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最後の追跡

 影は追ってこなかった。

 人が一人通れるくらいの狭い路地を見つけて入り込む。壁にもたれて、ふたりで一息つく。

 和泉が冷静さを取り戻したように言った。

「たぶん、方向変換に手間取ってるのよ。大きくなったから。」

 その割りには、力いっぱいしがみついてくる。

 僕はその背中を抱きながら答えた。

「じゃあ、このままじっとしてれば大丈夫かな」

 和泉が身体を引き剥がして言った。

「無理」

 硫黄の強烈な臭いで、僕たちふたりはむせ返った。路地の入り口で、二つの目が黄色く光っている。

 あとじさりすると、路地に身体を押し込んで迫ってくる。

 僕は和泉に尋ねた。

「どうする?」

 和泉の答えは分かりきっていた。

「走るのよ!」

 和泉を先に走らせ、僕が後を追った。硫黄の息が熱い。背中がじりじり焼ける。

 それでも距離は開いていった。僕は考える。

 ……つまり、大きくなればなるほど、路地には入りにくくなるってことか。

 和泉も同じことを考えたらしい。

 路地とはとても言えない、家と家との隙間に身体を押し込んだ。僕もそれに倣った。

 隙間は、人間が横這いしてやっと通れるくらいの幅しかなかった。しかし、高さは3m近くあるから、手足を突っ張って家の敷地内に逃げるのはかなり難しい。

 もう、二つのことを祈るしかなかった。

 一つ目は夜が明けるまで、あの影をしのぎきれること。

 もう一つは、この隙間が、どこかの道に続いていること。

「吉田さあん!」

 和泉が悲鳴を上げた。塀の上を見上げていた。

 狭い塀の隙間から、黄色い光が二つ、こちらを見つめていた。硫黄の息が僕の髪をちりちりと焼いた。

 一つ目の祈りは絶望的だ。

 あいつは、塀に昇って追ってきたのだ。ただし、幸運なことには、顎が届かない。食われる心配はないということだ。

「和泉! とにかく先へ行け!」

 二つ目の祈りが叶うのに賭けるしかない。

 和泉は必死の形相で横へ横へと這う。僕もそれを追う。

 和泉の身体は細いからまだいいが、僕の身体はこの隙間で押しつぶされそうだ。呼吸はかなり苦しい。

 その上、塀の上の影が、そろそろとついてくる。

 影から目をそらし、和泉に注意を払いながら、どれほど横這いを続けたろうか。

 突然、和泉の小さな体が視界から消えた。

 通りへ抜けたのだ!

 僕も続く。身体を圧迫する壁の間で骨と内臓を揺さぶりながら隙間を抜けたとき、月が西に傾いているのが見えた。

 大きな通りだった。見覚えがある。

なんのことはない。下宿のある西大路に出てきたのだ。

……ならば、勝算はある!

 和泉がすぐ目の前で倒れ伏していた。僕はその身体を背負って北へ走る。

 背後でどさりという音がした。遠ざかっていく。あいつも、歩道へ下りたのだ。

 ……夜中ならここでゲームセットだが。

 僕は誰もいない西大路を西へ横切る。もっとも、これは時間稼ぎにすぎない。相当の図体になっているはずのあいつが、そう簡単に向きを変えられるはずがない。

 僕は向かい側の歩道を北へと歩く。

 いくつもの見慣れた建物の前を通り過ぎる。

 交差点ごとに建つパチンコ屋。

 24時間営業の喫茶店。もちろん、人は誰もいないが……。

 走ってはいけない。走れば力尽きる。そうすれば、あの硫黄の息に焼かれ、あの牙の餌食となる。

 大きく西に傾いた月に照らされた、マンションやビル。

 その間に立ち並ぶ、紅殻格子に瓦屋根の民家。

 そういった数々の建物の影が長く伸びて、大通りに映っている。

 もうすぐだ。もうすぐ、あそこへ出る。

 毎日、何の気なしに通り過ぎていた、何の変哲もない交差点に。

 僕は彼女を背負って、北へ北へと歩き続けた。

 あいつの影は次第に大きくなっていく。西大路の向かい側に立ち並ぶビルやマンションが2つ3つ覆い隠されるほどに。

 彼女がどんどん重くなっていく。あの細く華奢な身体を支えられないほど、僕の体力も限界に来ているのだ。

 やがて、僕は最初の神社の前に出た。ここで僕はがっくりと膝をついた。

 横断歩道の向こうには、最初の路地が見える。

 全ては、ここから始まったのだ……。

 吉田さん、という声が聞こえた。和泉が、僕の背中で我に返ったのである。

 和泉が、僕の耳元で力なく囁いた。

「ここでいいわ」

 僕は最後の力を振り絞って答える。

「まださ」

 僕は和泉を背負ったまま横断歩道を渡る。最初の路地への入り口に立つ。

 彼女を背負ったまま振り向いた。大通り一杯の黒犬が僕に向き直った。

 黒犬の姿が、僕の背中から来る光で眩しく照らされる。

 日が昇ったのだ。

 僕たち二人の影が伸びる。

 伸びた影は交差点を越えて、西へ西へと白い月に向かって伸びていく。

 その影は次第に濃くなり、巨大な黒犬を覆った。

 そして、いつもの朝が来る……。

 目の前を始発の市バスが通った、と思ったその時。

 黒犬は消えていた。

 和泉の声がかすかに聞こえる。

「ありがとう」

 かねよしさん……。

 冗談めいた響きと共に、背中の重さがなくなった。

 振り向くと、そこには朝日に照らされた少女が、笑顔で手を振っていた。

 僕もおどけて言ってみた。

「どういたしまして、こちらこそ」

 和泉が、ぷっと吹き出した。

 僕も久しぶりに笑った。

 正面から昇る朝日が眩しかった。

「じゃあね」

 そう言いながら、和泉は太陽に向かって振り向いた。

 彼女の背中に、僕は思った。

 夏の少女の笑顔には、朝の光が良く似合う……。

「じゃあね」

 僕も同じ言葉を繰り返して、光の中に消える少女に背を向ける。

 そして下宿に向かって歩きながら、僕はいつものように考えた。

 今日も暑くなるだろうな、と。

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