暗転(続き)
リサはすぐにルイのもとへ猛ダッシュした。
それに気づいた少年はその場からすぐに走り去ってしまった。
ルイはお腹に手をやりながら、地面にひれ伏すよう、うずくまっている。その手から血がこぼれ、地面を濡らす。
リサはルイの傍で跪き、携帯電話を取り出し、救急車を呼ぶ。
周りに人だかりができていた。
その時、人だかりの中から視線を感じ、リサは目を留める。
そこには無表情のサギーがいた。
……なぜ、サギーがこんなところに?
サギーの姿を目にするのは、養護施設を出て以来3年近くぶりになる。眼鏡はかけていなかったが、サギーは変わっていなかった。いや、眼光が鋭くなったか……好戦的な雰囲気が漂っている。『平和を唱える人』にはとても見えなかった。
リサはサギーを見据えながら、なぜだかルイの血で染まった手をサギーに向けていた。
その時、いつかサギーが言っていたことが脳裏によぎった……『あなたは血に染まった手で、ごはんを食べられますか?』
……ええ、今ならできる……あなたたちと戦うにはそれができなきゃいけないみたいね……リサは心の中でそうつぶやいていた。
そんなリサを見返し、サギーはふと頬を緩めた。
その笑みはなぜか哀しそうにも嬉しそうにも見えた。
しかし、そんな笑みはすぐに引っ込め、サギーは踵を返す。
と、その時、売店で買ったものを抱えながら何事かと駆けつけてきたセイヤとサギーの目が合った。
セイヤは一瞬、虚をつかれた顔になったが、凄まじい目つきでサギーを睨みつけた。セイヤもリサと同様、サギーと会うのは3年近くぶりだ。
が、臆することなく堂々とした足取りで近づいてきたサギーは、セイヤにだけ聞こえるように低くつぶやいた。
「……ここまでは想定してなかったでしょ。一般人がルイを襲うなんてね」
「お前がやらせたのか?」
セイヤはリサとルイに目をやりながら、サギーに視線を戻した。リサを見やった時、リサは小さく頷いていた。ルイの怪我は命には別状なさそうだった。
セイヤの視線を真正面から受けたサギーは冷笑した。
「さあね、どうかしら……でも、ルイのおかげで、トウア人はシベリカ人を嫌悪するようになり、一般シベリカ人もトウア人を嫌悪するようになった。この空気は誰にも止められない」
さらにサギーは心の中でこう続けた。
……本当はもっとトウア軍や治安部隊の力を削いでおきたかった。
……でも、そうも言ってられなくなった。これからは時間との勝負。トウア軍や治安部隊が力をつける前に、トウアの国力を削がなければならない。もう世論操作は捨て、今度からはトウア人とシベリカ人が対立するように仕向けていく工作を行うことになったの……
……でも、これは実に簡単な工作よ。人は憎しみに捉われやすい……
「セイヤ、あなたは私に勝ったつもりだったでしょうけど……逆転したのよ」
歩を進めたサギーは、すれ違いざまにセイヤに言い放った。
そのサギーの腕をセイヤはとっさにつかんだ。両手に抱えていた買いものが音をたてて地面に落ちていく。
「あら逮捕できるの? どこに証拠があって? 私を監視している公安に聞いてみなさい。私は何もしていないわ。偶然、ここにいただけよ」
そうだった……サギーは公安が監視していたはずだった。そして、とっくにサギーはそれに気づいていた。
「……」
セイヤはサギーから手を離した。遠ざかっていくサギーの背中をにらみつけることしかできなかった。
その後、トイレから出たジャンも駆けつけてきた。
「一体、何があった?」
人々のざわめきの中から、救急車の音が近づいてくる。
黄昏た空からは、すっかり日が隠れ、寒々とした空気に覆われていった。
・・・・・・・・・・
それから間もなく、ルイを刺した少年が捕まった。トウアに移民したシベリカ人の少年で、理由は「弟の仇」ということだった。
――その弟は学校でイジメに合っていて、自殺に追い込まれたという。
つい最近まで、その兄弟はトウア人と普通につきあっていた。
が、ルイがテレビに登場し、『シベリカ国が関わったと疑われる事件』が取りざたされるようになってから、兄弟を取り巻くトウア人の目が冷たいものになり、やがて学校でイジメられるようになったいったらしい。
そして「ルイ・アイーダのシベリカを敵視する発言によってシベリカ人は嫌悪されるようになった」「トウア人がシベリカ人を差別するようになったのはルイ・アイーダのせいだ」という意見をテレビで聞いて、少年はルイを恨むようになったようだ。
実際、トウアに住む一般シベリカ人は、一部のトウア人から嫌がらせや差別を受けることが多くなっていた。
いかに『人権意識が高いトウア人』と言えど、先の地下鉄中央駅爆破事件のあまりに大きすぎる被害や、マハート氏暗殺未遂事件での犠牲者のことを考えれば、それがシベリカ国が関係した疑いがあるとなれば、シベリカ人を敵視する者が増えるのも当然の現象かもしれない。
その上、ルイ・アイーダの拉致事件、殺人未遂事件と続き、ついには一般シベリカ人による傷害事件が発生し、『シベリカ人は恐ろしい』というイメージを多くのトウア人が持ってしまった。『シベリカ国』と『一般シベリカ人個人』を分けて考えることはなく、ひと括りにされているのだ。
本当ならば、これらシベリカ工作員が関わったと見られる事件と一般市民であるシベリカ人は関係ないが、世間はそう見ない。
……この空気は誰にも止められない……
サギーの言葉が不気味に思い起こされる。
そして、ルイが襲われたあの場にサギーがいたのは偶然だったのか?
公安の目をかいくぐり、ルイを襲ったあの少年に何かを吹き込んていたのではないか?
セイヤのサギーへの警戒心が増幅された。
そう、シベリカの工作目的は次の段階に進んでいた。もうトウア世論を操ることをとっくに捨てていたのだ。
……迂闊だった……セイヤは自分の想定が甘かったことを悔いた。
シベリカ国は今、トウア人と一般シベリカ人が憎悪し合うように仕向けているのだ。トウア社会はまんまとその罠にはまっている……
多くのトウア人にとって、シベリカ人個人の犯罪なのか、シベリカ国がやらせている犯罪なのかは関係なく、全て『シベリカ人がやったこと』として同列に扱われ、『シベリカ人への嫌悪感』が煽られるのだ。
……1年くらい前までは、一般シベリカ人が犯罪を行っても、トウア社会のほうに配慮が求められるような空気だったのに……
……世間の空気って、こんなに変わるものなのか。かつてシベリカ人に対し、何かと配慮が求められた反動なのか、この変わりようは真逆と言っていい。
……こんなあやふやな世間の空気ってヤツが社会を支配する。
……そして国の運営はこの世論・民意っていうヤツに左右されることがけっこうある。
シベリカも恐ろしいが、セイヤはこの民意に支配されるトウア社会を恐ろしく感じた。
世の中、正しい正しくないで割り切れるもんじゃないんだからね……いつかリサが言っていた言葉が思い出された。