第94話「ロサ平原の戦い ~中編~」
「まさか向こうから仕掛けてくるとは……。こちらは遠征の身。てっきり持久戦に持ち込むものかと思っていたが」
ナダルナル軍総大将・アレク=ゲブランコ=ナダルナルは、カーライム軍が動き出したとの報を聞くと、驚きの声をあげた。
だが、彼は熟練の将である。取り乱すようなことはなく、自慢の髭を撫でながらすぐさま頭を巡らせる。
敵の狙いは何か。それをなんとか見つけ出そうと、机に広げられた地図に目を向けた丁度その時であった。
一人の兵士がアレクの幕舎に駆け込んでくる。
「伝令! 敵軍、渡河を開始! 真っ直ぐこちらへと向かってきます!」
焦りからか、やや擦れてしまった伝令兵の声。
だが、その中に敵の策を見抜くヒントが隠されていた。
そして彼がそれを見逃すはずもない。
「渡河……? 川……? そうか。そういうことか」
目の前に広げられた平原の地図。そこには平原を横断する形で一本の線が引かれている。
チャムチャッカ川。何も遮蔽物のないこの平原においてこれを利用しない手はない。
アレクはニヤリと笑みを浮かべると、すぐさま全軍に指示を出した。
果たしてアレクの読みは的中していた。
オータスの策はまさしくチャムチャッカ川を用いたものであった。
まずはじめに11万のうち2万ほどをユイナに預けると、これをチャムチャッカ川上流に配備。簡易的な水門を作らせた。
この水門こそ今回の策の要。これで、戦況に応じて自軍の都合のいいよう川の水かさを操ることが出来るようになる。
次に、残る9万のうち4万の軍勢を一気にナダルナル軍へ向け前進。水門で川の流れを塞き止め、渡河を開始する。
だが、ここで本格的な戦闘は行わない。対岸へと渡って少し交戦したら、すぐさま退くのだ。
当然敵はこれを追うだろう。こうして敵を引き付けたら、そのまま再び渡河。そして、カーライムの将兵が全員川を渡りきったのを確認したら、すぐさま堰を切る。
そうすればナダルナル軍はチャムチャッカ川により二つに分断され、あとは各個撃破するのみとなる。
この言わば囮役ともいうべき4万の軍勢の指揮官はポッスン=ヘイドリス男爵が務めた。部隊指揮能力の高さに加え、「まさか鎮南将軍の軍勢が囮とは思わないだろう」という狙いもあった。
オータスの策は順調に進んでいき、いよいよ偽りの撤退でナダルナル軍を誘き寄せる段階へと突入した。
撤退があまりにわざとらしければ敵に策と見抜かれる恐れがあり、かといって本当に敗走するわけにもいかない。
いかに上手に説得力のある形で退くか。ここは男爵の腕の見せ所であった。
「おのれ、蛮族ども! 我らが同胞たちを盾にするとはなんと卑劣な! むぅ、止むを得ん! 一度退くぞ!」
ヘイドリス男爵は悔しそうに顔を歪めてみせる。
奴隷たちの存在に触れたのは、嘘にいくらか本音を交えることで、撤退により真実味が増すだろうという男爵の機転であった。
軍を反転させ、チャムチャッカ川を再び横断する。後ろからナダルナル軍が追いかけてくることを確認し、一瞬安堵を覚えたヘイドリスであったが、まだ気は抜けないと気合を入れ直した。
水と泥が跳ね、甲冑を汚す。この足場の悪さで、敵軍と一定の距離を保ちながら撤退するというのは至難の業である。
しかし、ヘイドリス男爵の指揮はこの上なく精妙であった。敵に追いつかれることも、間が離れすぎることもなく、最後の一人が川を渡り切ったのを見て、男爵は武器を天高く掲げた。
それを確認した兵士が打楽器を大きく鳴らした。この音が、上流にいるユイナたちへの合図となり、やがてナダルナル軍は二つに分かたれる、はずであった。
だが。
打楽器の音が虚しく響き渡るのみで、川の水かさが変わることはなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ……。だ、誰か! はやく水門を!」
肩で息をしながら叫ぶ少女の声は無情にも敵の鬨と味方の断末魔によりかき消される。
水門の守備をしていたユイナ隊は、すでに瓦解していた。ナダルナル軍の奇襲を受けたのである。
そして、ユイナ自身もまた絶体絶命の危機にあった。
「いい加減、諦めろ女。もはや勝機はねぇんだ。おとなしく武器を捨てて投降しろ。この俺様がたっぷりと可愛がってやんよ。げへへ」
ユイナをぐるりと散り囲む10数人のナダルナル兵たち。
彼らはユイナの身体を舐めまわすように見ると、下卑た笑みを浮かべ、一斉に襲い掛かった。
多勢に無勢。しかし、だからといって諦めるわけにはいかない。
ユイナは荒れた息を整え、跳躍する。一人を斬り、二人を斬り。そして三人目を斬りかかろうとしたその時。
「あうっ!」
敵の振り被った棍棒が思いっきりユイナの脇腹を打ち付けた。
苦悶の表情を浮かべ、よろけるユイナ。その好機を敵が逃すはずもなく、次の瞬間には羽交い絞めにされてしまった。
「へっへっへっ! 楽しませてもらうぜ姉ちゃん」
こうなってしまえばもはや彼女に抵抗の術はない。
ユイナの泣き叫ぶ声が戦場にこだました。




