右近衛中将、人でなしの恋に耽りて、悪死の報を得し縁
右近衛中将は覚束ぬ足取りで女の邸を後にすると、さも疲れたと云わんばかりに築地に背を預け、中空に浮かぶ月魄を仰いだ。空は雲一つなく晴れ渡り、冴え冴えと降り注ぐ月光が往来を緑青色に染め上げている。
――やはり、今宵も満たされなかった。心中で独りごちながら、中将は溜息を一つ。思い切ったように築地から背を離すと、蹌踉たる歩みで自邸への帰路を辿り出す。
一体、いつからこうなってしまったのか。政の階を順調に昇り、分不相応な家筋から北の方を押し頂いて、何不自由ない暮らしを送っているというのに、一向、この世は面白くない。どんな遊び事も、芸事も、琴線を幽かに震わすことすらない。気を紛らすために北の方を抱き寄せようとも、こうして、方々の女君の閨を渡り歩こうとも、飢え渇いた心は却って渇きを増すばかり。
水底のごとき往来を中将は渡ってゆく。築地の角の暗がりから、甍の落とす影の中から、刀を担いだ賊が現れ、この首を一太刀の下に斬り落としてはくれないか。そんな、昏い期待を膨らませながら。振りかざされた刃は月の光に照り輝き、末期の中将の顔を映すだろう。さて、その貌は嗤っているのか、泣いているのか。いずれにせよ、魂の抜け殻のごとき今の貌よりはましであろう。
映すといえばと、二条君と同衾した閨のことを中将は思い起こす。御帳台の内に形も大きさも異なる和鏡を所狭しと並べて床を囲い、二人の影を映した夜のことを。ああ、良かったな。あれは、良かった。とりどりの角度から捉えられた四肢は、常と異なる、見慣れぬ姿態を見せたものであった。然し、それすら興趣をそそられたのは初めのうちばかりで、遂には飽き果ててしまったのだけれども。
――つまらない。何もかも、つまらない。
そう思い思い歩むうち、到頭、一条にかかる橋へと辿り着いてしまった。この橋を渡ってしまえば、自邸はごく間近である。中将の身にまつわりつく憂鬱はなお一層重さを増し、枷となって足を引く。
両の足を半ば引き摺るようにして橋の中程まで来たとき、ぬぅっと生温かい風が川面から吹き上げ、彼の頬を撫でた。それに気取られたというわけでもあるまいが、彼の視線は自然と川面に吸い寄せられた。
水面は細波一つ立てることなく、唖のごとく黙り込み、岸辺に佇む枝垂れ柳や、橋の欄干、そこに立つ中将と、それから、緑青色の月を、鏡のごとく映している。丸く縁取られた月は、大きく、青く、和鏡のように見えて、中将は何だかそれが妙に可笑しくて、へらへらと嗤った。ひとつ、あの鏡に顔を映してみよう。そんなことを思って、右へ左へ、身体を揺らす。
斯くして中将の顔が月の鏡にぴたりと収まったその刹那、彼は己が目を疑った。
何故と云って、水面に映っているはずの己が顔はどこにもなく、代わりに、一人の女君が月を片敷いて川面に身を横たえていたためである。ぬばたまの黒髪は裾を水面を辷って裾を広げ、寝乱れた衣から覘く膚は緑青色に染まることなく、ただただ皓い。現のものと思えぬ幽艶なその様に中将は目を瞠り、暫し、息を継ぐことすら忘れた。
――話に聞く、橋姫というものか。
不意に、女君は半身を起こし、薄く開いた瞼の隙から、磨き上げた黒曜石のごとき瞳を中将に向けた。どこか見覚えのあるような顔だと、中将は思った。橋の上で見惚れる彼に、女君は、おいで、おいで、と手招きをする。
中将は苛烈な情が身の内に湧き起こるのを感じた。それは、彼が久しく忘れていたもの――人を恋うる心であった。彼は己が情動に突き動かされるがまま欄干を乗り越え、川の只中へと飛び降りた。飛沫が上がり、水面が揺らぐ。指貫に絡む水を蹴立てて進み、掻き抱かんと伸ばした腕が女君の衣に触れようとしたその刹那。
女君の姿は緑青の光の中に溶けるようにして掻き消え、中将の手は何に触れることもなく宙を切った。
川面を揺らす波が収まり、辺りがもとのとおりに静まり返ると、そこにはただ、月輪の只中で己が肩を抱く男が一人、悄然として立ち尽くして居るばかり。膝を濡らす水の冷たさに今さらながら気づくと、先までの激情はどこへやら、おかしなこともあるものだと思い思い、中将は岸へと這い上がった。濡れた衣を手で絞り、今のは何だったのであろうかと、水面の月を顧みる。
するとそこには、またしても先の女君が身を横たえ、手招きをしているのだった。仄かに紅い唇に、羞じらうような、いざなうような、如何にも艶な笑みを浮かべて。
さて、その様を目にすると、一度は醒めたはずの情が俄に熱を帯びてくる。そうして、ふと気づけば、中将はまたもしとどに濡れた我が身を月輪の内に見出すのであった。
中将は、滑稽にも、斯様なことを幾度となく繰り返し、終いには、疲れ果てて岸辺の草叢に倒れ臥した。皓い指が草葉の隙から透けて見える。ゆらゆらと揺れるその指先に、中将は弱々しく問いかけた。如何にすれば、貴方の肩を抱けるのかと。
本当にか細い、蜉蝣の羽音の如き問いかけであったにもかかわらず、すぐ耳元で、それに応える声があった。
これを聞くや、中将は身の疲れも忘れて跳ね起きた。中空の月を振り仰ぎ、そうか、そうか、と頷くこと一頻り。それから、あはあはと哄笑しつつ、自邸めがけて駆けてゆく。
後には、二つの月魄ばかりが残された。
○
北の方は覚束無い足取りで対の屋から辷り出ると、さも大儀そうに柱に背を預け、左手に見える東の対を睨めつけた。屋の甍は降り注ぐ月光を鈍色に照り返している。
――今宵こそは、いよいよ許しておかれない。北の方は心中で独りごちながら、歯ぎしりを一つ。思い切ったように柱から背を離すと、蹌踉たる歩みで渡殿を渡ってゆく。
一体、いつからこうなってしまったのか。家筋に貴賤の差こそあれ、浅からぬ宿縁あればこそと契った男女の仲らいだというのに、夫と呼ぶべきあの人は、今や一向、私を省みない。初めのうちこそ真に受けていた睦言も、今となっては冷たい空言。閨の内での恍惚も形の上に過ぎなくて、夫の心はどこか遠くを眺めているよう。
夜毎、方々の閨に通っているということは、それでもまだ我慢ができた。色を好むは男の性で、堪え忍ぶのが女の徳と、常から心得ていたから。
然れども、ここ近頃の夫の行状は、いよいよもって堪え難い。
ある日の明け方のことだ。北の方は常には聞き慣れぬ、男どもの野太い声によって目を覚ました。側仕えの女房を呼び寄せ、何事かと問うてみると、殿が木工の座より人を召して、東の対を改築させていると云う。なお仔細に訊いてみれば、庇の間と簀子とを隔てる御簾や格子を残らず取り払い、漆喰で塗り固めた白壁を渡している、と。
あまりのことに、北の方は肝を潰した。元より、東の対はとりわけ使うあてもなく捨て置かれていたものであったから、いずれは設え直す必要があったであろうが、白壁で覆われた屋なぞというものは聞いたことがない。何より、屋の四方を漆喰で塗り固めるとなれば、莫迦にならぬ金がかかる。とても、中将ごときが易々と購える額ではない。
木工どもが一日の務めを負えて帰ってゆくと、北の方は面と向かって夫に抗議した。けれども、夫はまるで取り合わない。一体、何がしたいのだと問い詰めても、ただ、熱に浮かされたごとき顔を横に振るばかり。
斯様な押し問答を幾晩となく繰り返すうちに、東の対はすっかり白壁に覆われてしまった。その上なお、夫の望みはまだ果たされていないものらしく、それから後も、木工どもが屋の内に出入りしては何やら設えているようであったが、この頃には北の方も呆れ果て、何を云うても甲斐無きことと思いなすようになっていた。
そうして東の対がむやみに大きな塗籠と化すと、次には屋の角々に、あるいは、屋の甍に、またあるいは、庭の樹々の梢に、大なるものは夫の身の丈程もあるものから、小なるものは掌に収まる程のものまで、大小とりどりの和鏡を据え付けた。それも、おおよその鏡のようにただ銅を磨いたものではなくて、面には白銀を塗り、その上から玻璃の板を嵌め込んだ特別誂えのものを。一つ一つ向きを変えて据えられたそれらは、何を映すためのものなのか、まるで見当を付けられぬ北の方には、ただ、空を映しているもののように思われた。
ともかく、ここまでして漸く夫の望みは叶えられたものらしい。それからというもの、夫は世が宵の闇に染まるたび、独り、この不可思議な屋の内に閉じ籠もるようになった。念の入ったことにも、屋の戸には内から閂を掛けて。
夫は屋の内で何をしているのか。訊ねてみても、心ここに在らずといった様でぶっきらぼうに、書見だ、と答えるばかり。ただ書を読むためだけに、あのような設えが要るものかと、北の方は却って夫の行状を訝しむ。
どこぞの女君を引き入れているのではないか。そんな疑念に突き動かされた北の方は、ある夜更けに寝所を抜け出し、件の屋へと足を向けた。
逸る心を抑えながら戸を押してみるも、やはり、閂が掛けられている。彼女は腰を折り、戸の隙に耳を押し当てた。斯様な己の振る舞いを、浅まし、とは思いながら、そうせずにはいられない。
斯くして北の方が漏れ聞いたのは、予め想像していたとおりのものであった。逢瀬を愉しむ男女の睦言。如何にも親しげに話す声の一つは夫のものと決まっているが、今一つは誰のものであろう。
北の方は苛烈な情が身の内に湧き起こるのを感じた。それは、彼女が長らく抑えつけていたもの――嫉妬と憎悪だ。彼女は屋の陰に身を潜め、夫とその情人が屋から出てくるのを待った。云い逃れのできぬところを捕まえてやろう、と。
静まり返った邸内は降り注ぐ月光によって鈍色に染め上げられている。視野の端々でぎらぎらと輝く和鏡が、北の方には何とも禍々しいもののように思われた。
どれ程の刻が経っただろうか。出し抜けに閂の外される音が重く響き、果たして、紛う事なき夫の姿が戸口に現れた。北の方は息を殺し、さてその後に続く奴めと、息巻いた。
然し、そうして待てど暮らせど、女の出てくる気配はない。そればかりか、夫は閉ざした戸に錠を下ろすと、身を固くする北の方の側近くを通って寝殿へと帰っていってしまった。
白壁で覆われた東の対には、この戸を置いて他に口はないはず。そう思い、今しばらく待ってはみたものの、これと云ったことは起こらない。北の方は狐に化かされたような心地に戸惑いつつも、終いには待つことに倦んで、仕方なく寝所へと帰っていった。
翌る晩も、そのまた翌る晩も同じ事が繰り返されて、北の方は、ならば、と別の手を考えた。出るところを捕まえられぬならば、入るところを押さえてしまえ、と。
そこで常よりも早くから床を抜け出し、いつもの陰に身を潜めてはみたものの、これもやはり、何の甲斐もないことであった。夫は独りで屋の内に入り込むと、すぐに閂を掛けてしまう。すると、程なくして聞こえてくるのは、例の忌々しい睦言。
よもや、女を通わせているのではなく、屋の内に住まわせているのではあるまいか。であるならば尚更許せぬ。とは思うものの、ならば朝餉夕餉はどうしているのであろう。邸の女房が差し入れているのであれば北の方の耳に入らぬわけがなく、といって、夫が運び入れている様子もない。
北の方は考えることに倦み果て、終いには夜毎の見張りも投げ出した。独り寝の煩悶は捌け口を失い、澱の如く積もってゆく。けれども、何より許せないのは、月の無い朔の晩に限って、思い出したかのように夫が閨を訪ね来ること。そして、焦がれてそれを待つ己自身だ。
何もかもが堪えきれなくなって、今宵この晩、北の方は久方ぶりに寝所から這い出した。折しも、空には十五夜の月。鈍色の水底を泳ぐようにして東の対へと進み行く。
北の方は慣れ親しんだ屋の暗がりに腰を据え、何をするでもなく、辺りを眺め渡した。和鏡の照り返す月光が、ぎらぎらと両の眼を射る。その禍々しい煌めきが、北の方の胡乱な頭に一つの啓示をもたらした。
――この鏡こそ。この鏡こそ、憎き女の通い路か。
そう思うや、北の方は立ち上がり、手近に据えられていた鏡の面に握り固めた拳を打ちつけた。玻璃の板が音を立てて砕け散り、白銀の面は彼女の血で紅く染められた。
また一つ、それからまた一つと、北の方は鏡を打ち割ってゆく。獣のように庭を這い、石塊を拾い上げては、樹々の梢や屋の甍に据えられた鏡に投げつけ、打ち落とす。
斯くして目につく鏡が残らず砕かれたとき、出し抜けに東の対の戸が開け放たれ、内から人影が這い出してきた。乱れた衣に身を包んだ一人の女である。
北の方は身の内を灼く激情にまかせて女に飛びかかると、その後ろ髪を乱暴に引き寄せた。すると、意想外にも髪は女の頭からずるりと剥がれて、北の方の足下に落ちた。驚きつつも、よくよく眺めてみれば、それは作り物の鬘であった。
背後から組み敷かれた女は、頭を垂れて肩を震わせている。泣いているのかと、北の方が顔を覗き込もうとしたそのとき。
女は、あはあはと笑い声を上げて、天を仰いだ。
鈍色の月に照らされたその顔は、口元をだらしなく開いて哄笑するその顔は――見紛う事なき夫の顔であった。
夫はなおも、あはあは、あはあは、と狂ったように笑っていたが、不意に息を詰まらせたように黙り込み、やがて、音もなく地に倒れ臥した。北の方が恐る恐る抱き起こしてみると、夫は既に事切れているのだった。
あまりのことに北の方は夫の亡骸を突き放して後退り、力なくくずおれた。辺りはひっそりと静まり返り、樹々の葉擦れや風の音さえも聞かれない。
そうして暫しの刻が経った後、北の方はゆるゆると立ち上がると、何か目に見えぬ力に手繰り寄せられるようにして東の対の内へと踏み入った。
打ち抜きの広間に造り改められた屋の中央には、漆喰で塗り固められ、なみなみと水の張られた、小さな池があるばかりだった。そのほとりに立った北の方が、ふと頭上を振り仰いでみると、屋の天井には円い穴が穿たれ、その縁に、ひときわ大きな鏡が斜めに据え付けられているのが見えた。
ただ、それだけであった。それで、全てであった。
北の方はついぞ何もわからぬままに、東の対を後にした。
後には、千々に破れた、紅い月魄ばかりが残された。
了