思われてしまう。それだけは避けたかった。
なによりも、みちるは龍一郎に恋人が居ようが居まいがどうでもよくなっていた。
昨夜の一件で分かった事は、恋人の有無に関わらず衝動であんな行動が取れる男なのだから恋人は彼にとってさしたる抑止力には成り得ないことだった。さらに言うと、みちるにとっては悲しい事実だが、恋人の有無は婚約に波風の一つも立て得るものではないということも判明した。
「加恵、やっぱり、わたし…」
「今更帰るだなんて、およしなさいよ。婚約者としても恋人の存在は気になるでしょう?いい?兄様はね、いつだったか、お父様が社会勉強だと言って馴染みの茶屋に連れて行こうとしても、お断りして道場で鍛錬なさっているような方なのよ!恋人が…居るなんて…」
その話を聞いたみちるには、龍一郎よりも、実の息子を「社会勉強」させるために馴染みの茶屋で芸者遊びをさせようとする黒田誠二郎が理解しがたかった。それとも黒田では普通のことなのだろうか。美容院で見た週刊誌に書かれていた梨園のような世界を垣間見てしまった。
「とにかく、先を急ぐわよ」
そういった加恵が振り返った瞬間、人にぶつかった。
「加恵!大丈夫?」
「大丈夫ですか?前を見ていなかったもので。」
みちるとその人が同時に手を差し伸べようと前屈みになり、頭をぶつける格好になった。
「いっ……たぁぁ」
「あ、失礼、お嬢さん」
「あっ!あ、あなた?」
「え?あっ、あ、て……」
寺に来ていたと言いそうだった口をみちるが勢い良く出した手で押さえた。婚約がイヤで逃げ出しそうになっていたことを加恵に知られるわけにはいかない。
ただでさえ黒田家でのみちるの立場は四面楚歌であるのに、これ以上敵に弱みを握られるわけにはいかないと咄嗟の判断が、みちるを動かした。
「行きましょ、みちる」
ぶつかった相手が外国人だと判ると、謝りもせず加恵がみちるの袖を引いた。あの気丈な加恵が少し怯えたようにみちるの後ろに隠れていた。
この街では殆ど多くの人間がこういう態度を取るのだろう、全く相手のほうは気にしていない様子で顔を上げた。
みちるは相手と目配せをすると、少しその場を離れて加恵と歩き始めた。
「図体ばかり大きくて、邪魔な外人ね。この土地には似合わないわ」
「そんなふうに言うもんじゃないわ、加恵」
と、言うとみちるは腹を押さえてその場にうずくまった。
「ど、どうしたの?みちる」
この意地の悪い従妹の唯一憎めない理由は、意外にも至極素直な一面を持っていることだ。腹を押さえてうんうん唸っているみちるの肩をさすり、本気で心配しながらおろおろする様子は、みちるを少し後悔させた。
「あ、あたし、お腹が痛いから先に帰っておくわ…」
「そんなんじゃ独りでは帰れないでしょう?連れて帰って差し上げるわ」
優しさから出た言葉かと思ったが、あとで恩を売られそうだとも思う。
「いいえ、加恵は龍一郎さまに伝えてほしいの…その間に帰っておくわ」
「分かったわ、何を伝えたらよろしいの?」
考えていなかった。
「うっ……お、お腹が………」
「みちる、貴女の気持ちはよく分かったわ」
痛むフリをしている間に嘘を考えていたら、いつの間にか加恵が一人合点していた。
「兄様には、ちゃんと、みちるが兄様のことを思い、心配しておりましたって伝えてあげるわ!ついでと言っては何だけど、兄様の恋人についての疑惑も、加恵がしっかり聞いておいてあげてもよろしっくてよ」
………………………私、そういった内容、一言も言ってないわ、加恵。
「………よろしくね、加恵」
「嘘を吐くときに目を瞬かせる癖は直したほうがいい」
ベンチに座って一息ついたみちるの背後に男が立っていた。
「きっと、その辺に居ると思ってたわ。さっきはごめんなさい、従妹が…」
「いいえー。素直で可愛い人でしたね」
何故かこの男が加恵を誉めると、みちるの胸が針を刺されたように小さく痛んだ。
「…………ええ。」
微笑み、小さな会釈一つで男がみちるの隣に座ると、改めてみちるは自分の小ささに驚いた。
いや、この男が大きいのだ。
おおよそ見当もつかない背丈に、野生の動物を思わせる四肢。
朝日のように明るい茶の髪とその体躯で他の人間のように恐怖を感じてもいいはずなのに、何故かみちるは安らぎを覚えた。
その笑顔のせいかも知れない。と、胸中で呟くと自らも口角を上げている。
「少し、目つきの鋭いトコロが黒田龍一郎さんに似てたかも。やっぱり兄妹って似るもんなんですねー。僕には居ないから分からないけど」
「知ってるの?」
今更に鎌を掛けたことは言い出せなかったので、仕方なく微笑んだことなどみちるには勿論分からなかった。
「ええ、まぁ、同じ学科ですから」
みちるはそう聞きながらも別の事を考えていた。
どうしてこの男はこんなに歯が白いのだろうか。最近新発売された「ホワイト&ホワイト」でもこうはいかないだろうから、きっと外国の歯磨き粉を使っているんだろうか。いやいや、意外にも隣の家のおじいちゃんみたく資生堂の歯磨き粉しか使わない人かも知れない。それにしても私の想像する外人はどうして皆歯を見せて笑うのか。この人みたいに唇だけで微笑んだらもっと上品に見えるのに。もしかして、アメリカ人じゃないのかしら?イタリアって州の名前じゃなかったっけ?それともフランスのなかの地方の名前?
外国の町並みの中の小さなアパルトマンで彼が歯磨きをしているのが容易に想像できた。
「ねぇ、名前を教えて頂けますか?」
「うん、歯がね…」
今度は質問を全く聞いていなかった。
「ハガネちゃん?変わった名前だねー」
「は?私は呉川みちる、よ?ハガネって何?」
だってさっき「はがね」って言ったじゃん……、と小さく呟く声はみちるに届かなかった。みちるは自分が相手の名前すら知らないことに漸く気がついた。
「名前なんていうの?」
まだ少し拗ねた様子を見せた男がそっぽを向いた。そんな子供じみた行動を取る人が回りに居ないせいか、みちるは母親のような気分を生まれて初めて味わった。
「教えてくれないの?」
見た目には5つ以上は歳下のみちるに優しく諭されるように言われたので、ついに引っ込みがつかなくなった男が目を閉じて応えた。
「当ててみて、君と僕が運命の恋人同士なら、きっと分かるはずだよ」
「あなたの言ってること、理解しかねるわ」
しかし不思議と怒りは湧いてこなかった。
「当てて、みちる」
「分かったわよ、うーん、うーん、リチャード!」
「それってもしかして……いや、もしかしなくともリチャード・ニクソン?」
「………ジョージ」
「どうしてそう英語圏の名前ばかり!僕は伊太利亜人だよ」
「そう言われても…」
そのときふと、何かが頭の中をよぎった。確か、誰かから聞いたことがある。風変わりな留学生の名前。確か…
「エ…?」
「うん、で次は?」
「エ、…………エ、エリ…」
「あと一息っ」
「エリオ!」
次の瞬間、エリオは最も手っ取り早く愛情を示す方法を使った。
口の中で何かが動いている。
驚愕のあまり嫌悪を感じる暇もなく、みちるは黙ったままエリオの接吻を受けていた。こういうことを挨拶代わりにしているから外国人は不道徳だとか言われるのだろう、と間抜けな感想を抱きながらエリオが動くのをひたすら待った。
別に運命の恋人同士という言葉を信じたわけではない。いつだったか近所に住んでいる八百屋の長男から留学生の名前を聞いていただけで、それを記憶のなかから引き出してきただけで、これは別に運命でもなんともない。
ただ、エリオの腕の中にいるみちるは、言いようのない安心感に包まれていた。温かいお湯の中にいるような、精神が落ち着いている。
この事象については比較対象が昨夜の黒田龍一郎との一件しかないので、深いところは計りかねたが、別にあの時ほど嫌ではなかった。
免疫がついたのだろうか。
あの時は、ただ強大な力に驚いて、男性という存在がただ威圧的に感じて…
「みちる?」
エリオが不安げに顔を覗き込んでいた。みちるはまだ考えている。
なぜだろう、人種も性別も全く違うのに、この人に近いものを感じる。まるではるか昔から知っていたような、繫がりを感じている。
「エリオ、名字はなんて?」
「は?ヴェッキオ…特に名門でもなんでもないよ、ただのヴェッキオ」
もちろん記憶の中の祖父の名前とは違う。そもそもがイタリアとアメリカで国も違うのだから当然なのだが、この気持ちに何とかして根拠を見つけたかった。
「みちる、さっきは…」
「私の祖父はアメリカ人らしいわ」
「え、ええ、そうらしいね」
「だからこういうことに慣れてるのかというと、そうでもないの。私は英語も全く話せないし、一度も日本を出た事は無いし、それに…」
なぜかこの男を拒絶しているようで言いにくかった。
「それに、わたしの母の実家は旧式で外国嫌いだから」
「みちる?聞いて、さっきのは…」
「それであなたを拒絶しているわけじゃないんだけど、私には事情があって、それよりもさっきの事がただの挨拶だったとしたら申し訳ないけど、でもやっぱり日本で暮らしていく以上はその土地の風習というか何というか、とにかくやっぱりここじゃ男女が二人きりで話したり触れ合ってたりするのは良くないらしくて悪い噂が風速並みにまわってしまうから、特に私はまだ女学校の制服のままだし」
言ってからみちるはしまったと胸中で呟いた。
みちるの真意を図りかねたエリオは自分のセーターを脱いで、そのままみちるにかぶせた。頭だけ出たみちるは複雑な表情を見せていたが、問題が一つ解決したことを確信したエリオはにっこり微笑んだ。
「これで、いいでしょう?」
セーターからエリオの香りがした。アメリカでもイタリアでもない、もっと遠くはるかな異国のようなエキゾチックな香りがした。やわらかい森の香りの中に桂皮のようなぴりりとした刺激が混じって、みちるの鼻腔をくすぐった。
知らずの内にみちるは目を閉じて微笑んでいた。
「ところで、みちるの事情って?」
エリオの言葉で目覚めたように、現実に呼び戻された。時々自分の妄想癖に嫌気がさすが、どうしてもエリオといるとはるか異国に精神だけ連れて行かれるような気がしてならない。
なぜか、これだけは、どうしても、説明したくなかった。
「前にも話した通り、私は先週から婚約を余儀なくされてて、今、その人と婚約中なの」
「うん、うん」
どうして笑いながらこんな話が聞けるんだろう。みちるは軽い憤りさえ感じていた。
「だから、あのお寺に逃げ込んだんだけど、あっこの話は内緒にしてね。バレるとうるさいから従妹とか、親戚とかが」
「うん、うん」
頼まれても二人の大切な思い出を他の誰かに話すはずないのに。エリオはそう思いながらやはり微笑み頷いた。
「で、その親戚なんだけど、そこがどうやら歴史のある旧家らしくてこの一週間私はお茶だお花だ着付けだ礼儀作法だと教育されてる最中で」
「黒田家でしょ?」
みちるは話の腰を折られて少しがっかりしたが、自分で言わなくても良かったことに気がつくとまたエリオに救われた気分になった。
「知ってたの?」
「うん、彼は大学でも有名人だから」
「知ってるなら話は早いわ。私は、否応ながらにだけど、黒田龍一郎の婚約者になったの。それで、保守的な黒田の面々はきっと婚約者以外の男性と二人で話してるのも気に入らないっていうか許されないというか、禁じるはずなのね。好きで従ってるわけじゃないけど、だから誤解されたくないし、エリオの勉強の妨げになりうるから」
「ところでさ、みちる?」
「なんていうか私の観点からで申し訳……え?何?」
「さっきのキスが嫌だったの?」
思考が一旦停止した。真っ暗になって、ランプが、消える。みちるは再起動させようとしたが、エリオがそれを止めるようにみちるの額に手を当てた。
「顔、赤いよ?大丈夫?」
あの時はひどく寒かったのに、今は体がぽかぽか熱い。きっと話に力を入れすぎたせいだ。小さく頷く。
「大丈夫そうだね。じゃあ、もう一回聞くけど、さっきのキスは嫌だったの?」
嫌では、無かった。少なくとも黒田龍一郎の時よりは。
「もし嫌だったら二度とみちるを困らせないように、そんなことはしない。それに、なるべく顔を合わせないようにするよ。もっともこれは偶然ってこともあるから保障はできないけど」
そんなことを求めていたわけではない。
「そんなっ…」
「あれ、もしかして、嫌じゃなかった?」
もしかしたら一連の会話すべてが策略だったのかもしれない。エリオはさきほどまでの神妙な顔はどこへやら、雲り空から日が差すように眩しい笑顔を見せた。
「う、うん…まぁ。で、問題はそこじゃなくて」
「嫌じゃないなら、問題は無いよ」
「無いわけ無いじゃない!私は婚約してるのよ?」
「君の意思じゃない、でしょ?」
「それはそうだけど…」
「それとも黒田龍一郎が好きになった?」
「まさか!!!」
それだけは明白に答えが出た。あんな傲慢で自己中心的で秘密主義な人、好きになれるはずがない。
「だったら僕がみちるを好きでも何ら問題はないよね」
「はぁっ?」
あまりに衝撃的なことをさらりと言われてしまったので、みちるは開いた口が塞がらなかった。
外国人とはこういうものなのか。何故かこの人に限ってのことのような気がする。
「に、日本人はそういうこと言わないのよっ」
生まれて初めて面と向かって告白された事実からみちるの頬は赤く染まり、目を伏せたときの睫毛が色濃く瞼を陰らせた。
「みちるは誰が好きなの?僕だったら嬉しいけど」
「だからっ、口に出して言わないの!!!」
エリオはみちるの狼狽した様子を心底楽しそうに見つめている。それがみちるには気に食わない。
「みちる?」
だからエリオのこの呼び方を気に入ったことは決して彼には言うまい。
「来週の木曜日、またここで待ってるから」
「どういうこと?」
「来週、この日、この場所、四時くらいに待ってるから、僕と話がしたかったら会いに来て」
「何言って…」
「来なかったら諦めるから、ね?そうしよう」
生まれて初めて人間についての取捨選択を求められてしまった。
「私、英語話せないのよ?」
「僕が日本語喋ってるじゃない」
「一度も外国行った事無いのよ」
「その分僕が行き来してるからいいんじゃない?」
「イタリアって何処にあるか知らないのよ」
「…………今度、地図持ってくるね」
「だから、どうして私なの?」
ついにみちるが立ち上がってかぶりを振った。いつでも口調が同じすぎて、冗談なのか本気なのか全く読めない。
黒田龍一郎とは違った意味でのポーカーフェイスだった。
「君にもいつか分かる」
そう切り出したエリオの目が輝いた。まるで別人のようにシニカルな笑みを浮かべ、半ば伏せた目で風を追っていた。
「誰がいいとか、悪いとかじゃなく、『たった一人』だけが目に入るんだ。他の人間なんて目に入らない、優劣つける前に、世界にその人と自分しか居ない状態になってしまう。どんなに障害があっても、どんなに離れていても、たとえその人が自分を見ていなくても、目を閉じるとすぐにその人が笑ってる姿が目に浮かぶようになる」
目を閉じて、自分の宝物を披露するように誇らしげに語るエリオをみちるは憧れて見つめた。自分にまだそんな相手が居ない。そんな風に感じたことがない。
そこまで深く人を好きになれたとしたら、どんなに幸せだろうか。
「それが恋だ」
エリオは言い終わるなりウインクして、いつもの微笑を見せた。
4
「落ち着かないようだな」
背後から急に龍一郎の声がしたので、みちるは驚きながら振り返った。少し言いにくそうに視線を落とし、続けた。
「加恵が、みちるの様子がおかしい、と」
その言葉に温かいものを感じ、みちるは小さく微笑んだ。どうやらあの口うるさい従妹は敵ではなかったらしい。そして、龍一郎のような男でもやはり妹はかわいいのだ。
あの日、エリオと話し込んで帰りが遅くなり、加恵が先に帰宅するのでないかと不安になったが、加恵は使命を果たすため構内で龍一郎を探し回ったらしくみちるより一時間遅く帰ってきた。
そして、その日から二日、龍一郎は帰ってこなかった。
良家とはいえ男子たるもの、その位の豪気が無くてはならないと親戚連中は口々に龍一郎を誉めそやしていたが、誠二郎だけは沈黙を守っていた。もしかすると、行き先を知っていたのかもしれない。
しかしタイミングも重なって、加恵は龍一郎が恋人と二日間過ごしたと思い込み、ひどくショックを受けていた。まぁ、これが契機で「兄様」離れするのも彼女にとって良い事には違いないだろう。
「どこ行ってたんですか?」とは、まさか聞けないしなぁ…。みちるは何も言わず龍一郎の目の中に感情を読み取ろうと真剣になった。
「……たしか、木曜から調子が悪いらしいな。食事も少ししか取らないらしいし」
木曜日。みちるの体温が急激に下がった。
約束の期日はあと三日に迫っていた。
「何でもありません」
「顔色が悪いぞ」
本当の理由は言えない。言ったところでどうなるものでもないが、知り合いらしい事を聞くとますます言い出しにくくなる。
それに、黒田龍一郎には秘密が多くあるのに、自分に一つの隠し事の無い状態は公平ではない。平等の法律に違反する、かもしれない。
「診てやろうか?」
至極、普段の表情で龍一郎が言い放った。
余計に、怖い。
「………結構です。」
「そうか。で、今度の木曜に茶会が入った。お前も同席するように、とのことだ。全員夫人同伴だからな」
「木曜?」
「ああ、学校は休むよう加恵には伝えてある。市内だからそう遠くは無いが、懐石が出ると長引くからな」
「何時に終わります?」
「約束でもあるのか?」
みちるは答えるわけにいかなかったので、かぶりを振るしかなかった。
「せいぜい『仲睦まじく』見せるようにな」
それが無理なことだけは分かりきっていた。
約束の期日は明日にせまり、みちるは用意のカバンの中にセーターを入れようか迷っていた。何度も出しては入れてを繰り返し、この厄介な問題に思いを馳せていると深夜もまわり、既に月も東に傾き始めていた。
先週の木曜日、黒田の家に帰って気づいたことは自分が未だにエリオのセーターを着ていることと、また彼に会いたいと感じていたことだ。しかし、現在の状態ではこれが良くない感情だということも十分分かりきっている。
そして、何かの皮肉めいたものすら感じていた。
名目上とはいえ、みちるは母が飛び出した黒田の家に「母の名誉を挽回するため」に龍一郎のもとに嫁すことになっている。そんなみちるがこともあろうに外国人の男と二人きりで会うことは、きっと一族の人間に母の行動を思い出させるかもしれない。
血は争えないと、黒田の人間に馬鹿にされる事は容易に想像がつく。
母は、どんな気持ちだったんだろうか。黒田誠二郎は、どんな気持ちだったのだろう。もしかすると、彼は今でも母の面影を追って、毎年命日の前日には寺に参って彼女の墓前に花を供えているのだろうか。
縁側に出て、落ちつくことにした。
徹夜も覚悟して、冷たい空気に当たれば、少しは頭も冴えてくるかもしれない。
すこしも歩かないうちに、庭で誰かの気配がした。一間ほど離れた場所で、龍一郎が紺の剣道着で竹刀の素振りをしていた。剣道をやっていることは知っていたが、その鬼気迫る雰囲気に近づく者はすべて打たれるような気がして、踵を返した。「ここ毎晩だ」
と、いつの間にか近くに居た誠二郎が呟いた。
「みちるさん、あれの変化には気がついたかね?」
穏やかな表情で誠二郎が尋ねたが、みちるは首を横に振るしかなかった。
「少し変だな、とは思いましたが、理由までは…」
咄嗟に目を伏せたみちるの頭を、誠二郎が乾いた手でゆっくり撫でた。医師とは思えないほど大きな手に包まれて、みちるは少し落ち着いた。
「あんたは沙羅によく似ている」
遠くを見つめ、何かを思い出そうとしている誠二郎にはみちるは映っていなかった。きっとそこに母の面影を見出していたのだろう。
「母は、どんな女性でした?」
「娘時代の沙羅か…。口を利かん子だったよ。尤も、黒田の一族全員で無視を決め込んでいたんだから仕方の無い話だが。恐ろしく美しい子だった。たまに怒って殴りかかってくるときの目つきが好きだったな」
そこまでの短い話だけでみちるはいくつも疑問が湧き上がるのを抑えられなかった。
「え?お母さんが、殴りかかったんですか?」
「私は十七の年から沙羅が好きだった。初めてあんなに美しい人間を見た、と思ったよ。恥ずかしながら一目惚れだ。しかし彼女の境遇から見れば、実に迷惑な話だったろうな」
二人は歩きながら話を続けた。縁側に落ち着くと、誠二郎に酒を勧められたが、それは丁重に断った。琥珀色の液体はグラスの中で小さな光を反射して、真っ黒に見える瞬間を絶えず繰り返していた。
「沙羅は実に美しかった。外見だけでなく、精神も。決して圧力には屈せず、自分の意思を尊重し、相手を思い遣る気持ち。その全てに長けていた。そんな彼女がこの毒まみれの黒田の家で生きていくには黙り込み、何も感じないように心を閉ざすしか無かったろうな。私は彼女が生きながらに人形のようになっていくのを怖れた。何に代えても彼女を守りたかった」
誠二郎は眉間の皺にグラスを当てて目を閉じた。見た目よりもまだ年老いてはいないことをみちるはこのとき初めて知った。
「残念ながら私は沙羅を楽しませることには秀でていなかったが、彼女を怒らせることについては誰にも引けをとらなかった。皮肉なことに、彼女は私が何か言うたびに怒り出したよ。それでも私がしつこく構い続けると、無言で殴りかかってくるんだ。私は、ようやく彼女から人間らしい反応を引き出せたと知って嬉しくなる。で、つい彼女を怒らせるようなことを言う。悪循環だな。幸せだったが。」
一息ついて、目を閉じたまま微笑む誠二郎の中に龍一郎の姿を見た。この親子は似ているようで実は相反しているのかも知れない。なぜならみちるには、龍一郎の中にこの誠二郎の表情を見ることは一生かかってもできないだろうと思えるからだ。
彼はひどく愛情とか、そういったものを遠ざけている。だから、あんなに毎日周囲を警戒して過ごしているのだろう。
誠二郎はたった一人からの愛情をひどく求め続けている。叶えられない願いを。
「怒っているときは彼女の目は生き生きしていた。その目を見て、まだ彼女が生きた人間だと確認するのが好きだったよ」
「どうして喧嘩になるんでしょうか」
母は、黒田誠二郎にここまで愛されていたことを知っていたのだろうか。知っていて、それでも父と結婚したのだろうか。もし沙羅が誠二郎を選んでいたら自分は生まれていないという事実も置き去りに、みちるはそんなことをぼんやり考えていた。
「さぁ…それは、きっとあんたと龍一郎が喧嘩する理由と同じかもしれないな」
「同じ、ですか?」
「あんたはどうか分からないが、龍一郎はこの家にあんたが来てから楽しそうだ。これまで私はあれが口喧嘩の一つでもしたところを見たことがないからね。それが今は殆ど毎日あんたと言い争い、一度は我を失って暴れていたじゃないか。傑作だね」
襖を飛ばしたあの日のことだろうか。傑作どころじゃない。
「別に楽しんで喧嘩しているわけじゃ……」
「あれは、生まれたときから黒田を継ぐ運命にあった。あれの母親は体が弱くて加恵を生んですぐに死んだから、あまり母親のことも覚えていないだろうなぁ。黒田の一族の娘で気位が高く、どうしても私に心を開かなかった。口は利いても冷たい言葉しか吐かない女だったよ。だから龍一郎は親から離れた嵯峨の別宅で、使用人や見知らぬ人間に育てられた。感情が欠落していると云われたら、それは私らの責任だろうな」
「感情が欠落した人間なんていませんよ、く、じゃない龍一郎さんも笑ったりはしないけどよく怒ったり苛立たしげにはしてますから」
「それもあんたが来てからだ」
「まさか、そんな…それに、加恵には優しくしてるみたいだし」
「それも義務と見ている。いつからだったか、私はあれの本音を垣間見ることが無くなって我が子ながら恐ろしくなったよ。何時でも黒田の為に最善を尽くし、教えもしないうちに人心術を掌握し、鬼気迫るように竹刀を振っては師範代を手に入れた。私にはあれが何を目指しているのか全く摑めない。」
それはみちるも感じていたことだった。いつか、婚約を破棄する時に、黒田龍一郎には別の目標があるのではないかという疑念が残っていた。婚約を解消した後のことは、みちるには干渉できないことだ。案外、好きな人と一緒になりたいだけかもしれない。
「きっとあんたは龍一郎の白鷺になるだろう」
予言めいた言葉。何のことだか分からないうちに誠二郎は部屋の中に戻ってしまった。
みちるはまだ縁側で考え込んでいる。黒田龍一郎の今後を期待されてしまっても、自分は仮初の婚約者でしかないのだし、いつかはここを出て行く人間だ。
それに、あんな毒毒しい人間と毎日顔を突き合わすなんて、考えただけでも気が滅入る。
表情がない分、どこかの漫画で読んだ…
「サイボーグみたいだし」
「何がサイボーグなんだ?」
ぎょっとしたみちるは縁側から前のめりに落ちてしまった。
「何をしてる」
いや、何って……。隣に立つ龍一郎に支えられながらみちるは起き上がった。
「どうしてそんなに気配が無いんですか?」
「素人に気取られるようなら、御終いだろう」
いったいこの人何者なんだろう…。顔を上げたみちるに更に衝撃が襲った。
「ど、どうして裸なんですかっ?」
龍一郎は剣道着だったが、上を脱いで腰に落としていた。かすかに肌から湯気が立ち、汗がいくつも光る粒となって肩や胸を飾っていた。
濡れた前髪をかき上げた姿は初めて見る。さっきから心臓の音がうるさいくらい頭の中で響いている。
「暑い」
そうとだけ言うと、縁側に残っていたグラスを飲み干した。
「…………あの、」
「何だ」
「知ってて飲みました?」
「何の話だ?はっきり言え」
「それ、誠二郎さんの飲んでた、ウィスキーですよ?」
聞いた途端、龍一郎が縁側に座りこんで頭を抱えた。
「お前、わざとだろ…」
「ちょっと!自分で確かめもせずに飲んだんじゃないですか!まさか、お酒飲めない人だとは思わなかったし」
「大量のアルコール摂取は脳細胞を破壊する。それに肝臓病を併発しやすくなるんだ。平衡感覚を失うから事故を引き起こしやすいし…とにかく、普段は飲まない訳じゃないが、今は運動で体内の血行が良くなってるから、酒が廻り易いんだ」
「お医者さんみたい」
いつもはあまり喋らない龍一郎が急に雄弁になったのがおかしくて、みちるは忍び笑いをもらしてしまった。
「俺はいま医者になる為に、勉強してるんだ。当然だろう。」
まだ眩暈がしているらしく、頭を振っては抱え込むのを繰り返して苦しんでいる。いつもの威圧感は全く無い。いい気味、とみちるは胸中でほくそ笑んだ。
「みち、る…?」
龍一郎が手で水を取ってくるよう指し示した。しかし、みちるはこの好機に仕返しをするつもりだったのでにっこり笑って見当はずれな返答をした。
「はい、ここに」
「……返事は、いいから。あれを取ってこい」
「『あれ』とは何でございましょう?」
畜生、と罵る声が宙に消えた。みちるは耐え難い快感を感じていた。復讐の悦びは蜜にも似て、みちるを止められなくさせた。
「あれだっ、あれ、うっ…」
「至らなくて御免なさい、ちゃんと仰って頂かないと分かりませんわ」
誰にも見せたことのないような至極の微笑みと共に言い放つと、すっくと立ち上がった。次の台詞は聞かなくても分かっていたからだ。
「水だっ!」
「かしこまりまして御座います」
みちるは庭用の井戸の水を桶に汲むと、龍一郎の頭から水をかけた。
「みちる…」
龍一郎は濡れたままみちるの腕を掴むと、無理やり引き寄せた。やりすぎたという後悔よりも早く体が覆いかぶさってきて、事態が飲み込めなくなった。ただ感じるのは龍一郎の重みと、鼻腔にまとわりつく香り、目の前の樺色の肌色だけだった。
何が起きているのか、よく分からない。
龍一郎はみちるの上で何事か呟いている。みちるは先ほどまで忘れかかっていた疑問を思い出した。
「白鷺って、何だと思います?」
「はぁー?」
やたら明るい口調で返答が返ってきた。間違いない、酔っている。嫌悪感は激しい鼓動になってみちるの心臓を動かしていた。
「誠二郎さんが、私はあなたの白鷺になるだろうって」
「鳥だろ、鳥。」
「いや、その位は私にも分かりますけど」
「みちるは白鷺というより鴎だな、あれは見目はいいが、悪声だ」
「ちょっと、誰が悪声ですって?」
「ほら、そうやって、がぁがぁがなり立てる」
屈託の無い笑い声が響いた後、龍一郎が黙り込んだ。どうやら気分が悪いようだ。
「まさか私の上で吐く気じゃ…」
みちるの独り言にも気がつかず、龍一郎はみちるの頭を掴むと強引に撫で始めた。
意味が分からない。
ただでさえ細い体のみちるには龍一郎を動かすこともできず、しばらくすると疲れてそのままうとうとと寝入ってしまった。ときおり髪の中を混ぜ返す手が無意識にそろそろと動いていた。
刺すような冷気にふと目を開けると、既に空は白みかけ、朝の訪れを告げていた。そろそろ女中が朝餉の支度に起き始める頃だ。
「わ、若旦那さま、お嬢様―――?」
しまった、という意識は働いたが、やはり動くこともできずみちるは天を仰いだ。
縁側の上、男女が絡み合いながら頭を撫でられている(果たしてそう見えただろうか)姿は、勿論のこと歪曲されて使用人たちの間に噂を広める結果となり、全員が朝食の支度につくころにはみちるは好気の目に晒されていた。
「みちる、昨夜兄様と公然猥褻したって本当?」
そして歯に衣着せぬ言い草で加恵が尋ねた。一言「誤解よ」とだけしか言えず、あとは睡眠不足の頭痛に苛まれ、こめかみをさすることに徹した。
ついにひそひそと耳障りな周囲に苛立ちが度を越えたのか、龍一郎が膳を叩いた。しかし二日酔いは未だ治っていないようで、味噌汁だけを遠ざけていた。
そのことに気づくと、みちるはひとりでに口角が上がるのを抑えられなかった。
「もういい、行くぞ。みちる?」
後に思う。
私はこの瞬間から黒田龍一郎に恐怖を抱くことはなくなった。
会食に向かう車の中、和服の龍一郎が襟を直しながら不機嫌そうに話し始めた。
「今日の会食の相手だが、宮家の血筋の、黒田にとっては上顧客みたいな相手だ。奴ら歴史にのっとった生活を送って体は全く鍛えていないからな。だから顔もお前とは違って純和風だ。平安調とも言えるな」
何もそんな言い方をしなくても…、とみちるが窘め、しっかりと目が合うと龍一郎はしばらく押し黙り、やがて言いにくそうに切り出した。
「昨夜、何があった」
「覚えてないんですか?」
「何かを飲んでからの記憶が曖昧だ。お前が居たことは覚えているが」
「私にしたことも?」
「……起きてみれば使用人に祝辞を述べられるし、加恵が泣きながら『兄様不潔よ』と走り去ったが、そういった事実がないことくらいは分かっている。当事者だからな」
そこまで言われると何も答えることが無くなってしまう。
「だから、まさかとは思うが俺のしたことでお前が不快な思いをしたなら…」
「したなら?」
眉間に皺を刻み込んで、龍一郎が息をついた。
「一度しか言わんぞ」
みちるがにっこり笑って頷いた。
「すまなかった」
この広い世の中で、ここまで謝罪に気負いが必要な人間がどれ程居るだろうか。そう思うとみちるの頬は勝手に綻んだ。
「何笑ってる」
「いえ、別に…」
ゆっくり姿勢を正すと、いつもの仏頂面に戻った龍一郎が髪を撫で付けていた。
「今日が外で初めてみちるが俺の婚約者だと発表するわけだが、今後の行事も含めて俺とお前の雰囲気を決めておく必要がある」
「雰囲気?」
「つまり演技だ。俺はお前に惚れていて、並み居る内外の婚約者候補を押し切りお前に結婚を申し込んだ男だからな。少なくとも世間の解釈では。」
どうして世間は本質を見ないのだろう。黒田龍一郎が私に惚れるなんて、加恵が東大に合格する位の確率で有り得ないことだ。
「……問題はお前だ。お前は俺に気が無い振りをする。」
「いえ、元々ありませんから」
「黙ってろ。黒田の重圧に耐えながらも健気に振舞おうとする『大人しい』婚約者を演じるんだ。」「どうして演技をする必要が?」
「相手が煩く口出しするのを防ぐためだ。でないと、まずお前が標的になる」
「なぜ?」
龍一郎はため息と共に、改めてみちるを全体的に見回した。明るい茶の髪を複雑に結い上げて赤い花簪で飾り、白い肌によく映える濃紺地に大輪の牡丹が描かれた着物、豪華な金糸の帯を締めたみちるは外国人には見えなかったが、かといって日本人に見えるわけではない。
陶磁器のような滑らかな白い肌、伏せるたびに音がしそうなほど長い睫。赤い唇。こんな容姿を目の当たりにすれば、誰でも心奪われるかひどく嫌悪するだろう。
ただ、どうしても自分にはみちるが美しいとは思えない。
「その着物は、みちるの母親の若い頃に仕立てたそうだ、親父が」
「お母さんが着てたの?」
「らしいな。今朝になって親父が離れから出してきた。きっとよく似合うだろうから、と」
母と同じ着物を着られるとは思っていなかったみちるは、誠二郎の心遣いに感謝した。
「最後の部分は親父の意見に賛成だ」
目的地に着き、車から降りる際にそう言い放つと龍一郎はさっさと先に行ってしまうので、みちるは慌ててその後を追いかけた。歩いているうちに龍一郎が何を言ったのか忘れてしまった。
茶会。正客の席に座った龍一郎よりかなり離れた位置、つまり末客席に座ったみちるは不安に苛まれていた。
実は、作法の勉強は未だに「茶懐石」まで進んでいないのだ。理由は偏に生徒の怠惰からだったが、この宮家だか何だか知らないが鼻持ちなら無い連中に馬鹿にされるのは耐えられなかった。
入ったきり、口を開いていない龍一郎とみちるは、睦まじさを演じるに値していなかった。それもまた、みちるを苛々させた。
「折敷膳どす、今日は鯛のええのんが入りましてな、向付にさしてもらいました」
と、いきなり良く分からないものが登場した。
足の無い膳に、御飯と味噌汁と刺身が載っている。鯛が向付だそうだ。
………これだけの情報で、どうしろと!?
あまり頼りたくは無かったが、溺れるものは藁をも掴むという心境で黒田龍一郎を見つめた。こちらをちらりと見ると、大体の事情は察したようで、おもむろに味噌汁の茶碗を持ち、続いてみちるを促した。味噌汁と御飯を頂いてから、刺身を食べるらしい。
きっと未だに味噌汁なんて嗅ぐのも嫌だろうに、談笑しながら二日酔いの気配を微塵も見せない龍一郎に驚いた。
「ところで、今日連れていらした、あのお嬢さんはどなたですのん?」
亭主が分かりきった質問を切り出した。みちるは今からが本番だと感じると、にわかに緊張し胃が重くなるのを感じた。
「私の婚約者です」
見たことも無い晴れ晴れとした笑顔で黒田龍一郎が答えた。みちるは今見たものが信じられなかった。これが演技だというなら、この人は一生信じられない。ここまで演技が板についた医学生も珍しい。実は新劇の団員なのではないかという疑惑が頭をもたげた。
「ほぉぉ、可愛いらしお嬢さんですなぁ」
亭主がみちるに向かい笑んだが、席に入るとき「余所者は入れとぉないなぁ」と呟いたことをみちるは忘れてはいない。この狸親父が、と胸中で毒づくと、みちるもにっこり微笑んだ。
まるで狐と狸の化かしあいだわ。馬鹿馬鹿しい。
「ええ、可愛いでしょう。僕は今まで生きてきて、こんなに可愛らしい人を他に見たことがありません」
…………はい?
今度こそ黒田龍一郎の演技が恐ろしくなった。どうしてそこまで嘘がすらすら出てくるのか。みちるの思惑に反し、龍一郎の口上はまだまだ続いた。
煮物が運ばれてきた。新物の蕗の薹と大根が飾られていた。
「こう言ってはなんですけど、黒田の若さんはまだ学生やっちゅうことですから、ご婚約はまだや思てましたわぁ。ウチの娘もまだまだおぼこいし言うて」
ならどうして宮家の瓜実顔の見合い写真を送りつけてきたんだ、と龍一郎から聞こえてくるような気がした。なるほど、ここの娘を押し付けられそうだったから、あんなに態度が剣呑だったのか。
「彼女と一日も離れていられなかったんです」
みちるは口の中の蕗の薹を出しそうになった。よくもまぁ、そんな事が言えるものだ。
「ご存知のように僕はまだ学生ですし、彼女にも学校がありますから婚約期間ということですが、僕にとっては彼女さえよければ明日にでも籍を入れたいと思っているんですよ」
「これはこれは、聞きしに勝る御執心ですな。当てられてしまいますわ」
焼物、炊合、椀物、八寸、湯桶、香の物と懐石は続き、胃も頭も重くなってきた頃には、黒田家がこの宮家を往診しているだけでなく、何か別の取引があることにみちるも薄々分かるようになってきた。
「ほんま、若さんは医者にするには惜しい人ですな。どうです、今からでもウチの息子になりませんの?」
「ここにはみちるは居りませんので」
「妬けるわぁ、みちるはん、若さんに何て言われてはるんでっか?一人で惚気さすんはしょうないですしな」
「別に…何も…」
みちるの今日の言葉。ただそれのみ。
「あー、疲れた」
帰りの車の中、黒田龍一郎が発した第一声はそれだった。
「詐欺師…」
みちるが半眼でそう言い放つとふんっと鼻で笑い飛ばす音が聞こえた。
「爺ども相手の詐欺なら犯罪にもならんだろう。俺が詐欺師ならあの狸爺は由緒正しい盗賊だな」
「何の商売を?」
「お前には関係の無い話だ。ところで、腹減ったな」
「さっきまで食べ通しだったじゃないですか!」
「俺は話してたから食う暇が無かった。それと、お前、魚の喰い方間違ってたぞ」
「いきなり懐石を完璧に食べるなんて無理ですよ」
緊張した空気から逃れたためか、二人は今までになく気を許して話し合っていることに気がついたのは運転手だけだった。
「そうか、もうこんな時間か」
車の中についていた時計を見ると、もう六時を過ぎていた。図らずも約束をすっぽかしてしまったことにみちるは泣きたくなった。
もう会うこともないだろう。しかし、でも、もし、待っていたら?
「三条に回ってくれ、飯が食いたい」
三条なら大学の前を通る。みちるは龍一郎に向き直った。
「私、今日頑張った!頑張ったよね?」
いきなり大声でみちるが言い出したので、龍一郎はぎょっとしながらも渋々頷いた。
「あー、まぁ、居ないよりかマシだったな」
「じゃあ許してねっ、ごめんなさい!ここで降ろして!」
自分の名前を呼び止める声を背に感じたが、もうどうしようもなかった。振袖でできるだけ走りながら構内を走った。
もう6時20分だ。普通なら諦めて帰っている。
もしエリオが居たとして、自分はどうしたいんだろう。
まだ自分の気持ちも整理できていない状態で、みちるは走っていた。ただ、もう一度あの笑顔に会いたくて「偉かったね」とだけ言ってもらうために。
ベンチに着いた。
エリオは居なかった。
「ははは、……やっぱり?」
みちるは頬に冷たいものを感じた。しばらく経って、それが自分の涙だと気づいた。
誰も居ないベンチをひとしきり眺めた後、みちるは踵を返した。
何だかものすごく情けないけど、帰ろう。そして黒田龍一郎への言い訳を考えよう、と何度か頷き自分を納得させた。
「みちる?」
林の影から、もう見慣れた赤毛がちらついた。
「うわぁぁぁぁっ、みちるどうしたのその格好!すっごいキレイ!」
全く何事も無かったかのようにエリオがまくし立てていた。
「って、うわ、え?なんで?なんで泣いて…」
衝動に従うままに、みちるはエリオにしがみついた。まるで嵐の中、そうしないと立っていられないように。
5
「あの、動かしても、よろしいでしょうか?」
運転手が龍一郎に問いかけた。みちるが降りた後、状況がつかめずしばらく呆然として車を走らせたが、しばらく経つと急に方向を変えるよう指示した。
意図が分からず困惑する運転手にもう一言「大学の正門前につけろ」とだけ言い放ち、龍一郎はむっつりと黙り込んだ。
凶悪な顔つきで、今にも内面の怒りを周囲にぶちまけそうな男に、十年来黒田に勤めている善良な運転手の声は届かなかった。
運転手は黒田龍一郎が小学生の頃から後部座席に乗せてきたが、こんなに感情を表に出している彼の姿を見るのは初めてだった。確かに昔から空腹時には感情の起伏が激しくなる傾向にはあったが、それも嫌味を言うか否かというほどのものだった。
それから、過去にもう一度だけ感情を露にしていた瞬間を思い出し、運転手は微笑んだ。彼はその時に初めて車中で大声を出したのだった。
龍一郎は嫌味や苦言を呈することはあっても、常に使用人のことを考えている。運転手は普段から龍一郎への敬意を隠さなかった。
しかし今日は先ほどから彼の様子がおかしい。立場上、注意するわけにもゆかず黙ってはいるが、さすがに車内で貧乏ゆすりをされると制止の一言も言いたくなる。
さらに龍一郎がぶつぶつ何かを言い始めたが、その声は運転席まで届かない。
「龍一郎さま、何か言いましたか?」
「うるさいっ。黙って停めてろ!」
「道路の真ん中なんですよ、龍一郎様~」
車を動かすように懇願する運転手を無視し、目的も言わず大学に走っていったみちるを待つのももう限界だった。
龍一郎はため息をつくと、顔を上げた。
「………分かった、車を家にまわせ」
全く、あいつだけは理解の範疇を超えている。
エリオには訳が分からなかった。
ただ彼に分かることは、大幅な遅刻があったけれども、みちるがここに来たということ、何故か泣いているということ、そして自分に抱きついているということだった。
みちるは自分が日本人だと言っていた。全くもってその通りなのだろう。彼女が言いたいことは分かる。外見だけで判断してほしくない、自分の中身を見て知ってほしい、と毎日胸中で叫んでいるのかもしれない。
きっと、彼女に言いようの無いシンパシーを強烈に感じたのはそのせいだろう。
彼女の精神は誰にも侵しがたく、清廉な、まさに大和撫子そのものなのだから。
「みちる……、どうしたの?何かあったの?」
穏やかな、子供をあやすような口調でエリオが尋ねた。
みちるはまだ喋らない。
「クロダリューイチロに泣かされた?」
わざと片言の真似をして、道化たつもりだったが(実際、彼の名前は難しいと感じていたし)今のみちるにその名前を出すべきではなかった。
みちるは驚いてエリオの顔を見上げた。
エリオはみちるの表情を見なければよかったと後悔した。
そこに何かしらの感情が見えたら、もしかすると最も歓迎できない事態が起こっているのかも知れないと思い始めていた。
幸いにも、その瞳の奥に色めいた感情は見えなかった。あるとすれば恐怖のようなもののみ。だが、なぜ?
なぜ、そうと分かるだろう。エリオは自らの体験で感じていた。女性にとっての恐怖というのは……。
「そんな…ことはないわ」
「そう、彼が嫌いだと言っていたね」
「ええ、大嫌いよ。そんなことより、遅れてごめんなさい。セ、セーターも忘れちゃって」
無機質に言葉を繰り返し、みちるの取り繕う様が気になった。もしも、みちるが動揺していなければ、エリオが隠れていたことに対して文句を言うだろう。家族のように何でも言えるはずだ。
「みちる?」
みちるが目を丸くした。次に来る疑問を感じて準備しているようにも見える。表情に感情がダイレクトに表れるのは素直なだけではない、相手に一分の緊張も感じていないからだ。
自分は卑怯なことをしようとしている。今さっきまでは彼女の心が成長するまで待つつもりだった。
何故なら、まだ彼女は「女」では無い。
その深い瑠璃色の瞳には、女性が女性であるがゆえの計算、媚態、情熱が宿っていない。彼女に心から愛する男性、いや、心を揺さぶる異性がまだ居ないのは明白だった。もしかしたら危険な賭けになるだろう。
それでも、今、聞いておかないと、手遅れになるかもしれない。
「僕が好き?」
「おかえりなさいませ、兄様」
三つ指ついて自分を迎える加恵には目もくれず、龍一郎は女中にいくつか指示を与えた。車から降りた後、龍一郎は一歩も歩みを止めることなく大股で歩き続けていた。玄関で放るように下駄を脱ぐと、使用人らは直ちにこの若い主人の苛立ちを見て取った。
そして朝の時点では傍らに居たはずの婚約者が居ないことに気がつくと、龍一郎の不機嫌の理由を何とはなしに気づき始めていた。
しかし、そんな龍一郎の変化にも気づかずにいるのか、加恵はめげずに更に話しかける。
「みちるは?」
しかし、それは失敗に他ならなかった。
一瞬にして張り詰めた空気の中、龍一郎が厳しく言い放った。
「知らん!!」
自分でも、何故こんなに苛々しているのか分からなかった。ただ、車から降りて走り去るみちるの姿を見たときから、頭痛が止まない。
彼女はいったい、何処へ、何をしに、誰のために行ったのか。あんなに焦って車を飛び降りる様を見たのは始めてで、きっと動揺しているのはそのせいだと言い聞かせた。
しかし体は正直にも、既に服を着替え出かける用意をしている。
「あの…馬鹿がっ」
「兄様?もう服を着替えて、どこかに行かれるの?」
加恵には訳が分からず、ただ狼狽するばかりだった。冷静沈着な兄がここまで落ち着かなくなっているのを始めて目の当たりにし、その原因に小さな嫉妬を覚えた。
「出かける。車はいらん」
家について五分も経たずに、龍一郎は今来た道を戻っていった。早足で行けば、大学までは十五分とかからない。
「僕のことが好き?」
エリオの言葉が頭の中で踊っている。さっきから「ええ、好きよ」と言おうとしているのに、のどの奥に引っかかって何も言えない。
好きなはずだ。きっと、エリオのことが好きなんだ。
でなければ、ここまで会いに来た理由がない。そうあるべきなのだと、自分に言い聞かせた。
エリオが困惑するみちるの頬を撫でた。温かい手がゆっくり額を撫でる。
ほら、エリオに触られても嫌な感じはしない。気分が落ち着いていくのを感じてみちるは息をついた。
同時に伏せた睫から雫がこぼれおちる。
「泣かないで、みちる、これがそんなに辛いこと?」
「ずるいよ、エリオ……」
自分でも分かっていた狡猾さを改めてみちるから指摘され、エリオは言葉に詰まった。
「私、分からない。いままで、あなたが好きなんだと思っていたの。毎日あなたのことを思い出して、考えて心の支えにしてた。でも、でも分からなくなってきたのよ。あなたが好きなのは、母や父を好きなように温かい気持ちでいっぱいになるの。でも私はあなたを手に入れたいとは思わないのよ」
「手に入れなくても、僕はもう君のものだよ」
「私、嫌な女だわ…だってそれが分かっていて、あなたを家族のように近い存在だと感じているのかも知れないもの」
「僕も君が近い存在だと…実の家族より魂が近い相手だと初めて会ったときに感じたよ」
「どうして気づいてしまったの。気づかなければ、ずっとあなたが好きでいられたのに」
「それは僕の台詞だよー。気づいてなきゃ、僕の花嫁になって幸せな人生が送れていたのに。」
「ごめんなさい…」
「謝ることじゃないよ。むしろ、今日は君の旅立ちだ。今日今から君は世界のどこかに居る愛しい人を探す旅に出なきゃならない。辛く厳しい旅だけど、君は幸せになるために努力しなきゃ。この世が薔薇色じゃないって気づいたら、世界を回してくれる誰かを見つけるまでは、君はずっと孤独のままだから。………どんなに愛されても、どんなに大事にされていても、もう君には物足りない」
「そうなの?何だか、こわい……」
「ダメ、ダメ。幸せになりたいなら歩き出さなきゃ。まずはたった一人の誰かを探さなきゃね。それまで僕は君の優しいお兄さんになるだけだよ」
「エリオ、私、エリオのこと大好きよ?」
でもそれは「愛」じゃない。
「うん、家族としてね。じゃ、行きなよ」
「また、会ってくれる?」
エリオはみちるの頬を軽くつねって、親愛の情を示した。
「木曜のこの時間なら、いつもここに居るから。話したいことがあったら、ここにおいで。だけど今日は、もう、お行き」
去っていくみちるを笑顔で見送って、エリオはベンチに座った。
「サイッテー…イノッポルトゥーノ……ヴァッファンクーロ!!」
どっと押し寄せる喪失感に飲み込まれまいと、無意識下で自国語であることにも気づかず悪態をついていた。
出会ってまだ二週間。運命の相手だと、初めて感じたのに。
こんな、故郷からはるか遠く離れ、東の小さな島国に来た意味が(いや、医学の勉強に来たのだけれど)分かった気がしたのに!
マリアにもヴィクトーリアにもアルテーアにもカレンドラにも感じたことのない何かを感じていたのに。
いともあっさりと、しかもこれから彼女を見守る苦しみが続くなんて。彼女が誰かを愛し、この世の誰よりも美しくなっていく様を見るかもしれないなんて……。
「レイ マルトリアーレ ミ・・・・・・」
「何を言っているんだ?」
目を開けると、そこに自分を苦しめる原因(を作ったと思われる)が立っていた。
「シニョール、黒…」
「だから、日本語話せるだろ?ここに紺の振袖着た子が来なかったか?」
見ると、いつもの冷静さをどこかに落としてきたように、汗だくで苛立ちを惜しげもなくさらけ出している。明らかに、いつもの黒田龍一郎ではない。
「みちるなら帰った」
憮然と言い放った後、自分の失言に気がついた。
彼は「みちるは何処だ?」とは聞いていない。相手もこの失言をはっきり聞き取ると、眉根を寄せた。皮肉げに唇が歪むのをエリオは見て取れた。
「………貴様がみちるの相手か」
「無粋な想像は止めたまえ、黒田くん。ただ話をしていただけだ、天気とか」
わざと丁寧な言い方をして、相手を煽っている自分が居た。
どうやら、自分は黒田龍一郎を殴りたくて仕方がないらしい。
斜に構えた顔から鋭い視線がこちらに注がれた。確か武術を習っているらしいことは聞いている。実践的な競技でないことを祈るばかりだ。こちらときたら、スポーツはサッカーとテニスと水泳しかしたことがない。
白いシャツの胸で腕を組んでいるのは、拳を振り上げないためだろうか。
この男が自分より冷静でないことを証明したい。自分がこの男よりも立場が上だと証明したい。子供じみた発想だった。代償は大きいと理性が警告していてるが、もはや衝動は止められなかった。
たとえ血を流しても。
「それなら、どうも。しかし今後は僕の婚約者に近づかないで頂こうか」
やっと搾り出した声が枯れている。苛立ちもさっきから限界を超えている。どうしてか分からないが、この男を殴りたくて勝手に拳が握られる。
「束縛したいのか?愛はないのに?」
「束縛?違うな、守ろうとしているだけだ。」
あの毒に塗れた黒田家から。係わらないでいられるなら、そのほうがいい。
「それはご苦労なことで。しかし彼女も子供ではないのだし、全てから守る必要はないだろう………婚約者とはいえ」
「たとえそうだったとしても、君にそんな事を言われる筋合いはない」
黒田龍一郎にそう言い切られた。頭のどこかで線が切れる音を聞いた。
まったく、どうしてこんな男が………。
「君にそう言う権利もないんじゃないか?」
「何の話だ…?」
「とぼけるな。国文科の溝谷女史とのことだ。毎週毎週、白昼堂々構内で逢引きしているだろう?愛の無い婚約とはいえ、仮にも婚約者を気取るなら、その前に女を片付けたらどうだ!」
「ヴェッキオ、もう一度、言ってみろ…」
「僕はみちるが好きだ。だから彼女を動揺させるような事は言いたくないから、彼女には黙っておいたが、いずれ周囲に知られて彼女が傷つくようなことになれば、君を許さない」
「いい度胸だ」
最後の一言は、強烈な右フックと同時だった。
「兄様!?その怪我、どうなさったの?」
やはり玄関先で待ち構えていたのは、加恵だった。とっさに玄関に置いてある外套で血の滲んだシャツを覆い隠すと、靴を脱ごうとして右足の痣に気づいた。どうやら、奴もやられっぱなしではなかったらしい。
結局、唇の端を切り、左腕に軽度の打撲を負っただけで、龍一郎は軽傷で済んだ。龍一郎は相手を想像して息をついた。
ベンチで気を失っていたが、今日中に家に戻れるのだろうか。戻れたとしても、当分は動くのも辛いだろう。いくら相手に挑発されたとはいえ、武道の心得のある者が初心者相手に些かやり過ぎてしまった。苛立っていたせいだろうか、止めるタイミングも失って相手のことを省みなかった。
それもこれも……。
「加恵、みちるは何処だ?」
風呂に急ぎながらも、未だに姿が見えない探し人が気にかかり、振り返って加恵に尋ねた。やっと自分とまともに会話してくれた兄に、加恵は眩しい笑顔とともにすぐさま返答した。
「何でも、ご実家の呉川さまの容態が良くないから看病しに行って、今夜はあちらに泊まるってさっき電話があったわ」
加恵は兄が絶句していることにも、その理由にも気づかなかった。
目の前で脱衣所の磨硝子が閉められると、乱暴に服を籠に投げ入れる音がした。
檜の風呂は、先々代の自慢だったそうだ。立て替える際に日本一の職人に頼み込んで、二年の歳月をかけて完成したこの作品は、四方2メートル弱と庭内の人工池とはる広さになった。今でも湯を張ると檜の香りが鼻腔を貫き、どんなに筋肉が緊張していても糸を緩めてしまう。
龍一郎は、この家の中でここが一番気に入っていた。
裕福でよかったと思える瞬間は、朝でも昼でも風呂が楽しめることだ。年寄りは朝風呂を穀潰しの象徴だととらえるが、健康には夜入るよりも日中に入ったほうがいいのだ。
湯を手ですくい、顔をこすった。
枠内に腕を広げても、まだまだ余る広さに目を閉じて思想にふけった。
どうやら先々代は妾や馴染みの女を呼んでは一緒に風呂に入っていたらしい。御年八十九まで生きていたのだから、健勝としか言いようが無い。
昔、誰かが言っていた。黒田の当主はみんな性的倒錯の傾向があるそうだ。先々代は15までの少女を好んだ。先代は妾と本妻との確執に疲れ、晩年は若い書生しか傍に置かなかった。
そして、当代の父は……。
確かに倒錯かもしれない。長年、恋い慕い続けた女性の娘を息子の許婚にするなんて、正気の沙汰ではない。みちるが実家に逃げ出すのも当然だろう。
しかし、彼女は呉川沙羅のように駆け落ちすることは無い。
あの外国人でさえ、みちるを理解するには至らない様だし、彼女にはまだそれほどの熱は無い。まだ加恵と同じ、十五の子供だ。
みちるを思うと、龍一郎は真暗な闇の中に一人取り残されるような孤独を感じる。初対面で感じた嫌悪には慣れ、親近感めいたものも感じるようにはなっていた。
自分は絶対、呉川みちるを好きにはならない。
だいいち、彼女の外見でさえも美しいとは感じないし、性格ときたら狂犬の方がまだ大人しいくらいだ。
女性というものは、もっと……。
思い出したくない記憶がまざまざと蘇り、龍一郎は首を振った。しかし記憶は温かい湯とともに体にまつわりつくと、彼から離れなかった。
彼の母は、体の弱い人だった。もともと、黒田ではその排他主義から近親婚が奨励された為、時には彼女のように病弱だったり、障害を持つ人間が生まれた。
彼女は生まれた時から、黒田誠二郎の妻と成るためだけに存在していた。華道茶道その他作法に至るまで、全て当主に相応しい妻になるための必要不可欠なものだった。彼女は慎ましく、誠二郎に憧れ成長し、妻に成る日を待ちわびていた。
長男が脳に障害を持っているため、次男ではあったが誠二郎が本家を継ぐのは誰の目にも明らかだった。だからこそ、他の婚約者候補に引けを取らせまいと、彼女の両親も彼女の身に余る期待を寄せた。
若く、有能で、傲慢に黒田を取り仕切る誠二郎は内外の婚約者候補の垂涎の的であり、彼女はかろうじて家柄と先代の言い渡しで許婚の地位を獲得していただけだった。それが分かっていたからこそ、彼女は自分を磨くことを怠らなかった。弱弱しい体に鞭打っては稽古に励んでいた。それも報われる日だけを待ち続けて。
しかし、黒田誠二郎は出会ってしまった。彼の世界を一変させる女に。
十七を迎えてすぐ、十歳そこそこの沙羅が彼の前に現れた。黒田とはいえ、外国人に嫁いだ女に地位はなく、沙羅も黒田の厄介者として処理された。
母も最初は全く沙羅の存在に気にも留めていなかった。当時はうす汚い格好をした、ぎらぎらした目の子供だという感想だけだった。
だれも黒田沙羅に対してさしたる興味も無く、無視を決め込んでいた。
だから、その直後に誠二郎から婚約発表を延期するようにと言う通達が来ても、「学生という身分では婚約に値しない」という誠二郎の講釈を信じ、他の理由を疑う人間など誰一人居なかった。
誠二郎が十八になれば、すぐに執り行われたであろう婚約が二年、三年と延びてゆき、ついに五年経った。彼女は健気にも待ち続けていた。いつか誠二郎が自分の手を取り求婚してくれる日を、待っていた。
ようやく黒田の連中にも沙羅の鬼気迫る美しさが見えるようになり、他に引き取る場所が無かったため誠二郎のいる本家で引き取られていることに不安を覚えていた。使用人たちは既にこのとき気づいていたらしい。彼の途方も無い恋心に。 そんな中、誠二郎が全く何の予見も無く、沙羅を婚約者にすると言い放った。
勿論のこと、黒田の家全員が猛反対した。外国人の娘を黒田の血統に入れるなど言語道断、さらに沙羅には何の後見も無く、何処の馬の骨とも分からない人間は信用しかねると口々に沙羅を罵った。
黒田の人間が騒ぎ立てる中、誠二郎は一言告げた。
「私か、黒田の沽券か、どちらをお選びになるのか?」
彼は自分の要求が通らなければ黒田を出ることを決心していた。それほどまでに、たった一人の少女に溺れていた。
元々の婚約者であるはずの彼女がこのことを聞いたのは、その場ではなく、午後になってからだった。沙羅という外国人の娘に溺れ、勝手に婚約を破棄しようとしている、と。周囲の苦言は彼女の耳に届かなかった。たとえ何度かしか会っていなくても、彼女にとって黒田誠二郎は仏のような、理想の婚約者であったからだ。
幼い頃からの憧れは神格化し、誠二郎は正しい行いしかしない聖人君子のように思われていた。しかし周囲の目に映るのは、恋に溺れたただの男だ。
真実を確かめなくてはならないと、彼女は決心した。気弱で重要な事項を一人で決めたことの無い彼女の始めての決断だった。
夕方、本家から数軒ほど離れた家から歩いていく道も彼女にとって長く苦しい旅だった。ただ一言、婚約解消は誤解だと聞くためだけに彼女は本家まで歩き、着いたときには玄関先で倒れそうになった。運悪く門番が居なかったため、彼女は入口にほど近い離れで一休みしていた。
この後、彼女はここで休んだことを一生後悔することになる。
声が聞こえて、彼女はとっさに身を隠した。誠二郎以外に姿を見られたら、咎められるかもしれない。
現れたのは、腰まで届く長い髪の美しい少女だった。彼女はあまりの美しさに息をのみ、障子のすきまから向こう側をじっと見つめた。もしかしたら……。
「沙羅、待ちなさい、沙羅!」
林から剣道着の誠二郎が、少女を追いかけてきた。彼女の疑問が確信に変わった。やはり、この美少女が黒田沙羅だったのだ。
誠二郎の肩より少し高いほどの長身で、すらりと伸びた手足はなるほどテレビで見た外国人のようだ。ぬけるような白い肌に、向日葵色のサンドレスがよく似合っている。
私は着物しか着たことが無い……。
彼女の心にインクを落としたように真っ黒な染みが出来た。みるみるうちに広がっていく。どす黒い感情に支配されそうになる。
嫉妬だった。
「沙羅、どうして逃げるんだ?俺が怖いのか?」
心底楽しそうに誠二郎は沙羅を追い詰めている。彼女の瞳は怒りに燃えていたが、その感情は彼女からは見て取ることが出来ない。
「怖くなんてないわ、貴方なんて大嫌いよ、あっち行って!」
「嫌だ。俺は沙羅から離れたくない」
「離れてよ!どっか行って!」
本気で嫌がられたことに腹を立てたのか、誠二郎が沙羅の腕を掴んだ。沙羅の中を貫いたのと同じ種類の恐怖が、彼女にも訪れた。
誠二郎は真剣な眼差しで沙羅と視線を合わせようとしている。沙羅が顔を背けると、片手で沙羅の両手首を掴み、もう一方で顎を掴み顔を向かせた。
「は、はな……して」
やっとの思いで搾り出した沙羅の懇願を聞き入れることなく、誠二郎は視線を合わせていた。止める気はない、と目を見れば聞こえてくるようだった。
「っ!!」
彼女は声を出すことができなかった。彼女の婚約者だと信じていた男は、沙羅を押さえつけ何度も口付けていた。
この日から、彼女が黒田誠二郎を許すことは無くなった。
この話を、当時5歳だった龍一郎に繰り返し告げては、最後にこう言った。
「龍一郎、あなたもこの家に生まれたからには、黒田に踊らされる運命にあるのよ。彼は結局のところ、愛してもいない私を娶ることになった。けれど考えてみて?愛とは何かしら?あんなにあの女に執着していた誠二郎さまも、家を出ることなく簡単に諦めてしまったわ。じゃあ、愛は何なのかしら?……幸薄い西洋人の考え出したそんなもの、存在しないのよ。」
幼い彼はただ、嫌悪するわけでも、同情するわけでもなく、母の言うことに耳を傾けていた。時折、母の元に父がやってくると彼女は憎憎しげに夫を罵り、ついには泣き伏すのだった。
正直、父はそんな母を辟易していたことも、龍一郎には分かっていた。彼がまだたった一人の女性にしか心を寄せていないことも。
そんな中、今では不思議に思えるが、母が加恵を身ごもった。二度の妊娠は体への負担が著しく、周囲は諦めるように説得したが、母は聞かなかった。
腹の子が大きくなるにつれて、どんどん彼女はやつれていった。顔色が悪く、時々短く気を失うこともあった。そんな母を見ながら、龍一郎は初めて死の恐怖を見た。
その日は、使用人がいつものように掃除をしながら無駄話に精を出していた。幼い龍一郎はその容姿から、使用人たちからも愛でられていた。
「おはようございます、龍一郎ぼっちゃま。いい天気ですね、布団を干すにはもってこいの陽気ですわ」
「うん、おはよう」
「聞きまして?龍一郎ぼっちゃまの従妹にあたる女の子が生まれたそうですよ。さっき大叔母様が言ってらしたのを聞いたんです。赤ん坊なのに、すごく美しいんですって。将来が楽しみですねぇ。」
この時の龍一郎には黒田のタブーなど知る由もなかった。知っていても聞いてはいけないことがあったことも。
「へぇ、どこの子?」
「確か……黒田沙羅さんの娘さんで、みちるちゃんって、言うんですよ」
母はこの瞬間から俄かに容態が悪くなった。若い女中は助けを呼びに行き、龍一郎はか細い母の手を取ると、幼子の力でしっかり握り締めた。
「母さま、母さま!しっかり!」
「龍一郎、いい子ね……」
母はすでに虫の息で、震える唇で最後の言葉を告げようとしていた。
「あなたは、黒田の嫡男として……誇りを持ち、気高く生きるよう……決して、決して黒田の家を許さぬように……踊らされたくなければ、潰すのです」
そこには、儚げでたおやかな彼女の姿はなく、恨みに支配された般若が龍一郎の肩を掴んだ。
「あ、あ、あなたは…いったい」
「自分が誠二郎の片腕となり黒田を支えるなどとはゆめ思わぬよう!どうか……どうか母のために、黒田を…」
母は龍一郎の小さな膝にくず折れた。
医者が到着する間際に彼女はこう呟いて息を引き取った。
「黒田沙羅の娘だけは愛さぬように……」
腹の子は臨月だったため、直後に帝王切開され元気な産声を上げた。事情を知らない人間は加恵が母親の命と引き換えに生まれた子供だと口々に言い放った。
天井から落ちた水音で目が覚めた。すっかり湯は冷め切っている。
いったい何の夢を見ていたのか分からなかったが、最後に考えた一言だけが脳裏をよぎっていた。
「黒田沙羅の娘だけは愛さぬように……」
馬鹿馬鹿しい。
何度か頭を振って風呂から上がった。