第96話「闘乱事件」
城砦都市スラーブ。
頑丈な城壁に囲まれ、かつてはカーライムの南域防衛の要とも言われていたこの都市は、現在ナダルナル軍の占領下にある。
そして、ナダルナル王の叔父にして、此度の遠征軍の総指揮官を務める男・アレク=ゲブランコ=ナダルナルの姿はここにあった。
ロサ平原での戦いにてカーライム軍の奇襲を受けて敗走したナダルナル軍は、ここスラーブで再集結を果たさんとしていたのだ。
「いや~、負けた負けた! 完敗よ!」
アレクはそう言ってガハハと豪快に笑った。
将兵らの士気を下げぬため、あえて大げさに余裕ある態度で振る舞っているのもあるが、それでもこの言葉自体に偽りはない。
彼は素直にカーライムの指揮官のその手腕に感心していた。
「水門に兵を割き、さらには前線を押し上げていたあの状況、確かに我ら本陣の防備は手薄ではあったが……。並みの将であれば、あそこで奇襲はなかなか決断できまい」
ロサ平原の戦いにおいて、カーライムの策略を看破したナダルナル軍は一気に全軍を前進させた。策を見抜かれ、右往左往するカーライム軍を数に任せて蹂躙せんとしたのである。
だが、ここで計算違いが起きた。カーライム軍の混乱が予想よりも遥かに小さかったのだ。カーライム軍はすぐに態勢を立て直すと、突撃するナダルナル軍を冷静に迎撃して見せた。
この時、アレクは戦場中央の戦況にばかり気を取られ過ぎていた。態度こそ冷静であったが、心の内では、なかなか敵を崩せないことに対するイラつきや焦りがあったのも否めない。
そして、敵指揮官はこの隙を見逃さなかった。ナダルナルの猛攻を防げる最低限の兵だけを残すと、残りは戦場を大きく迂回させた。そして、中央に気を取られ防備も手薄なナダルナル本隊の横っ腹に急襲したのである。
とはいえ、奇襲というのは言葉でいうほど簡単に出来るものではない。
策を看破されて危機に晒されている味方部隊。平原という見通しの良い地形。そして大人数かつ混成軍という統率の取りにくさ。
この状況の中で本陣奇襲を思いつき、さらには実行に踏み切るというのはなかなかできることではない。ゆえに戦経験の豊富なアレクでさえ度肝を抜かれたのだ。
「敵の指揮官の名は確か……なんといったか」
「ハッ! 軍旗などから、敵軍の指揮を執っていたのはオータス=コンドラッド伯爵かと思われます! コンドラッド伯は先のカーライム内乱で頭角を現し、現女王からの信頼も厚いとか……」
「ほう。女王のお気に入りとな? ならば次の一戦で必ずや奴の首を獲り、王都攻略の際にはそれを高々と掲げてやるとしよう。女王様はさぞやお気に召してくれることだろうよ……」
そう言ってアレクがニヤリと笑みを浮かべた、丁度その時であった。
慌てた様子で一人の兵士が飛び込んできた。彼は全身傷だらけで、咳き込む度にその口からは大量の血が飛沫した。
「ん? お前は確かティヴロンの配下の……。どうした!」
「わ、我が主・ティブロン=ウズンク率いる船団は敵船団との戦いに敗れ、壊滅……! ウズンク将軍を含め討ち死に多数……! も、もうじき……ここにも……敵がっ……!」
そこで彼はこと切れてしまったが、しかしアレクに現在の危機的な状況を伝えるには十分であった。
ティブロン=ウズンクとは、ナダルナル一の海戦上手と謳われた名将である。ゆえに此度の遠征でもその腕を買われ、700艘もの大船団を率いて海よりカーライム王都を目指していた。
だが、この兵士によればそれは敵船団との海戦に敗れ、すでに壊滅したという。俄かには信じがたいことではあったが、しかしそれが誠であれば、ティブロンの船団を破った敵船団が今度はこちらに迫っているということになる。
「ぬぅ、止むを得ん。こうなれば撤退するよりほかないな。オータス=コンドラッド率いる陸の軍勢に加え、さらに海より兵が加わるとなれば、もはやどうすることもできぬ。仮にどうにかしたところで、その時我らに王都に攻め上る余力などに残ってはないだろう」
アレクの決断は早かった。彼はすぐさまスラーブの町を放棄すると、ナダルナル領へと退いたのである。
こうして、ナダルナル軍によるカーライムへの大規模攻勢は失敗に終わった。
「見事だな、オータス卿。傑物と言われるアレク=ゲブランコ=ナダルナルを退けてみせるとは。流石、陛下より寵愛を受けているだけはある」
「いや、こちらもかなりの損害が出た。もしもう一度戦っていたら、勝てたかわからぬ。それに敵が退いたのはサムルハ卿が海戦で勝利を収めてくれたからだ。礼を言わせてもらおう」
陸戦の勝者・オータス=コンドラッドと海戦の勝者・サムルハ=エイヴァンス。両者は合流を果たすと、まずは互いの健闘を称え合った。
もっとも大将軍の立場でありながら丁寧な対応のオータスに対し、エイヴァンス公爵の態度はいささか不遜さが目立った。
「まあ、確かにその通りであるな。俺ならばもっと楽に勝てていたであろう。死んでいった兵たちが哀れよな」
「まったく、耳が痛い。ハハハ……。なんでもサムルハ卿はほとんど味方の兵を損ねずに勝利したとか。良ければあとで今後の参考までにゆっくり貴殿の話を承りたい」
そう言ってオータスは笑って受け流そうとした。言い方が多少鼻につくものの、しかし敵に策を見抜かれ一時的とはいえ追い詰められたことで味方に大きな犠牲が出てしまったのは紛れもない事実だからだ。
だが。
「おい! エイヴァンス公、それは流石に大将軍閣下に失礼ではないか!」
そう言って一人の男が噛みついた。
その男とはポッスン=ヘイドリス男爵である。オータスとともにナダルナル軍と戦った彼にとって、エイヴァンスのその態度は到底許しがたかった。
「おや、貴殿は確か……誰であったかな? すまぬ、近ごろ物忘れがひどくてな」
「なに! 貴様、私まで愚弄するか!」
「おお、思い出した。確か心優しい陛下より恩情で亡き主の爵位と領地を貰ったポッスン卿であったか。フッ……、貴様如きに意見されようとはエイヴァンスの家も舐められたものよ……」
刹那、ヘイドリス男爵は顔を真っ赤にし、エイヴァンスに殴りかかった。
が、拳がエイヴァンスに届くことはなく、寸前のところでオータスによって止められた。
「落ち着かれよ、ポッスン卿!」
「何故止めるのです! コンドラッド伯もご存知でしょう! こいつの父は先王陛下を弑し、さらにはシアン陛下にまで手をかけようとした大罪人! こいつがいま生きているだけでも許せぬのに……その上このような……!」
暴れるヘイドリスを必死に止めるオータス。
一方、エイヴァンスはそれを面白がるが如く、さらに煽った。
「不敬であるぞ、ポッスン卿。エイヴァンス家を、この俺を許したのは他でもないシアン陛下である。それに異を唱えるとは、よもやヘイドリス家は王家に叛意がおありか?」
次の瞬間。
ついにヘイドリスの拳はエイヴァンスの頬にのめり込んだ。
オータスの制止も聞かず、ヘイドリスはそのままエイヴァンスに馬乗りとなり殴り続けた。
やがて、周囲の将兵らも止めに入ったことでなんとかその場は収まったのだが、これが問題にならぬはずはなかった。
そしてこの両者の喧嘩がまたあらたな争乱の火種となるのであった。




