第1話 喧嘩の巧妙?
その日かかってきた電話は、樫村からだった。
「そろそろ雲隠れするから、日本にも行っておこうかと思ってるんだが」
「はい」
そのあと、樫村は意外な事を言い出した。
「由利香から、椿と一緒に暮らしていると報告を受けたんだ。だから今なら、以前に由利香が使っていた一部屋が開いてるだろ? 2・3日なら、少し注意していれば5人が揃うこともないだろうから、俺が行っても大丈夫だろう? 」
「それが…」
と、シュウが言いよどむそばから、由利香の声がする。
「え? 今の何? ええー、どうやったの夏樹、種明かししなさいよ! 」
「ダメっすよ。これは正当なマジックなんすから、種明かしなんて出来ません」
「なによ、ケチ」
「由利香が来てるのか? 椿も一緒か? 」
「それが…」
また言いよどむシュウが訳を話す。
「いつもなら、ケンカをして追い出された椿くんが来るのですが、今回はなんというか、少し深刻なようで。珍しく由利香さんが追い出されたようです」
どうやらこの2人は、ケンカをするたびにどちらかが『はるぶすと』へやって来て頭を冷やしているらしい。いつもは、惚れた弱みの椿が放り出されるのだが、今回は由利香が何かヘマをやらかしたらしく、「椿を本気で怒らせちゃった、どうしよう…」と、いつもの由利香らしくないようだ。
「それにしては由利香の奴、元気そうじゃないか」
「そうですね。ああしていれば大丈夫そうですが」
「どうした? 」
「会社でも仕事以外のことは口をきいてもらえず、他人行儀なんだそうです。メールを送っても、仕事以外では返事もないようです」
「椿がか? 」
「はい。なので、珍しく落ち込まれています。あのとおり空元気は出せますが」
すると樫村はフッと笑いを漏らした。
「ハル? 」
シュウが不思議そうに聞く。
「ああ、すまない。いや、椿も強くなったんだなと思ってね。まあ、あいつは昔から、けっこうしなやかな強さを持っていたがな。日々そうやって由利香に鍛えられている、か。なるほど」
妙に納得し出す樫村に、シュウは可笑しさをかみ殺しながら話を続けた。
「ですので、来られるならやはり×市あたりに宿を取られるのが良いかと」
「そうだな。…だったらまた連絡する。皆によろしくな」
そう言って樫村との会話は終わったのだが。
あとで由利香や夏樹に、どうして変わってくれなかったのかと、散々言われ続けることになるのは、まあお約束みたいなものだ。
翌日。
「あれえー、由利香まだいるの? もういい加減帰ってくれないと、こっちが困るんだよねー」
ディナー営業を終えて、2階に上がってきた冬里が、ニッコリ笑いながら失礼なことを言い出す。
「困るってなによ」
「草木も眠る丑三つ時…、どこからともなく聞こえる歯ぎしりや寝言に驚いて起きちゃうんだよね。僕って繊細だからさ」
「ひどっ! だいいち、私は歯ぎしりなんかしないわよ、失礼ね! 」
そのあともぎゃあぎゃあと反論し出す由利香に、冬里がもっと笑みを深める。
「ねえ、悪いのはどっち? 」
「! ……。」
言葉に詰まった由利香に、ニッコリ笑いかけながら冬里が続ける。
「あきらかに由利香だよねえー。そりゃあ男が浮気性なのは昔から。だけど、すべての男にそれが当てはまるわけじゃない。椿は当てはまらないほうだってわかるでしょ? そして、今は浮気が勲章なんて、そんな時代じゃない」
「…」
「で、由利香が見かけによらず心配性でビビリで疑心暗鬼がすごいのは、よく知ってる。けどさ、一緒に住んでる婚約者が、今日はどの子をお持ち帰り? いいわよ、私は『はるぶすと』で過ごすから気にしないで。遊べるのも今のうちよ。なーんて、言っていいこと? 」
しばらくは押し黙ったままの由利香だったが、かんだ唇を少しゆるめて絞り出すように言う。
「…誰に聞いたの? 」
「ふうん。ホントだったんだ。そりゃあ椿が本気で怒るのも無理ないね」
「だって、椿があんなにモテるなんて知らなかったんだもの。婚約してるの知ってるのに、私がそこにいるのに、すごいのよ…。しなだれかかるわ、キスなんかも当然のようにせがむわ。なんであんなふうに出来るのかしら。椿も囲まれても何も言わないし、まんざらでもないんじゃないかって思っちゃったの」
「で? そこで由利香の疑心暗鬼スイッチが、ボン! と入っちゃったんだ。それで椿を置いてここへ逃げてきて、そのまんま」
冬里の話を聞きながら力なくうつむく由利香の瞳から、ひとしずくの涙が床にこぼれ落ちる。
「でも、あの日…、結局なんの連絡もなかったのよ。だからきっと、きっと」
「そりゃあ、俺と一緒にいましたからね。連絡なんか入れなくてもいいぜー、ちょっとは心配させてやれーって言って。俺も怒ってたんで、今まで何も言わなかったんです」
すると、そこに仁王立ちしていたのは、誰あろう夏樹。
「え? 」
「あの日、椿すんごく怒って落ち込んで、俺に連絡してきたんすよ。俺さ、シュウさんに新しいレシピ教えてもらうはずだったんすけど、椿の一大事だったから飛んで行きましたよ」
「そう、なの? 」
驚く由利香に、夏樹がもっと驚くことを言い出す。
「で、で! 由利香さん! ここんとこ良ーく聞いておいてください! あの日椿は、なんかすごく大事な日だからって、かの有名なエンタープライズホテルのジュニアスイートを奮発して予約してあったんです! 」
夏樹の言葉にポカンとする由利香。その由利香に、ちょっとしてやったりと言う顔で夏樹は話を続ける。
「で! もう、椿、家に帰るのもイヤだキャンセルするのももったいないじないかーって、酔っ払ってわがまま言って。あの椿がわがまま言うんすよお。だーかーらー、ホテルの人に勘違いされるのを覚悟で、行きましたよ、ジュニアスイートルーム! 」
「ええ?! 」
「で、朝まで、落ち込む椿の愚痴に付き合ってたんす。まったくもう、ホント、迷惑なんすから、この2人! 」
ビシッと由利香を指さして言う夏樹に、今回は言い返さないばかりか、由利香はおもむろに床に降りると、そこへ正座して三つ指をついた。
「ごめんなさい。料理命の夏樹が椿のために。私のせいね、ホントごめん、そしてどうもありがとう」
深く頭を下げて言う由利香に、夏樹は慌て出す。
「え? え? ち、ちょっとやめて下さいよ由利香さん! 」
と、慌てて由利香の手を取って顔を上げてもらうと、ニンマリ笑って言った。
「俺だってちっとは役得しましたよ。さすがはエンタープライズのジュニアスイート。椿をなぐさめつつ、しっかりゴージャス気分に浸ってきましたから。しかも! 朝食付きだったんすよ! あのレシピにあのレシピに、さすがはエンタープライズ! いやー、勉強になりました」
そのあとも、嬉々として朝食の話をする夏樹に、ようやく由利香はいつもの調子を取り戻しつつあった。
「へえ、そうだったんだ。エンタープライズ…。すごいサプライズね」
「だったら、どうする? 」
冬里が聞くと、由利香はゆっくりと立ち上がって言った。
「今日は帰るね。で、椿にはきちんと謝って許してもらって」
「うん、それから? 」
「お詫びに、今度は私がエンタープライズ予約するわ」
「よくできましたー」
パチパチと拍手する冬里と、それに加わる夏樹。
そこへ、裏階段からシュウが上がってきた。
「由利香さん、お客様ですよ」
と、呼ぶその後ろから入ってきたのは。
「椿…」
当の本人の椿だったのだ。
由利香は最初、かなり驚いてフリーズしていたが、そこは切り替えの早い彼女のこと。ギュッと手を握りしめたあと、決心したように椿の前へ進み出る。
「あの、椿」
「…」
まだ硬い表情で無言の椿。
「ごめんなさい! 今回のことは、私が全部悪かったの! あんな子たちに嫉妬して、ひどいことを言って貴方を悲しませて苦しませてしまったわ。どうか許して下さい。ごめんなさい」
しっかりと90度頭を下げて言う由利香に目を見開きつつも、椿は優しくその手を取る。
え? という感じで顔を上げた由利香の目を見つめながら問いかける。
「嫉妬? してたの? 」
「え? ええ、そうよ。今考えるとすごく恥ずかしいわね」
面はゆそうに言う由利香に、こちらはなぜかとても嬉しそうな椿だ。
「ちっとも恥ずかしくなんかないよ。いや、それより俺はすごく嬉しい。由利香が嫉妬してくれてたなんて。てっきり愛想を尽かされたんだと思ってた」
「えーと、そんなわけ、ない」
(珍しい! 由利香さんが本当に恥ずかしそうです! )
「でも、俺もあのとき、あいつらにはっきり迷惑だって言えば良かったんだな。場の雰囲気なんか壊してもいいから」
「迷惑だったの? 」
「当たり前だよ。気持ち悪いほどだった」
「そう…」
(お、由利香、こころなしか嬉しそうです)
(椿ー、顔がにやけてるぜー)
つないだ手を離すことなくいちゃつく? 2人に、外野の約2名が面白がって実況をしている。
「そうだ」
しばらくは誤解が解けて微笑み合う2人だったが、椿が何かを思いだしたように言った。そして、ソファに置いた鞄から小さな箱を取り出して言う。
「この前は、由利香が頑張って言ってくれたから、今度は俺が言うよ」
箱の中には、大小ふたつの指輪が入っていた。
それをかかげながら由利香の前に跪く椿。
「秋 由利香さん。どうか俺と、秋渡 椿と、結婚して下さい、おねが…」
「はい! 」
「早っ! 」
椿が言い終わらぬうちに返事をする由利香に、思わず椿が突っ込んでしまう。
「だって、この間の今日ですもの。気が変わらないうちに返事しなくちゃ」
「変わるわけない」
立ち上がりながら椿は、そのあとニヤッと笑って夏樹たちの方を向く。
「ここにいるお三方が、俺のプロポーズを由利香が承諾したっていう証人です。聞いてしまった以上、3人とも嫌だとは言わせませんよ」
「おい、椿、けっこうしたたかだったんだな、お前」
夏樹が笑いながら言うと、椿は「当たり前だ、由利香の返事がかかってるんだぜ」などとしれっとして言う。
「僕たちを証人にしちゃったからには、椿は絶対に由利香を不幸には出来ないよ? 」
ちょっぴり怖さを含んだ笑顔で言う冬里に、椿は少したじろいだあと、きっぱりという。
「はい、もちろんです」
「私だって、もちろん! 」
由利香も自信満々に言ったのだが。
「なーに自信満々に言っちゃってるんすか、由利香さん。知らないでしょうけど、あんなグチャグチャのグデグデの椿、見たことなかったっすよー、ホントお願いするっすよ」
夏樹に言われて、あっと口元を押さえた由利香だったが、そのあと照れたように椿を見て、また夏樹に視線を戻すと真面目に言うのだった。
「もう椿を悲しませないわ、ありがとう、夏樹」
「本当は椿、エンタープライズでプロポーズするつもりだったんすよ」
「そうなの? 」
一件落着して、2人が仲良く帰ったあと。リビングでは夏樹と冬里がくつろいでいる。
「まあ、僕たちを証人に立てた方が良かったじゃない」
「? 」
「僕たちのお姉様を悲しませるような事があったら、そのときは…」
なんだろう。夏樹は背中がぞわっとするような感覚に陥り、少し震える声で言う。
「と、…冬里。えっと、あの、椿はその、一般人でして」
言いよどむ夏樹に「? 」と、冬里がえもいわれぬ綺麗な笑顔を向け、夏樹がひぇっと声を上げたとき。
「冬里、そのへんで」
2人の間に割って入る声があった。
「シュウさん~」
緊張の空気が抜けていくように夏樹が情けない声を上げた。
「つまんないの」
肩をすくめる冬里とホッとした笑顔の夏樹の前に、コトリ、と、紅茶とケーキ皿が置かれる。
「ところで、夜遅くに悪いけど、新しいスイーツの試食をお願いするよ」
「え? シュウさん! なんで俺にも手伝わせてくれなかったんすかー」
「まず試食してもらってからと思ってね」
「だったら、由利香の方が良かったんじゃない? 」
「今日はそれどころじゃなかったからね。仲直りした2人の邪魔もしたくなかったし」
「さーすがー」
冬里にはそれくらいわかっているはずだが、あえて聞いてくるのもまた冬里だ。
「う…、うまいっす! ずるいっすよーなんでこんな美味いの思いつくんすかー。それでシュウさん、このこれはなんなんすか? 」
「夏樹ならわかるはずだよね」
「うっ、シュウさん最近、冬里に似てきたっすよー、イジワルです」
「誰がイジワルだって? 」
「え、あの、冬里? …イ・イヤーーーーーたすけて! 」
「まったく…。紫水 冬里」
リビングでは、命からがら? シュウの影に隠れる夏樹。窓から見える夜空には、部屋に響く悲痛な叫びをうるさいと言わんばかりに、雲に隠れていく月があった。
色んな事がありますが、『はるぶすと』は、明日も通常通り営業いたします。