1話 爆ぜろイケメン
「つかれたな……」
誰に言うでもなく、吐き出された息は夜風に巻かれ消えていく。
夜の8時過ぎ。ルーチンワークでもある残業を終え、ボクはくたくたになりながら仕事帰りの電車を待っていた。
「酒に弱過ぎだろ~」
「おいおい! 乙女か!」
「俺はっでぃ、まだまじゃ飲めるッッ」
疲れた身体に響く、騒がしい喧騒が背後から聞こえる。なんだろうと気になってチラリと一瞥し、すぐにホームへと向き直る。
なんだ、大学生か専門学生の飲み会帰りか。
いいなぁ学生は楽しそうだ、なんてどうしようもない事を考える。
声の主達は三人組の青年たちで、けっこう酔っ払っているのかイイ感じにはっちゃけている。しかし、パリピな彼らのうちの一人が急にホームにしゃがみこんで、えずき始めた。
ようは、ゲロってた。しかも、ホームから線路に向かって。
不憫な奴だな。
あいつは明日いじられ役確定だな。
「おぇっ」
苦しそうな彼を眺め、ボクも学生時代にお酒に慣れてなくて嘔吐したことがあったな、などと呑気に構えていたら『特急電車が参ります~黄色い線の内側までお下がりください~』というアナウンスが流れて少しだけ焦る。
胃の中身を絶賛散布中の青年は、未だ線路に顔を出してグロッキーしている。
そんな不幸な彼の連れ、二人組のイケメン達は何をしていたかといえば。
「ガチかっ! きったねぇ」
「調子にのるからだろ~~!」
などと、楽しそうに笑っている。
おいおい、勘弁してくれよ。
このまま行くとキミ達の友人はご臨終、もしくは大ケガをしてしまうかもしれないだろ。
というか、ヘラヘラと笑っている場合か?
いてもたってもいられなくなったボクは、未だにへたり込みながらゲロゲロしてる青年へと近づき、『キミ、危ないから下がろうか』と、背中をさすりながら後ろに引き寄せようとする。
「おうぇぇえ……ゲホッ」
吐血していた。
…………。
ぇぇええええ!?
吐きすぎじゃんね!?
ってか、大丈夫なのか!?
なんかカタカタ全身が震えてるし、顔色も真っ青だし、もしかして急性アルコール中毒とかになってるんじゃないか?
「あれ? おにぃさん大丈夫だからー、社畜おつかれさんっす」
「俺らがヤるから、心配しないでくれ~」
キミ達じゃ殺りかねないからな?
酔った彼らに任せたら、これは本格的にマズイんじゃないか?
と、懸念した矢先――――
「おっと、やべっ」
「おまえも酔っ払いか」
こちらへおぼつかない足取りで進む、黒髪短髪イケメン君の方が不意に身体をよろめかせた。
そして、前のめりに転倒し、右手をこちらに突き出してきた。
その勢いのある手はボクの肩へとぶつかり、予想以上に強くて。
あっけなくバランスを崩してしまう。
え、ちょっと、おい!
思わぬ緊急事態に全身の血の気が失せるも、時すでに遅く。
ボクは特急列車が間近に迫るタイミングで線路へと、ダイブしていた。
こいつら、ほんとに殺りやがったな!?
ふざけんなああああああっ!
「おまえ、あぶねえから~」
「あはは~、おぅえ……、やべ、俺も吐きそうっ」
「おつ」
完璧に酔いが回っている彼らの瞳に、ボクは映っていない。
イケメン達の整った顔立ちは、愉快そうに歪んでいる。
その、おぞましい光景が、ボクの心に深く刻まれていく――――
なんて無慈悲で残酷な奴らなんだ。
こいつらはきっと、自分達がしでかした事を把握してない。
爆ぜろイケメンが! ふざけんなよ! さっさと助けろよ!
と、心でいくら罵っても事態は好転してくれない。というか、真横から押し寄せる特急列車を見つめ、時間の流れがひどくゆっくりになっていると感じた。
終わるのか――――?
ボクの25年間の人生が――――?
言いようのない、寒気が全身に走る。
けれど身体は宙を舞っていて、何もする事ができなくて。
ぽっかりとした真っ黒な空間が、虚無という名の死が近づいているような感覚。
この先には何もないと、暗闇が覗いているような気がして、どうしようもない恐怖がボクを侵す。
嫌だ嫌だ嫌だ!
死にたくなんかない!
まだ、まだやり残した事はたくさんあるんだ!
今井に泰良に祐二に歩斗!
仕事がお互い忙しくなって、なかなか会えなくなってしまったけど!
あいつらと、愚痴をたくさんこぼし合って朝まで飲み明かしたい!
それにチョコ丸はどうするんだ!?
ここで死んだらボクの帰りを毎日健気に待つ、可愛い飼い犬にエサをあげられないじゃないか!
それに、それに、ちゃんと彼女だって作れてないんだぞ!?
自分の人生で、唯一の彼女らしき存在は……高校生のときにネトゲで知り合い、遠距離恋愛ってやつの宿命だったのか、一度も会わずに破局した元カノ? だけなんだぞ!
こんなの突然すぎる――――
あぁ、死にたくない――――
『うにゃ?』
狂気と混乱、死と恐怖の狭間で、一匹の黒猫が首を傾げるのが唐突に目に入る。
どうしてこんな所に猫?
素で疑問符が浮かび上がってしまった。
黒猫は電車が通りぬけるであろう線路の脇にちょこんと座っていて、まんまるの目でボクをジッと見つめている。
あぁ……黒猫が横切ると不吉を象徴する、とかって言うもんな……まるでこいつは死神だな。こんな状況で堂々と死にゆくボクを眺めているんだから、『死神』だなんて揶揄されても文句は言うなよ。
って、本当にボクは消えちゃう寸前なのに、最後の最後で思った事が、野良ネコに対する八つ当たりかよ。
『うにゃぁ~』
特急電車の眩いライトが近づき、ぐちゃりと肉体が弾け飛ぶ音、そして鋭い痛みが全身を走った。
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