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夕暮れの古都は迷宮

 ブロックやモルタルの壁が、どこまでも続いていた。自家用車なら一台の一歩通行、人がようやく2人通れる程度の道である。

 その路地を、少女は僕に背中を見せて歩いた。

 僕が彼女に追いつくのは造作もない。

 少女のすぐ横に並んで、僕は聞いてみた。

「一体、何があったの? 君は誰?」

 少女は一言で返してきた。

「後でまとめて話すわ」

 薄暗い路地は終わらなかった。横道が現れると、少女は必ず立ち止まって奥をじっと眺めて、路地を曲がった。

 僕はその様子を呆然と見つめるしかなかったが、その度に彼女は僕の手を掴んで路地へと引き込んだ。

 止まっては曲がり、止まっては曲がり。

 それを何度か繰り返すうちに、再びあの硫黄の臭いが漂ってきた。

 あれ、と僕が言うと、少女は「気にしないで」と新たな路地に入る。

 僕も手を引かれて後に続いたが、すぐに背後で何かが立ち止まる気配がした。

 少女が言った。

「向きを変えているのよ、あいつ」

 あいつとは何のことか聞いてみたが、やはり答えは「後でまとめて」だった。

 濃い闇の中、家々の壁はどこまでも続く。その壁が尽きるところにまた細い路地がある。手をつないだままそこを曲がる。そこもやはり、二人がやっと通れる程度の道だ。そこをまた、細い路地へと曲がる。これを何度となく繰り返すうちに、僕の手を掴む小さな手が火照っていくのが分かった。

 硫黄の臭いは、どこまでも追ってくる。

 そして、どの路地をどう曲がったかわからなくなった頃、僕たちは小さな空き地に出た。

 石壁に囲まれた空き地だった。地面は周りよりも少し低い。石段が3段作ってあって、隅には小さな祠があった。

 少女は石段の真ん中の段に腰掛け、僕に「座らない?」と聞いた。僕は彼女の隣に座った。

 夕闇は濃いが、辺りは真っ暗というわけでもなかった。夕暮れの光で、周りの家々は焦げ付いた影を夜の色に染まり始めている空に映していた。

「夜になるまでは、ここにいたほうが安全」

 少女の言うことは、まだよく分からなかった。ただ、そこでふう、とかわいらしい息をついたことから、ようやく落ち着くことができたのだと分かった。

 夕暮れと夜の境目の時に家々はとろとろとまどろみ、人が何をする気配もない。

 本来なら、家へ帰る子供の群れや、帰宅してくるサラリーマンの姿があってもいい時間帯である。

 だが、誰の姿も見えない。

 おかしいなと思っていると、彼女が突然話しかけてきた。

「目をつけられちゃったね」

 僕はそれには応じないで、これまでぐっと押さえてきた問いを投げかけた。

「君は誰?」

 こんな言葉が返ってきた。

「ブラック・ドッグって知ってる?」

 人の名前とは思われなかった。ニックネームだろうか?

 落ち着いて彼女の姿をじっくり見てみたが、どう考えてもニックネームで呼び合うようなアウトロー連中の一人には見えない。

 僕の目の前にいるのは、まだ世の穢れを知らない、女になる前の少女である。

 それでも一応、僕は確認した。

「君の名前?」

 少女は一言で切り返す。

「あの犬よ」

 僕は、知らない、と答えるしかなかった。

 少女は怒ったように畳み掛ける。

「さっきあなた、何考えてた?」

 僕は素直に答えた。

「この子誰だろなって」

 少女はそっぽを向いた。

「私のことはいいのよ」

 いや、全然良くない。

 見ず知らずの女の子である。きれいな長い黒髪。幼い顔立ちは、ツンと澄ました感じはあるが、可愛らしい。

 小学校の校庭で見せた、あの敏捷性と超人的な体技は何だ?

 僕の疑問は更に尽きなかった。

 だいたい、ここはどこだ? 

 確かに京都の街中は、大通りを一歩外れると家の路地が入り組んでいる。だけど、近所にここまでややこしいところがあっただろうか。

 そんなことを考えていると、少女は自分自身が発した問いに自分で答えを出した。

「退屈だなって思ったでしょ」

 僕はちょっと考えた。こんなドタバタがあって、いつ、どこで、何を考えたかいちいち覚えているわけがない。

 僕が答えないでいると、少女は僕にぐいと顔を突き出して睨んだ。

「思ったでしょ」

 ちょっと考えた。思い当たることがある。確かに僕は、「天神様の細道」で「つまらない」と思った。

 僕は素直に認めた。

「思った」

 よろしい、と少女はもったいぶって頷いた。そのエラそうなようすが滑稽であり、可憐でもあった。

 面白い子だな、と思った。

 ちょっと話につきあってもいいかもしれない。

 大人の余裕でそんなことを考えていると、少女は僕から視線をそらして説教臭く言った。

「こんな時間にそんなこと考えるから」

 こんな時間……?

 僕は時計を見た。両針は午後7時前後を指しており、秒針は止まっていた。

 あれ、とつぶやいて時計を外し、振ったり叩いたりしていると、少女は「ムダよ」の一言を放って、こう続けた。

「逢魔が時だから」

 僕も説話が専門だから、聞いたことがある。

 おうまがとき、おうまがとき、と繰り返していると、少女はいらだたしげに説明した。

「日が沈んでしばらく、夜との境目がはっきりしないときが続くでしょ。そんなとき、道で遭う人の姿は見えるけど、顔ははっきり見えない。『誰ぞ彼』、いわゆる黄昏時」

 自分の専門分野で子どもに偉そうな説教を垂れられて、僕はちょっとムっとしていた。

 冷ややかに混ぜっ返す。

「そんな時に帰らなくていいの?」

 少女は僕をキッと睨んで「帰れないの」と言った。

 その勢いに、僕は少したじろいだ。

 夕闇の中でも分かる鋭いまなざしに怯えながら、僕はおずおずと尋ねた。

「お家の人と喧嘩でもしたの?」

 少女はムスっと答える。

「あなたが帰れないから」

 僕は肩をすくめて立ち上がった。

「僕は帰れるさ」

 いい大人が近所で迷子なんて。むしろ、こんな小さな(可愛い)女の子が迷路のような路地をうろうろしていることのほうが問題だ。僕が送ってやらなくちゃいけないくらいだ。

 だが、そんな僕の気持ちなど無視するかのように、少女は冷ややかに尋ねた。

「どっちへ?」

 どっちへということもない。下宿の近所なんだから。

「適当に曲がれば出られるさ」

 少女は鼻で笑った。

「じゃあ、やってみたら」

 そこで、僕は少女の手を掴んだ。少女は電光石火の早業で手を引っこ抜く。

「何するのよヘンタイ」

 ギクっとしたが、咳払いしてオトナの威厳を取り繕う一言。

「送っていくよ」

 ふん、と鼻で笑って、少女も立ち上がった。

 僕は少女の前に立って、路地から路地へ歩き回った。

 石壁にモルタル、ブロック塀と壁は様々だ。空気はじりじりと熱い。少女が「逢魔が時」と呼んだ夕暮れ時の薄闇が無限に溶け出しているかのような、そんな暑さが肌にじっとりまとわりつく。

 その上、背後から漂ってくる微かな臭い。

 硫黄の臭い。ヨーロッパの伝説では、地獄の悪魔や魔神がかならずまとわりつかせているという。

 可愛い指の感触がとん、と背中を突いた。少女が言う。

「慌てないで、ゆっくり歩くの」

 僕はふん、と鼻を鳴らして答えてみせた。

 あっそう、と少女も冷ややかに言った。

 僕は別段慌ててはいなかったが、実際困ってもいた。

 道に迷ったのである。

 こういうときは、分かれ道で曲がる方向を決めておくといい。

 とりあえず、右。

 こうしておけば、少なくとも、いつかは同じ場所に戻ってこられるのだ。

 だが、路地は結構入り組んでいた。その上、分かれ道などそんなにない。高い塀とその上に覗く屋根が、夕闇の中でうねうねと曲がりながらどこまでも続いている。

 おまけに、硫黄の臭いは遠ざかるどころか、ますます強くなるばかりだ。

 つんつん、と背中を突いて、少女が言った。

「迷ったんでしょ」

 僕は無視して歩き続けた。もちろん、できるだけゆっくり。

 追ってくるあの犬が怖かったのではない。あんまり早く歩いては、少女に置いてきぼりを食わすことになる。

 少女が背後から、正直に言ったらいいのにとぼやいたところで、左右への分かれ道に出た。

 狭い石壁が白壁につきあたる角を曲がる。

 やっとたどり着いた。

 元いた場所に……。

 意地張って歩き始めた場所に戻ってきたところで、少女は冷ややかに僕を見上げた。

 薄暗いからそんなに気にすることもない。

 知らん顔して歩いては曲がり、歩いては曲がりを繰り返したが、結局西大路に出ることはできなかった。

 再び小さな手が僕の手を掴んだ。

「世話が焼けるね」

 何度となく路地を曲がって、僕たちはもとの空き地に戻ってきた。

 再びあの石段に座ると、少女は慰めるように僕の肩をぽん、と叩いた。

「あちこち曲がったのは正解。あいつは、まっすぐ追ってくることしかできないから」

 こんな子どもの憐みに、僕は怒る気力もなくして聞いた。

「あいつって?」

 今度は少女が、何の脈絡もなく答えた。

「私、式部和泉。和泉式部をひっくり返した名前。あなたは?」

 僕も答えた。

「吉田兼好。兼好法師の兼好で、かねよし。」

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