二重スパイ
トウア国立中央総合病院――サラに刺されたセイヤはそこに運び込まれ、治療を受けた。
その頃には風は鎮まり、夜の静寂さを取り戻しつつあった。
少女の襲来を受けた後、不審を感じたらしい近所の人から通報が行ってしまい、パトロール隊が来てしまった。とりあえず「強盗が入った」ということにした。予めこの家の警護をしていた件については、ルッカー治安局長から命じられた任務だということで納得してもらった。
あとはルッカーが、パトロール隊の上層部にこの任務の詳細については極秘事項であることを通達し、下の方に漏れないようにするだろう。
手当てが済んだセイヤは公務員特別専用室へ移動した。臓器は傷ついておらず、熱が出なければ、様子見で4日か5日の入院で済むという。
「軽傷で良かったね」
ホッとするようにリサは、ベッドに寝ているセイヤに話しかけた。
少女に襲われ、セイヤが刺されているを見た時、リサの頭は真っ白になった。『少女』のこともダイのことも頭から吹っ飛んでいた。
そう、リサの脳裏によみがえったのは、銀行強盗犯に刺されて殺された兄の姿だった。床に這う赤い血。呼吸に合わせて動いていたはずの兄の背中が動かなくなっていったこと。その光景がフラッシュバックし、一時パニックになった。
セイヤによって治りかけたはずの心の中の瘡蓋がとれ、あの思い出したくない光景がリサの頭の中に一気に流れてきた。
――この傷は決して治るはない――
リサの心に黒い靄がかかる。しかし、セイヤが軽傷ということで、リサはそれを心の隅に追いやることができた。
と、のんびりした調子のセイヤの声が聞こえ、リサは我に返る。
「このまま家に帰っても大丈夫だと思うけどな」
セイヤは刺された腹にそっと手をやった。痛み止めも効いているし、傷口が開かなければ何の問題もなさそうだった。
「何言っているの。安心するにはまだ早いんだからね」
リサは釘を刺したが、セイヤはちょっと意地悪い笑みを浮かべる。
「リサも水力発電所立てこもり事件で無茶しでかして入院した時、何日かあとから高熱が出て、大変なことになったもんな」
「む、昔の話じゃないっ」
リサとしては痛い話題である。
「昔の話を持ち出すの、リサもよくやるだろ」
「……と、とにかく、これ以上心配させないでよね」
顔を逸らしたリサに、セイヤはひょうひょうと追い討ちをかける。
「じゃあ、少しはあの時のオレの気持ちが分かっただろう」
セイヤとしては、昔、心配ばかりかけていたリサに仕返しした気分だった。
形勢が悪くなったリサは完全にそっぽを向いてしまった。
「ところで、リサのほうは大丈夫か。胸にけっこうな蹴りを入れられていたよな」
「まあ、痣はできたけどね」
肋骨が折れなかったのが不思議なくらい強烈な蹴りだった。
「……犯人はあの少女だったな」
セイヤは笑顔を引込めた。ダイを守れたものの、セイヤもリサも、そしてジャンまでもが、あの少女との格闘に負け、取り逃がしてしまったことが悔しくてならなかった。
「先輩もたいした怪我はなかったようだけど、少女にやられたのがショックだったみたい」
リサも真剣な表情になり、セイヤに向き直った。少女は信じられないくらい強かった。屈強なジャンをも一撃で床に沈めたのだ。
それでもジャンは病院で診てもらうほどのことではないとし、そのまま残ってダイの警護を続けていた。セイヤとリサが抜けたので、急遽『クール』ことグレドが、ダイの警護に加わった。
「あの少女は……一体、何が目的なんだろうな……」
セイヤは考え込む。ヘトヘトに疲れているはずなのに、妙に頭が冴えていた。
……シベリカ国のための工作なのか? トウア人がシベリカ人の子どもを食い物にしたことを明るみにさせ、センセーショナルなニュースになることを狙い、トウア人への敵意を煽り、シベリカ人に暴動を起こさせるためか?
しかし今、シベリカは国内が分裂しかねない地方独立運動に手をこまねき、そういった国内問題で手いっぱいのはずだ。トウアへ何か仕掛ける余裕はない。
あの晩、ゴンザレたちが警護していたヤハー氏の孫のところには襲撃はなかった。協力者はいるものの、少女のほかには襲撃する実行者はいないようだ。
……シベリカ国のための工作ではないとすると、少女は個人的理由で動いているのか?
……とすると少女は臓器売買で命を落としたシベリカ人の子の関係者・遺族かもしれない?
……では、少女はどこで『心臓移植者』の情報を知ったのか?
……また時期的に選挙前であったことはたまたまであり、選挙とは関係ないのか?
しかし、わざわざマオー氏とヤハー氏に孫の殺害予告をした理由が分からなかった。殺害予告をしたからこそ、特命チームが警護することになり、結果、あの少女はマオー氏の孫ダイの殺害に失敗したのだ。
と、ここでセイヤはふとあることに思いが至った。
「そうか……」
「え?」
「いや……何でもない。オレはもう大丈夫だから、リサも早く休んだほうがいい。あ、それと移動は必ずタクシー使えよ。間違っても一人歩きなんてするなよ」
セイヤは、怪訝な顔をしているリサに帰るように促した。
「うん……セイヤもちゃんと休んでよね。あとで着替えや洗面道具、持ってくるね」
ゆるゆるとリサは立ち上がり、ドアへ向かう。そこでもう一度セイヤを見やり、公務員特別室から出ていった。
リサがいなくなると、いきなり部屋が静まり返った。
「さてと……オレもちょっとひと寝入りしたら動いてみるか」
考えることを止め、目をつぶったセイヤはそのままストンと眠りに落ちていった。
東の空から薄明が漏れ始めていた。もうすぐ夜明けだ。
・・・・・・・・・・・・
空が夜から朝の色へ移り変わろうとする頃――中央地区街外れにある、木造のうらぶれた空き小屋にキリルとサラ、そして縛られた女がいた。
こういった管理されていない空き家や小屋があちこちに点在する寂れた街が、人口減少化にあえぐトウア国には多い。
トウア国内のどこにどういった空き家や小屋があるのか、その情報はシベリカ工作員らによって度々更新されており、キリルとサラはその全てを頭に入れていた。
あの時――女がサラを撃つ前に、すでに車の傍まで来ていたキリルが先に、外から窓越しに女を撃った。女は銃を落とし、そのまま意識を失った。
サラは車のドアを開ける。吹き込む風と共にキリルの声が入ってきた。
「右肩、やられているようだけど、車、運転できるか? オレはバイクを運転しないとならない。バイクを置いていくのはちょっとまずいからな……」
「大丈夫。できる」
サラは即答した。
キリルとサラは失神している女を運転席から助手席に移動させた。
「早く、ここから離れよう」
昨晩――
キリルは世話になっている食堂の家人のバイクのキーをこっそり拝借していた。もしサラが動いた時、後を追えるように予め準備していたのだ。家人の者は2階の部屋で就寝中だった。サラに動きがなかったら、翌朝までに返せばいい。
サラと遅い夕食を食べ終えた後、皿を厨房に運び、流し台の水を出しっぱなしにして皿洗いをしている振りをし、厨房のドアの陰に隠れ、息を潜めて、裏口の様子を伺っていた。水が流れている音がサラにも聞こえているはずだ。
まもなく、地下室から足音を立てずにサラが上がってきた
案の定、サラはそのまま裏口から出て行ってしまった。キリルはすぐに地下室へ銃を取りに行き、その後を追った。
サラはちょっと離れた場所に止まっている車に向かっていた。サラが車に乗り込むと見て取ったキリルはすぐに戻り、食堂の脇に停めてある家人のバイクに飛び乗り、その車へ向かう。ちょうど車が発進したところだったので、そのまま車を追った。シベリカの工作員訓練所でそこそこ尾行訓練を受けていたので、相手に気づかれずに追うことができた。
交通量の少ない『シベリカ人街』の中ではライトを消し、ほかの車に紛れ込める大通りに入ってからは点け、住宅街に入ると再び消した。暴風がバイクの気配を消し去ってくれた。
車は中央地区の閑静な高級住宅街の中の一軒の家の前で停まる。そこでサラが降り、その家の敷地内に入り込んでいった。車のほうはそのまま進み、ちょっと離れた場所で停車した。
キリルはその家から6軒ほど手前に離れた場所にバイクを止め、植込みの中に隠れ、サラが忍び込んだ家と待機している車の様子をずっと伺っていた。吹き込む風に閉口したが、こちらの気配を消してくれるので非常に助かった。
しばらくしてサラが出てきて、車に向かっていった。サラを追う者がいないことを確認してから、キリルも身を低く伏せながら、バックミラーに映らないよう、サラが乗り込んだ車に近づいた。運転席にいる者の正体も知りたかった。
そして今――
キリルは女を前にしていた。予め、サラに女のことを訊いたが、サラは答えようとしなかった。
やがて意識を取り戻した女はキリルに顔を向けると「誰?」と短く訊いた。その声を聞いた時、キリルは女の正体が分かった。
「あんた、顔が違うけど、あの『平和と人権を守る教職員連合会』のミスズ先生だろ。整形でもしたんだろうけど、声が同じだ」
「……」
女は『しまった』という顔を一瞬したものの、すぐに表情を消した。
「オレたちシベリカ人に親しげに近づいてきたのは……工作員だと目星をつけたオレらから情報を引き出すためだったのか。そしてサラを引っかけたのか」
そう言いながら、キリルはサラに視線を移した。サラは微妙に外す。
「ミスズ先生もスパイだったとはな……どこの組織とつるんでいるかは知らないけど。サラは知っているのか?」
「……知らない。私が知っているのはミスズだけ。ミスズのバックには興味ない。約束さえ守ってくれるならそれでよかったから」
サラはキリルと目を合わせないまま抑揚のない声で答える。
どうやらサラは必要最低限のことしか知らされていないようだった。
キリルはミスズに視線を戻す。ミスズはどこかの組織の仲介者として、サラと何かしら取引をしたようだ。
「サラは二重スパイだったってことよ」
正体が割れてしまったミスズは観念したかのようにため息をついた。そしてサラとキリルを見ながら薄く笑った。
「サラがどっちのスパイであろうとオレには関係ない」
キリルは何の感情も込めずにサラを見やった。
うつむき加減だったサラの顔が少し上がる。
「サラは連れて行く。もうオレたちに関わるな。こっちも、あんたのことを表ざたにするつもりはない。そんなことしたところで何の得にならないからな。こっちも逃亡生活する身だ」
ミスズの前にバイクのキーを置くと、キリルはこう続けた。
「車はもらっておく。途中で乗り捨てるけどな。その代わりバイクは置いていく。もし機会があったら、オレらが世話になった西地区のあの食堂に返しておいてくれ」
そして、サラを促しながらキリルは小屋の戸に手をかけた。
「……治安部隊に捕まらないことを祈るわ。捕まったら、自白剤で廃人にさせられるわよ」
キリルの背中に、ミスズが声をかけた。
「そうやって、オレらが治安部隊に捕まったら自害するように仕向けるか?」
振り向いたキリルはうすい笑みをよこす。
「お前が恐れていることは、オレらの口から『あのミスズ先生』が犯罪に加担したことが漏れることだろ」
「……」
ミスズは表情を消し、何の反応も示さなかった。
「ま、捕まらないよう祈っておいてくれ。言っておくが、もしお前やお前のバックにいる組織が、サラやオレに手を出すようであれば、それなりの報復をする。オレたちの身に何かあった時、お前のことを公表する手立てを講じておくからな」
キリルとサラは小屋から出て、車に乗り込んだ。
空は闇の支配から抜け出て、だいぶ明るくなっていた。ひんやりした空気が気持ちよい。
「いろいろ訊きたいことあるけど、今は訊かないでおく」
エンジンをかけ、前方を向いたままキリルは助手席のサラに話しかけた。
「できれば……全員、解放したかった……」
サラがボソッとつぶやく。
「え?」
キリルはサラに目を向けた。
その視線から逃げるように顔を背けたサラはそれ以上、何も話そうとしなかった。
キリルはすぐに顔を前へ戻し、周囲を確認しながら、車のスピードを上げた。
空が白んできた夜明けの田舎道を車は駆け抜け、やがてどこかしらへ走り去っていった。