表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

海月

作者: 藤本乗降

 夜の色をした水の上を、目的地のない海月のように、船はゆらゆらと漂っていた。 私はデッキの柵に上半身を預けながら、背後で聞こえる喧噪と管弦楽の生演奏をバックミュージックに、真っ黒な波の去り行く様をじっと見ていた。波の黒さが夜闇の色に紛れてしまっても、私の足下五メートルばかりから静かな白波が、琵琶湖という名の黒板に浮かびあがるようにして軌跡を作っていくので、少なくともこのパーティーが終わるまでは飽きることもないだろう。

 美沙が結婚した。美沙とイケてる新郎さんが誓いのキスをしたのがつい二十分前のこと。出された料理はご祝儀五万円に見合うほどじゃなかった。グッバイ・マイサラリー、さらば残業の一ページ。願わくばこのお金が美沙の子供のために使われて、巡り巡って私のお財布に帰還しますように。

「物憂げな顔してるじゃん」温子が酒臭い息で首筋を撫でてきた。「船酔い?」

「別に」

「じゃあ何でしょぼくれてんの。大丈夫、あんたぐらいの見た目なら。職場とか見てもあきらかに晩婚化だし、乗り遅れたって言うほどオバサンじゃないでしょあたしら」

「まあね」嫌味な返事。「結局、バレー部の同期で参加したのウチらだけだったね」

「真奈は海外、亜紀は教え子の試合がある、と」

「あれ、知佳は?」

「それがあいつ、能登半島あたりで急に機長が『強風のため、このまま札幌まで引き返します』だってさ。で、調べてみたら知佳の乗ってた飛行機以外なんの異常もなく運行してやがんの。超災難」

 温子は大口を開けて哄笑し、私もつられて吹き出してしまった。高校のときから知佳はそうだった。大事な場面でサーブを引っかけるし、知佳の立つ所に限って床が濡れてるし、彼女の分の昼食だけウインナーが入っていないこともあった。

「惜しいんだよねえ」光瞬く海岸線を眺めながら、温子は呆れて言った。

「うん」

「でも、ちゃっかり最初に結婚したもんね、知佳」

 溜め息が二つ、しぼんだ風船のようにふわふわ湖へ吸い込まれていく。

「温子、晩婚化だから平気って言ってなかったっけ」

「あのねえ知ってた? 励ましってのは真実から最も遠い言葉なんだよ」

「温子、だんだん醒めてきてない?」

「うぃ。もっかい飲み直してくるわ」

 温子はお酒とお喋りの世界に戻っていった。私は再び一人になって、船のお尻からゆらゆら流れ出ていく波に視線を戻す。何も考えることなく、意識が彼方まで達しそうになったとき、足元に降ろしたバッグから着信音が響き渡った。

「亜紀?」

「お、そっちはどんな感じ? 今頃琵琶湖の上ってとこ?」

「うん、まだ船。披露宴だから、まあ楽しいよ。美沙の彼氏も素敵。温子ともさっきまで一緒にいたんだけど……ああ、今は後輩らと話してるみたい」

「いいなあ、私も行きたかった。知佳も来てるでしょ、あの子は?」

 彼女の不遇を冗談交じりに説明してやると、亜紀は受話口の遠くからげらげらと笑い声をあげていた。

「ホントついてないなあ。知佳ってば昔から真奈の逆だったしね。今回もかあ」

 知佳が監督にいつも怒られる役だとすれば、真奈は文武両道の優等生を地で行くタイプだった。元気と大声だけが取り柄の温子キャプテンとは対称的に、いつでも冷静沈着な真奈は副キャプテンを務めていた。

「今回って?」

「だいたい知佳がヘマしたときに限って、真奈が点数稼いだりしてたでしょ。私あの時からずっと思ってた、世の中がゼロサムゲームなのは本当かもって。誰かが点を失うと、どっかで別の子が稼いでるって。幸せの配給は縦軸じゃなくて横軸換算なの。それで真奈ってば婚約したんだって」

 流れるようにあっさりと言われたので、肝心の情報をあやうく聞き洩らすところだった。

「え、それマジ?」

「さっき、行けない者同士で電話して聞いたの。アメリカ人の雑誌記者だって」

 私は振り返って明るい窓を左から一往復見回してみたけれど、温子のほろ酔い姿を見つけることはできなかった。晩婚化とは何だったのか、温子に今一度問い質したかった。連ドラでは毎シーズンのように三十路四十路の女性たちが恋をしているが、実際周りを見てみると、独身上司は結婚なんて当に諦めて負け惜しみばかり言っている。私もああはなりたくない。そうは思ったけど、私には付き合っている男性はおろか、そういう関係になりたいと願う人すらいない。第一、私は結婚したいわけではなく、結婚したくなくないってだけ。

 どんなに歳を取っても、誰かから向けられる視線を無視することなど決して出来やしないのだから。

 温子が顔を赤らめて戻ってきた。

「まだそんなとこいたの?」

 黙って、水面に向かって唾を吐いた。ゆらゆら揺れる暗黒の中で、私のつくった波紋だけは何故かはっきり見えたけど、次第にゆっくり遠ざかっていく。

「今日一緒帰ろうって言ってたけど、あたし今夜予定入ったから」

「なにそれ」

「年下に馬の合う奴がいてさ、夜はそいつの家行くんだ。泊まりかも」

「ご勝手にどうぞ、キャプテン。私にモーニングコールして欲しかったら今の内に頼んどいたら?」

「おう。だから、今夜訊く予定だったのを早めようと思って」

 温子は真っ直ぐ湖岸を見たまま、冷たい柵の上に顎を乗せた。

「なんで部活辞めたんだよ」

 耳からは喧噪と音楽。夜の湖はかすかに藻の臭いがして、体を芯から濡らしていくようだ。船が上下に揺れると、刹那に重力が消えて内臓がせり上がる感触を得た。海月になりたいと思った。

「なにも三年になった途端辞めなくてもよかったろ」

「知ってるんじゃない?」唾と一緒に言葉を吐いた。

「あんたの口から聞いたことはないよ」

 温子の顔を見るのがなんだか怖くて、湖ばかりを見ていたら、クルーザーの頂上に灯るハート型のランプが点滅して、水面に二人の影を映し出した。黒いスクリーンがパッ、パッと明滅するたび、輪郭のぼやけた黒坊主が私を睨み返してきた。

「しょせんこの世はゼロサムゲームだよ」黒坊主を見ていると、思いもしない言葉がぽろっと飛び出てしまった。「ポイントが一つ更新されるごとに、神か誰かが適当な仕事ぶりで幸せを再分配していくんだ。だから不幸ばっかりの人もいるし、逆の人もいる。でも、幸せを運ぶタイミングにもきっと色々あって、例えばポイントごと、セットごと、ゲームごとって具合に、渡る幸せの種類も違うんだよ。そして一番重要な部分は、きっと死ぬまで埋め直せやしない」

 一年生。部活に入って最初の頃は楽しかった。温子、真奈、美沙、亜紀、知佳、そして私が来年はレギュラーになって、一緒にベスト8目指すんだって、弱小部らしい目標を立てたりしていた。翌年、私の期待は二つの意味で裏切られた。

 我が部はまさかの快進撃で近畿大会出場。

 ただし、どのコートにも私はいなかった。

 悔しいと思ったことはない。ただ見えていた、点を稼ぐごとに色濃くなる、私と私以外との壁が。

 船を降りるとき、温子が言った言葉が忘れられない。

「たぶんさ、幸せってのは誰かに貰うもんじゃねえだろ」


 披露宴が終わったあとも、私は付近のベンチに腰掛け、夜景を肴に煙草を吸っていた。会場には二個下の後輩も来席していたと後から知り、私は深く考えず招待に乗った自分を呪った。

 今この場で海月になって、ちゃぽんと湖に飛び込んでしまいたかった。海月に目はないし、幸福も不幸も感じないから。しかし残念かな、海月は海でしか生きられないのだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ