破
おれがその診察券を見つけたのは、偶然だった。
「日比野クリニック」。名前にも住所も覚えが無いし、病院名の上に書かれている文字が「心療内科・精神科」であることも気になった。
作成日は、三日前。なによりも、診察券の名義に驚いた。
ちょっとやそっとの風邪でも、怪我でも、病院にかかる事はしない。だから、このような診察券が自宅にあるわけがないのだ。
嫌な感じだ。
何故か、焦燥感すら覚える。
だから、おれはネットを駆使して日比野クリニックなるものの場所や行き方を調べ、そして久しぶりに――もしかして初めてかも知れないと思える程久しぶりに、路線バスに乗って出かけてみた。
久しぶりに乗った路線バスの乗り心地はとても悪く、すぐにも降りて家に帰りたい気持ちになったが、やはり帰るわけにはいかない。
何なのだろう、この焦燥感は。
自分でも、意味が解らない。だから、行くのだと、言い聞かせる。
バスに揺られ、吐きそうになりながらも、何とか最寄りのバス停までたどり着く。
例の診察券を道行く人に見せる。
「ここに、行きたいんですれけども」
立ち止まったのは、二十代前半と思われる若い女だった。
身振り手振りを加えながら、丁寧な言葉づかいで道順を説明してくれた後で、彼女は告げた。
「でもね。あそこ、あまりいい噂を聞きませんよ」
振り返ったおれに、女は少し不気味な笑みを向ける。
「ここだけの話、あそこの患者さんって、後になって自殺される方、多いんですよ」
なら、なおさら急がなければならない。手遅れになる前に。
おれは、道を急いだ。
日比野クリニック。
診察券に書かれた文字と看板の文字を照合してから、ドアを開く。
受付に座っていた看護師が、診察券を受け取りながら、おれに声をかけて来る。
「相良さん。こんにちは」
どういう事だ?
おれは、こんな病院に来た事も無ければ、この看護師に会った覚えもない。
「では、名前を呼ばれるまでお待ちください」
待合室で待つ間、何が起こっているのかを考える。
見覚えのない、診察券。知らない場所。それなのに、この病院にはおれの受信記録があるらしい。
もしかして、おれが知らない同名の兄弟でもいるのかとか、取り留めのない考えしか浮かばない自分が、おかしかった。
待合室は空いており、すぐに名前が呼ばれる。
「相良さん、今日は……」
「ちょっと、教えて欲しいんだけど。おれは、なんでこの病院で受診をしているんだ?」
正面に座る白衣の女医から目を逸らしながら、単刀直入に尋ねる。我ながらふざけた質問だと思ったが、それ以外にどう言えば良いのか、思いつかなかった。
案の定、女医は驚いた顔をしておれを見た。
カルテとおれの顔を見比べ、
「失礼ですが、お名前は?」
などと、見当はずれな事を聞いて来る。
「相良俊三」
不機嫌に応えると、女医は「そうですよね」などと呟いている。
「いえ、この間に来られた時と、イメージが違うようですので。念のために、生年月日を教えて頂けますか?」
念のためって、何の為だ!
「あ、ご本人確認ですので」
怒鳴りそうになったおれに、すかさず告げる、女医。一瞬目が合ったので、慌てて逸らす。
そもそも、他人と会話をする事が好きではないおれは、それで納得して、生年月日とついでに現住所も答える。
「間違いなく、相良俊三さんですね」
女医は、少し考えるようにしてからレセプトコンピュータに向かって何かを入力した。
「もうひとつ、念のために確認しますが……ご兄弟は?」
どうやら、おれが先ほど待合室で考えていたのと同じ想像をしているのらしい。下を向いたまま、
「いない」
と、答える。
医師が、軽く嘆息した気配があった。
「ちなみに、視線を合わせないのは、癖ですか?」
おれは、顔を上げて――医師と目が合うと、慌てて逸らす。
そう。おれはそもそも、人の顔を見るのが得意ではない。
「それで、相良さんは、当院で診断を受けた記憶がないと。そうおっしゃられるのですか?」
「おれは、病院になんか、かかったりしない」
「では、今のように記憶が飛ぶ事は、稀にありましたか?」
「記憶が飛ぶ?」
その発想は、おれには無かった。
意味が、解らない。
「そうですね。丸一日分の記憶がすっぽり抜け落ちていたり」
「解らない。曜日の感覚とか、あんまりないし」
一日中家に居る事が多いし、定期的に何かをしているわけではないので、曜日の感覚も――たまには、季節が変った事すらも気が付かない事がある程だ。――決して、自慢できることではないと解っているが。
「学校は?」
「あまり、行ってない」
「そうですか」
そう言って、医師はまたレセプトコンピューターに何かを入力する。
「それより」
医師が顔を上げ、おれは目を逸らす。
「まだ、答えてもらってないんだけど」
勿論、受診内容について、だ。
医師は、何故かそれについては答える気はないようだった。「その事は、また後で」とか何とか、話をぼかしている。
「ご両親とは、同居されているんですか?」
医師の言葉に、おれはますます不機嫌になった。
「そんなものは、居ません」
おれの返事に、何となく医師の気配が変ったので、ちらりとそちらを見る。
女医は、何故か小さく頷いていた。
いくつかの質問がされ、女医が「まだ、決まったわけではありませんが」と前置きをしてから、おれの病名を告げた。
「解離性同一障害の疑いがあります」
「解離性、同一障害?」
聞いたことがあるような、ないような病名だったので、繰り返してみる。
「多重人格と言えば、解りやすいかな? つまり、三日前に当クリニックで受診された相良さんは、いまいらっしゃるご本人と別の人格を持った同じ人間だと思われます」
まるで、ハンマーで頭を叩かれたような気分になった。
おれの中に別の人間がいて、おれの記憶がない所で何かをしている。
それは、とても恐ろしい事のように思えた。
「この間、診察に来られた相良さんは、あなたとは全く別の人格を持っていらっしゃいました。普通に、学校にも行っているようでした」
「学校?」
在りえない。
家に閉じこもったまま、コンビニぐらいにしか出かける事もない。それが、おれだ。
そうして家の中でやる事は、テレビかゲームか、せいぜいがネット。学校から、登校を促す連絡があったのも、担任が押しかけて来た事も、なんだか遠い昔のような気がする。
学校すら、おれの事など忘れたらしいと。そう思い込んでいた。
そうではない。
おれの中の誰かが、おれの振りをして学校に通っている?
気持ちが悪い。
まるで、寄生虫にでも取付かれた気分だ。
おれの中で何者かが。
内側から、おれを食い尽くそうとしているのではないのか?
「相良さん?」
医師に名前を呼ばれて、我に返る。そうだ。ここは心療内科、だった。
「もうひとりの、そいつは、何で……」
そう。奴は何の為にこの病院に来たのか。もしかして、おれに成り代わる方法を探しに来たのか?
「私たちには、個人情報保持の義務があります」
残念そうに、医師は告げる。
だったら、いい。
「治療には、長い時間が」だとか何だとか告げている医師の説明も、全く頭に入ることは無い。
おれは、決めていた。
おれの中に住む寄生虫。そんなもの、認めるわけにはいかない。
そんなものが作ろうとしている世界など、決して認めるわけにはいかない。でなければ、おれが生きている理由がない。
おれはもう、決めていた。