霧の中の誘惑
本来であれば、目の前で保護欲をかられるような表情を向けられたオルテリアならば、戸惑い隙が生まれることだろう。リーシャに保護欲の塊と思われている彼女ならなおさら。
……本来なら。
「……ちぇえ。そんなミスでばれちゃったか」
よろよろと立ち上がるアカリは……いやアカリの姿をした者は、打ち所が悪かったのか額から血を流している。しかしそんなもの、ダメージですらないかのように歪な笑みを浮かべている。
呼び方程度の間違いでばれてしまったのかという、自虐にも似た笑み。
しかしその言葉を聞いたオルテリアは、鋭い目を向けたままだ。不気味がることも、まして心配することもない。
「相手の中にいる『大切な存在』、そして最も『大切な呼ばれ方』。この二つがイコールじゃないとか、まあ勉強になったと前向きに考えるべきかな」
「呼び名は些細な問題でしかありませんわ。そもそもの話……私があなたを、アカリさんであるかそうであるかを、見抜けないとでもお思いで?」
たとえ姿がそっくりでも……本人かどうか、見抜けないなんて節穴な目はしていない。それはアカリが死んでいるから、という理由ではない。彼女が生きていても、本人か否かの判別はつく。
以前、初めてアカリの妹であるユメと出会った時は、そのそっくりさにさすがに驚いた。本当に、本人ではないかと思えるくらいに。
だが、それは彼女が、アカリと血を分けた姉妹だからに他ならない。
「ふうん。じゃもうちっとじっくりあんたの心を覗いて『アカリちゃんからの呼ばれ方』を再現しても無理だったわけだ」
ただアカリを真似ただけの現身など、見破れぬはずもない。オルテリアにとって彼女はライバルであり、友なのだから。
「無論、リーさんやユメちゃんでもあなたの粗末な変装など見破れたでしょうが。……ま、私の前に現れたのは失敗でしたわね。偽物だとわかっても、あの二人なら友や姉の姿をした者を攻撃など出来なかったでしょう。それにドッさんでも、人間の少女の姿をした者を斬るのは、少なからず抵抗があるでしょうし」
「ありゃ、生者より死者の方が動揺すると思ったけど、失敗だったか」
「あなたにとっては失敗でしたが……私にとっては幸運でしたね。人の姿を……大切な人の姿に化け、他者を惑わす下衆をリーさん達に会わせる前に、私が会うことが出来て。ここで、あなたを倒すことが出来るから」
倒す……その言葉を聞いた途端、今まで理解できないような顔をしていたアカリの姿をした誰かは、何かに耐え切れなくなったように笑い始める。
アカリの顔で、アカリの声で。高らかに、邪悪な笑みで。
「た、倒す!? ぷっはは、今、倒すって言った!? あんたが、私を!? け、傑作……マジウケるんですけど! そんなことできるわけ……」
「……それ以上その顔で、その声で話してみろ。跡形もなく消し去ってやる」
笑う偽アカリの言葉を、冷たい言葉が遮る。それは一瞬、誰のものかわからないほどに。だがこの場にいるのは二人だけだ。内一人はばか笑いをしていた。
よって、声の主は一人で。
「……おー怖い怖い。ならお望み通り……」
アカリの顔が、歪んでいく。比喩ではなく、現実に。そこにある表情というものが崩れ、全く別のものへと変わっていく。髪の色も、目つきも、背丈すらも。
それを見つめるオルテリアは何を感じているのか。それは誰にもわからない。
「私は大罪魔獣が一角『色欲』アスモデウス。本来、相手の大切な者の姿をして油断したところをブスリなんたけど……こうなったら仕方ないね」
「やはり、魔物の類いでしたか」
本来ならば、本人の言うように、相手の油断を誘うために一番相手が油断するであろう姿に変身するのが、戦闘方法。ハニートラップに頼らないこれもまた『色欲』の一つの形。
言ってしまえば、対峙する相手の大切な者の姿に化けるのが『色欲』の能力。だがオルテリアに通じなかった以上、正面切って戦うしかないだろう。
そして何も、馬鹿正直に本来の姿で戦う必要はない。たとえ強がっているとしても、どこかで油断が出るかもしれない。よって……
「これなら不自然はないかな、オ、ル、ちゃん?」
『色欲』がリーシャの姿に化けるのも、また必然だ。しかしそれはオルテリアの油断を誘うどころか、火に油を注ぐ結果にしかならない。
「……あなた、ムカつきますわ」
リーシャの前ですら見せたことのない『怒り』の感情を燃え上がらせるオルテリアが、『色欲』を睨みつける。




