冷酷の扉
夏本番前の生ぬるい空気が漂い始める季節。
閑静な住宅街の中にある一軒家――緑豊かな木々が茂る庭があり、昔ながらのちょっと古びたアンモン教授の自宅。
静かな夜だった。
皆はもう寝静まっており、教授だけがまだ、あくびを噛み殺しながら論文を書いていた。今日は娘一家が遊びに来たので、孫たちと遊び、仕事に取り掛かるのがすっかり遅くなってしまった。
その時、微かな物音がした。
アンモン教授は顔を上げた。
……誰かがトイレにでも起きたのか……人の気配に振り返ると、何かが首を引っ掻いたと思った。
と同時に生温かいものが噴出した。声もあげることもできなかった。
教授の意識は闇に落ち、二度と戻ることはなかった。
その後、アンモン家の別の部屋も血の海と化し、鉄臭さを充満させていた。
・・・・・・・・・・
――アンモン教授一家惨殺――
おどろおどろしいタイトルがテレビ画面に躍り出た。
この事件について、さっそくマスコミは騒ぎ立てていた。
一家全員、頸部を切りつけられ、それが致命傷となったという。
マスコミが一番取り立てて話題にしたのは、遊びに来ていた孫の殺され方だった。ほかの者は頸部を切り裂かれ、ほぼ即死であった。
孫はまだ8歳だった。体に切り傷が多数、残されていた。
あまりにもショッキングな内容のため、テレビでは臭わす程度の報道だったが、その後、発売された週刊誌では詳細な残虐ぶりが報じられることとなる。
「また酷い事件が起きたな」
治安局治安部隊特命チーム専用室にて出勤してきたセイヤとリサに、ジャンが声をかけてきた。
今回『アンモン教授一家殺人事件』の捜査にはジャンたち特命チームにお呼びはかからず、警察捜査隊が動いていた。
「何だか見せしめのような殺され方だな……小さい子どもまで……よくこんなことができるよな」
ジャンは顔をしかめながら吐き捨てた。
「工作員の仕業か」
断定はできないが、その疑いは濃厚だとセイヤは思った。サギーが関わっているのか気になったが、公安に聞いてみたところ、サギーにこれといった動きはなかった、という。
工作員の仕業だと仮定して――もと同胞にまで、小さい子どもにまで、ここまで冷酷になれるシベリカ工作員を同じ人間だとは思いたくなかった。
でも……トウアに住む一般のシベリカ人は冷酷ではない。価値観の相違はあるにせよ、全く情が通じないとは思えない。
そう、シベリカ人に限らず、人間の中には残虐非道なことを嗜好する者もいる。あるいは、何も感じずに平気で冷酷なことができる者もいる。シベリカ国は、そういう人間を選んで工作員として使っているのか、あるいは、そのような人間に作り上げるのか……
そんな敵のターゲットになってしまったこちらも、自分たちを守るためにあらゆることをするしかない。
……すべてを守ることはできない。より多くを守るために、誰かを切り捨て、あるいは誰かを犠牲にし利用することになるのだ。それが現実だ。
――そうか、オレも冷酷なシベリカ工作員と変わらないってことか――
セイヤは心の中で自嘲した。今の生活を守り抜きたい、これだけは譲れない。そのためなら何でもできるし、何でもする。たとえ冷酷なことでも。
根っこはシベリカと同じだ。
「アンモン教授、シベリカ国に批判的な人だったもんね……ルイ、大丈夫かな」
リサはリサで沈んでいた。
トウア国立大学の学生でもあるルイはアンモン教授と親しかったようだ。きっとショックだろう。そう思い、心配になったリサは、事件を知ってからすぐにルイにメールをしてみたが、『心配してくれてありがとう』と当たり障りのない短い返事がきただけだった。
リサにしてみれば、なんとなく避けられている空気を、ルイから感じていた。
……何か私に隠している?……そんな気がしてならなかった。
リサが暗い顔をしているのに気づき、セイヤは安心させようとリサの肩に手を置いた。
「ルイは常に護衛をつけているし、防弾仕様の車を購入して、外出の時は運転手を雇って車のみの移動にしている。今も高性能の位置発信器を身につけている。それにセキュリティがしっかりしている24時間警備員付きのマンションに越したし……かなり警戒しているから大丈夫だろう」
セイヤは今でもルイからの予定メールを定期的に受け取り、何かあればすぐに対処できるようにしている。それにリサやジャンには知らせてないが、ある作戦のため、ルイは公安の保護監視下にあった。
「うん……そうだね。それくらいの防御体制が必要ってことなんだよね」
リサは小さくつぶやく。
「ただ、これは資産家のルイだからできるんであって、アンモン教授のような一般庶民にはそこまではできない。だから簡単に工作員の手にかかってしまうよな」
セイヤもため息をついた。
アンモン教授は『反トウア』を掲げる暴走しがちなシベリカ人の若者らを叱咤する存在であり、多くの一般シベリカ人はトウア人と仲良くしたがっていると世に訴えていた人物だった。その教授が一家もろとも見せしめのように殺された。特に教授が可愛がっていただろう孫まで手が下された。
この事件により、教授に同調していた一般シベリカ人が黙り込むようになるかもしれない。教授に同調する態度を見せれば、同じ目に合うかもと考えるシベリカ人が出てくるだろう。
シベリカ工作員らの目的はトウア人とシベリカ人を反目させ、お互いに暴走させることだ。だから、これを止めようと動いていたアンモンを消し、アンモンと同じことをするシベリカ人たちをけん制したのだろう。
世間も当然、シベリカ工作員の関与を疑っていたが……シベリカ工作員は、トウア世論からどう思われようが、なりふりかまわず邪魔な人間を消し去る強硬手段に出てくるようになったのだ。
それなのに、こちらは「自白剤使用条件を緩和する法」「スパイ防止法」にしろ国会の審議を待ち、法が整備されて執行されるのは早くて来年から、予算が大幅増額されるのも来年だ。治安部隊を強化したくても動けずにいる。軍の強化もしかりだ。
また、工作員と疑われる者をこれといった証拠もなく、しょっ引くのは今の法の下ではできない。公安も人手不足であり、監視体制は万全ではない。
シベリカ工作員らはこれからも凶行を仕掛けてくるだろう。人員不足の治安部隊はどこまで対処できるのか……
だからこそ『例の作戦』の成功をセイヤは祈っていた――それは自分たち同胞を守るために、他者を犠牲にする作戦だった。
――冷酷の扉はすでに開かれた――
・・・・・・・・・・
その後、トウア市で巡回中のパトロール隊員らが襲われ、拳銃が盗まれる事件が同時多発的に発生した。
パトロール隊員は2人1組で街を巡回するが、2人とも銃撃され、失神させられた。それぞれ防弾ベストを着用していたため、肋骨を折る程度で済んだが、結局、一晩でパトロール隊員2組4名が襲われ、拳銃は4丁盗られてしまった。
一般の素人にできるような犯罪ではなく、シベリカ工作員の関与が疑われた。
それからパトロール隊は、銃を構えながら4人一組で行動するようになった。
しかし、その分、巡回する地域や頻度が縮小されることとなり、治安回復の道は遠のく。
世間は一刻も早い治安部隊の強化・増員を叫んでいた。また治安部隊による銃の発砲条件のハードルを低くする訴えも広がった。
トウア社会は恐怖に包まれ、よりいっそうシベリカ人への嫌悪と憎しみが増幅されていった。