口づけ
――また兄さんの夢を見た――
セイヤに助けられたけど、私は犯人を捕まえた。
兄さんに報告をしなきゃ……それなのに相変わらず私を置いて先に行ってしまう。
立ち込める白い靄の中、私はずっと追いかけていた。
少しずつ兄さんの背中が近づいてくる。
――あと、もうちょっと――
でも、やっと追いつきそうになったところで、また誰かに手首をつかまれた。
振り向くと……やっぱりセイヤだ。いつも私の邪魔をするんだから。でも……何だか怒っているみたい?
――そういえば、私ったらセイヤにまだ借りを返していない――
そう思ったところでリサは目が覚めた。
夢か……と、ふと横を見たら、幽霊のようなあまり生気がなさそうなセイヤがいた。
「気づいたか」
セイヤから声をかけられても、夢の続きを見ているかのようにリサは、暫くぼんやりしていた。が、ようやく目の焦点が合った。幽霊のようなセイヤは本物だった。
「まだ、いたの?……って今、何時? というか何日?」
それには答えず、セイヤはリサのおでこに手をのっけてきた。
「昨日でもう峠は越えたらしい。気分はどうだ?」
「息苦しさはなくなってきた気がする……」
けど、まだ体はだるかった。頭も重い。
「じゃあ、もう仕事に行かなくちゃ」
セイヤは猫背気味にのろのろ立ち上がる。
「……あ、その……行ってらっしゃい」
筋肉に力が入らず起き上がることができないリサは寝たまま、セイヤを目で追った。
「今日は遅番だから、仕事終わってからだと面会時間に間に合わないかもしれないけど……何とか許可もらうようにしてみる……」
セイヤの声に張りはなく、疲れがにじみ出ていた。
「ううん、私はもう大丈夫だから……そんな無理しないでいいよ」
リサとしてはセイヤを気遣ったつもりだったが――
「じゃあ、これ以上、心配かけさせるなよ」
ムスッとした表情でセイヤはため息まじりに吐く。
「……ごめん」
とりあえずリサは謝ったものの、何だかご機嫌ななめだなあ、とセイヤをしげしげと見つめてしまった。
「今日はもうこっちに来なくていいから、寮でゆっくり休んだほうがいいよ」
「リサが心配かけるから、ゆっくり休めない」
「だから私はもう大丈夫だって」
「リサの『大丈夫』は当てにならない」
ああ言えば、こう言う……。リサは今のセイヤが駄々っ子に見えてしまった。どっちかというと、今までは自分のほうがつっかかってしまうことが多かったけど、セイヤもそういうところがあるんだな、と意外な一面を見た気がした。
「これからは、あんまりケンカしないようにしたいね……」
自戒も込めて、リサはつぶやく。
「ん……まあな」
ちょっとイラついていたかな、とセイヤも反省した。リサが峠を越えたということでホッとし、その分ムラムラと怒りが涌いてしまった。一体、どれくらい心配かければ気が済むんだ、いい加減にしろ、と堪忍袋の緒が切れかかっていたのだ。
が、この時、セイヤはリサに対して素直な感情をぶつけてしまったことに、ふと気づく。
――自分の心に『遠慮という壁』がなくなっている――
ついでに時間もなくなっていることにも気づいた。
「いけね……じゃ、行ってくる」
セイヤは部屋の出口に向かいかける。
が、何を思ったのか踵を返す。
「ん?」
リサは寝たままセイヤを見やる。
するとセイヤはそのまま覆いかぶさり、唇を合わせてきた。
「……」
でも、それはほんの一瞬のことで、すぐにリサから離れると、そそくさと部屋を出て行ってしまった。
リサはポカンとして、その姿を見送り――その後、掛け布団の中に顔を突っ込み、一人でもうれつに照れまくった。
そんなリサを見守るように、テレビ台には『碧いお守り』が置かれていた。
・・・
――ついに先輩の教えの通り、寝ている彼女の唇を奪ってしまった――
職場に向かうセイヤは高揚していた。まだ心臓がドキドキしている。
いや、ただ唇を軽く合わせただけだから『奪う』という表現はちょっと違うかもしれない、と細かいことを気にしつつ、なぜあんな衝動的なことをしたんだろう、と自分でも不思議な気分だった。
リサに対する『遠慮という壁』がなくなってしまったせいなのか――セイヤは自分がちょっと変わったことを感じた。
冬空は青く晴れ渡り、火照った心に触れていく冷たい空気が気持ちよかった。
しかしその数日後。
セイヤも熱を出し、どうにもこうにも体がいうことを利いてくれず、寝込むはめになった。
その頃には、リサはだいぶ元気になっていたので、もう心配はなかったが、まさか自分が病気になってしまうとは――ひょっとしたら、あの時のリサとの『口づけ』がいけなかったかもしれない、迂闊だった、と反省した。
考えてみれば、リサもあの時は体力が相当弱っていたのだから、口づけによってセイヤから何かしらの菌がリサに移り、ますますリサを弱らせてしまう可能性もあったのだ。健康なセイヤには何でもない菌も、体が弱っていたリサには危険だったかもしれない。
が、幸いにしてそのようなことはなく、セイヤのほうがリサから移されてしまったようである。もちろん、リサのように生死を彷徨うほど重篤にはならなかったのだが――そもそもジャン先輩の言うことを聞くと、碌なことにならないのがよく分かった。
「オレ、何をやっているんだか……」
けど、そんなに悪くない気分だった。自分がちょっと病気になっただけだし、たまにはこんな失敗もいいかもしれない、と。
寮のベッドの上で、あの口づけシーンを何度も頭の中でリプレイして、セイヤは顔を緩ませていた。熱は当分、下がらないかもしれない……。