第48話「末路」
深い森の中。ブッサーナ=エイヴァンスはその大きな腹を揺らしながら、道なき道をただひたすらに走っていた。
ジームのおかげでなんとか戦場を離脱することに成功したブッサーナであったが、途中幾度もコンドラッド軍の兵士に見つかり、戦闘となった。その結果、付き従っていた護衛の兵士たちはことごとく討ち取られ、あるいは敵に投降し、気が付けば逃げるのはブッサーナただ一人だけとなっていた。
ブッサーナはその体型の通り、武術は不得手。もしもう一度敵と遭遇すれば討ち取られること必至である。だが、だからといって生きることを諦めるわけにもいかない。
いま己がどこにいるかなどわからない。方向感覚などとうに失っている。だがそれでも、その行く先に希望があると信じ、ブッサーナは前へ進むしかなかった。
そんな彼の必死さに天上の神も心を打たれたのだろうか。陽が落ち、空の色が赤から黒へと変わり始めた頃、その永久に続くかに思われた深い森にもついに終わりが見えてきた。
さらには森を抜けたその先には小さな村が見える。
見たところ、村の付近にコンドラッド軍の姿は見当たらない。
もはや身体の疲労は限界。特にひどいのは喉の渇きで、このままではコンドラッド軍から逃げられたとしても途中で倒れてしまう。そう判断したブッサーナはこれから夜が深くなることもあり、その村でしばし休憩をとることにした。
その村は幸いにもそこそこ規模が大きく、畑も豊かにも実っており、生活に困っている様子は見られなかった。
ここならばきっとよそ者にも親切に接してくれるだろう。
ブッサーナは少し安堵しつつ、適当な民家の扉をコンコン、と叩いた。
すると「はーい」という女性の声が聞こえ、しばらく間があってその人は姿を現した。
美しい娘であった。腰まである長い髪。服の上からでもわかる豊満な胸。そしてなにより幼くも綺麗に整った顔立ち。
そのたたずまいからはどこか上品さのようなものが感じられ、とてもこんな辺鄙な村の娘には見えない。
もし、今が敗走中の身でなければすぐにでも屋敷に連れ込みたいくらいであった。
「突然押しかけて悪いが、水を少し貰えぬか。わしは諸国を旅する身であるが、山で魔物に襲われ貴重な水を奪われてしまったのだ。なに、一杯だけでよい」
「なるほど……それでそのようなお怪我を!わかりました。少々お待ちください」
人間とは不思議なもので、己の生死が関わるとおそろしいほどに知恵が回るらしい。
本来、ブッサーナはこのように機転が利く男ではなかったが、今回ばかりはごく自然にすらすらと嘘が口から出てきた。
やがて少したって、大きめの器に並々と注がれた水を持って彼女は再び姿を現した。
ブッサーナは感謝の言葉を述べると、その水を一気に喉に流し込む。
(うまい!うまいぞ!まさかただの水をこれほどうまく感じる日が来ようとは……!)
あっという間に水を飲みほしたブッサーナはその感動のあまり大粒の涙を流した。
と、その時。脳裏にふとある言葉が浮かび上がってきた。
「ブッサーナ。お主にはちと物への感謝の気持ちというものが足りぬ。周りに物があるのが当たり前、そう思ってはおらぬか。例えば今日の朝餉に出てきたパンにスープにミルク。お主にとってはなんでもない普通の食事かもしれぬが、この世界にはそれにありつけぬ者たちもたくさんいる。己が今恵まれた立場にあるということをしっかりと自覚するのだ。そして、今日もいつもと変わらぬ幸せがあるということに感謝せよ。よいな?」
これは今は亡き、父・マーケイン=エイヴァンスの言葉であった。
幼き頃、食べ物をよく残していたブッサーナに対して言った言葉である。
当時のブッサーナにはイマイチ実感がわかなかったが、今なら痛いほどにわかる。
「有り難い……本当に有難い……」
そう言ってブッサーナはあらゆる液体で顔をぐしゃぐしゃにしながらその娘にひたすら感謝した。
娘はそんなブッサーナの姿にはじめは困惑した様子だったが、次第に放っておけなくなったのだろう。
優しい笑顔でこう言った。
「もう夜も遅いですし、たいしたおもてなしは出来ませんが今夜はどうぞうちで泊まっていってください」
こうしてブッサーナはその娘の厚意により、屋根の下で一夜を明かすことができることとなった。
だが、それからブッサーナに朝が訪れることは二度となかったのである。
深夜。昼間の疲れからかすっかり熟睡しきったブッサーナを見下ろす形で少女は立っていた。
彼女の顔に先ほどの朗らかな笑みは欠片もなく、彼女の手には一本の小刀が握られていた。
この小刀はブッサーナの腰に刺さっていたもので、彼女はブッサーナが寝たのを確認するとこっそりと抜き取ったのであった。
「まさか、また会えるとは思わなかったわ。この醜い醜い豚に」
低く小さな声でそう呟くと、娘は目の前の男を鋭く睨み付けた。
彼女の瞳に宿るもの。それは復讐の炎であった。
ブッサーナは彼女を見て、とてもこんな辺鄙な村の娘には見えないと感じたが、実はそれはあながち間違いではなかった。
彼女の生まれ育った場所はこの村ではない。カーライム王国の東域にて数多の港町を持ち、その繁栄ぶりは王都に次ぐとまで言われた地・ルッサム。そこが彼女の故郷であった。
彼女はかつて、そこで家族や友人に恵まれて幸せに暮らしていた。そう、あの日までは。
「公爵閣下は貴方を街で見かけ、いたく気に入られたそうだ。閣下は貴方をぜひとも側室の一人に加えたいとのこと」
突然、領主の兵士が家に尋ねてきたかと思うと、彼女はそう告げられた。
側室というと聞こえはいいが、実際のところは公爵の『玩具』になるということ。玩具のように乱暴に扱われ、そして玩具のように飽きたら簡単に捨てられるのだ。
彼女に断る権利などあるはずもなく、こうして彼女の平和な日常はいとも簡単に崩れた。
だが、幸いなことに彼女は一人の勇敢な兵士によって公爵の手から逃れることが出来た。
しかし、前と同じようにルッサムで暮らしていけるはずもなく、彼女は故郷を離れることとなった。
そしていくつかの村を転々としながら西へ西へと流れ、彼女はこの村にたどり着いた。
それまでの道中にいくつもの苦難があったことは言うまでもない。
とある町では金を稼ぐため娼婦として働いたことすらもあった。
せっかく守ったその清らかな身体を結局は汚すことになった、そのときの屈辱は計り知れない。
「旅人?アンタみたいな肥えた旅人がいるかっての。ハッ!おおかた敗軍の将と言ったところかしら」
メルサッピ峠でコンドラッド軍とエイヴァンス軍が激突したこの村にも伝わっていた。その結果まではさすがに伝わっていなかったが、ボロボロのブッサーナの姿を見れば一目でわかる。
「私の人生を!よくも!よくも滅茶苦茶にしてくれたなァァァ!!!」
娘のそのけたたましい叫び声に、それまで深い眠りについていたブッサーナも流石に目を覚ます。だが、それがかえって不運だったのかもしれない。
ブッサーナが目を開けた丁度その時、彼女の刃は振り下ろされた。
「ぐぎゃあああああああああああああああああああああ」
刃が彼の身体を貫き、ブッサーナは言葉にならない悲鳴をあげる。
だが、彼女は手を止めない。
刺した刃を抜くと、再び振り下ろす。
何度も何度も振り下ろす。
返り血で顔が赤く染まっても彼女がその手を緩めることはない。
ただひたすらに何度も何度も刃を振り下ろした。目の前のモノが人からただの肉片となるまで何度も何度も。
楽に殺してやる気など毛頭なかった。
「なんで私を覚えてない!私はお前の顔を片時も忘れたことはなかったのに!なんでお前は、人生をぶち壊した相手を見ても微塵も気が付かないの!なんで!なんで!なんで!」
娘は涙を流し、絶叫に近い形で男に問いかける。
だが、その答えが返ってくることはなかった。
娘はそこではじめてブッサーナがすでに息絶えていることに気が付いたが、それでも刃を振り下ろすのをやめなかった。
コンドラッド軍の陣に目玉が抉られた見るも無残なブッサーナの首が届けられたのはその翌日のことであった。
そして、それを持ってきた娘はその直後笑みを浮かべながら自らその命を絶った。




