天使でも悪魔でもない狂った姿
それが恐怖という感情だと理解するのに、少しばかり時間がかかった。
母を殺し、その時をもって封じ込めた感情……それが恐怖だ。以来、憎しみや怒り、悲しみという感情はあっても、恐怖という感情だけは自分の中に無理矢理押し込めてきた。そんなもの、自分の力を上げるなどのプラスにはならないし、自分より強い相手にも会わなかったからだ。
その感情が今、バランダを支配している。久しく味わう感情だったが、それを理解してからの行動は早い。このままでは勝てないどころか、殺される。
……ならば逃げるしかない。残った力を振り絞り、バランダは漆黒の翼をはためかせる。
逃げるなんて……それも、天使と人間のハーフという存在を前に逃げるなんて、屈辱以外の何物でもない。次に会ったときは必ず、息の根を止める。そう、決意する。
逃げるために力を使うことを決め、無理矢理にリーシャから離れるため後退。さっきみたいにリーシャが棒立ちのままなら逃げるのも容易い。
今はとにかく、ここから離れることが先決……
「! どこ、だ……」
だが、そう簡単には事は進んでくれないらしい。
一瞬、ほんの一瞬だ。瞬きをした程度……その時間の間に、目の前にいたはずのリーシャの姿は消えていた。その瞬間の言いようのない恐怖は、心臓にまで届く。
ゾクッ
「! そこだぁ!」
凄まじい殺意が、背筋を撫でる。姿を消せても、その強大な殺意までは消せない。背後に感じた殺意に向け思い切り回し蹴りを放つ。これを当て牽制した隙に、全速力で逃げる。これが、この場から脱出するためのバランダの即興プランであった。
……そこにリーシャがいれば、成功した可能性のある話だが。
「! いな、い?」
蹴りを放ったそこには、誰もいなかった。だが確かに背後から、殺意を感じ取ったのだ。
あまりの恐怖に、気配を勘違いしたのか? バカな、ありえない。偽物ではなく、本物の殺意を感じたのだ。これまでにいくつもの修羅場を潜ってきたバランダともあろう者が、それを間違えるはずがない。
つまり、バランダにすら認識できない速さでリーシャは移動しているということになるのか。
「! がっ!?」
瞬間、頭を掴まれ地面に叩きつけられる。考え事をしていて油断をしていたなんて言い訳にすらならない。全方向に全神経を注ぎ警戒していたのだから。
それすら意味なく、簡単にあしらわれる。荒れた地面に顔面から打ち付けられ、意識が朦朧とする。額から流れる赤い液体が、視界を染めていく。
「く、そやろう……!」
今のリーシャの強さは、次元すら超えている。リーシャに対抗するための手立てが、今のバランダにはない。
「っ、かっ……」
しかし思考はそこで、中断される。掴み上げられた顔を、もう一度地面に打ち付けられたからだ。行為はそれだけに終わらない。掴み上げては、叩きつける。掴み上げては、叩きつける。
何度も、何度も……何度も何度も何度も。
薄れ行く意識の中見たリーシャの姿……それは悪魔でも、ましてや天使でもなかった。堕天した天使の末路……とも違う。それはまるで、今までの憎しみが爆発したような……この世の全てを憎み破壊し尽くす。バランダをしてそう思わせる、そんなことすら実行してしまいそうなほどに狂ったおぞましい姿だった。
そう感じたのは一瞬。そのまま、バランダの顔は為す術なく地面へと打ち付けるため、勢いをもって落とされていき……バランダの意識は薄れていき……
ぐしゃっ……!




