目標(最終回)
季節はすっかり秋になっていた。
休日の夕暮れ時、セイヤとリサは夕飯の買い物に出かけた。穏やかな風がどこかの家で作っているのだろうカレーの匂いを運んできた。
「あ、今夜はうちもカレーにしようか」
「そうだな。そうしよう」
ほんのりとしたカレーの匂いに包まれながら、スーパーマーケットまでの散歩道。二人は歩く速度を緩めた。
それでも、だんだんカレーの匂いが遠ざかる。セイヤはちょっと足を止めてしまった。
「ん?」
リサが振り向く。
「名残惜しいな」
「カレーの匂い?」
「ああ」
「これから、うちもつくるんだから、イヤというほど部屋がカレーの匂いで充満するわよ~」
「ま、そうだけど」
そう言ってセイヤもリサと並んで歩き出した。
道端に漂うどこかの家のカレーの匂い――セイヤは子供のころを思い出していた。
夜へ向かう空のもと、各家庭から漂う夕飯の気配――その中でもカレーの匂いは格別だった。
でも両親が亡くなり、家庭を失い、養護施設送りになってから、家庭の匂いからあえて遠ざかるようにしていた。この匂いに包まれると、あまりの寂しさにどうしようもなくなり、辛くなるからだ。
それなのに、あの時――そう、いじめっ子のアントン・ダラーを木刀で殴って怪我させ、ルイを連れて入院中のアントンを訪ね、脅したあとの帰り道。どこかの家が作っているのだろうカレーの匂いが漂ってきた。茜色の空が陰り、すっかり夕刻になっていた。家族という絶対的な味方を失い、ルイ以外の者はすべて敵に思え、本当はとても心細かった。そこへカレーの匂いがセイヤを包んだのだ。懐かしさを覚えながらも、寂しくて仕方なかった。
けどルイの手前、泣き言も言えず、微笑むしかなかった。この時から、自分の感情に蓋をしてしまったのかもしれない。リサに出会うまで。
物思いにふけるセイヤをリサの声が引き戻した。
「カレーといえば、セイヤって最初辛口がダメだったよね。仕方ないから、お子様用カレーの甘口ルーをよく使ったっけ」
「昔の話だろ。それに甘口カレーはすぐに卒業しただろ」
それに――甘口カレーだって別にいいじゃんか、リサは邪道だって言うけれど、甘口には甘口の良さがあるんだ――と心の中でセイヤはぼやいた。
「……昔か……」
リサは遠くを見つめた。セイヤと出会ってから5年経った。結婚してからは2年半だ。
「これからも……」
「ん?」
「こうしていろいろ昔の話を持ち出せるようになるのもいいかもね」
「どうして?」
「それだけ、たくさんの時間を二人で過ごしてきたってことになるわけじゃない」
「ん、まあな」
「だから、長生きしようね」
「……ああ」
「そうだ、今思いついたんだけど、私たちの目標は老衰で死ぬことにしようよ」
「何だよ、それ」
そう言いつつも、セイヤはその目標がとても気に入った。
「ま、できれば、曾孫の顔も見たいよな」
「あら、目標はでかく、玄孫まで行きましょうよ」
「120歳くらいまで行ければ、それも夢じゃないか。ま、子孫の皆がそれぞれ早めに子どもを作ってくれればの話になるけど」
「ちなみに玄孫の次って、何だっけ?」
「来孫だな。次は昆孫だ」
「さすがセイヤ、物知りね。でも、そこまで子孫の顔を拝むには妖怪になるしかないよね」
「何バカなこと言ってんだか」
セイヤは久しぶりに笑った。
「それより……まず子どもだろ……孫や曾孫や玄孫の顔を拝むには」
「そうだね……」
リサも笑顔になる。脅迫状のことが頭に浮かんだが、すぐに打ち消した。
今だけは、ひと時の安らぎを満喫したい。郵便受けも今日は覗かない。ニュース番組も見ない。今夜はカレーを食べながら、二人で旅行番組か健康番組のテレビを見て、ゆっくり心穏やかに過ごすつもりだ。
どうせ明日から仕事で、どす黒い現実と向き合わないとならない。
どこにいようが、どこに逃げようが、どこにでも『どす黒い現実』はあり、『敵』もいる。時には戦わなくてはいけないだろう。罪を背負ってでも、自分たちを、今ある暮らしを守ることを優先する――それはセイヤも同じ思いだ。
「だから、がんばって生きていくしかないか」
「ん?」
「いや、ま、がんばろうな」
「うん」
リサはしっかり頷いた。
セイヤはそんなリサを頼もしく思う。それに――今は仲間や友人もいる。10歳のあの時とは違う。ルイもすっかり強くなった。皆と一緒なら心強く生きていける――。
どこかの家から流れていたカレーの匂いはすっかり消えていた。でももう寂しくはない。心細さも感じない。
「子どもができたら、子どもが食べる分は甘口カレーになるんだろ」
「ま、仕方ないよね」
「オレ、甘口と辛口、両方食べてもいいぞ」
セイヤにしてみれば、やっぱり甘口も捨てがたかった。
「わかった、わかった。子どもができたら邪道カレーもいいかもね」
「ところで今夜のカレーだけど、肉、多めにな」
「野菜もたっぷりにしないとね。長生きするには健康に気をつけなきゃ」
「肉だって大切だぞ。動物性蛋白質だからな」
「らっきょうの酢漬けも忘れないように買わなきゃね」
道端のカレーの匂いはもう彼方の向こうだ。このあとは、セイヤとリサの家がカレーの匂いを秋風に乗せて、道端に届けるだろう。
黄昏に染まったやわらかい光の中、道に映し出されていた影法師が二つ並んでいた。
最終回イラスト
二人の幸せそうな画で閉めます。
・・・・・・・・
とりあえず、シーズン4で「プライオリティ」を終えます。ここで終わりにしてもいいような感じにしました。
シーズン5の構想はあれこれ考えているものの、もし作ったとしても完成するのはだいぶ先になりそうです。
今まで投稿してきた分も、ちょくちょく手直しはしているものの・・・見直す度に、あちこちに、文法の間違いや、ほか重複表現、説明文が長い、議論シーンが長い、反対に情景描写が少ない、など直した方がいい箇所がボロボロ出てきます。
新しいものを投稿するより、前のものを改稿したほうがよさそう・・・と思ってます。ただ、切りがないので、これから改稿したものはここではなく自サイト作って、そちらのほうでアップしていく予定でいます。
というわけで今まで、おつきあいいただいた方、本当にありがとうございました。