第47話「メルサッピ峠の戦い ~後編~」
背後に迫る軍勢の存在にエイヴァンス軍が気づいたのは戦が始まってやや経った頃であった。
「背後に敵影を確認!その数およそ3000!軍旗から率いている将はスタンドリッジ伯爵と思われます!」
兵士からそう報告を受けると、ブッサーナの顔は見る見るうちに青くなっていった。
現在、エイヴァンス軍は劣勢であった。敵の伏兵に遭い、軍全体に混乱が広がったところをさらに正面から突撃を受けたのだ。いまだ兵の数では勝っているとはいえ、その被害は決して無視できないものになっている。この状態でさらに背後を突かれたとなれば、エイヴァンス軍は完全に崩壊してしまうだろう。
「い、いや、待て!そうだ!スタンドリッジ伯爵があちらについたとは限らんではないか!もしや、こちらへの援軍という可能性も……」
「残念ながらその可能性はほぼないでしょう。スタンドリッジ伯爵の領地・ムーデントはモルネスの南側です。つまりもし我らに協力するとなれば、彼らはモルネスの南から進軍し、コンドラッド軍を挟撃する形をとるはず。それをわざわざ大きく迂回してこちら側に回ってきたということは、はじめから我らを討つつもりだったとしか考えられません」
ブッサーナが一瞬見出しかけた希望を、そばに控えていたジームが無慈悲にも否定した。
いつもならばブッサーナはこの側近の態度に腹を立てていただろう。だが、今は怒りを見せる余裕すらもないようで、どうしたものかと半ば泣いた状態で陣の中を右往左往していた。
と、その時。一本の矢がブッサーナの頬を掠めた。
ブッサーナの顔に赤く細い線が浮かび上がる。
矢の来た方向に恐る恐る目を向けてみれば、そこには弓を持った赤い髪の少女の姿があった。彼女はすでに二本目の矢を番えようとしている。狙いはもちろんブッサーナの額だ。
ブッサーナはなんとか逃げようとしたが腰が抜けて体が思うように動かない。
「ブッサーナ=エイヴァンス公爵とお見受けしました。ご覚悟を」
赤髪の少女は無表情のままそう告げると、再び矢を放った。
オータスが敵を破り、エイヴァンス軍の本陣に到着したのは、丁度ミーナが二本目の矢を放った直後であった。
矢は風を切り、まっすぐと飛んでいく。そしてそのままブッサーナの額を見事貫く……かに思えた。
だが、そうはならなかった。
オータスの目に映ったもの。それはなにが起きたか理解できずに目をパチクリさせるブッサーナの姿、そして彼の前に立つ一人の男の姿だった。
ジーム=パチョリック。彼は矢を右胸に受けていた。傷口から赤黒い血はどくどくと流れている。そう、彼は咄嗟に動けぬ主の前に飛び出し、身を挺して彼をかばったのであった。
ジームは痛みに顔を歪ませながら、エイヴァンス軍の兵士たちに告げる。
「なにをやっている!早く輿を持て!公爵閣下を何としてでもここからお連れするのだ!はやく!」
鬼気迫るジームの声に兵士たちはハッとすると、すぐさまブッサーナを輿に乗せ、逃げ出した。
当然それを黙って見逃せるはずもなく、コンドラッド軍の兵士たちは追いかけようとするがそれは叶わなかった。
彼らの前にジームが立ちふさがったのである。
「ここから先は一歩も通さん!通りたくば、このジーム=パチョリックを倒してからにせよ!」
そう叫んだ彼の口から大量の血が噴き出る。
矢を胸に受けているのだから、立っているだけでも辛いはずである。だが彼は腰の剣を抜き、意地でも戦おうとする姿勢を崩さない。
そんな彼に対し、オータスは一歩前に出て問いかけた。
「貴殿はなぜあんな男のためにそこまで命を張る。エイヴァンス公爵に関して、俺は良い話を聞いたことがない。貴殿にとって公爵はそこまで命を懸けるに値する男なのか」
それは誰もが抱いた疑問だった。
現にジーム以外の将たちのほとんどは既にコンドラッドたちに降っているが、彼らの中でブッサーナの悪口を言わない者はいなかった。
それほどまでに彼の人望は低いのだ。
少しの沈黙があって、ジームは答える。
「確かに私とて閣下に恨みがないわけではありません。ですがエイヴァンス家に仕えている以上、私の中に閣下を見捨てるという選択肢はない。主のために最善を尽くす。それが武人というものです」
ジームはそう言い終わるや否やオータスにとびかかった。
その動きはとても俊敏で猛々しかったが、彼の刃がオータスに届くことはなかった。
忠臣・ジーム=パチョリックはモルネス領内メルサッピ峠にてその生涯を終えたのであった。




